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釈迦の「四苦」について。出産の痛み(陣痛)は含まれるのでしょうか??

キリスト教では創世記のなかで「神は女性(イブ)に産むの苦しみを与えた」とあり、陣痛は原罪とされ、これに耐えることが贖罪だと考えられてきました。これと同じ様な考えが東洋にも無いものか、と調べたところ、釈迦のいう「四苦」にあいました。このなかには「出産の痛み」は含まれるのでしょうか? 東洋でも「出産の痛み」に耐えることは当然(?)であるというような教えはあるのでしょうか? ご教示ください。(出典や文献なども教えていただければ助かります!!)

みんなの回答

  • yamane-k
  • ベストアンサー率21% (26/119)
回答No.7

 こんにちわ、#5です。 <では何故人を生み出すための痛みが宿命として考えられてこなかったのでしょうか?? >  あくまで個人的な意見ですが、出産を男性が経験しないものだからではないでしょうか?  「生老病死」は基本的に万人が経験するものでしょう。(例外はありますが)男性は産まれる事は出来ても、出産することは出来ませんからね。  釈迦が言う「人」とは「女」は含まれていないのでしょうか??>  男女という差別的なものでは無く、釈迦は万人が共通して迎える&迎えたであろう<苦>を説いたのではないでしょうか?  昔は仏教も修行するのは男性のみ(?)だった事を思うと、女性の産みの苦しみを理解しろ、といっても無理があったかも知れませんね。釈迦も男性ですし・・・。  釈迦の時代はどうだったかはわかりませんが、日本でもお産は最近まで男子禁制のものだった関係で、女性が苦しんでいる姿を見ることも少なかったのでは。  私はつい最近出産しましたが、あれは例えようの無い痛みですし、経験してない人にわかってもらうのも無理かな?と思います。  経験しない・苦しんでいる所も見ない、では産みの苦しみはきっと分からないでしょう。  余談ですが、アメリカなどでは日本人とかの東洋人が陣痛に耐えるのを不思議がるそうですよ。あちらでは麻酔を使った<無痛分娩>が主流ですよね。 「何故、あんな激痛にわざわざ耐えるのか?」というらしいです。  私も何故耐えるのでしょう?不思議だ(笑)耐えられるんですけどね。  東洋人は西洋人に比べて、痛みに強い人種らしいですよ。何かの本に書いてありました。だから陣痛にも耐えられるのかな?  私は全くの一般人ですので、上記意見は個人的なものとお考え下さい。      

  • kyoromatu
  • ベストアンサー率14% (746/5025)
回答No.6

こんにちは。 四苦の生老病死は、生まれること自体すなわち、赤ちゃん自身が、もって生まれる苦ではないでしょうか。 そういう意味で、産む側の母体陣痛は、苦に含まれないものと、小生は解釈しています。

参考URL:
http://www.tomo-net.or.jp/sermon/word/32_01.html
babyshower
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 赤ちゃん側の「苦」ととらえるのですね。そう解釈すると確かに生む側の痛みは含まれませんね。。 それにしても「出産の痛み」が四苦の中に含まれないということに、違和感を感じます。何故含まれないのでしょう。釈迦は「出産の痛み」をどのように考えていたのでしょうか・・・。会って聞いてみたいくらいです(笑)。 このあたりについてご意見をいただければと思います。 ありがとうございました!

  • yamane-k
  • ベストアンサー率21% (26/119)
回答No.5

 他の方がお答えですので、参考URLを添付だけにしておきます。  http://www.tomo-net.or.jp/sermon/word/32_01.html

参考URL:
http://homepage1.nifty.com/21c-journal/purpose/shikuhakku.htm
babyshower
質問者

お礼

「人が避けて通れない宿命」を「苦」としたとのことですが、では何故人を生み出すための痛みが宿命として考えられてこなかったのでしょうか??また分からなくなってきてしまいました。もしかして、釈迦が言う「人」とは「女」は含まれていないのでしょうか?? 疑問が生まれてしまいました。 このあたりについてお考えなどありましたらよろしくお願いいたします。 ありがとうございました!

