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奥州藤原氏

奥州藤原氏に関する文化、歴史などなんでもいいので回答してくださるとありがたいです。 かなりこまってるんで;よろしくお願いします。

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  • 回答No.6

季衡の子経衡は米沢城の長井氏に仕えていたが伊達正宗9代目にだまし討ちに遭いその子孫は伊達氏に仕え仙台にうつり元禄3年に中村を名乗り元禄13年には岩ケ崎城の城主になったということです。明治維新を迎え岩ケ崎村の初代村長になったということです。

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  • 回答No.5

先祖が奥州藤原氏とわかってから夢中で調べています。樋爪五郎季衡の子経衡の子より浜野性を名乗って宇都宮氏に仕え二荒山の神官を務め今から500年くらい前に上三川に兄弟3人で移り今でも住んでいます。上三川城の家老として上三川が滅びるときに長泉寺で自害しています。その子孫2件は今でも上三川に他の1件はどこにいるかいまだに謎です。私のわかっているのはここまでかな。

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  • 回答No.4
  • shoyosi
  • ベストアンサー率46% (1678/3631)

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  • 回答No.3
noname#118466
noname#118466

抽象的な質問で答えようがありませんね。 奥州藤原氏について何を勉強し何が分からないのか具体的に質問すべきです。図書館に行けば参考書がたくさんあるでしょう。それが嫌ならインターネットで検索すれば、求めている答えが分かると思いますよ。4代に渡って栄えた藤原氏が、鎌倉を追われて亡命を求めた義経を一時はかばい、かばいきれずに殺してしまう。鎌倉幕府は一時とはいえ政治犯義経をかばった罪で藤原氏を攻め滅ぼした。(1189年)NHKの大河ドラマ北条時宗は藤原氏没後7-80年後の物語です。見てますか?

参考URL:
http://www.tk.airnet.ne.jp/ponta/roots/database/h/hujiwaraousyu1.htm

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  • 回答No.2

奥州藤原氏がメインではないけれど、 彼等の財源となった金の出所や 滅亡までのごくかんたんなアウトラインは 高木彬光の「ジンギスカンの秘密」で面白く読めますよ。 源義経がジンギスカンだったという説を 推理小説作家の高木彬光が小説仕立てで実証しようというものです。 源義経の逃走経路の段で藤原氏のことにも絡み、 読み物としても面白いのでよゆうがあったらそのあたりだけでも 読んでみたらどうでしょう?

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  • 回答No.1
  • kichiji
  • ベストアンサー率43% (24/55)

 どう困っているかぐらいお書きいただかないといかんともしがたいですよ―。 前九年後三年の役から義経まであるし、ううん。とりあえず「炎立つ」ホムラタツ全四巻でも読まれてみれば如何?

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