• 締切済み

W.ベンヤミンは おもしろいですか?

 次のような紹介に出会いました。食指が動きかけましたが まだ止まっています。  くわしい方で おもしろいとお考えでしたら 少しくお話をお聞かせ願いますか?  ▲(徳永恂(まこと):ベンヤミンと《歴史の天使》) ~~~~  ベンヤミンはある未定稿の中で     回想のうちでわれわれは 歴史を原則的には 非神学的に   把握することを禁じるような経験をするが 同時にわれわれは   歴史を神学的概念によって叙述しようとしてはならない。  と言っている。道は こういう相反する禁令の間を 《表現における隠れと現われ》《歴史における超越と内在》とが交錯し浮沈する狭い道を とおっている。  彼は《史的唯物論者》としては この歴史的世界に足を置き 《歴史の天使》(ユダヤ神学)としては そこを超える所にいる。  人間が労働という自らの行為を通じて歴史を創ってきたというのが マルクスが《精神現象学》から受け継いだと考える《史的唯物論》の基本命題ならば 《歴史の天使》とは そういう歴史制作者としての人間の内在的視野を超えている。  歴史認識の主体としての《歴史の天使》とは そういう歴史制作者としての人間の内在的視野を超えた視点と考えられる。    (徳永恂:現代思想の断層――《神なき時代》の模索 2009 第3章 p.155)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 構図はおもしろそうなのですが――《信じるとは何か・ヒラメキとは?・美とは?など》に通じるように感じますが―― その徳永の小論をつうじてこれといった中身はつかめませんでした。何かありますか?  ベンヤミンについては その著作を読んだことはありません。わづかに今村仁司が紹介していたのを読んだ記憶がありますが もう覚えていません。パッサージュをほっつき歩いているといったイメージしか残っていません。  たぶんだめだろう(つまり 中身はあまり詰まっていなかろう)と上から目線で見てしまっていますが ひょっとして何かありましたら おしえてください。という横着な問いですが。

みんなの回答

  • Eririka
  • ベストアンサー率33% (2/6)
回答No.10

分析はObject指向で行なわれるべきですよね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ Object 指向  ☆ が分かりません。もしくは この質問での問い求めについて どういう意味内容を持つのか それが分かりません。  この質問は 中身は次のようです。  ○ ベンヤミンの思想の真髄とお考えになるところを よかったらおしえてください。  あるいは  ○ ~~~~~  趣旨説明でその思想について知りたい主題を特定しています。《神学の内容をも 経験科学の中に摂り込むことが出来るか》です。  この狭き門も じつは 《想定》という手法で 広くすることができるのではないか? と質問者じしんは考えている。その展開にまですすむかどうかを別として お詳しい方は そのご自身のベンヤミン理解をご披露ください。  ~~~~~~~~  以上のような趣旨です。  ★ 分析  ☆ も何も その思想を知らないのですから オブジェクト指向なる手法も使いようが分かりません。どうぞ あしからず。

noname#145872
noname#145872
回答No.9

>はっはっはあ。これは ひとえに日本の復興のためです。やめません。 >やはりわれは鏡であったわい。たぶん何かナゾの別のちからがはたらいているのぢゃないかなぁ。 他にも突込みどころは満載だけれど、一言でいって、キミ、頭、大丈夫? わざと妄想に耽る狂人を演じてるんだよね? 別に演じないでいいんだけれど。

