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未開人たちは、モーツァルトを聴いて感動しますか?

「未開」と言う言葉自体が、 そもそも文明社会の驕りでもあり、 何が「未開」で、何が「文明」か という問題もあると思いますが、 そこはあえて目をつぶって、 イメージとしては、やはり、 アフリカの奥地に住む裸族的な人たちで、 およそ西洋文明に触れる機会のない、 古典的な意味での「未開人」が、 モーツァルトやベートーベンやバッハといった、 いわゆる「天才」の音楽を聴いて、 ああ、美しいと感動するものでしょうか? 多分、そんな実験はないでしょうから、 予想でもかまわないんですが・・・。 よろしくお願いします。

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  • ベストアンサー
  • sanori
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回答No.7

【引用始点】 「解説をしてあげる」ことで「感動を助長する」 ということですが、それはひょっとして、 「これは感動するべきものなのだ」と 暗に「教育」することにはならないものでしょうか? 【引用終点】 というご感想をいただいたんで、今日、頭の隅で何となく考えていました。 そしたら、私なりの色々な考察が頭の中を駆け巡りました。 長文になりそうですが、書いてみますね。 だいぶ音楽路線から外れてきますが、こんな例を考察するのはいかがでしょう? 結論を出すのは難しいし、人によっても考え方が違うのは当然だと思います。それも承知の上で。 川端康成の小説の中の一節を朗読したとして、それを日本語を聞き取れない聴衆に聞かせたとします。 だいたひかる風に言うと「感動できる確率3パーセント」ぐらいかな? ゼロパーセントでないと考える理由: いい文章であるか否かは、声に出して読んでみればわかる・・・これは「日本語であそぼ」の企画者である明大の先生が言っていたことです。今思えば、なるほどと思います。このことからも類推するに、発音、抑揚、スピード、はたまた朗読者の表情といった表現によって感動してしまうような感受性の高い人も、中にはいるのではないかと思うんですね。 いかがですか? 当然ですが、日本語を教える人(=解説者)が解説とか教育をすれば、「感動できる確率40%」ぐらいに向上しそうな気がします。 さて、 実は、私自身はモーツァルトの音楽は、一部を除いて、あまり好みではありません。 12音律の各音程を、ひらがなの各文字に例えたとすると、モーツァルトの音楽って大概、いわば、あいうえお表とか、いろはにほへと に相当するような気がするんですね。結構整然と、時には極めて規則正しく文字(音符)が並んでいる印象です。 そう考えているせいなのかどうか、私は、モーツァルトの音楽ではあまり感動できません。(未開人以下?) だけど、バッハには感動します。これについても自分自身で考えましたが、自分でも全然説明がつきません。 もしかしたらコード進行が、知らず知らずのうちに私の好みなのかもしれません。 それとは逆の話。 プリンスの「パープルレイン」っていう曲がありますね。 私は、その早口の英語の歌詞をほとんど聞き取れないんですが、なぜか「歌詞」も含めて感動してしまうんですよ。あまりに聞き入ると、目に涙が浮かぶことさえあります。 これは言語を理解しなくても言語表現に感動はできる、ということなんではないでしょうか? (だいたひかる風に言うと「私だけ?」) 音楽と言語表現には、相通ずる要素と、そうでない要素の両方がありそうですね。私自身は前者のほうが割合的には、むしろ多いのではないかと勝手に考えます。 あと、余談気味というか発散気味ですが、 「音楽の理解」の要素には、「映像」もありそうですね。 なぜかというと、交響曲にしろロックにしろ、その他の音楽にしろ、使われている楽器を演奏した経験のある人、演奏する様子を見たことのある人であれば、DVDなんかでなくても、その演奏の様子がまぶたの裏に浮かんできて、楽器を見たことのない人とはレベルが違う臨場感(ライブ)みたいな感動を味わうことができると思うんですね。 さらに絶対音感がある人であれば、その楽器がその音程や音量を出しているときに、演奏者の顔や手や体がどういう姿になっているかまで想像できるでしょうね。(手前味噌ですが、私も、わりと、そういうタイプです。) さらに脱線します。この話が最後。 解説者(教育者)が意図的に聴衆を洗脳すれば、かなりの確率で、聴衆は、解説者(教育者)の思うがままに感動してしまうでしょうね。 極端な例ですが、 某指導者の姿を見ると某民衆が一斉に感動して、中には涙する人もいる、という国家がありますよね。 泥棒たけだけしく、我が国のことを「拉致国家」呼ばわりした、我が国からそんなに遠くないところに位置する某国ですね。 このように人の「感動力」(?)のベクトルを、一律に一定方向に仕向けるというのは、あまりしてはいけないこと、というか一言で言えば明らかに「ゆきすぎ」ですよね。 まー解説者ではなくてアーティスト自身には、聴衆の感動力のベクトルを自分に向ける力は備わっている方がいいとは思いますが。 以上、長文の雑談でした。 失礼しました。おやすみなさい。 P.S. ご質問のおかげで、私自身の頭の中が豊かになったような気がします。逆感謝です。

