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悟りとは成るようになる

abc2008の回答

  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.17

悟るとは自覚することなりとは、まさにその通りであり、自ら目覚めない限り『悟る』という境地、つまり、本当の自分は心そのものであり、いずれ朽ち果てる肉体は仮の宿みたいなもので、姿形が無いが故に決して朽ち果てたり滅することのない、いわば不老不死の心こそが本来の自分自身と自覚しない限り『悟る』という境地には成れないかと思われます。 ただ、この境地にはなかなか至らないかと思われますが、このことをある手法を用いて導き出したのが、かのデカルトであり、彼は先ず目に映るものを無常のものとして、次から次へと「本当は、それは存在しない」と決め付けて行き、最終的に自分自身も本当は存在しないと思うようにしたところが、どうしても否定できない、ある存在に気付いたのです。それこそが、思う心だったのです。つまり、この世界も自分も本当は存在しないと否定したりすればするほど、その否定する心の存在がより顕著になる。ともかく、何も存在しないとしてもそのことを認識する自分はどうしても存在せざるおえない、これこそが実存する自分自身であると。それで結論として、肉体があるから自分があるのではなく、それらを認識する心があるからこそ自分は存在する。それで有名な言葉『我思う、故に我あり』というものを残したのです。 ともかく、鏡に映る自分、それを認識する自分、一体どちらを本質と見るかでその境地は分かれますが、悟れば読みは同じでも自分自身から自分自心への変革ということになるでしょう。

ri-zyu
質問者

お礼

  哲学のテの字も知らないのですが。。   もちろんデカルト『我思う、故に我あり』は知ってますが、そういう意味合いだったのですね   ちがく角度からお話が聞けて勉強になりました、またどこかでお会いしましたらご回答を   楽しみにしています。      有難うございました。

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