• 締切済み

悟りとは成るようになる

悟りとは生死の問題  心の問題は成るようになる(成るようにしか成らない)自覚することである。。    

  • ri-zyu
  • お礼率90% (1536/1696)

みんなの回答

noname#150036
noname#150036
回答No.20

こんにちは.ボクは仔犬の写真を見て,思いつきました. 犬は自分を犬だと知っているのだろうか. 知ってか知らずか,眠りは安らかである. それは肉体のもつ肉欲,我執,功利から離れるからだろうか. 目覚めてなお,肉欲,我執,功利から離れていたなら, いったい何をもって生きているのだろうか. はたしてそれは大霊ではないだろうか. 自己の内に大霊を感じたならば,見渡すかぎり,あらゆる 生命が,大霊であることに気づくのではないか. すなわち,自己の内に大霊があり,大霊の内に自己があり あらゆる生命がある. このことに気づいたならば,悟りに近づいたともいえまいか. その意味で,『悟りとは成るようになる』を考えるならば, 生命は,大霊が与えた性質にしたがい生きているのであるから 成るように成るのであって,それを知ったならば覚りである. しかしこれは覚りである.悟りに至るには,まづ大いに覚らな ければ成らないのであり,大いに覚ったならば大覚である. 大覚には時間性の理解も必要である. 悟る者,大覚する者,覚る者,成功する者,快楽する者. これらの性質を与えたのが大霊なのだから,皆が悟れるわけで はない. その与えられた性質を断ち切って,マハートマに成るすべを, かつてのマハートマ達は教えている. それは大霊を愛することであり,信仰であり,供犠である. 大霊とは,至上者であり,宇宙の秩序であり,稀に,アルケー であるというものもいる. ※注意書き 上記の考え方は,宗教的な,余りに宗教的な意見であり, しかも,効果,効能には個人差があります.

ri-zyu
質問者

お礼

   なんとなく言っておられる事は伝わってきます      短い文章ですいませんありがとうございました。

  • atatataa
  • ベストアンサー率7% (9/124)
回答No.19

お礼ありがとうございます。 残念ながらお礼の内容も完全に認定不可ですよ。 理を知る事からだと思います。 理を知る事がどれくらいの事か!?ですよ。

ri-zyu
質問者

お礼

  どこの老師様でしょうか。。

ri-zyu
質問者

補足

      理屈の世界で迷っている人と       理屈を離れた人では話が噛み合わないようですね         

  • atatataa
  • ベストアンサー率7% (9/124)
回答No.18

まずは、成るように成るのではない。 したようになる。 なすようになる。 のであります。 因果応報と云うでしょう。 因果は必ずや帰って身に降りかかりますよ。 世の理を知り、理で人生を照らして歩き抜く法を解く事を悟ると云う。 あなた様の「成るように成る」は悟りの端にも掛かって無い事が理解出来ますでしょうか。

ri-zyu
質問者

お礼

  私みたいなものが言うのはおこがましいですが   キリスト教でも仏法でも  自覚者は因果応報を超えています   不安で有ろうが安心で有ろうが 不幸で有ろう幸福で有ろうどうでもいいのですよ    彼らにとって不幸、幸福の同じことです   生も死もきっと同じでしょう        彼らは自分を救おうとはもうしないのです、もう救われていますから。    ありがとうございました。      

  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.17

悟るとは自覚することなりとは、まさにその通りであり、自ら目覚めない限り『悟る』という境地、つまり、本当の自分は心そのものであり、いずれ朽ち果てる肉体は仮の宿みたいなもので、姿形が無いが故に決して朽ち果てたり滅することのない、いわば不老不死の心こそが本来の自分自身と自覚しない限り『悟る』という境地には成れないかと思われます。 ただ、この境地にはなかなか至らないかと思われますが、このことをある手法を用いて導き出したのが、かのデカルトであり、彼は先ず目に映るものを無常のものとして、次から次へと「本当は、それは存在しない」と決め付けて行き、最終的に自分自身も本当は存在しないと思うようにしたところが、どうしても否定できない、ある存在に気付いたのです。それこそが、思う心だったのです。つまり、この世界も自分も本当は存在しないと否定したりすればするほど、その否定する心の存在がより顕著になる。ともかく、何も存在しないとしてもそのことを認識する自分はどうしても存在せざるおえない、これこそが実存する自分自身であると。それで結論として、肉体があるから自分があるのではなく、それらを認識する心があるからこそ自分は存在する。それで有名な言葉『我思う、故に我あり』というものを残したのです。 ともかく、鏡に映る自分、それを認識する自分、一体どちらを本質と見るかでその境地は分かれますが、悟れば読みは同じでも自分自身から自分自心への変革ということになるでしょう。