bragelonne
質問者

お礼

 わたしが正気であったなら それは相手の人のため。  狂気であったなら それは神のためです。

noname#145872
noname#145872
回答No.8

マッチポンプの事例って、何を説明したのかしら? 私は何も、キミの自作自演について言及していないけれど、別の話題に行くのかしら。実はキミがベンヤミンをあらかじめよく読んでいたのであって、とやかく言われたくないということなら、話の脈絡がわかるけれど、違うでしょ。 鏡って、キミはやたら、他人の回答を引用したがるからねぇ。それでキミがやっていることと言えば、他人の投稿を分析して、言った相手も自覚しないことをほじくり出している、ということなんだよね。誰も頼んでないから、キミは嫌われるばかりみたいだけれど。 私から見ると、キミの主体は、鏡となるくらいに他人と同調しやすいとも言えるね。それがキミの病んでいる一端でもあると私には見える。キミ、もしかしたら、他人と自分の区別がつかないでしょう? つかないわけではないが、人よりその判別が弱いでしょう?  だから、キミは様々な不都合を抱えている。相手の強烈な主体に同調しなければならないという強迫観念を感じるから、語気の強い相手が出てくると、頭を抑えつけられてしまったような圧迫感を人一倍感じる。自分と他人の区別が根本的についていないから、自分に言うように、強い言葉を無自覚のまま、他人にうっかり言ってしまう。相手の期待にこたえる形で、トリックスターみたいな役回りを押し付けられる(あるいは、勝手にキミが引き受けてしまう)。その結果、悪気がないのに、マッチポンプみたいなことになってしまう。 おまけに、相手の主体に同調して鏡になることを優先したから、自分の意見を秩序だてていう修練をあまり積まなかった。だから、いざという時に、説明が支離滅裂になってしまう。相手に質問されても、本当のところ、何を答えたらいいのか見当がつかない。だから、的確に、適量を書くということができず、やたらと長いことをくどくど書き散らす。それでもわかってもらえないことの方が多い(事実、キミの元から人が去って行ったんでしょう?)。 子供によくあるんだけれど、キミの歳なら、精神的な病だね。ラカンのいう鏡像段階の発育が上手くいかなかったのだろうね。鏡とか、鐘と言っても、ちょっと気の毒。からかってるんじゃなくて。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  ★ マッチポンプの事例  ☆ これは 投稿者と衝突する事例のひとつとして挙げたもの。そういうことがあると。  そしてそれだけではなく その事例は 別の問題をも照射している。つまりその事例にも見られるように わたしとぶつかる投稿者は わたしの文章を読んで それを鏡としてのように自分の姿を映す。それをわたしの姿だと勘違いして その言わばみにくさをなじり立てる。すべて 自己投影だということを示したもの。  ★ 実はキミがベンヤミンをあらかじめよく読んでいたのであって、とやかく言われたくないということなら、話の脈絡がわかるけれど、違うでしょ。  ☆ コンステラツィオンくらいなら知ってますよ。あと ピレネーの山の中でけっきょくアメリカへの亡命を果たさずに 自殺したということも。    ★ ~~~~~  鏡って、キミはやたら、他人の回答を引用したがるからねぇ。それでキミがやっていることと言えば、他人の投稿を分析して、言った相手も自覚しないことをほじくり出している、ということなんだよね。誰も頼んでないから、キミは嫌われるばかりみたいだけれど。  ~~~~~~~  ☆ はっはっはあ。これは ひとえに日本の復興のためです。やめません。  ★ 相手の主体に同調して鏡になる〔ことを優先したから・・・〕  ☆ これは 認識不足か もしくは識見の弱さである。《鏡になる》ことには何の努力も要らない。相手が勝手にそういう仕儀に落ち入る。ただしそのあと ミラーニューロンがはたらくのは こちらにも起きる。  それによって  ▲ すべての人に対して すべてに成りました。すべての人を得るためです。  ☆ という成り行きが結果として起きる。特にそのための努力ということをしているわけではない。文章を二度は読んで 読み解くというのは 本を読む場合にも当てはまるから 人を相手にする場合を特別視することもない。    ★ 相手の期待にこたえる形で、トリックスターみたいな役回りを押し付けられる(あるいは、勝手にキミが引き受けてしまう)。その結果、悪気がないのに、マッチポンプみたいなことになってしまう。  ☆ このくだりは おおむね当たっている。事実であろう。問題は ない。つまりその相手は 実際に怒っているのであるが そのいきさつや原因あるいは全体の事情などなどについて 本心では分かっているから。腹の虫がおさまらないというのみ。だからこちらに向けて 怒りがおさまるまで その意識を排泄しようとしつづける。アース役に成ってやらねばならない。  ★ だから、いざという時に、説明が支離滅裂になってしまう。  ☆ 勘違いの場合を別として わたしが支離滅裂な文章を書いたことはない。  ★ やたらと長いことをくどくど書き散らす。  ☆ わざとである。違った文体によって 何度でも相手を振り向かせる。そのために。  ★ (事実、キミの元から人が去って行ったんでしょう?)。  ☆ もともと わたしの元には人はいなかった。  ★ 子供によくあるんだけれど、キミの歳なら、精神的な病だね。ラカンのいう鏡像段階の発育が上手くいかなかったのだろうね。鏡とか、鐘と言っても、ちょっと気の毒。からかってるんじゃなくて。  ☆ ここは あんたの自己投影。ぴったんこかんかん。  やはりわれは鏡であったわい。たぶん何かナゾの別のちからがはたらいているのぢゃないかなぁ。