noname#6938
質問者

お礼

人を一個の生物としてみた場合、 ある一定の種の音や色などに 快不快を感じることは、 決して不思議なことではないと思います。 たとえば、それは生物としての生命を危うくするような 音(曇りガラスを引っかいたような音?)や 色(炎をイメージさせる赤?)を 不快と感じる意識が、 人の脳にあらかじめプログラムされていても 不思議ではないでしょう。 逆に、鳥の鳴き声に多くの人が心を和ませたり、 女性の甘い声に男性がうっとりするのは、 もちろん偶然ではないはずです。 そして、おそらくクラシカルな西洋音楽の基本姿勢は、 そういう、人間が生来的に美と感じる音が自然に存在することを前提に、 美の創造を目指している面がなきにしもあらずだと思います。 もちろん、それを意図的に裏切ったりする作曲家もいるでしょうが。 もし、そうした人間が生来的に持っている、 美の音が確かにあるのなら、 そしてそれが、民族的な背景や、民族的な価値観を超えて、 人間一般にとっての「美の音」であるのなら、 未開人にとっても、それは美しいことになるかもしれません。 話は飛びますが、 sanoriさんの言う「ロック」。 それが初めて世に出たときには、 おそらくたいへんな騒ぎだったことは想像に難くありません。 ――「な、なんだ!このやかましい雑音は!?」 みんな未開人だったわけです。 (蛇足ですが私の父は今日でも未開人です。) しかし、そのなかで、その雑音に共感し、 衝撃的に心を奪われた人もいたんですね。 ロックという音楽形態が普及し、スタイルを確立し、 歴史になった今日では、sanoriさんのように認める文明人が出てきたわけです。 そして、ここで面白い想像なのですが、 たとえば、ベートーベンが初めて名曲「運命」を世に披露したとき、 (ジャジャジャ、ジャーン!) ――「な、なんだ!この型破りなハレンチな音は!?」 という当時の聴衆の反応を想像してみるわけです。 ところが、今日の私たちは、ベートーベンを天才と認める文明人になりました。 この未開人から文明人への転換に、 いったい何が起こったのか?(あるいは行われたのか?) すごく興味がわきます。 sanoriさんのご回答、興味深く読ませていただきました。 ありがとうございました。

その他の回答 (8)

  • sanori
  • ベストアンサー率48% (5664/11798)
回答No.9

またお邪魔します。またひとつ思い出しました。 今度は、そんなに長文じゃないです(笑) NHKで毎年1回ぐらい(?)放映している「詩のボクシング」っていう番組があります。 ボクシングのリングに見立てたステージ上で、2名の選手が、それぞれ自作の詩の朗読をして、その結果、観客の人気が高かった方が勝ち上がる、っていうトーナメントです。 いつだかの回で、言葉を全くしゃべらないで、声とか口とかで音を出して現代音楽風に演じていた人が、ついに準決勝ぐらいまで勝ち上がってしまいました。 文学ファンって現代音楽にも感動できるんですね! ということで、私の推論(演繹)は、 未開人だって、クラシック音楽を1回か複数回聴けば、少なくとも何人かは感動できる可能性があるのでは? ということです。