ri-zyu
質問者

お礼

  哲学のテの字も知らないのですが。。   もちろんデカルト『我思う、故に我あり』は知ってますが、そういう意味合いだったのですね   ちがく角度からお話が聞けて勉強になりました、またどこかでお会いしましたらご回答を   楽しみにしています。      有難うございました。

noname#155457
noname#155457
回答No.16

これは原始仏教阿含経に説かれているお釈迦様の悟りの順序です。 (1)この世界が実在の世界ではなく幻(空)の世界であることを知る。 (2)この世界には十二因縁の法則によって衆生は生まれることを知る。 (3)この世界が苦しみの世界であることを知る。(生老病死憂悲悩苦) (4)一切の苦しみは『欲望と愛着』によって生じていることを知る。 (5)衆生は欲界を輪廻していることを知る。 (6)『欲望と愛着』を滅することにより、輪廻から解脱し天界に生まれることを知る。 (7)仏教の修行によって欲界輪廻から解脱できたことを知る(漏盡智通)。 これが仏教の悟りということになります。

ri-zyu
質問者

お礼

  私は宗教を学問から入ったのではないのですが   全体としてなんとなく判ります  >(6)『欲望と愛着』を滅することにより、輪廻から解脱し天界に生まれることを知る。   『欲望と愛着』を滅することができないと覚ったのだと認識しています 覚ったという事はを滅したのと等しいと認識しています >輪廻   生まれ変わりという認識ではなく心の移り変わりだと認識しています    ありがとうございました。

回答No.15

No.9,14 それは人生を斜に構えていたり、単に取ようにしていたり、諦めの一種になるような粋や脱俗ではすまないという事です。無論、気休めや言い回し、気の利いた状況あ張りません。 そういうものは悟りとも解脱ともいいません。 単に人生観とか生き方、気安くなった状況という事です。 悟りという一種の宗教用語や東洋哲学的タームで指し示しては不適切だと存じます。以上、すみませんでした。

ri-zyu
質問者

お礼

>私などは人生は苦しみだという自覚だけですねと申し上げたのは俗世間でいう幸福や安心を を探さない状態に成ったという事なのですが。。

回答No.14

No.9 お礼を戴きました。ご質問が悟りということなので、阿ることも低下させることもなく自分の目指していることを書きました。 論語の孔子の自叙(為政)  子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩、 の最後のフレーズのようなことを内容として考えると遠い話ですが、極く当たり前に思ってください。 孔子のいう状況は悟りというより、そうなってきたという振り返りですね。 悟りを説明してはいない。しかし矩を云い、欲するに触れている事は参考になります。その矩と欲するの内容が問題ですね。そしてそこへの方法と道が。 私は、Self-Realization Fellowshipというヨガの哲理の勉強と精進をしてきております。30頃からまだ40年ほどで、孔子の70を相当越えてしまいましたが。 お礼の文句:いっている事はよく判ります。 理解してくれれば、私の申し上げている事はお判りいただけたと存じます。 気軽であって気軽のままではない。絶対であって決して悩みやくよくよのない、泰然たる状況です。 krya1998さんほど知的水準が高くないですから 悟りは知識でも知的水準でもありません。自分が背負って来ている課題に対処し、それを乗り越える事です。 私などは人生は苦しみだという自覚だけですね 人生の苦しみ。その原因や質、存在根拠や基盤は何ですか。 人生の苦しみを本当に知る人は、人生の苦しみをそのままにはしない。 私はそのままにしている事のできる生活や人生環境ではありません。 そこで終わる事はできません。

noname#181697
noname#181697
回答No.13

悟りとは何かという問いに対して、上座部仏教なら、無我と悟る事と答えると思います。大乗仏教の場合は、あれとか、これとか、天地いっぱいと答えるかも知れません。どっちが親切な答え方かは、人によって違ってくるでしょうね。 生死の問題、生きて死ぬのは、この私。あれやこれやの出来事を、苦と捉えているのも、この私。しかし私とは一体何者で、心とは一体何なのか。心の問題は成るようになる、手を付けずそっとしておく、自分で自分を縛らない、つまる所は、あるがまま。でも、いま一つ腑に落ちない、スッキリしない・・・みたいな感じでしょうか。 迷妄極まる所に、悟りあり。本当に迷いの雲散霧消や、爆発的なカタルシスを経験したいなら、ひたすらに真実を求めて迷い続け、もがき続けるしか無いです。今このままで落ち着きたいなら、余計な事はしなさんな。まあ、好き勝手に言いたい事を言ってるだけなんで、ウザかったら右から左に流して下さい。