noname#145872
noname#145872
回答No.7

同じことを言ってあげようか? あっかんべーと先に行ったのはキミの方でしょう。投稿者を侮辱しないことには、決着を見たと思えないのが、キミの救い難い性質なんだよ。私の勝ち、と返すことで、私はそれをからかったの。だって、不愉快だからね。 キミだけが特権的に放言できるわけじゃない。キミが放言すると、放言し変えされるの。わかったかな。他人にやっても何とも思っていないが、自分がやられると過剰反応するんだから、キミって人に嫌われる性格かもね。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  前にも書いたが わたしの設問の仕方や質疑応答の遣り方を称して 自作自演のマッチポンプだと言った人がいた。  ひとつに わたしはつねに〔と言っていいほど〕 質問にはたたき台を出します。  したがってこのたたき台は もしその内容が 答えを構成するようになれば すでに初めにポンプを明示的に用意しているということです。  言いかえると それも言うなら マッチポンプではなく ポンプ・マッチの方式であると。    質問者が 問う者となり司会者のごとくなりまた回答の是非などについて――それなりに――判断する者ともなるという意味で 自作自演であるのは あたりまえ。  つまりは人びとは 自分の受け取り方――すなわち ぶらじゅろんぬ評――が それぞれ自分の心や知解の度合いなどを投影している。ただそれだけのこと。  わたしは 鐘です。撞木による撞き方によって どうなりとひびきます。ただそれだけ。  また わたしは 鏡であるようです。人は自分の姿をそこに見る。ただそれだけのこと。  ★ 放言  ☆ とは こういうふうに言うものですよ。

bragelonne
質問者

補足

 これから いくらかの時間 失敬するよ。

noname#145872
noname#145872
回答No.6

本さえ手にとれないくらい疑い深い人間が、私の言うことを信頼するわけないじゃないの。無駄は嫌ですよ、ってことを指摘しただけなんだがねぇ。 ところが、今度は、私が説明をそもそもできないんじゃないか?って疑っているわけだ。面白いくらいに疑り深い人だねぇ。次々と疑いを思いつく。しかし、こういう人とは、そもそも対話が成立しないかもしれないね。だから、「信じる」ことについて見開かせてくれる書籍を読みたいということか。 キミの問いの意義はよくわかりましたよ。キミはどうも病んでいるらしい。残念ながら、ベンヤミンはキミの迷える心を救えないでしょうよ。彼も疑り深い性格だったかもしれないけれど、誰かを啓蒙する気はさらさらない人だから。みんなが知っていることを、角度を変えて検討し、見過ごされていた旨みを見つけるのが彼の論考の特徴といえるね。キミみたいに救いを求める人は、あまりお呼びじゃないと思う。 >あっかんべえーーーーっ。 逃げるが勝ちってことだね。じゃ、私のロジックの勝ちってことで。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。    勝ちも負けもないはずなのに――つまりは 人がおそわるというのは あくまで〔ほかのおしえる人を介してであっても〕自分の理解においてであるしかないというのに―― わざわざ  ★ じゃ、私のロジックの勝ちってことで。  ☆ と表明しないことには 対話が結着を見たとは言えないのかねぇ。  わたしは  ★ 逃げるが勝ちってことだね。  ☆ とも言っていない。おしえる気があるか無いか? ただこれだけ。無いのに 無理に引き留めることは出来なかろう。

