• 締切済み

悟りとは成るようになる

tumaritou1の回答

回答No.11

悟りを開くと言う意味を、本当の意味で分っている人は、この事実を無いとか、或は、この事実を言う事自体で『未だ至っていない』と言う理解をするように感じます。 今の禅者は『お釈迦の悟りではなくて、禅のための禅にいたるための悟りを追求している気がします。』 お釈迦の悟りは『一切皆苦』からの解放を意味すると感じますので、今の禅には『お釈迦の悟りが、余り感じられない』と感じている者です。 悟りを開くという意味は『自身に内在する、命の働き(仏性)と出会って、内在する心の矛盾を解決する。』と言う意味が在ります。 宗教には宗派を超えて、或は仏教とかキリスト教とかの境を超えて、一つの使命が在ります。それは『生きとし生ける者の魂の救済です。』 この観点からの、本質を『今の禅は忘れ果てているのか、或は手が回らないのか』知りませんが、手をこまねいていると感じます。 禅者の考え方の相違を書いたところで、どうにもなりませんので、本題に入ります。 一切皆苦、と言う現象は『自身の自我意識』VS『自身の命そのものの働き』が、対立したり、矛盾を起したり、対立するという意味です。 誰でもが感じた事があると思いますが、『自身の心は、心同士が対話しています。』こういう対話の経験は誰にでも在ると思いますが、その科学的根拠をウイキペデアから、載せてみます。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” この場合の左脳に存在する意識が、顕在意識とも言う、自我意識です。この意識は根本的に右脳とは『機能』が違っています。自我意識の特徴は『言葉で考えている事です。』この言葉を理解するように進歩してきた意識には、どうしても出来ない事が在ります。 言葉にする機能と言う意味は『物事に分別を付ける作業です。』分別すると言う意味は『物事を計算によって、割り切ってゆく作業です。』従ってその機能としての長所に見える特徴が、見方を変えた場合では『短所になっている。』と言う意味を含んでいます。 右脳の機能は『命そのものを働かせている意識です。』身体の生命活動を一手に引き受けていると言う意味です。生まれる前から働いています。生命として芽生えた瞬間から、細胞分裂をする働きそのものです。誕生した時には既に『不安や安心や恐怖と云う事までも』全て備わっている働きです。 例えて云うなら、櫻がその種固有の特徴を『学校で習わずとも』全て兼ね備えている働きを働く機能です。昆虫にしても、動物にしてもその種固有の働きを脳内に蓄えて生まれてくる機能そのものです。 この働きを『仏性』といっています。『命そのものを働かせてている働き』と言う意味です。『一切衆生悉有仏性』と言う意味です。 人間の場合では『右脳の人格』が仏性と云う事になります。 右脳の人格は『無意識の中に封印された形で働いています。』そうして顕在意識とは『交替制をキープする形で働いています。』 もう少し右脳の機能を書いてみます。先に書いた機能は『生物学的な生命体の生命を維持する働き』と言う意味ですが、細かく分けた場合では、後二つの働きに分ける事が出来ます。 とは言っても、精神活動や生命活動は根底では繋がっていますので、実際には境目が分らないかも知れません。 二点目として右脳の機能を挙げるなら、行動面です。例えば眠る場合では、大抵の人は『自我意識が眠っている』と言う勘違いをしています。自我意識が眠ろうとした場合では、眠りに入ることさえ出来ません。 その良い例が『眠ろうと意識した場合に眠れなくなる事です。』この間違いは『自我意識単体で眠れると言う勘違いをしている事です。』 本当の深い眠りとは『自我意識が身体も心も、無意識の自分に預けた場合です。』言い替えるなら、意識が無くなってから、無意識の自分が深い眠るに、入らせています。そうして朝になったら『又自我意識に身体と心を返しています。』この場合に、ぐっすり眠れたと言う安堵感が在ります。 不眠症とは『無意識の自分自身を信頼出来なくなった事を意味します。』自身の命の働きと仲違いしているという意味です。『心の矛盾』を感じている一つの形です。 人間が行動する場合では、口を開く事でも、字を書く場合でも『自我意識は休んでいます。』眠る場合と同じです。『自分を忘れた状態が一番自由に身体としての行動が出来ている場合です。』 この場合と反対に『自我意識が出たままになって、無意識の自分の力を駆る事が出来ない場合を』=『神経症』と言っています。自我意識単体で口を開く場合に『吃音』字を書く場合には『書けい』と言っています。 右脳の機能に関して後一つの機能とは『心に関してです。』心が休めている場合とは『自我意識が、無意識の自分に、心を預けている場合です。』自我意識が働いていない場合に『心は休んでいます。』 今書いた機能と自我意識が同調出来ている場合『健常者』と言っています。心にわだかまりがない状態です。 心に矛盾を抱えている状態とは、身体の機能に関して云うならば、右脳に任せて置くなら全て順調に行くのですが、『自我意識がでしゃばってきて、無意識の自分に任せられなくなる場合です。』自我意識には自律神経も、消化機能も、ホルモンの調節も、発汗でさえ』自由には出来ない機能から出来ています。 行動に関する機能も心の機能に関する事柄も全て、二つの心の同調すると事や交替する事ができ難くなったと言う意味が在ります。 『無意識と交替出来なくなる。』と言う意味は『自我意識が出たままになって=意識地獄の中にいる』と言う意味になります。この状態が『一切皆苦』と云う事になります。 こういう状態からの開放を『見性』自分の性を見ると言っています。 右脳の意識には始まりも終わりも在りません。その機能は『無分別の分別』と言う機能です。割り切れない事や、矛盾した事柄を専門の機能としている事です。 そうして割り切れない事とは言葉を替えて云うなら無限と云う事になります。そうして無限と云う言葉を違う表現方法にする場合には『永遠』と云う事になります。 二つの意識が仲違いすると言う本当の意味は、有限VS永遠とのせめぎ合いと言う意味になります。 自我意識は有限を専門とする機能で出来ています。逆立ちしても『永遠と言う概念でさえ把握出来ない機能で出来ています。』 自我意識が永遠を手にしようとする働きは、右脳の意識の存在によっています。右脳の意識が永遠の存在だからです。その右脳の意識の存在によって『永遠を垣間見せられているからです。』 禅問答は『左脳の機能』では歯が立ちません。どうしても右脳の人格が出てくる様に仕向けられています。自我意識の機能では歯が立たない問題を『右脳の意識が登場する事によって、簡単に解いてくれます。 それは『自我意識の悩みや苦しみの元凶だった、生死の問題』を簡単に解いてくれるという意味です。 見性した場合では『生死の問題が解決した』と言う表現方法を取っています。 悟りを開くと言う意味は『右脳の人格と左脳の人格との間にホットラインが開設された。』と言う意味が在ります。 一切皆苦という場合では、『心が相争っていて、大変に、苦しくて、心が騒がしたった』と言う意味が在りますが、ホットラインが開設出来てからは『心同士が争う事をしなくなる』と言う意味になります。 心の中が静寂に包まれた(心の矛盾が解消された)状態を涅槃と形容しています。キリスト教においての『内在する識られざる神と和解して、自我意識がでしゃばる事無く、神の後に付いてゆく』と言う意味です。 どちらにしても『魂の救済が完了した姿です。』 右脳の意識が動画にて説明されているものが在りますので、乗せて置きますので、参考になるなら喜ばしい事と思います。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM

