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浄土教から見た「自灯明」

浄土真宗門徒の者です。 真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したら良いでしょうか? その後に「法灯明」とも併記されているので、こちらは他力の観点から見ても受け入れやすいものですが、「自灯明」は字面通りに受け取れば自力を説くものと思えます。自分の宗派は好きだし、念仏を喜ぶ我が身ですが、ここの所がどうもすっきりしないのです。

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回答No.26

 こんにちは。ここに書くのは久しぶりです。私は浄土真宗のボーさんと呼ばれる立場でございまして、宗祖の七百五十回忌中に書きになかなかこれなかったのですがこの質問を見て、ちょっと回答してみたくなりました。 >>真宗は絶対他力を説くのですが、その立場から見た時に釈尊の最後の教えである「自灯明」をどう解釈したらよいでしょうか? とのことですので、この質問のテーマは「自灯明・法灯明の浄土教的解釈」というところかと思います。私としてはこのテーマにそってご相談させていただきます。  原始経典といわれる『法句経(ダンマ・パタ)』にはお釈迦様のこんな一説がございます。 「もしも愚者にして愚かなりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思えるものこそ、愚者というべし」 お釈迦様は自身の愚かさを知る者を賢者と呼ばれましたが、日本浄土教のスタートラインはまさに愚かさを知るというところにあります。それは、親鸞聖人の師匠である法然上人の『鎌倉二位の禅尼に進ぜられし書』のなかで 「はじめにわが身の程を信じて、のちに仏の願を信ずるなり。ただしのちの信を決定せんがために、はじめの信をばあぐるなり」 と説かれております。これは、「信機(機の深信)」と「信法(法の深信)」という思想を端的に表したものです。信機とは「はじめにわが身の程を信じて」の部分であり、自分自身が救われる縁・手がかりの尽き果てた罪悪深重の悪人であるという事を知りなさいということ。そして、信法とは「仏の願を信ずるなり」の部分であり、その救われる縁・手がかりの尽き果てた悪人だからこそ浄土へ迎えとってやりたいという阿弥陀如来の本願をいただくのですということ。これが日本浄土教の基本的な信の構造です。  どうしても浄土教は解説本などを読むと「念仏さえ称えれば救われる」とか「信心があれば救われる」と信法ばかりが強調されてい、信機がおろそかになっている現状は大変悲しむべきことです。。  さて、「自灯明」の話をしていきましょう。は仏教学者中村元先生によれば自灯明とは「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず」と解釈しておられます。  bragelonne氏も引用しておられますが『歎異抄』のなかで唯円師は親鸞聖人のこのお言葉を紹介しておられます。 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」 このお言葉は部分的に一読すれば「信法」を説いている部分に見えるかもしれませんが、実はそうではありません。ここに説かれているのは実は「信機」なのです。それは、唯円師はこの言葉に続けて中国浄土教大成者の善導大師のこのような言葉を引用しています。 「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねにしづみ常に流転して、出離の縁あることなき身としれ」 そして、唯円師はこの言葉が親鸞聖人のお言葉とまったく違いが無いと述べておられます。  これはどういくことかといえば、『歎異抄』のなかには阿弥陀如来が誰のために本願を立てたのかという記述がもう一つあります。それは、 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」 という、最も有名な悪人正機の御文です。これと、先ほどの「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」とを見比べて解釈いたしますと、阿弥陀如来が親鸞聖人を救わんがために本願を立てたのだとするならば、親鸞聖人ははまさに正機に当たります。ということは、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という悪人正機の正機である悪人とは親鸞聖人のことであり、親鸞聖人=悪人という式が成り立ちます。このように考えれば唯円師がなぜ善導大師の言葉と親鸞聖人の言葉が同じであるとおっしゃたかが分かります。  つまり、親鸞聖人にとっての悪人とは自分以外の他人に対して向けられた言葉ではなく、自分自身にのみ向けられた言葉であることがうかがえます。  さて長々説明してまいりましたが、何が言いたいかといえばこれが浄土真宗における「自灯明」ではないでしょうか。法然上人親鸞聖人以前の仏教は「どの教えが、真理か?」「どの教えが、深いか?」「どの教えが、正しいか?」という視点で説かれていました。しかし、法然上人親鸞聖人が叡山において悩まれたのは「どの教えが、自分自身にあっているか?」ということです。経典の甲乙を論ずるのではなく、罪悪深重の自分にのどの経典があっているか、というのが浄土教の視点です。まさに、これはお釈迦様の相手に合わせて説き方を変える「対機説法」の形態を取られたと言えます。  このように、「自灯明」親鸞聖人は自身の機のつたなさを省みてそれを拠りどころとし、南無阿弥陀佛のみ教えを選ばれたわけです。しかし、「法灯明」そのみ教えをいただいてみればすでに阿弥陀如来が成仏されたときに示してくださっている本願の無碍の一道であったと気づかされたという事ではないでしょうか。  これが私の考える浄土教における自灯明・法灯明の解釈です。  後から読めば、なんだかごちゃごちゃしててわかりずらいですね。すみません。急ごしらえの為、推敲する時間がありません。誤字脱字乱文どうぞご容赦下さい。 合掌 南無阿弥陀佛