noname#145872
noname#145872
回答No.5

手間を惜しむって批判してるけれど、当たり前じゃないの。だって、キミ、私のことを信用する理由について何も答えてないじゃん。疑り深い君が私の言うことを信頼する理由ってあるのかな。無いでしょ? しかも、キミの書いたものを大量に読めっていうわけだ。嫌だよ、そんなの。これは学問と関係なくて、要するにキミがむちゃくちゃ言っているの。グダグダ言ってないで、本を読みなさいよ。私が言いたいのはそれだけ。それだけのことを言うのにここまで付き合ってあげたんだから、ありがたく思いなさい。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ だって、キミ、私のことを信用する理由について何も答えてないじゃん。  ☆ ここは まづ初めに回答者の信用度やその書く文章についての信憑性をたしかめてから やり取りが始まるとお考えでしょうか?  そんな厄介なことをしなくても 書いた文章をふたつみっつ読めばだいたい分かりますよ。  あるいはまだまだ分からないというときにも そもそも疑問がおきればそれについてどちら側からでも 互いに尋ね返し合えばよろしい。ただそれだけのことです。  まぁ よく受け取れば だまされたと思っていちど読んでみたまえ。とでもいうところでしょうか。  あっかんべえーーーーっ。(理由はすでに書いた)。

noname#145872
noname#145872
回答No.4

説明が十分でないから、気にくわないのではない。本を開かないのに、学問に関心があるというスタンスで判断を口にすることが愚かしい、と私は指摘したのだ。手厳しいと言っているが、まったく当たり前ではないかね? そしてキミの説明で明らかになったことを集約すると、キミは要するに、今までキミが把握してきたことを、投稿者が知った上で、キミと比べてベンヤミンが更に新しいことだとか、深いことを言っているかもしれない――と言ってくれと求めているように思える。 今村も徳永もキミのことを知らないから、キミを説得することができない。しかし、ここの投稿者なら、暇を持て余しているかもしれないから、キミの過去のログを読んで、分析し、あれこれ言ってくれるかもしれないと期待しているというわけだ。 私はその気がないと最初に言っておく。というのも、そこまでキミに関心がないからだ。まったくの老婆心でいうが、投稿者は、キミのお母さんや、世話女房じゃないんだよ。歳を食ったのに、そんなこともわからんのかい? 私がここに投稿したのは、呆れたという動機が主たるものだが、その確信をますます深めた。手間を惜しむという時点で学問として話にならないのはすでに指摘した通りだが、社会人としても、どうなのかね。お口をあーんして、そこに噛み砕いた食物を流し込んでください、ってのは、雛がやることだろう。恥を知りなさいと最初に私が言ったのは、この意味だ。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは それでもご投稿に感謝もうしあげておきます。  ★ 手間を惜しむという時点で学問として話にならないのはすでに指摘した通りだが、  ☆ つまりは そのベンヤミンのさわりなりとも おしえない。その手間を惜しむ。ということのようです。  学問の世界には自分はいない。こうおっしゃっていると理解しました。ただ質問の仕方に興味を抱いて ちょっとからかってみたのさと。  これでひとつのご回答ですから ありがたく承っておきます。  ということになります。

noname#145872
noname#145872
回答No.3

もう一度読み返せとキミは私に言う。しかし、私に何についての理解を求めているのかね? まさか、酸っぱいブドウを避けるのは、人として、当然のことではないか?おまえも同じだろうに?などと同意を求めているのかね。だとすれば、キミは哲学や思想の重要な本質を、何にもわかっていないということを自ら言っているようなものだ。 というのも、思想の類は、論証できるものではない。同意できない思えば、それだけのことだ。酸っぱいブドウでも食ってみよう、食ってから吟味しようと思わないと、探究は始まらん。疑った時、キミの探究は終わっているのだ。 私は奇妙だと思うが、キミは信じるとは何かをベンヤミンを読んで知りたいなどと書いている。が、本をめくるのさえためらうほど疑い深いのは異常なことだ。たかが本だ。ベンヤミンと結婚せよとはだれもいっていないし、キミもそんな気はないだろう。尻の穴が小さいという言葉があるが、私はこれを思い浮かべた。それとも、哲学云々の前に、信じるということについて、勉強が必要なのかね? 私はキミの態度がまず気に入らん。キミは本さえめくれないほど、疑り深い人間らしい。それでも、キミは徳永が信頼できると言っている。それなら、それでもう十分じゃないかね。見知らぬ私だとか、他の連中の解説を、徳永以上に信頼する理由などどこにもないのではないかね?

