• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・)

聖徳太子についての批判とは?

OshimaAtsukoの回答

回答No.14
bragelonne
質問者

お礼

 つづいてですが 次の論文を取り上げます。  ◆(現代人に多い熱邪の発生と治療(その1)) ~~~~  http://blog.livedoor.jp/seimeiin2/archives/2341569.html  「熱邪」とか「火邪(かじゃ)」・・・〔の〕原因は大まかに分けて、以下のものがあると考えられます。  1.ストレスや感情の起伏などによる精神的疲労  2.暴飲暴食  (特に味の濃いもの・甘いもの・脂っぽいもの・辛いもの・酒など)  3.睡眠不足やオーバーワークなどによる肉体的疲労  4.ある種の風邪  5.季節・天候(暑さや乾燥など)  ストレス社会、食生活の欧米化、過労、環境破壊による異常気象etcetc・・・  現代に「熱邪」による病気が増えるのは必然的であると思います。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~  ☆ この熱邪の原因と考えられるものについて それらの原因を社会情況として間接的にうながす因縁があると わたしはかねがね考えて来たのでした。それが社会全体としてのでもあり 身の回りの生活の場やあるいは職場におけるものとしてのでもある《上なるアマテラス‐下なるスサノヲ》連関であると結論づけたものです。  (4)(5)は自然の現象だとすればそれらを除いて 特に(1)のストレスは この A-S 連関情況からもたらされると見ます。上から眼差しをそそぐ側であるアマテラスは――つまり要するに 上司は―― ガミガミ電波を発しますから 下にあって眼差しを受け取る側であるスサノヲはこの意識の排泄とも呼ぶべき電波を アース役となって 処理することになります。  つまり アース役はつらいよというわけです。  《アース役はつらいよ》現象は あたかも感染列島の様相を呈するかのごとく日本を覆っていると見ます。  つまりは《アース役はつらいよ》症候群から 《熱邪》のいくつかの原因状態がもたらされるのではないか? これです。  さらにはガミガミ電波を放射するアマテラス役の者も さらにその上のスーパーアマテラス役からは そのガミガミ電波を受け取り やはりアース役になっているとも考えられますから ここでかくなる上は全国民が一斉に《アース役はつらいよ》と合唱すると あるいはよいかも知れません。自分勝手な意識の排泄は しなくて済むかも知れません。そういう互いの思いやり現象が《感染》し《蔓延》すると 案外 そうか おれはわがままだったなと内に還り見ることがあるやも知れないからです。  熱邪が少なくなることは 商売の上がったりになるかも知れませんが そこのところを どのようにお考えになるのか。どうでしょうか。  ◆ 外邪は”呼吸”を通じて、体内に侵入してきます。  ☆ この外邪が 意識の排泄なるガミガミ電波のことかどうか。重なる部分もありましょうか?  やっぱし自分の田にどんどん水を引き込んでしまいましたが どうなのでしょう? こういう考えをわたしは持っています。