ri-zyu
質問者

お礼

>余計な事はしなさんな。  50歳代半なので余計な事言わして下さいね。。  あなたもプライドが高いね。   質問をさせて頂いて少し失礼かもしれませんが   隻手の音声  理屈で心は救えないですむ事だと思いますゆえに心はなるようにしかならない=あるがまま   公案は理屈では解けない   禅的な言葉、難しい言葉を並べてそれなりに言えば人は凄い人だなと思います     ありがとうございました。  

noname#156094
noname#156094
回答No.12

実感的悟りというものでしょうか。 今までに何十回もお葬式に行って 火葬に参列して遺骨を拾いました。 人は死ねば骨になる、ということがやっと分かりました。 この頃は慣れてきて、焼け具合がどうこうとか この骨がどうこうとか変な理屈まで考えるようになりました。 また、死の側から生きていることも感じさせられるようにもなりました。 骨になるまでの間が、やはり大事かなとも思います。 お坊さんの法話を聞いても、死んでからの事は分からないし あくせく現実の中で生きていく生活しかないといった感じもします。 少しは笑えれば幸せ・・・ そんな感じです。

ri-zyu
質問者

お礼

>お坊さんの法話を聞いても、死んでからの事は分からないし あくせく現実の中で生きていく生活しかないといった感じもします。 少しは笑えれば幸せ・・・ そんな感じです。     今までのご回答の中で一番しっくりきますhetanosukeさんは素直な方なんですね。   本当にすばらしいですね  お釈迦様は人生の答えも見つけようと6年間難行苦行をされましたが  答えはないと悟り、不安や悩みを背負って生きていこうと覚悟されたのだと私は思ってます。     ありがとうございました。    