noname#6938
質問者

お礼

詩のボクシング、何度かちらりと見たことあります。 面白い試みですね。 外国語学科をもつ大学ではしばしば、 外国文学の朗読会をするのですよ。 たとえばフランス詩の朗読会。 鑑賞しにくる人はもちろん、 フランス語が分かる人がほとんどなのですが、 不思議なことに、フランス語ぜんぜん分からない人も、 招待されたりします。 (もちろん、私などは何をいっているか さっぱりなので、退屈であくびが出ます。) しかし、招待する側にはちゃんと自負があって、 フランス語のもつ美しい音や 感情表現を楽しんでくださいってわけです。 もちろん、詩の音楽的側面を楽しむことも可能ですが。 そうでなくても、 中国語なんていうのは、音の抑揚に決まりがあり、 聞いているだけでもそれなりに楽しめます。 「言葉」といっても、もとをたどれば、 意思や感情をストレートに外部に出しあらわした 不器用な「音」だったでしょうから、 たとえ言語的としての意味を知らなくても、 人間の潜在意識の深いところで、 何か伝わるものがあるのかもしれません。 その方の作品の意図はもちろんわかりませんが、 理性では着飾らない、 言葉そのものの本質的な姿を、 表現しようとしたのかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。

  • kitanoms
  • ベストアンサー率30% (140/454)
回答No.8

 武智鉄二氏の「伝統芸術とは何なのか」という本に、武智さんが家でベートーヴェンのレコードをかけて聴いていると、お母さんが頭がくらくらして失神してしまうという話が出てきます。古い日本人には、西洋音楽は感動どころか騒音以下のものだったりもしたんですね。  音楽は、言葉と違って通訳なしで直接受けとめることができます。それを「音楽の普遍性」とか「音楽は万国共通の言葉」だとか言うのでしょう。しかし、音楽の中身を理解することは、それぞれの文化的な背景と切り離すことはできないものです。最近は、かつて「民族音楽」と呼んでいたものを「世界音楽=ワールドミュージックス」という言い方で、複数形で考えるようになってきています。もちろん、その場合バッハやベートーヴェンは「ドイツの音楽」です。  アフリカの人々も、学習の成果としてモーツァルトに感動するようになっているでしょうが、質問者の言う「未開」の状態であれば、感動するということはほとんどないのではないでしょうか。 

noname#6938
質問者

お礼

なるほど、ワールドミュージックスという言葉があるのですね。 もちろん、ドイツにはドイツ本来の 伝統民族音楽があるのでしょうし、 バッハやベートーベンの音楽が、 まったく新しければ新しいほど、 初めて聴く人の衝撃は大きかったでしょうけれど。 音楽からは少し離れますが、 すごく意地悪な想像をしてみました。 もし、歴史のいたずらで、 (歴史に「もし」はだめと言ったのはだれだったか?) アフリカ大陸で最初の産業革命が起こり、 アフリカ列強国の軍事力と資本力が 当時の世界を席巻していたら、 アフリカ大陸から、アフリカ的な 「普遍の音楽」が生まれていたりして。 そのときもやはり、「西洋の未開人」は、 彼らの音楽に対して、即座には、 感動はできないのかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。