indians
質問者

お礼

素晴らしい回答をありがとうございます。挙げて頂いた法然上人の言葉こそ、私がここで聞きたかった答えかもしれません。感謝します。 南無阿弥陀仏。

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その他の回答 (34)

  • agripapa
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回答No.24

さとりを開きさとりに至るものは解脱するのに縁起が根本思想にある訳がない 小乗から大乗に移行する時、俗界との縁を起こすというほどの意味になる だからもともと縁起という概念は神道系のものということになる ・

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  • agripapa
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回答No.23

ユダヤ教系宗教と浄土系宗教が手を結ぶようなこと これを仏教用語で縁起と言ってるww ・

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  • agripapa
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回答No.22

自称キリスト者のいう 時が満ちる時とは 民主党のの政策群が通った時 地方分権化もしくは地方主権化、外国人地方参政権付与、人権擁護法、TPP参加 これで日本は地方から崩壊し、自らの国を自らの手で国を治めることを法的に放棄させられ、国家そのものが崩壊する土台ができる ・

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  • agripapa
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回答No.21

ユダヤ系キリスト者とすれば 太陽を創造したユダヤの神による天皇の王権神授説としてとらえ 戦争責任を自らとるという意味において象徴的に天皇は自らの意志で磔台にあがる このことの意味は中韓を侵略し国民全てを巻き込んだ戦争責任と敗戦に伴う経済的戦争責任を果たしていく段階で国民全体を野性化させてしまったことに対して、キリストのように天皇制度そのもを廃止するということを以って購う ってことを天皇家自らに言わせたいってことを志向してるってことなのかな 時が満ちるときがくる みたいな それで 天皇は戦争責任という原罪を背負って国民を救うために 自らキリストとして磔台にあがるということを連想させる質問設定にしたということか。。 いわんや悪人おやって浄土真宗は原罪を意識させる宗教でね 阿弥陀様をひたすら信じいけば救われるの阿弥陀様は今度はユダヤ教の神って事のなるわけかな? そして法灯明とはユダヤ律法のことであり自灯明とはそれにひたすらすがるという意味になる ・

