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W.ベンヤミンは おもしろいですか?

 次のような紹介に出会いました。食指が動きかけましたが まだ止まっています。  くわしい方で おもしろいとお考えでしたら 少しくお話をお聞かせ願いますか?  ▲(徳永恂(まこと):ベンヤミンと《歴史の天使》) ~~~~  ベンヤミンはある未定稿の中で     回想のうちでわれわれは 歴史を原則的には 非神学的に   把握することを禁じるような経験をするが 同時にわれわれは   歴史を神学的概念によって叙述しようとしてはならない。  と言っている。道は こういう相反する禁令の間を 《表現における隠れと現われ》《歴史における超越と内在》とが交錯し浮沈する狭い道を とおっている。  彼は《史的唯物論者》としては この歴史的世界に足を置き 《歴史の天使》(ユダヤ神学)としては そこを超える所にいる。  人間が労働という自らの行為を通じて歴史を創ってきたというのが マルクスが《精神現象学》から受け継いだと考える《史的唯物論》の基本命題ならば 《歴史の天使》とは そういう歴史制作者としての人間の内在的視野を超えている。  歴史認識の主体としての《歴史の天使》とは そういう歴史制作者としての人間の内在的視野を超えた視点と考えられる。    (徳永恂:現代思想の断層――《神なき時代》の模索 2009 第3章 p.155)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 構図はおもしろそうなのですが――《信じるとは何か・ヒラメキとは?・美とは?など》に通じるように感じますが―― その徳永の小論をつうじてこれといった中身はつかめませんでした。何かありますか?  ベンヤミンについては その著作を読んだことはありません。わづかに今村仁司が紹介していたのを読んだ記憶がありますが もう覚えていません。パッサージュをほっつき歩いているといったイメージしか残っていません。  たぶんだめだろう(つまり 中身はあまり詰まっていなかろう)と上から目線で見てしまっていますが ひょっとして何かありましたら おしえてください。という横着な問いですが。

みんなの回答

  • Eririka
  • ベストアンサー率33% (2/6)
回答No.10

分析はObject指向で行なわれるべきですよね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ Object 指向  ☆ が分かりません。もしくは この質問での問い求めについて どういう意味内容を持つのか それが分かりません。  この質問は 中身は次のようです。  ○ ベンヤミンの思想の真髄とお考えになるところを よかったらおしえてください。  あるいは  ○ ~~~~~  趣旨説明でその思想について知りたい主題を特定しています。《神学の内容をも 経験科学の中に摂り込むことが出来るか》です。  この狭き門も じつは 《想定》という手法で 広くすることができるのではないか? と質問者じしんは考えている。その展開にまですすむかどうかを別として お詳しい方は そのご自身のベンヤミン理解をご披露ください。  ~~~~~~~~  以上のような趣旨です。  ★ 分析  ☆ も何も その思想を知らないのですから オブジェクト指向なる手法も使いようが分かりません。どうぞ あしからず。

noname#145872
noname#145872
回答No.9

>はっはっはあ。これは ひとえに日本の復興のためです。やめません。 >やはりわれは鏡であったわい。たぶん何かナゾの別のちからがはたらいているのぢゃないかなぁ。 他にも突込みどころは満載だけれど、一言でいって、キミ、頭、大丈夫? わざと妄想に耽る狂人を演じてるんだよね? 別に演じないでいいんだけれど。