noname#7978
noname#7978
回答No.6

生まれたときからアフリカに住み、その文化に馴染んで、自国の民族音楽が生活の一部となっている人々に突然、西洋の音楽を聴かせても、理解できなくて、感動することもない、とアフリカの民族音楽の研究者に教わったことがあります。 人間は経験に基づいて良い、悪いを判断するみたいです。私は小さい頃からピアノを習い、モーツァルトを聴いて、ベートーヴェンを聴いて育ってきました。だからこんなに素晴らしいものはないと今でも思います。 現代音楽を考えてみるとおもしろいかもしれませんね。例えば、モーツァルトやベートーヴェンのような音楽にしか馴染んでいなかった人に、いきなり、床を蹴って音を出したり、新聞紙を叩きつけて音を出したり、ピアノを自分のヒジを使って、ドからドまでの音を黒鍵も含めて全て、思いっきりジャーンと叩きならして、それが音楽だと言われても、ただただショックを受けるだけで、こんなものは音楽ではない、音楽は楽しむもので、こんなメチャクチャでハチャメチャなものはない、と思って現代音楽を否定すると思います。私も最初はそうでした。でも、今は違います。 そういう音楽を何度も聴いて、親しみ、その音楽の価値を考え、真剣に向き合ったときに、ピアノを腕で叩きつけて音を出したりするような音楽や、シェーンベルク、武満徹、J.ケージ、ブーレーズ、クセナキスのような前衛音楽を聴いても、そこに喜びを感じるようになりました。それは、何度も繰り返し聴くことで、その音楽に馴染み、自分の経験となったからです。だから、現代音楽を音楽とも思わない人とか、拒否する人は、たいてい、一回聴いただけでその音楽を判断して、それが今まで馴染んできた自分の知っている音楽とは全然違っていたために、理解できなかっただけなのですよ。モーツァルトやベートーヴェンの時代とは違った時代の音楽なのだから、モーツァルトを聴く耳と同じ耳で、同じ聴き方で、現代音楽を聴いても理解できなくて当然かもしれませんね。 音楽に親しんでいる人は誰だって経験したことがあると思いますが、初めてドビュッシーやラヴェルの音楽を聴いたときや、スクリャービンの後期のピアノソナタを聴いたときに、最初は理解できなくて、馴染めなかったのに、いつしかその音楽に馴染み、今ではドビュッシーを聴くことになんの抵抗もないし、美しいと感じる、という経験。これは、最初は今までにそういう経験がなかったために理解できなくて分からなかっただけで、何度もその音楽を聴くことで馴染んで美しいと感じるようになった、ということです。 だから、アフリカの人たちにいきなりモーツァルトやベートーヴェンを聴かせても、今までにそういう音楽を聴いた経験がないため、最初は楽しいとも感じないし、これが音楽だと言っても受け入れないと思います。でも、何度も聴かせて、その音楽に馴染んでもらって、その人の経験の一部となった時には、絶対にその音楽の素晴らしさが分かってもらえると思います。 アフリカの人たちがモーツァルトやベートーヴェンの音楽を聴いても感動しないのは、私たちが初めて現代音楽を聴いて理解できなくて感動することもない、というのと同じことではないかな、。私は現代音楽(J.ケージ、ブーレーズ、シュトックハウゼン、クセナキス、ルトスワフスキ、その他、「今」生きている作曲家の音楽‘リンドベルイとか、ラッヘンマンとか、マクミランとか’がいます)にも感動するし、モーツァルトやベートーヴェン、ショパン、シューマン、ブラームス、ワーグナー、シェーンベルクのような音楽も大好きです。でも、最初から全ての音楽を美しいと思ったわけではありません。経験によってです。 ショパンが好きだ好きだという人は、おそらくどの作曲家よりもショパンを繰り返し何度も聴いてると思います。人って不思議なもので、何度も何度も繰り返しある一つの音楽を聴き続けると、その音楽に愛情を感じるようになり、より深く理解でき、大好きになるみたいですよ。だから、何か馴染めないなと感じた音楽があったら、自分には今までこういう音楽に出会った経験がなかったために理解できないだけなんだ、自分の音楽の世界をもっと広げるために、馴染めないと思った音楽でも何度も聴いてみて、理解できるようになろう、と思って、様々な音楽を聴いていくと、ある時ふと、何を好きと感じるのかは、自分にはどんな経験があるのかにつながる問題であることや、嫌いと感じることは、単にそういう経験がなかっただけなんだということとかに、気がつくのではないかと思います。 と、いろいんなことを書きましたが、質問内容と違っていたらごめんなさいね!