bragelonne
質問者

お礼

 これはなかなか手厳しいようです。  ご回答をありがとうございます。  これは 一にも二にも たしかにおっしゃるようにわたしがベンヤミンの著書をひもとこうとしないことより起こっている問題であることに間違いありません。  ですから その躊躇――もしくは食わず嫌い――の理由として述べたところが 十分でなく気に食わないというところでしょうか あなたの言い分は?  そうですね。  ひとつに こういう説明をしてみます。  徳永の解説ないしあたらしい思想を目指しての読み解き これが わたしの食指を動かしたけれど 最後まで動かすことはなかった。むろんその判断は その当否にかんして・つまり責めに任ずるのも わたしにあります。  あるいはひとつに:  かつて今村仁司の紹介記事を読んだとき 食指が動くことさえなかったのでした。その影響があって 言わばベンヤミンの可能性に賭けてみてさあ読んでみようかというまでには到らなかった。だから ここで くわしい方に 横着にも さわりだけでもおそわろうかという魂胆になっています。  あるいはもうひとつに:  そこまでベンヤミンを薦めるということでしたら 確かにその推薦者本人がそのさわりを披露してくださってもよいはずだ。こういう色眼鏡で見ている思いがあります。  ★ 私は奇妙だと思うが、キミは信じるとは何かをベンヤミンを読んで知りたいなどと書いている。  ☆ これはですね。すでに趣旨説明欄に わたしは上から目線になっていると書いていますが この《信じるとは何か》については 一定の答えを得ているということです。  【Q:《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6729443.html  ですから それ以上の中身が欲しい。こういう意味です。  ですから 徳永を信頼していますし 今村をももっと信頼していますが それでも ちょっとやそっとでは 踊りの輪にくわわろうとするには腰がまだ重い。勝手な言い分ですが 事情としては そういう話になっています。そしてそれだけのことです。  あなたに答えがありますか? このようなお願いは勝手すぎますか?

noname#145872
noname#145872
回答No.2

手の届かない高みの果実を指さして、「あのブドウは酸っぱいに違いない。食べない方が賢い」とほざくキツネの如し。老人よ、老婆心ながらいってあげよう。恥を知りなさい。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  質問の趣旨説明をもう一度読み返してみてください。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~  食指が動きかけましたが まだ止まっています。  くわしい方で おもしろいとお考えでしたら 少しくお話をお聞かせ願いますか?  ☆☆(同上) ~~~~~~~~~~  構図はおもしろそうなのですが――《信じるとは何か・ヒラメキとは?・美とは?など》に通じるように感じますが―― その徳永の小論をつうじてこれといった中身はつかめませんでした。何かありますか?  ☆☆(同上) ~~~~~~~~~~  たぶんだめだろう(つまり 中身はあまり詰まっていなかろう)と上から目線で見てしまっていますが ひょっとして何かありましたら おしえてください。という横着な問いですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ サワー・グレイプス  ☆ に落ち入るというような不明をかこってしまったというあやまちの起こらないように 念には念を入れ こうやって質問をあげています。  紹介者の徳永恂には 信頼をおいてもよいと思っていますので その紹介の小論――ですが――に答えがなかった(わたしが見つけ得なかった)ということは 一面で高をくくっていてもよいと思うところがこちらにもあるということです。  恥ぢをかかないようにしたいので もし精通しておられたなら おしえてください。  回答No.1へのお礼欄を見てもらえばかんたんなことですが それでもご返答として重ねてかかげます。すなわち 《食指が動いた》というのはどういうことか その中身の説明になります。  ☆☆(回答No.1お礼欄) ~~~~   たとえば  ▲(徳永) 〔* ベンヤミンの提起する〕道は こういう相反する禁令の間を 《表現における隠れと現われ》 《歴史における超越と内在》とが交錯し浮沈する狭い道を とおっている。  ☆ ということでしたら けっきょく――《狭い道》に終わらせずに―― 《表現における隠れ》の部分あるいは《歴史における超越》の領域 あるいはつまり《神学》のことがらとしては すべてそのナゾの領域を《想定する》という前提において話を始め どこまでもそのようにすすめればよい。こう考えます。  神は 想定である。このように出発すればよいと。  (経験科学からすれば そのような非経験の領域を持ち出すことは つつしまねばならないのであるが ひとつの方法としては その非経験をも経験世界から想定するかぎりで その想定においては経験行為に属するという建て前になります。  早い話が 非経験のナゾを心に抱く信仰は 行為としては経験存在である人間の経験行為ですから いまの《想定》が そのままむしろ現実となっています)。  これが ひとつの方法だと考えます。つまりは 徳永の理解するベンヤミンの萌芽としての方法の具体的な応用例として考えます。  ところが ベンヤミンは この萌芽としての概略図からさらにはあたらしい展開を得ていないのですね? すみません。勝手な憶測をまじえた勝手な問いになってしまっています。  ~~~~~~~~~~~~