回答No.4

四苦については初転法輪で説かれています。 四諦(したい)の中の苦諦(くたい)のうちの四苦は生老病死(しょうろうびょうし)から成り 生きる苦しみ、老いる苦しみ、やまいの苦しみ、死ぬ苦しみとなっています。 出産における陣痛は生(しょう)の苦にはあてはまらなかったと記憶しています。 生の苦は、生きていくことそのもの、生(せい)をうけたことから始まり生きていく 苦しみを指すことだったと。 学生時代の仏教思想の授業の記憶だけですが、陣痛に関しては四苦の後の八苦にも なかったはずです。 苦しみという点から外れますが、ヒンドゥー教では産褥は不浄とされています。ただ月経、産褥において流れる血が不浄とされており、痛みについては触れていません。 恐らく仏教でも同様の解釈があったのではないかと思うのですが。

babyshower
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 そうですか、やはり四苦のなかに「出産の痛み」は含まれていないのですね。何故なのでしょうか?あれほどの苦しみなのに、人生のなかの苦しみの一つにも挙げられていないいのは何故なのでしょうか? このあたりについてお考えなどありましたら是非お願いいたします。 ありがとうございました!

回答No.3

仏教では人間すべてが共通に背負わなければならない生・老・病・死を「四苦(しく)」といいます。 私の考えでは出産病気でもなく、生まれるという苦でもないと思います。 こちら↓参考にして下さい http://web.kyoto-inet.or.jp/people/katakori/u/ukengyou.html

babyshower
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 参考URLまで頂いて感謝しています。 それにしても、「人間が共通に背負わなければならない苦」のなかに「出産の痛み」が含まれていないということは、何を意味するのでしょうか。「出産の痛み」は背負わなくてもよい、というように解釈できるのでしょうか? アドバイスなどありましたらよろしくお願いいたします。 ありがとうございました。

回答No.2

「四苦」の内容は「生、老、病、死」の四つで、出産の痛みは含まれません. 王子であったお釈迦様が出家する前に宮殿の東西南北の門から出たときに出会った、この世で苦しむ人々の様子が元になっているものと思います. なお、「四苦八苦」などといいますが、あとの四つは ・愛別離苦(「あいべつりく」:愛するものと別れる苦しみ) ・怨憎会苦(「おんぞうえく」:嫌な人や物事に会う苦しみ) ・求不得苦(「ぐふとっく」:求めたものが得られない苦しみ) ・五蘊盛苦(「ごうんじょうく」:心身の苦しみ) だそうです。 (以上、「仏教のことば早わかり辞典」(ひろさちや監修、主婦と生活社)を参考にしました.専門的な本ではありませんが、仏教用語につき分かりやすく書いた本です) それ以外に「東洋でも「出産の痛み」に耐えることは当然であるというような教えはあるか」については、もちろん全てを当たったわけではありませんが、私の知る限りは儒教を始め主要なものでは残念ながら見当たらないようです(むしろ「触れてさえいない」と言うべきでしょうか)。 ご参考になれば幸いです.

babyshower
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 そうですか、やはり「出産の痛み」は含まれてはいないのですね。それにしても何故東洋では「出産の痛み」に耐えることについて触れられていないのでしょうか・・・。 このあたりについて何かお考えがありましたら是非お聞かせ下さい。 ありがとうございました!

  • mrumesuke
  • ベストアンサー率45% (254/557)
回答No.1

さだまさしの『防人の歌』をご存知でしょうか。「四苦」とは、生、老、病、死の苦しみを指します。その中に「出産の痛み」は(直接は)含まれていません。もちろん生の中には様々な苦しみが含まれるでしょうから、間接的には含まれているとも言えるのかもしれませんが。。。その辺はちょっと分かりかねます。 >東洋でも「出産の痛み」に耐えることは当然(?)であるというような教えはあるのでしょうか? すみません、こちらの方はお答えできるだけの知識を持ち合わせていません。

babyshower
質問者

お礼

早速の回答をありがとうございます。直接的には含まれていないのですね。わかりました。 ありがとうございました。

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