回答No.11

悟りを開くと言う意味を、本当の意味で分っている人は、この事実を無いとか、或は、この事実を言う事自体で『未だ至っていない』と言う理解をするように感じます。 今の禅者は『お釈迦の悟りではなくて、禅のための禅にいたるための悟りを追求している気がします。』 お釈迦の悟りは『一切皆苦』からの解放を意味すると感じますので、今の禅には『お釈迦の悟りが、余り感じられない』と感じている者です。 悟りを開くという意味は『自身に内在する、命の働き(仏性)と出会って、内在する心の矛盾を解決する。』と言う意味が在ります。 宗教には宗派を超えて、或は仏教とかキリスト教とかの境を超えて、一つの使命が在ります。それは『生きとし生ける者の魂の救済です。』 この観点からの、本質を『今の禅は忘れ果てているのか、或は手が回らないのか』知りませんが、手をこまねいていると感じます。 禅者の考え方の相違を書いたところで、どうにもなりませんので、本題に入ります。 一切皆苦、と言う現象は『自身の自我意識』VS『自身の命そのものの働き』が、対立したり、矛盾を起したり、対立するという意味です。 誰でもが感じた事があると思いますが、『自身の心は、心同士が対話しています。』こういう対話の経験は誰にでも在ると思いますが、その科学的根拠をウイキペデアから、載せてみます。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” この場合の左脳に存在する意識が、顕在意識とも言う、自我意識です。この意識は根本的に右脳とは『機能』が違っています。自我意識の特徴は『言葉で考えている事です。』この言葉を理解するように進歩してきた意識には、どうしても出来ない事が在ります。 言葉にする機能と言う意味は『物事に分別を付ける作業です。』分別すると言う意味は『物事を計算によって、割り切ってゆく作業です。』従ってその機能としての長所に見える特徴が、見方を変えた場合では『短所になっている。』と言う意味を含んでいます。 右脳の機能は『命そのものを働かせている意識です。』身体の生命活動を一手に引き受けていると言う意味です。生まれる前から働いています。生命として芽生えた瞬間から、細胞分裂をする働きそのものです。誕生した時には既に『不安や安心や恐怖と云う事までも』全て備わっている働きです。 例えて云うなら、櫻がその種固有の特徴を『学校で習わずとも』全て兼ね備えている働きを働く機能です。昆虫にしても、動物にしてもその種固有の働きを脳内に蓄えて生まれてくる機能そのものです。 この働きを『仏性』といっています。『命そのものを働かせてている働き』と言う意味です。『一切衆生悉有仏性』と言う意味です。 人間の場合では『右脳の人格』が仏性と云う事になります。 右脳の人格は『無意識の中に封印された形で働いています。』そうして顕在意識とは『交替制をキープする形で働いています。』 もう少し右脳の機能を書いてみます。先に書いた機能は『生物学的な生命体の生命を維持する働き』と言う意味ですが、細かく分けた場合では、後二つの働きに分ける事が出来ます。 とは言っても、精神活動や生命活動は根底では繋がっていますので、実際には境目が分らないかも知れません。 二点目として右脳の機能を挙げるなら、行動面です。例えば眠る場合では、大抵の人は『自我意識が眠っている』と言う勘違いをしています。自我意識が眠ろうとした場合では、眠りに入ることさえ出来ません。 その良い例が『眠ろうと意識した場合に眠れなくなる事です。』この間違いは『自我意識単体で眠れると言う勘違いをしている事です。』 本当の深い眠りとは『自我意識が身体も心も、無意識の自分に預けた場合です。』言い替えるなら、意識が無くなってから、無意識の自分が深い眠るに、入らせています。そうして朝になったら『又自我意識に身体と心を返しています。』この場合に、ぐっすり眠れたと言う安堵感が在ります。 不眠症とは『無意識の自分自身を信頼出来なくなった事を意味します。』自身の命の働きと仲違いしているという意味です。『心の矛盾』を感じている一つの形です。 人間が行動する場合では、口を開く事でも、字を書く場合でも『自我意識は休んでいます。』眠る場合と同じです。『自分を忘れた状態が一番自由に身体としての行動が出来ている場合です。』 この場合と反対に『自我意識が出たままになって、無意識の自分の力を駆る事が出来ない場合を』=『神経症』と言っています。自我意識単体で口を開く場合に『吃音』字を書く場合には『書けい』と言っています。 右脳の機能に関して後一つの機能とは『心に関してです。』心が休めている場合とは『自我意識が、無意識の自分に、心を預けている場合です。』自我意識が働いていない場合に『心は休んでいます。』 今書いた機能と自我意識が同調出来ている場合『健常者』と言っています。心にわだかまりがない状態です。 心に矛盾を抱えている状態とは、身体の機能に関して云うならば、右脳に任せて置くなら全て順調に行くのですが、『自我意識がでしゃばってきて、無意識の自分に任せられなくなる場合です。』自我意識には自律神経も、消化機能も、ホルモンの調節も、発汗でさえ』自由には出来ない機能から出来ています。 行動に関する機能も心の機能に関する事柄も全て、二つの心の同調すると事や交替する事ができ難くなったと言う意味が在ります。 『無意識と交替出来なくなる。』と言う意味は『自我意識が出たままになって=意識地獄の中にいる』と言う意味になります。この状態が『一切皆苦』と云う事になります。 こういう状態からの開放を『見性』自分の性を見ると言っています。 右脳の意識には始まりも終わりも在りません。その機能は『無分別の分別』と言う機能です。割り切れない事や、矛盾した事柄を専門の機能としている事です。 そうして割り切れない事とは言葉を替えて云うなら無限と云う事になります。そうして無限と云う言葉を違う表現方法にする場合には『永遠』と云う事になります。 二つの意識が仲違いすると言う本当の意味は、有限VS永遠とのせめぎ合いと言う意味になります。 自我意識は有限を専門とする機能で出来ています。逆立ちしても『永遠と言う概念でさえ把握出来ない機能で出来ています。』 自我意識が永遠を手にしようとする働きは、右脳の意識の存在によっています。右脳の意識が永遠の存在だからです。その右脳の意識の存在によって『永遠を垣間見せられているからです。』 禅問答は『左脳の機能』では歯が立ちません。どうしても右脳の人格が出てくる様に仕向けられています。自我意識の機能では歯が立たない問題を『右脳の意識が登場する事によって、簡単に解いてくれます。 それは『自我意識の悩みや苦しみの元凶だった、生死の問題』を簡単に解いてくれるという意味です。 見性した場合では『生死の問題が解決した』と言う表現方法を取っています。 悟りを開くと言う意味は『右脳の人格と左脳の人格との間にホットラインが開設された。』と言う意味が在ります。 一切皆苦という場合では、『心が相争っていて、大変に、苦しくて、心が騒がしたった』と言う意味が在りますが、ホットラインが開設出来てからは『心同士が争う事をしなくなる』と言う意味になります。 心の中が静寂に包まれた(心の矛盾が解消された)状態を涅槃と形容しています。キリスト教においての『内在する識られざる神と和解して、自我意識がでしゃばる事無く、神の後に付いてゆく』と言う意味です。 どちらにしても『魂の救済が完了した姿です。』 右脳の意識が動画にて説明されているものが在りますので、乗せて置きますので、参考になるなら喜ばしい事と思います。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM

ri-zyu
質問者

お礼

    tumaritou1さんのお話はよく判るのですが  判ると解る(悟る)(治る)とは違うと思うのですが。。  tumaritou1さんのお話は聞いて判るでしょうが解る(悟る)(治る)りますか。。      もう少し違う切り口で語られたらどうでしょうか。   ありがとうございました。         

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