  • Eririka
  • ベストアンサー率33% (2/6)
回答No.1

概略図では分かり難い、という可能性は有り得るでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 そうなんですよね。概略図では分かり難い。  えりりかさん ご回答をありがとうございます。  たとえば  ▲(徳永) 〔* ベンヤミンの提起する〕道は こういう相反する禁令の間を 《表現における隠れと現われ》 《歴史における超越と内在》とが交錯し浮沈する狭い道を とおっている。  ☆ ということでしたら けっきょく――《狭い道》に終わらせずに―― 《表現における隠れ》の部分あるいは《歴史における超越》の領域 あるいはつまり《神学》のことがらとしては すべてそのナゾの領域を《想定する》という前提において話を始め どこまでもそのようにすすめればよい。こう考えます。  神は 想定である。このように出発すればよいと。  (経験科学からすれば そのような非経験の領域を持ち出すことは つつしまねばならないのであるが ひとつの方法としては その非経験をも経験世界から想定するかぎりで その想定においては経験行為に属するという建て前になります。  早い話が 非経験のナゾを心に抱く信仰は 行為としては経験存在である人間の経験行為ですから いまの《想定》が そのままむしろ現実となっています)。  これが ひとつの方法だと考えます。つまりは 徳永の理解するベンヤミンの萌芽としての方法の具体的な応用例として考えます。  ところが ベンヤミンは この萌芽としての概略図からさらにはあたらしい展開を得ていないのですね? すみません。勝手な憶測をまじえた勝手な問いになってしまっています。  いづれにしましても ありがとうございました。

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    日本では霊が見えるとか見えないとかの話には懐疑的で、たぶん多くの人は眉唾物として話を見聞きしていると思います。霊能者などがテレビに出たり本を出していますが、どれくらいの人があの人たちを信じているのでしょう。 知り合いで息子さんをなくした方がイタコによって息子と話をしたと涙ながらに話していましたが、本当に100%信じているのかなと思いました。人間とは弱いもので、苦しみの中にあるときは懐疑心も何も捨て去り、目に見えないものにすがるのでしょうか。真実かどうかなどはどうでもよくて、すがった人の心が救われていればいいのでしょうか。 東大病院の矢作医師が人は死なないという本を出していますが、あの本に救われた方もたくさんいるのではと思う一方で、矢作医師が何らかの精神疾患を罹患していて幻覚や幻聴を見るようになったという可能性も否定できないのではないかという思いも抱いてしまいます。 日本では通常には見えないもの、本人にしか見えないものが見えると大真面目に語ったら、精神病と言われてしまうこともありますよね。 IQが高い人ほど唯物論しか信じられないと思うのですが、どうなのでしょう。 私は中立で、目に見えない世界を信じたいけれども信じられない、宗教の戒律などは人々をうまく統制するために作られたものだと感じることが多いです。 絶対に騙されないという気持ちが強いですが、それが心から信じるものが何もない状況にだんだん近づいてきている気がして悲しいです。 時には騙されたものが勝つこともあると思うのです。(本人が向上するために教えならば) 唯物論しか信じられないことは苦しみですか? 親戚の大学教授だった人が病に臥せってから毎日題目を唱えるようになったと聞きましたが、それは不幸なことではないのでしょうか。 本人の心が穏やかになるのならそれは哀れではなく救いの道になるのでしょうか。 死や深い悲しみの前にはある意味正気をなくすことが必要なのでしょうか。