bragelonne
質問者

お礼

 わたしが正気であったなら それは相手の人のため。  狂気であったなら それは神のためです。

noname#145872
noname#145872
回答No.8

マッチポンプの事例って、何を説明したのかしら? 私は何も、キミの自作自演について言及していないけれど、別の話題に行くのかしら。実はキミがベンヤミンをあらかじめよく読んでいたのであって、とやかく言われたくないということなら、話の脈絡がわかるけれど、違うでしょ。 鏡って、キミはやたら、他人の回答を引用したがるからねぇ。それでキミがやっていることと言えば、他人の投稿を分析して、言った相手も自覚しないことをほじくり出している、ということなんだよね。誰も頼んでないから、キミは嫌われるばかりみたいだけれど。 私から見ると、キミの主体は、鏡となるくらいに他人と同調しやすいとも言えるね。それがキミの病んでいる一端でもあると私には見える。キミ、もしかしたら、他人と自分の区別がつかないでしょう? つかないわけではないが、人よりその判別が弱いでしょう?  だから、キミは様々な不都合を抱えている。相手の強烈な主体に同調しなければならないという強迫観念を感じるから、語気の強い相手が出てくると、頭を抑えつけられてしまったような圧迫感を人一倍感じる。自分と他人の区別が根本的についていないから、自分に言うように、強い言葉を無自覚のまま、他人にうっかり言ってしまう。相手の期待にこたえる形で、トリックスターみたいな役回りを押し付けられる(あるいは、勝手にキミが引き受けてしまう)。その結果、悪気がないのに、マッチポンプみたいなことになってしまう。 おまけに、相手の主体に同調して鏡になることを優先したから、自分の意見を秩序だてていう修練をあまり積まなかった。だから、いざという時に、説明が支離滅裂になってしまう。相手に質問されても、本当のところ、何を答えたらいいのか見当がつかない。だから、的確に、適量を書くということができず、やたらと長いことをくどくど書き散らす。それでもわかってもらえないことの方が多い(事実、キミの元から人が去って行ったんでしょう?)。 子供によくあるんだけれど、キミの歳なら、精神的な病だね。ラカンのいう鏡像段階の発育が上手くいかなかったのだろうね。鏡とか、鐘と言っても、ちょっと気の毒。からかってるんじゃなくて。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  ★ マッチポンプの事例  ☆ これは 投稿者と衝突する事例のひとつとして挙げたもの。そういうことがあると。  そしてそれだけではなく その事例は 別の問題をも照射している。つまりその事例にも見られるように わたしとぶつかる投稿者は わたしの文章を読んで それを鏡としてのように自分の姿を映す。それをわたしの姿だと勘違いして その言わばみにくさをなじり立てる。すべて 自己投影だということを示したもの。  ★ 実はキミがベンヤミンをあらかじめよく読んでいたのであって、とやかく言われたくないということなら、話の脈絡がわかるけれど、違うでしょ。  ☆ コンステラツィオンくらいなら知ってますよ。あと ピレネーの山の中でけっきょくアメリカへの亡命を果たさずに 自殺したということも。    ★ ~~~~~  鏡って、キミはやたら、他人の回答を引用したがるからねぇ。それでキミがやっていることと言えば、他人の投稿を分析して、言った相手も自覚しないことをほじくり出している、ということなんだよね。誰も頼んでないから、キミは嫌われるばかりみたいだけれど。  ~~~~~~~  ☆ はっはっはあ。これは ひとえに日本の復興のためです。やめません。  ★ 相手の主体に同調して鏡になる〔ことを優先したから・・・〕  ☆ これは 認識不足か もしくは識見の弱さである。《鏡になる》ことには何の努力も要らない。相手が勝手にそういう仕儀に落ち入る。ただしそのあと ミラーニューロンがはたらくのは こちらにも起きる。  それによって  ▲ すべての人に対して すべてに成りました。すべての人を得るためです。  ☆ という成り行きが結果として起きる。特にそのための努力ということをしているわけではない。文章を二度は読んで 読み解くというのは 本を読む場合にも当てはまるから 人を相手にする場合を特別視することもない。    ★ 相手の期待にこたえる形で、トリックスターみたいな役回りを押し付けられる(あるいは、勝手にキミが引き受けてしまう)。その結果、悪気がないのに、マッチポンプみたいなことになってしまう。  ☆ このくだりは おおむね当たっている。事実であろう。問題は ない。つまりその相手は 実際に怒っているのであるが そのいきさつや原因あるいは全体の事情などなどについて 本心では分かっているから。腹の虫がおさまらないというのみ。だからこちらに向けて 怒りがおさまるまで その意識を排泄しようとしつづける。アース役に成ってやらねばならない。  ★ だから、いざという時に、説明が支離滅裂になってしまう。  ☆ 勘違いの場合を別として わたしが支離滅裂な文章を書いたことはない。  ★ やたらと長いことをくどくど書き散らす。  ☆ わざとである。違った文体によって 何度でも相手を振り向かせる。そのために。  ★ (事実、キミの元から人が去って行ったんでしょう?)。  ☆ もともと わたしの元には人はいなかった。  ★ 子供によくあるんだけれど、キミの歳なら、精神的な病だね。ラカンのいう鏡像段階の発育が上手くいかなかったのだろうね。鏡とか、鐘と言っても、ちょっと気の毒。からかってるんじゃなくて。  ☆ ここは あんたの自己投影。ぴったんこかんかん。  やはりわれは鏡であったわい。たぶん何かナゾの別のちからがはたらいているのぢゃないかなぁ。

