神と悪魔の争い、主人公が立ち向かう物語
- ファンタジー要素を含む大国同士の争いを描いた物語です。A国とB国はお互いを敵視し、それぞれ神や邪神の存在に従って戦争をしています。
- 主人公はA国でもB国でもない立場の人間で、ある出来事をきっかけに自身の国の神(邪神)が人間を滅ぼそうとしていると気づきます。
- 主人公は同志を集め、神(邪神)に立ち向かう決意を固めます。彼らは紆余曲折の末に神(邪神)との壮絶な戦いに挑みます。
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うろ覚えで申しわけありませんが教えて下さい。
ファンタジー要素の強いシナリオだったハズで、お互いが敵視している大国同士の話だったと思います。 仮にA国、B国として、A国は国王の上に天使だったか神?が存在して君臨しており、「B国を倒せ!」との御言葉のままに全国民が一致団結してB国と戦争をしていました。 またB国は悪魔だったか邪神?がいて「A国を倒せ!」との御言葉が・・・ こんな感じで長年お互いが争っており、主人公はA国でもB国でもない立場の人間だったと思います。主人公は大変な紆余曲折を経て、それぞれお互いの国王か幹部にそれぞれのお互いの崇拝している「何か」を見せたら「これは我らの神(邪神)ではないか?何を言っているのだ?」との返答が来て愕然とします。「神(邪神)は自分達人間を滅びに導いている!」との確信を経て、同士を集め、いざ神(邪神)に立ち向かう!の様な感じだったと思います。 このような話の小説か漫画だったかも覚えていないのですが・・・解る方、何卒お願いいたします。
- zunda-zunda
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質問者が選んだベストアンサー
ちょっと違うけど、手塚治虫の「プライムローズ」ってそんな感じの内容です。
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