神と悪魔の争い、主人公が立ち向かう物語

このQ&Aのポイント
  • ファンタジー要素を含む大国同士の争いを描いた物語です。A国とB国はお互いを敵視し、それぞれ神や邪神の存在に従って戦争をしています。
  • 主人公はA国でもB国でもない立場の人間で、ある出来事をきっかけに自身の国の神(邪神)が人間を滅ぼそうとしていると気づきます。
  • 主人公は同志を集め、神(邪神)に立ち向かう決意を固めます。彼らは紆余曲折の末に神(邪神)との壮絶な戦いに挑みます。
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うろ覚えで申しわけありませんが教えて下さい。

ファンタジー要素の強いシナリオだったハズで、お互いが敵視している大国同士の話だったと思います。 仮にA国、B国として、A国は国王の上に天使だったか神?が存在して君臨しており、「B国を倒せ!」との御言葉のままに全国民が一致団結してB国と戦争をしていました。 またB国は悪魔だったか邪神?がいて「A国を倒せ!」との御言葉が・・・ こんな感じで長年お互いが争っており、主人公はA国でもB国でもない立場の人間だったと思います。主人公は大変な紆余曲折を経て、それぞれお互いの国王か幹部にそれぞれのお互いの崇拝している「何か」を見せたら「これは我らの神(邪神)ではないか?何を言っているのだ?」との返答が来て愕然とします。「神(邪神)は自分達人間を滅びに導いている!」との確信を経て、同士を集め、いざ神(邪神)に立ち向かう!の様な感じだったと思います。 このような話の小説か漫画だったかも覚えていないのですが・・・解る方、何卒お願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ts3m-ickw
  • ベストアンサー率43% (1248/2897)
回答No.1

ちょっと違うけど、手塚治虫の「プライムローズ」ってそんな感じの内容です。

zunda-zunda
質問者

お礼

回答を頂きありがとうございます。でも違う様です。手塚治虫先生の漫画の画風では無かった覚えがありますので・・・

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  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に成った。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?

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