ri-zyu
質問者

お礼

    tumaritou1さんのお話はよく判るのですが  判ると解る(悟る)(治る)とは違うと思うのですが。。  tumaritou1さんのお話は聞いて判るでしょうが解る(悟る)(治る)りますか。。      もう少し違う切り口で語られたらどうでしょうか。   ありがとうございました。         

関連するQ&A

  • 悟りを開くとは何ですか?

    私の回答を評価して 頂けると幸いです? 参照! http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q10128943180 私の回答! 質問 悟りを開くとは何ですか? http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q12128919567 自分自身を 偽りなく直視する事が出来 る事が 悟りであり、 全ての生き物が 自分の近親者の様に感じる事が 悟りであり、 自分自身が 幻想の世界(夢)に 生きている事を自覚するのが 悟りであり、 全ての物事の儚さと尊さに 気付く事が、 悟りであり、 悟りを開くと 過去(記憶)と未来(妄想)ではなく 現実の一瞬を生きれる様に成れる! しかし 副作用として 悟ると言葉が必要無くなるので、 言葉を徐々に忘れていきます。 過去への執着心が無くなるので 物事を記憶しなくなります、、、 、、、、、、、、、、 全てを悩みを 解決出来る様には成るが、 身体から解放されない為に 全ての苦しみを超越出来る死を 恋い焦がれる様に成る! 悟った後の苦しみについて? http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q11125327881

  • 悟り(さとり)

    悟ることを悟りと言いますが 今日(此の頃)貴方は何を悟りましたか? 私は此れですね 「人は周りの力によって生かされている」 ですね・・ 貴方の悟りを教えて下さい、お願いします

  • 「さとり」

    「さとり」という物語(怪談?)が載っている本を探しています。 文庫、漫画、どちらでもいいです。出版社、文庫名など教えてもらえるとうれしいです。 「さとり」は、他の生き物の心が読める妖怪の話です。 ちょうど今やってる映画「サトラレ」の逆でしょうか? (「サトラレ」は別に妖怪じゃないけど(汗)) 話の概要は知っているのですが、本当に読んだ事が無いので読んでみたいです。 よろしくお願いします。

  • 悟りを開く直前の人

    悟りを開く直前の人は、自分でその様な状態になってきている事は、自覚できますか?

  • 悟り

    仏教的悟りやキリスト教的悟りなど、悟りにも色々と定義があると思いますが、 自分というものを完全に客観的に見れるようになり 自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか? 現代的に言うとメタ認知ですかね?