noname#145872
noname#145872
回答No.7

同じことを言ってあげようか? あっかんべーと先に行ったのはキミの方でしょう。投稿者を侮辱しないことには、決着を見たと思えないのが、キミの救い難い性質なんだよ。私の勝ち、と返すことで、私はそれをからかったの。だって、不愉快だからね。 キミだけが特権的に放言できるわけじゃない。キミが放言すると、放言し変えされるの。わかったかな。他人にやっても何とも思っていないが、自分がやられると過剰反応するんだから、キミって人に嫌われる性格かもね。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  前にも書いたが わたしの設問の仕方や質疑応答の遣り方を称して 自作自演のマッチポンプだと言った人がいた。  ひとつに わたしはつねに〔と言っていいほど〕 質問にはたたき台を出します。  したがってこのたたき台は もしその内容が 答えを構成するようになれば すでに初めにポンプを明示的に用意しているということです。  言いかえると それも言うなら マッチポンプではなく ポンプ・マッチの方式であると。    質問者が 問う者となり司会者のごとくなりまた回答の是非などについて――それなりに――判断する者ともなるという意味で 自作自演であるのは あたりまえ。  つまりは人びとは 自分の受け取り方――すなわち ぶらじゅろんぬ評――が それぞれ自分の心や知解の度合いなどを投影している。ただそれだけのこと。  わたしは 鐘です。撞木による撞き方によって どうなりとひびきます。ただそれだけ。  また わたしは 鏡であるようです。人は自分の姿をそこに見る。ただそれだけのこと。  ★ 放言  ☆ とは こういうふうに言うものですよ。

bragelonne
質問者

補足

 これから いくらかの時間 失敬するよ。

noname#145872
noname#145872
回答No.6

本さえ手にとれないくらい疑い深い人間が、私の言うことを信頼するわけないじゃないの。無駄は嫌ですよ、ってことを指摘しただけなんだがねぇ。 ところが、今度は、私が説明をそもそもできないんじゃないか?って疑っているわけだ。面白いくらいに疑り深い人だねぇ。次々と疑いを思いつく。しかし、こういう人とは、そもそも対話が成立しないかもしれないね。だから、「信じる」ことについて見開かせてくれる書籍を読みたいということか。 キミの問いの意義はよくわかりましたよ。キミはどうも病んでいるらしい。残念ながら、ベンヤミンはキミの迷える心を救えないでしょうよ。彼も疑り深い性格だったかもしれないけれど、誰かを啓蒙する気はさらさらない人だから。みんなが知っていることを、角度を変えて検討し、見過ごされていた旨みを見つけるのが彼の論考の特徴といえるね。キミみたいに救いを求める人は、あまりお呼びじゃないと思う。 >あっかんべえーーーーっ。 逃げるが勝ちってことだね。じゃ、私のロジックの勝ちってことで。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。    勝ちも負けもないはずなのに――つまりは 人がおそわるというのは あくまで〔ほかのおしえる人を介してであっても〕自分の理解においてであるしかないというのに―― わざわざ  ★ じゃ、私のロジックの勝ちってことで。  ☆ と表明しないことには 対話が結着を見たとは言えないのかねぇ。  わたしは  ★ 逃げるが勝ちってことだね。  ☆ とも言っていない。おしえる気があるか無いか? ただこれだけ。無いのに 無理に引き留めることは出来なかろう。