noname#6938
質問者

お礼

私も、lutowinnさんの仰るように、 繰り返し聴くことは非常に大事だと思います。 人は音楽を聴くとき、案外、聴き捨てている部分がたくさんあるもので、 反復して聴くことは、聴き捨てていた部分に改めて気付かせてくれたり、 以前聴いた意味とは、時には全く違った意味付けをもって 聴く事を可能にしてくれますね。 ところで、これについて、二つのまったく違った可能性を考えてみました。 一つは、本来的にその曲は普遍的な美を有していたのであるが、 当初はその美しさに気付かず、 何度も聴いているうちに、その曲が持つ先天的な美しさを、 やっと理解できるようになったということです。 (おそらく、lutowinnさんの仰られているのはそういうことだと思います。) 美はあくまで、その曲自体が潜在的に持っているもので、 聴く人は、その人の外側にある美を「理解」したのです。 そうならば、モーツァルトはまさしく美を現出する天才であり、 それを理解しない未開人は、救いようのない、低次元の人種・・・ というのは言い過ぎかもしれませんが(ああ、また問題発言^^;) とにかく美を解しない状態ということかもしれません。 反復によって「開眼」したわけです。 もう一つの可能性は、 反復して聴いているうちに、その曲が、 美しく「思えるようになった」という可能性です。 つまり価値観が変化。 その曲は決して普遍的に美しいというわけではなく、 聴く人の内に新たな美的価値観が生まれたのです。 言い換えれば、聴く人がその曲を美しいということに、 意識的にせよそうでないにせよ、「取り決めた」とも言えます。 ですから、もともとの価値観の違う未開人が聴いて、 前者と後者で、決定的に違うのは、 それとも、その曲そのものの側にあるのか、 そもそも「美」が、聴く人の側にあるのか、 ということだと思います。 もちろん、以上は、なんとも薄っぺらで単純な図式化された思索で、 本当に美を理解するというのは、 もっと高度な過程を持っているのかもしれませんが。 人間の頭の中(あるいは心の中?)は、 最初はからっぽで、反復による「教育」が、 「美」を「取り決めている」姿も少し考えるのです。 とても参考になりました。ご回答ありがとうございました。

noname#6938
質問者

補足

字数制限があり、相当な要約になっていました。読みにくかったらごめんさい。

  • cuda
  • ベストアンサー率0% (0/5)
回答No.5

真偽のほどはわかりませんが 坂本龍一氏がかつてそのような話をしていたことがあります。 モーツァルトを聴いても何とも思わないで なんだこれ?って感じでニヤニヤしてるそうです。 曖昧な記憶に基づいてますので参考になさらないでください。

noname#6938
質問者

お礼

坂本龍一も同じこと考えてたのかな? だとすると、ちょっとうれしいかも・・・。 参考にするなということですが、 興味深いご回答をありがとうございました。 実際、「なんだこれ?」が、 未開人の正直な感想かもしれませんね。 初めてクラシックを聴いた日本人が、 誰なのかは知りませんが、 やはり「なにこれ?」だったのかもしれません。

  • NonNon5
  • ベストアンサー率18% (123/660)
回答No.4

アフリカ文化の研究をしていた者です。 「未開人」とか「アフリカの奥地に住む裸族的な人」とか「文明」とか・・・正直言って、こういうことばで他の人を表現はどうかと思うだけでなく、それに目をつぶるとしても、この質問を見ていると、情報の偏りの恐さを感じます。 あえて言わせてもらうと、アフリカの奥地に住む人々でも、その人たちは、何らかのかたちで、他の人たちとの交流があります。100%自給自足で他の集団とは、全く交流がないということはほぼないのです。だから、あなたの言う西洋文明(というのがどこまでをさすのかかなり疑問がありますが)に全く触れたことのない人というのもほぼないと思います。 各地で異なりますが、伝統的なものは、ア・カベラで歌うものも多いですし、楽器はリズム楽器のものが豊富ですし、もちろん音階のある弦楽器、シロフォン系のものもあります。ア・カペラで歌うのがとても上手な人が多いですよ。学校で勉強しなくても、音楽に対しての感性は十分に磨かれていること多いと思います。 ただ、あなたのお好みの天才、モーツァルトやベートーベンやバッハに感動するかどうか・・演奏にもよるでしょうしね。どうなんでしょうね。多分、あなたが対象にしたい人たちは、感動する人もいれば、しない人もいる・・・ 私自身、クラシックって子どものころから聴かされていますが、演奏によっては、退屈なことも多いですもんね。