  • 会社・事業・組織の歴史

    どなたか下記につきまして、歴史に関わらず「こうではないか」などと思うところが少しでもございましたらご教授下さい。 質問が広範になってしまいましたがご容赦下さい。 ※私の質問がよく勘違いされるので先に書いておきますと、この質問は学校のレポートか何かの類で必要となっているのではなく、完全に個人的な知的興味で記載させて頂いています。 現在、私は会社・事業・組織の歴史的変遷を追おうとしています。 会社・事業・組織の歴史的変遷における代表的な個々の事例を追う事により、そこに通底する「会社・事業・組織とは何か」「なぜ発生するのか」「なぜ必要とされるのか」「どのようなものが社会に必要とされるのか」「時代と政府には何が許容され、許可されないか」など、会社・事業・組織にまつわる内在的ロジックや、その哲学的命題に対する答えが見えてくると思うのですが、これを知りたく思っている為です。 なぜ発生するのかは明らかに金銭的な問題ですが、それでは全て金銭かというと松下幸之助などの水道哲学を見ればそれだけではないように思えます。 金銭目的で起業するも、生存の為に社会に適合する必要があり、生き残る為にその社会の倫理を重視するという結論が簡単に出そうなのですが、本当にそうなのか? と思ったりもします。 そして巨大化・大衆化するにつれ、組合ができ、穏健化・官僚化するとも思うのですが、まだ「会社とはこうである」という答えが見つかっていないように思えます。 さらに「現在はどのようにあるべきか」「未来に向け、今後はどうなるか」「どうすべきか」という点についても、知的刺激を受けるような書籍を探しています。 あるいは、欲を言えば「会社は地域社会にどこまで貢献すれば良いか」「貢献しなければならない理由は何か」という点についても知りたく思っています。 主対象として、金銭的利益を追求する集団をターゲットに考えたいのですが、政府やその内部の組織を比較対照として考察するのでも理解が深まると思っていますので、こちらもご存知の方がいらっしゃいましたらご教授下さい。 哲学カテゴリーではなく、歴史カテゴリーに投稿しましたのも、歴史での事例から通底する内在的なロジックを追えるのではないか? と思った為です。 金銭関係で雇用を結ぶと言えば、傭兵で組織された集団も広義での会社とも言えそうですが、具体例を知らないので、現在の会社とどう違うのかとの比較も知りたいです。 岩波書店の「○○論」などがそうした「事例を通し社会における共通解・内在的ロジック・哲学的解」を系統立てて分かりやすく解説する事に長けている書籍を多く出しているので、「会社論」、「組織論」、「事業論」などを期待したのですが、amazonで調べた所、そうした書籍は出版されていないようです。 欲張って色々書いてしまいましたが、勉強の方法、上記の問いに明るいような書籍・系統立てて教えてくれるような書籍、あるいは上記の問いの回答について少しでもご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。 尚、起業する予定は無いのですが、何かのヒントになるかと思い「マネジメント 基本と原則(ドラッカー)」「イノベーションと企業家精神(ドラッカー)」「隷属への道(ハイエク)」「現代組織学の偉人達」を先日購入しました。 「学問のすすめ(福澤諭吉)」は大変面白いのですが、政府に全てを差配されている状態から独立せよという論旨は、現代の会社のありようなどの考えに適用するには多少の無理があるように思っています。 時間がございましたら酔狂な質問にお付き合い下さい。 (しばらく一ヶ月は締め切らずに置いておこうかと思います)。 宜しくお願い致します。

  • 唯物主義に生きがいはありますか?

    唯物主義に生きがいはありますか? 人間は物質からできているので精神活動も物質の化学反応によるものですよね? 水素が燃えて水ができる。それと何が違うのでしょう? 尊いとされる生命(その起源も偶然の長時間におよぶ化学反応によるものでしょう)や豊かとされる精神活動も自動的な物質のふるまいによる虚無の世界です。 クオリアや自由意志も錯覚でしょう。まだ解明されたわけではないですが、 その機能も物質の化学反応によるものだと考えることが自然です。 何をしても楽しくないです。例えば、奇麗な夜景を見てホッとしますが、 すぐさまこれも遺伝子にプログラミングされた自動的な感情(錯覚)だ気づき絶望します。 しかし、生命及び精神活動が科学的に解明されても、その仕組みが分かっただけで本質(中身?)は分からないと言いますが、中身(主観?)なんてないんじゃないでしょうか? 精神活動などあみだくじのようなもので、ある入力がされたらある出力がされるだけで 自分とか主観とかそんなものはなく、今こうしてこう思った!考えた!も自動的な計算による出力にすぎないんじゃないですか? いろいろ考えた結果、自殺ということが頭に浮かびます。 しかし、世の中の唯物論者(この定義がそもそも間違ってるのかもしれませんが、スピリチュアルなことを信じない科学的な人です)の方が全員自殺されてるわけではないですよね?どうしてでしょう?何に生きがいを持ってるのでしょうか? 虚無感に襲われて辛いです。生命、精神、存在などの素晴らしさについて教えてください。 哲学や科学について素人なので簡単な言葉で教えてくださると嬉しいです。 どうかよろしくお願いします。