noname#145872
noname#145872
回答No.5

手間を惜しむって批判してるけれど、当たり前じゃないの。だって、キミ、私のことを信用する理由について何も答えてないじゃん。疑り深い君が私の言うことを信頼する理由ってあるのかな。無いでしょ? しかも、キミの書いたものを大量に読めっていうわけだ。嫌だよ、そんなの。これは学問と関係なくて、要するにキミがむちゃくちゃ言っているの。グダグダ言ってないで、本を読みなさいよ。私が言いたいのはそれだけ。それだけのことを言うのにここまで付き合ってあげたんだから、ありがたく思いなさい。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ だって、キミ、私のことを信用する理由について何も答えてないじゃん。  ☆ ここは まづ初めに回答者の信用度やその書く文章についての信憑性をたしかめてから やり取りが始まるとお考えでしょうか?  そんな厄介なことをしなくても 書いた文章をふたつみっつ読めばだいたい分かりますよ。  あるいはまだまだ分からないというときにも そもそも疑問がおきればそれについてどちら側からでも 互いに尋ね返し合えばよろしい。ただそれだけのことです。  まぁ よく受け取れば だまされたと思っていちど読んでみたまえ。とでもいうところでしょうか。  あっかんべえーーーーっ。(理由はすでに書いた)。

noname#145872
noname#145872
回答No.4

説明が十分でないから、気にくわないのではない。本を開かないのに、学問に関心があるというスタンスで判断を口にすることが愚かしい、と私は指摘したのだ。手厳しいと言っているが、まったく当たり前ではないかね? そしてキミの説明で明らかになったことを集約すると、キミは要するに、今までキミが把握してきたことを、投稿者が知った上で、キミと比べてベンヤミンが更に新しいことだとか、深いことを言っているかもしれない――と言ってくれと求めているように思える。 今村も徳永もキミのことを知らないから、キミを説得することができない。しかし、ここの投稿者なら、暇を持て余しているかもしれないから、キミの過去のログを読んで、分析し、あれこれ言ってくれるかもしれないと期待しているというわけだ。 私はその気がないと最初に言っておく。というのも、そこまでキミに関心がないからだ。まったくの老婆心でいうが、投稿者は、キミのお母さんや、世話女房じゃないんだよ。歳を食ったのに、そんなこともわからんのかい? 私がここに投稿したのは、呆れたという動機が主たるものだが、その確信をますます深めた。手間を惜しむという時点で学問として話にならないのはすでに指摘した通りだが、社会人としても、どうなのかね。お口をあーんして、そこに噛み砕いた食物を流し込んでください、ってのは、雛がやることだろう。恥を知りなさいと最初に私が言ったのは、この意味だ。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは それでもご投稿に感謝もうしあげておきます。  ★ 手間を惜しむという時点で学問として話にならないのはすでに指摘した通りだが、  ☆ つまりは そのベンヤミンのさわりなりとも おしえない。その手間を惜しむ。ということのようです。  学問の世界には自分はいない。こうおっしゃっていると理解しました。ただ質問の仕方に興味を抱いて ちょっとからかってみたのさと。  これでひとつのご回答ですから ありがたく承っておきます。  ということになります。