noname#6938
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 ご回答前半のご批判については、 一言一言ごもっともです。 しかし、本人はそれを痛く知った上で、 あえて質問していますので、ご勘弁ください。 ちなみに私の「お好み」はクラシックというわけではありません。 NonNon5さんの場合、 どうして子供のときからクラシックって聞かされてきたんですか? どうして子供のときに世界各国の民族音楽は聴いてこなかったのでしょうか? ひとつは当時は流通していないというのがありますよね。 しかしそれ以外にも何か理由があったのでは? たとえば、日本の音楽の授業で聴く音楽は、 (最近は変わってきたとはいえ、)やはり、 クラシックが主ですよね? ちなみに私が小学生の時の音楽室には、 西洋音楽の天才たちの肖像画が、 ずらーっと並んでいましたが、 未開人の音楽家の写真は一枚もありませんでした。

  • coco1
  • ベストアンサー率25% (323/1260)
回答No.3

全く確証はありませんけど、テーマがおもしろいのでしゃしゃり出てきました。 例えば日本人でも、年齢によって感動する音楽が違いますよね? 若い頃はばりばりのロッカーだった人が、年を取ったら演歌一筋になったり。 となると、どういった音楽に感動するのか、というのは、人生経験や学習によるところが多そうだ、といえそうです。 一方、和太鼓の音などは、あらゆる年齢層に対して不快を与えない音、といえるかもしれません。 赤ん坊は、和太鼓の音がどんどこ鳴っているそばでも平気ですやすや眠るそうですし、私も好きな和太鼓奏者の演奏を聴いていると、感動しつつも、不謹慎にも眠くなってしまいます。祭りで、太鼓の音を聞いたらウキウキするって人も多いと思います。 楽器の音や、リズムには、人間のある種の脳波にシンクロして快感を呼び起こす作用があるのだそうですけど、未開人にも打楽器はあるみたいですから、その意味で、打楽器の音というのは全世界共通の「感動のトリガー」かもしれません。 それに比べて、オーケストラの音というのは打楽器に比べると人工的な要素が多い(ように思う)ので、打楽器ほどの普遍性はないのでは。 となると、打楽器主体の音楽では、未開人も感動するかもしれませんけど、それ以外の音楽では、好みによる、としか言えないのではないでしょうか。 でも、牛にモーツァルトを聴かせたら良く乳を出す、って話を聞きますから、モーツァルトに限っては感動されるかも。(この話って、牛だから「モー」ツァルト、っていうスポーツ新聞レベルのオチじゃないですよね?)

noname#6938
質問者

お礼

よく外国に行くと、 日本人の和太鼓の乱れ打ちを披露していますよね。 外国人は物珍しそうに聞いている姿が、 日本人の自尊心をこちょこちょとくすぐります。 一方で、これは本で読んだ話なのですが、 ある外国人(恐らく西洋人)に、三味線の音を聞かせて、 日本の音楽のすばらしさを切々と説いたらば、 返ってきた誉め言葉はすごいものでした。 「後天的な美しさですね。」だそうです。 これはいろんな意味をもつ発言だと思うのです。 確かに、西洋人に限らず、 外国人に日本の音楽を聞かせても、 「物珍しさ」や「エキゾチックさ」(う、変な日本語。まいいか)に触発されて、 感銘は受けるかもしれませんけど、 彼らにしてみれば、それはやはり「民族音楽」なのだろうと思います。 裏を返せば、「先天的な美しいもの」があり、 恐らくはそれが、「西洋音楽」なのでしょう。 つまり、coco1さんの言葉を借りれば、 西洋音楽こそが「普遍性」の音楽なのでしょう。 これは、ある意味、西洋人の傲慢とも取れますし、 一方で、案外私たちはそれをどこかしらで認めちゃってる部分も、 あるんじゃないかなと思うのです。 著名なクラシックコンサートに出かけるときには、 まるで教会の礼拝にでも出かけるような、 「特別な日」でもあるかのように どういうわけか正装しちゃってます。 クラシックレコードを持っていると 「お、硬いね」といわれますが、 民族音楽集のCDを持っていても、 「へえ、面白そうだね」とくるかもしれません。 しかし、そもそも音楽の普遍性って何でしょうか? ご回答ありがとうございました。