  • 悟りを開く

    「悟りを開く」どういったことなのか説明してください。 「悟りを開く」で辞書を引いて、記されていない言葉でお願いします。 真理と言われるものを説明できなければ「悟りを開く」にならないのか? 知識を頭に詰め込んでも、自身の思想が邪魔をして会得できない場合があり、その場合、悟りを開いたことにならない。 真理という知識を外から詰め込まなくても、内から生まれて、例えその真理を説明できなくとも、悟りを開いたことになる? でしたら、私的には 考えない・悩まない・迷わない ようするに「阿呆になった」 と言っていいのでは?と考えていました。 悩み考える人間のほうが良質なのではないか?

  • これが さとりだ。

     みっつのことを挙げます。  まづ さとりのついての前提として 情報公開が大事だという点が来ます。  情報が不足していたり間違っていたりすれば さとりの知恵も出にくいというものです。  確かにさとりは 存在の全体としての――既知と未知とをあるいは無知をもふくめての――境地です。全体を隅々までひとつ残らず知っているということではないはずです。  けれども そのときそのつど知恵を発揮するには 関連することがらについての必要で十分なただしい資料や情報がなくてはならないと思われます。  生活日常でのこともフクシマなどの社会一般のこととしても 情報公開が前提になると考えます。  次には ひとりの人の主観内面にかかわったことがらとしての情報の獲得になると思います。  あのとき A さんはわたしにひどいことを言った なぜかを聞きそびれてしまって時も経った。と思っていたとき ふとヒラメキが得られる。ということがあると思います。--あぁ なるほどあれは しかじかかくかくの事情があってのことだったか。という心の問題としての情報の獲得です。  つまりは そういった過去のことがらだけではなく いま現在の人間関係におけるわだかまりや諍いなどなどについても あの人の心はこれこれこういうふうであるのかと知り得れば ずいぶんと互いのコミュニケーションは なめらかに行くのではないか。  日本ではよく《無私》ということを聞きます。それは こういう場合に当てはめるとよいのではないでしょうか? すなわち 劣等感や優越感 あるいは孤独とその不安といった《わたくしごと》よりも まづそのいまの情況に就きその内容を知る。そしていまの問題としては殊に 相手や当事者の心を知る。  これは さとりの問題だと思います。三人よれば文殊の知恵と言いますが 互いに自由な自己表現が出来るようにお互いが心を開きつつ臨む。  特に心の問題を互いに解決しておくこと。あの人この人などなど世間との和解を得ておくこと。なかんづくわたし自身との和解を得ること。心がやわらがしめられてあること。こころのまどが明けられていれば よいのではないでしょうか。  三つ目は 聖書から引きます。長いです。  ◆ 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす ~~~~~~~  ――ルカによる福音書8:26-39 ――  26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。  27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。  28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。    ――「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。      頼むから苦しめないでほしい。」  29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。  30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。  31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。  32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。  33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。  34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。  35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。  36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。  37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。  38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。  39 ――「自分の家に帰りなさい。      そして、神があなたになさったことを      ことごとく話して聞かせなさい。」  その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちイエスなる男は このゲラサの人の心の中の状態が分かった。それは この人がイエスを見て 自分の心を――無言のうちに――開いたからである。イエスは その心のさまを無言のうちに知った。に過ぎない。  たとえばこのようにして 世間との・そしておのれみづからとの和解を得るということ。  それは 必ずしもほかの人に依存するのではなく 自分自身を自分自身のこととしてたもちつづける。おのれにとって固有のおのれみづからのとき(時)をまもる。そうすれば より高い境地の人に出会ったなら おのづとわが心が開かれる。窓は全開。すでに 日本晴れとなり わが心はやわらぎとやすらぎを得る。    これが 《さとり》――という動態――だと考えます。    この《さとり革命》をとおして おのおの内発的にわれらが社会の――ひいては世界の――衣替えが成るのではないでしょうか? ご見解をお寄せください。

  • 悟りとは?

    俗に大悟十八、小悟無数といわれます。 禅者は悟りの体験を最重要視するのでしょうか 悟らないものとは話が通じないとも言ってるようです。 悟りの状態とはなんでしょう?幻想でしょうか。 そもそも悟りが目的になってはいないでしょうか いま、ここに現象するあるがままを直接に知覚すること ができるには、さとりを含むあらゆる知識経験から離れてはじめて可能になると思われます。 言葉や経典による知識はひとつの固定観念ではないでしょうか 悟り至上主義はいびつなものになってはいないか?

  • 悟りとは

    悟りを開いた状態と言うのはどう言う状態なのでしょうか? 「悟り」という言葉は仏教でよく出てくるように思うのですが、他の宗教でも似たような概念はあるのですか? また、悟りを開いた方は実際この世に現存するのでしょうか? 「私は悟りを開いている」という方がいらっしゃいましたら何故そう思うのか、単なる思い過ごしでない事を示してください。 悟りを開いた所以なども教えていただけるとありがたいです。 宗教関係の方はどう言う宗教なのか、専門家の方は何の専門家なのかお知らせの上、お答え頂ければと思います。

  • 悟りについて教えてください。

    悟りを開くと趣味がなくなると聞きました。悟りを開く直前まで趣味はあるものなのでしょうか?