noname#145872
noname#145872
回答No.3

もう一度読み返せとキミは私に言う。しかし、私に何についての理解を求めているのかね? まさか、酸っぱいブドウを避けるのは、人として、当然のことではないか?おまえも同じだろうに?などと同意を求めているのかね。だとすれば、キミは哲学や思想の重要な本質を、何にもわかっていないということを自ら言っているようなものだ。 というのも、思想の類は、論証できるものではない。同意できない思えば、それだけのことだ。酸っぱいブドウでも食ってみよう、食ってから吟味しようと思わないと、探究は始まらん。疑った時、キミの探究は終わっているのだ。 私は奇妙だと思うが、キミは信じるとは何かをベンヤミンを読んで知りたいなどと書いている。が、本をめくるのさえためらうほど疑い深いのは異常なことだ。たかが本だ。ベンヤミンと結婚せよとはだれもいっていないし、キミもそんな気はないだろう。尻の穴が小さいという言葉があるが、私はこれを思い浮かべた。それとも、哲学云々の前に、信じるということについて、勉強が必要なのかね? 私はキミの態度がまず気に入らん。キミは本さえめくれないほど、疑り深い人間らしい。それでも、キミは徳永が信頼できると言っている。それなら、それでもう十分じゃないかね。見知らぬ私だとか、他の連中の解説を、徳永以上に信頼する理由などどこにもないのではないかね?

bragelonne
質問者

お礼

 これはなかなか手厳しいようです。  ご回答をありがとうございます。  これは 一にも二にも たしかにおっしゃるようにわたしがベンヤミンの著書をひもとこうとしないことより起こっている問題であることに間違いありません。  ですから その躊躇――もしくは食わず嫌い――の理由として述べたところが 十分でなく気に食わないというところでしょうか あなたの言い分は?  そうですね。  ひとつに こういう説明をしてみます。  徳永の解説ないしあたらしい思想を目指しての読み解き これが わたしの食指を動かしたけれど 最後まで動かすことはなかった。むろんその判断は その当否にかんして・つまり責めに任ずるのも わたしにあります。  あるいはひとつに:  かつて今村仁司の紹介記事を読んだとき 食指が動くことさえなかったのでした。その影響があって 言わばベンヤミンの可能性に賭けてみてさあ読んでみようかというまでには到らなかった。だから ここで くわしい方に 横着にも さわりだけでもおそわろうかという魂胆になっています。  あるいはもうひとつに:  そこまでベンヤミンを薦めるということでしたら 確かにその推薦者本人がそのさわりを披露してくださってもよいはずだ。こういう色眼鏡で見ている思いがあります。  ★ 私は奇妙だと思うが、キミは信じるとは何かをベンヤミンを読んで知りたいなどと書いている。  ☆ これはですね。すでに趣旨説明欄に わたしは上から目線になっていると書いていますが この《信じるとは何か》については 一定の答えを得ているということです。  【Q:《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6729443.html  ですから それ以上の中身が欲しい。こういう意味です。  ですから 徳永を信頼していますし 今村をももっと信頼していますが それでも ちょっとやそっとでは 踊りの輪にくわわろうとするには腰がまだ重い。勝手な言い分ですが 事情としては そういう話になっています。そしてそれだけのことです。  あなたに答えがありますか? このようなお願いは勝手すぎますか?