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回答No.20

 No.4&14です。  ◆ (歎異抄) 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。  ◆ 親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。  ☆ このような命題は 案外《自灯明》という見方に かたちとしては似ているかも知れませんね。  とは言うものの 他力本願のもとにこの《ひとり》の思想が生きられることにも間違いありません。  何やらおかしなことが言い始められています。  アブラハム(初めは アブラムですが)は ふるさとを去って行けというお告げのようなヒラメキとその基礎としての信仰からすべては始まっています。  そのような旅の思想は ひとつに人生そのものが この世界への一時的な滞在であり巡礼の旅路にたとえられることを示すとも言われます。  あるいは もうひとつには――旅とは別に―― ひとつの土地への永住にともなわれる慣れから来る思考の停滞を避けたとも。  習慣から来る惰性を避けると言えば ここで人間にとってその存在をめぐって《ひとり》という思想にもつながります。  つまりは アミターユスもしくは神というのは あくまでその如来もしくは神と《われ》との一対一のかかわりにおいてある。こう言おうとしていたと思われます。(ほかの意味もある中で そのひとつとしてです)。  言いかえると 日の神の信仰を初めとする自然(自然なる神々)の信仰とそこから来る個人的な慣れや集団としての慣わしの問題も起きて来ますし。そしてナラワシにまでなればその社会におけるムレ(群れ・村)が ひとりの人間にとってその自由をさまたげるという問題も起きがちです。  つまりは アブラハムの信仰も親鸞のそれも このようなナラワシおよびそこにおけるムレ(群れたがるくせ)といった問題情況にあって一人ひとりの自由を守る――そしてそれにもとづき共生をはかる――ことを旨とした。あるいはつまり そのため以外のものではないでしょう。  その後の旧約時代の民族共同体としてのまとまりや新約時代からの教会制度やあるいは宗派をつくっての信徒団体としてのムレに片向く動き これらは あくまで歴史において派生してしまった副作用です。  ムレタガリが――悪貨は良貨を駆逐するのナラワシのとおりにのごとく―― ほとんどそれは付和雷同であるなら無効であるのに勢力を盛り返して 基本理論としてつねに有効な民主制なる自由をさまたげて 社会力学じょう有力になっただけのことです。  (現代では ムレタガリと民主制とのすり合わせが模索されていると思います。むろん後者の有効性を活かす方向にだと思われます)。  といった過去および将来についての見とおしも 大事だと思うという投稿です。  * 門徒だとおっしゃっていますのに もし理論として言うとすれば 信徒の組織を再興した蓮如は親鸞の考え方とはほとんど何の関係もない こう考えます。信徒たちの個人的な集まりや自由な助け合いは別ですが 宗派のための団体組織は 廃れるがままにしておけばよかった。その素地から《ひとり》の思想が根づいて来ることが いまにおいても 待たれます。  このようなアブラハムないし親鸞の信仰にもとづく《ひとり》の思想は 決していわゆる個人主義に堕すことなく《われ》としての存在観――互いにわれであることをとおしての縁起共生の思想――を今からでも芽生えさせて行くことでしょう。  * なお信仰においては――それは 非経験のナゾをめぐる非思考の姿勢を言っていますから―― 他力は 絶対他力のことですが 自力については それは人間の存在や能力が有限なのですから 絶対自力ということはあり得ません。それでも 聖道門において自力が説かれるとすればそれは おそらく無神論という信仰にもとづいている。こう考えられます。  《無い神》を信じている つまりそのようなやはり絶対他力の信仰である。おそらくブラフマンなる主宰神を避けた結果 そのような自力の思想が――無神論のもとに――それだけに焦点をあてるかたちで 引き出されて来たのでしょう。  自力と他力 あるいは 自灯明と法灯明 これらは それら自体として取り上げることは 屁の河童だと思います。

indians
質問者

お礼

重ね重ねありがとうございます。後半の部分、特に共感できます。

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  • agripapa
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回答No.19

非支配国民には自虐史観を植え付けて原罪を背負わせる。。 ・

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  • agripapa
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回答No.18

これから推測すると ユダヤ民族は旧約聖書が書かれる以前に日本のような国家を征服したことがあるのではないかって考えられるんだよね。。 だから太陽神を創造した神としてそれを呑み込んだ宗教構造になってる こういう風に読むと 太陽を創造したユダヤの神が敗戦の戦争責任という原罪をその国家の元首にかぶせその国から追放し宗教的にその国を乗っ取り支配が完了するって筋書きになるんだけど。。 日本のキリスト教化がそれにあたるってことかな。。 ・

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  • agripapa
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回答No.17

天照大神が太陽神なら ユダヤ教系の神は光よあれって太陽を作ったっていう神って設定なってるし みたいな ・

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  • agripapa
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回答No.16

とか言われたって分かんないでしょ? ということで No.6の回答に行き着くんだなぁ ・

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  • agripapa
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回答No.15

ただ盲目的に阿弥陀仏を信仰すれば救われるという時 その違いは信仰の何処にあるのでしょうか もしかして キリスト教の教義をパクッたとか? ・

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