回答No.2

感動しないかもしれませんね。 理由) ameno_oshioさんの想定されるような方々の“音楽”は、旋律や和音よりリズム感が重視されている...ようなイメージがあります。 普段、旋律や和音が重視された音感豊かな音楽を聴かれていない方には、その音感の豊かさが分からないと思います。 例えとして分かりにくいかもしれませんが、マイナーとメジャーの違いもあまり良く分からない人が、ブルーノートとか、より複雑なスケールの音楽を聴いても、音感の豊かさ、違いを理解できないのと同じだと思います。 一方、未開人(やはりこの言い方、ちょっと抵抗ありますね...)の方からすると、モーツァルトなどの音楽は、リズム感に物足りなさを感じるかもしてません。リズム感に関しては、未開人の方々の音楽のほうが豊か(に私は思うのですが)でしょうからね。

noname#6938
質問者

お礼

確かに民族音楽というと、 視野の狭い私などは即座に、 「打楽器」を思い浮かべてしまいます。 neko-darakeさんのご回答で面白いのは、 未開人の音楽と、モーツァルトを、 それぞれの特徴を持った同じ地平の上で 考えておられるところだと思います。 そうすると、モーツァルトももしかしたら、 「クラシックという民族音楽」なのかも? 未開の地には、 「素っ裸のモーツァルト」がいるかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。

  • sanori
  • ベストアンサー率48% (5664/11798)
回答No.1

私は、音楽や美術の専門家ではないし、固有名詞にも疎いです。 でも、例えば自分の「好き」なもの、「不思議な」もの、あるいは逆に、とても「残酷」「グロテスク」なものには感動しますね。 見たこともないもの、聞いたことがないものを初めて体験したときに、感動するケースのほうが、むしろ多いですね。 要するに、「感動」っていうのは、理解できる・できないの話ではなくて、「好き」とか「心を動かされた」とかの種々の反応のことを言うのではないでしょうか? ちなみに私の場合は、ですが、プロの音楽家や画家に対しても、専門知識を交えないで堂々と感想を言ったり論争したりしますよ。まー失礼にあたる場合も多々あるんでしょうけど、真剣に素直に反応してくれるケースの方が多いですね。 逆に、各国の原住民の音楽に感動することもありますし。 なお、解説者による解説が感動を助長する効果についても、もちろん否定しません。未開人にも解説をしてあげると、感動する程度とか人数が増えるでしょうね。 皆さんのご意見は?

noname#6938
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 今まで耳にもしたことがないような音楽を聴くと、 「おや、これは・・・」と興味をそそられること、 確かによくありますよね。 特に民族音楽なんていうのは。 sanoriさんのご回答で、面白く感じたのは、 「見たことないもの」「聞いたことないもの」が、 「不思議」「残酷」「グロテスク」という負の言葉を 自然に引き出しているところだと思います。 クラシックを生まれて初めて聞く「未開人」は、 クラシックを、「不思議」「残酷」「グロテスク」と 感じるものなのでしょうか・・・と思ったりします。 「解説をしてあげる」ことで「感動を助長する」 ということですが、それはひょっとして、 「これは感動するべきものなのだ」と 暗に「教育」することにはならないものでしょうか?

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