noname#145872
noname#145872
回答No.2

手の届かない高みの果実を指さして、「あのブドウは酸っぱいに違いない。食べない方が賢い」とほざくキツネの如し。老人よ、老婆心ながらいってあげよう。恥を知りなさい。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  質問の趣旨説明をもう一度読み返してみてください。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~  食指が動きかけましたが まだ止まっています。  くわしい方で おもしろいとお考えでしたら 少しくお話をお聞かせ願いますか?  ☆☆(同上) ~~~~~~~~~~  構図はおもしろそうなのですが――《信じるとは何か・ヒラメキとは?・美とは?など》に通じるように感じますが―― その徳永の小論をつうじてこれといった中身はつかめませんでした。何かありますか?  ☆☆(同上) ~~~~~~~~~~  たぶんだめだろう(つまり 中身はあまり詰まっていなかろう)と上から目線で見てしまっていますが ひょっとして何かありましたら おしえてください。という横着な問いですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ サワー・グレイプス  ☆ に落ち入るというような不明をかこってしまったというあやまちの起こらないように 念には念を入れ こうやって質問をあげています。  紹介者の徳永恂には 信頼をおいてもよいと思っていますので その紹介の小論――ですが――に答えがなかった(わたしが見つけ得なかった)ということは 一面で高をくくっていてもよいと思うところがこちらにもあるということです。  恥ぢをかかないようにしたいので もし精通しておられたなら おしえてください。  回答No.1へのお礼欄を見てもらえばかんたんなことですが それでもご返答として重ねてかかげます。すなわち 《食指が動いた》というのはどういうことか その中身の説明になります。  ☆☆(回答No.1お礼欄) ~~~~   たとえば  ▲(徳永) 〔* ベンヤミンの提起する〕道は こういう相反する禁令の間を 《表現における隠れと現われ》 《歴史における超越と内在》とが交錯し浮沈する狭い道を とおっている。  ☆ ということでしたら けっきょく――《狭い道》に終わらせずに―― 《表現における隠れ》の部分あるいは《歴史における超越》の領域 あるいはつまり《神学》のことがらとしては すべてそのナゾの領域を《想定する》という前提において話を始め どこまでもそのようにすすめればよい。こう考えます。  神は 想定である。このように出発すればよいと。  (経験科学からすれば そのような非経験の領域を持ち出すことは つつしまねばならないのであるが ひとつの方法としては その非経験をも経験世界から想定するかぎりで その想定においては経験行為に属するという建て前になります。  早い話が 非経験のナゾを心に抱く信仰は 行為としては経験存在である人間の経験行為ですから いまの《想定》が そのままむしろ現実となっています)。  これが ひとつの方法だと考えます。つまりは 徳永の理解するベンヤミンの萌芽としての方法の具体的な応用例として考えます。  ところが ベンヤミンは この萌芽としての概略図からさらにはあたらしい展開を得ていないのですね? すみません。勝手な憶測をまじえた勝手な問いになってしまっています。  ~~~~~~~~~~~~

  • Eririka
  • ベストアンサー率33% (2/6)
回答No.1

概略図では分かり難い、という可能性は有り得るでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 そうなんですよね。概略図では分かり難い。  えりりかさん ご回答をありがとうございます。  たとえば  ▲(徳永) 〔* ベンヤミンの提起する〕道は こういう相反する禁令の間を 《表現における隠れと現われ》 《歴史における超越と内在》とが交錯し浮沈する狭い道を とおっている。  ☆ ということでしたら けっきょく――《狭い道》に終わらせずに―― 《表現における隠れ》の部分あるいは《歴史における超越》の領域 あるいはつまり《神学》のことがらとしては すべてそのナゾの領域を《想定する》という前提において話を始め どこまでもそのようにすすめればよい。こう考えます。  神は 想定である。このように出発すればよいと。  (経験科学からすれば そのような非経験の領域を持ち出すことは つつしまねばならないのであるが ひとつの方法としては その非経験をも経験世界から想定するかぎりで その想定においては経験行為に属するという建て前になります。  早い話が 非経験のナゾを心に抱く信仰は 行為としては経験存在である人間の経験行為ですから いまの《想定》が そのままむしろ現実となっています)。  これが ひとつの方法だと考えます。つまりは 徳永の理解するベンヤミンの萌芽としての方法の具体的な応用例として考えます。  ところが ベンヤミンは この萌芽としての概略図からさらにはあたらしい展開を得ていないのですね? すみません。勝手な憶測をまじえた勝手な問いになってしまっています。  いづれにしましても ありがとうございました。

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