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ウケヒと盟神探湯
古代日本の信仰について質問です。 ウケヒと盟神探湯についてなのですが、ウケヒとは本来 「予め甲乙二つの事態を定めておいて、甲という事態が起これば神意はAに、乙という事態ならば神意はBにあるとし、甲が起こるか乙が起こるかを見て、神意の所在がABどちらにあるかを判断する」 …ということですよね。 ここで盟神探湯を考えてみると、もし裁く対象が「嘘を吐いている(甲)」なら湯に手を浸けたとき「手が火傷を負い(A)」、「本当のことを言っている(乙)」なら「火傷を負うことなく無事に済む(B)」と当て嵌めることができると思うのです。しかし本やサイトを確認してみると大抵の場合この両者は全くの別物として扱われていますので、何と無く違和感を覚えてしまいます。 ウケヒ=盟神探湯、という強引な決め方が出来るとは思いませんが、方式が似たようなものである以上、「ウケヒ」と言う大きなカテゴリの中に「盟神探湯」と言う行為が入る、というような考え方は出来ないのでしょうか。この考え方はおかしい、違うんじゃないか、と言うご意見も大歓迎ですので、皆さんのお考えを根拠を付けた上でお聞かせ願えれば幸いです。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答No.1
素人ですが。 現代の理知理論での概念構成で、定義をしながら概念と用語として決めてしまえば、整理方式として入れることは可能かと存じます。 ウケヒと盟神探湯は私は古代からの心性での神の意志と知を聞く方式ですね。どちらも宗教行為、或いはそれに密着した行為ですね。 でも盟神探湯ってどの程度実施までにいったか。そしてより一般てきなウケヒと同一になる性格を是認できるか問題だと存じます。 その現場と適用事項から、やはり距離はあると思います。後世の概念的整理なら可能だと存じます。