  • ニーチェの永劫回帰は どこから見ても中途半端だ

     ご自分の見解を明らかにしたかたちの或る質問に対して 論点ごとに問い返すかたちで投稿したものです。どうでしょう。    ★ ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 / そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。  ☆ 1. 《目的》を持つのか 持たないのか?  2. 《力への意志》の《強化と増大》とは いったい何を言うのか?  3. 人間にとって猿を超えた人間にたとえられる《超人》は 或る種の《目的》ではないのか?  4. 超人への《生成》とは 《直線的な時間における目的論》ではないのか?  5. あるいは けっきょくむしろプラトンの《イデア》理論=かつ宗教――つまり それとして目的論――と同工異曲ではないのか?    ★ ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。  ☆ 6. ショーペンハウアーの《世界の根源としての「生きんとする意志」》は 人間およびこの経験世界を超えているのではないか?   7. つまりこの《意志》は 人間が肯定する・否定するという《人間の理解およびその経験行為としての意志》にはなじまないはずだ。つまり ニーチェの捉え方は ショーペンハウアーを出すならそれはお門違いだ。  ★ ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。  ☆ 8. 《神、すなわち超越的な存在》と言っても もしそれが《生きていた そして 死んだ(あるいは 人間が殺した)》と言うのなら やはりプラトン流の観念論における神(物自体や世界精神)のことでしかない。それでは 経験世界を超えたという《超越的な存在》でも何でもない。  9. あたまの中で観念としてこの世界を超えた存在をつくり それをいじくっているに過ぎない。  10. 多くの人間が――たとえば先ほどのショーペンハウアーとは違って―― 神をただの概念として しばしば持て余しつつ 弄んでいたに過ぎず ニーチェがその例に漏れるということはない。  11. 神はいやしくも神であるなら 人間に《死んだ》と言われようが《死ね》と言われようが 痛くも痒くもない。  12. その神と人間との関係は 終末論という物語をつうじても人間によって語られたが 問題は 《神は生きている人の神であり 死んだ人には関係ない》のだし 《未来でも過去でもなく しかもそれらをあたかも収めるところの〈永遠の現在〉》だということは アウグスティヌス以来 相場が決まっている。  13. 《永遠の現在》は神学っぽいから 言いかえれば 現実存在のことです。実存志向 これが《直線的な時間観と円環的な時間観》を包括し 《イデア説から自由で 生成説を包み入れるかたち》である。    ★ 永劫回帰  ☆ 14. というのは――その思想としての可能性を好意的に解釈するのならば―― 《観念の神と そして普遍神としての(非知なる)神とは違う》ということに人はつねに機会あるごとに 突き当たる。はずだ。そこでしかるべき道をえらべと言っている。  15. あるいは言いかえるなら 《あたまの中のオシヘとしての神(キリスト教)と 個人としてのわれにとって固有の時であり非思考の庭なる神(普遍神を指し示すキリスト信仰)とは 月とスッポンとの違いがある》という《なんならチカラへの意志》に遭遇する。何度でもその機会はやって来ると言っている。  こんな感じでしょうか。

  • ベンジャミンがベトベトに…

    うちのベンジャミンがやたらベトベトのものを 出して困っています。枯れた感じも無いし、元気そうなのですが、 葉っぱはもとより、床一帯にもベトベトしたものをまき散らしています。 お手入れの方法がわかる方いましたらお教え願います。

  • ベンジャミンについて

    うちに来て10年近くになるベンジャミンがありますが、 現在高さは1メートル60くらいあり、これ以上のばしたくありません。 上へ上へといって、横へ枝があまり出ていないので、すごく貧素な姿です。 ベンジャミンのあのこんもりした形にするにはどうしたら いいのでしょうか? 高さもできたらもう少し低くしたいので、切ってしまっても大丈夫でしょうか?