bragelonne
質問者

補足

 おおしまあつこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。ツッコミもご回答の内だと思います。  ★ 天人合一  ☆ そう言えばもう中国の歴史や伝統としての思想から遠ざかって久しいと思いました。三国志のちゃんちゃんばらばらにまったく単純に血が湧き肉を躍らせていたのでした。  たとえばご存じだと思いますが インドにはブディズムの以前から  ○ 梵我一如  ☆ の思想があります。ブラフマニズムとして宗教でもありました。宇宙の主宰者ブラフマン(梵)と人間の我れ(アートマン)とのいわば合一ですね。  天人合一のほうは いま解説等を参照しましたら 天がむしろ大自然であるとも取れる内容でしたが それでも宇宙の法則のようなものをも含むと思われますので この古代インドの――現代インドでもヒンドゥーイズムというかたちになってやはり同じくの――梵我一如と同じ趣きであるかと見られます。    あるいは プラトンでしたかは  ○ 世界霊魂(宇宙霊:アニマ・ムンディ)と人間との合一  ☆ をやはり同じ趣旨にて言っているとか。    あるいは西欧近代において J.-J.ルウソはこう述べています。  ▲ (エミール・冒頭)~~~~~~~~~~~~~~~~  万物をつくる者の手をはなれるときすべては よいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる。  ▲ (同上・第一編 岩波文庫p.31) ~~~~~~~~  自然の秩序のもとでは 人間はみな平等であって その共通の天職は人間であることだ。・・・両親の身分〔* やその職業〕にふさわしいことをするまえに 人間としての生活をするように自然は命じている。生きること それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 決して《天人合一》から遠いわけではありません。そうではないでしょうか?  (このように根元的なことを言ったあと その行き着き先は ひとつに残念なことに あのフランス革命では 人を勝手に断頭台の露と消えさせてもよいという考えにまでなってしまいました。《自然》なら何でもよいのだし それに逆らう王制は悪であると)。  ● 古代から息づく「天人合一」の思想  ☆ によりますと 自然農業や医食同源の思想による自然との共存としての食生活などなど エコロジの歩みに文句はないのではないですか?   ■ 「人物を修める」 安岡正篤著  ☆ も語っているように エコロジーだけで いまの生活をつづけるわけにも行かなくなっていて このいまヱブ上で話しをし合っていることひとつを取っても 科学・技術の発達によっているわけですから あとはそういった自然と文化文明とそして人間(特にその自然本性)とのあいだの共同・共生になるのでしょうか?  もっともわたしは  ■ 人類をこの破滅から救うためには、道徳革命、精神革命が行われなければならぬ、 / というのが欧米各国の権威ある哲学者・社会主義者・医学者等の共通の信念であります。  ☆ という発言については ひとつだけ何だか気に食わない言葉があります。《道徳》です。生きて動態として生きられている倫理を目指したい。とは思います。勝手な難癖ですが。ちなみに  【Q:道徳規範は 愚の骨頂】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4607794.html  という質疑応答までおこなっています。あるいは 次はおおしまさんのお考えにも楯突くことになるかも知れませんが:  ■ これに対して西洋では、人間を自然(天)と対立させて考える。 / 人類の文化も、要するに自然を征服し、変革することにほかならない。  ☆ と言われても 東と西とを 1か0かで分けて捉えたとしてもほとんど意味がないとわたしは考えます。すでに上にも プラトンとルウソの二例を出しました。  治水ひとつを取っても それは自然とのたたかいです。征服することもあります。言葉による表現だけで二分するのもどうかと思います。人間の基礎――自然本性――は すべてに共通であるという原点から踏み出したほうが 建設的な話し合いになりませんか?  自分勝手に我が田に水を引き込んでしまっていますが ホンネです。  お礼欄につづきます。

関連するQ&A

  • もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・

     もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・  ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。 :(α)  この(α)の命題についてお考えになるところをおしえてください。  参考になるかどうか 聖徳太子についての批判をつづります。  つるぎを投じることになるひとつの視点です。      *  ・ 論文: 聖徳太子は ただのくそったれ  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~  一に曰(い)わく、  (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▲ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが われわれは次のような歴史を経て来ています:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ     奔亡するものなほ多し。     禁ずと雖も止まず》。    とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      《諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日     食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。     溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの     その類少なからず》。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。      《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに》  (万葉集 巻三・426番)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ     草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。  (4) たとえば   ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。  口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋らを亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。  権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳太子の場合には そのウタに《旅人》として歌われたみまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだという尊き教えであります。――ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みますか?         *  われらがふるさとを取り戻したいがために つるぎを一振り投じる問いです。  なにが おおごとなのでしょう?  どこが エラーなのでしょう?

  • 論文: 聖徳太子は ただのくそったれ

     まづ 憲法とやらを読みます。  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~  一に曰(い)わく、  (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  次のように問います。  (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論 表現の自由 これを 基礎とすると言っています。まづこれを確認します。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▼ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが われわれは次のような歴史を経て来ています:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     このころ聞く 諸国の役民 造都に労(つか)れ      奔亡するものなほ多し。     禁ずと雖(いへど)も止まず。   とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日      食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。     溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの      その類少なからず。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。       草枕 旅の宿りに       誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに  (万葉集 巻三・426番)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) 先の(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ■ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死〔み(身)まか(罷)〕れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ      草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   すなわち 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさいと声をかけています。聖徳ぼんくら太子の歌では ああ かわいそうに・気の毒にとだけ言っています。  (4) たとえば   ▲ (あ) 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。  口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく 人びとよ おれたちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳うすのろ太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになり(そう言われています)そこで前者に味方し 後者の守屋ら物部氏を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらっちゃってもねぇ。  権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳へなちょこ太子の場合には そのウタに《旅人》として歌われた・みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだという尊き教えであります。――ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) スサノヲ人麻呂の心意気なら 和の精神をめぐって何が大ごとだと見ますか? どこでエラーが出て来ているのでしょう?  

  • 論文: 聖徳太子は ただのくそったれ

     まづ 憲法とやらを読みます。  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~  一に曰(い)わく、  (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  次のように問います。  (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論 表現の自由 これを 基礎とすると言っています。まづこれを確認します。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。    ▼ (五箇条の御誓文)  一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ    (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが   ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて   これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが われわれは次のような歴史を経て来ています:   ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~   【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に     このころ聞く 諸国の役民 造都に労(つか)れ      奔亡するものなほ多し。     禁ずと雖(いへど)も止まず。   とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・   【上田正昭】 その翌年の正月にも      諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日      食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。     溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの      その類少なからず。   というのが出ていますね。   【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。   【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。       草枕 旅の宿りに       誰(た)が夫(つま)か        国忘れたる 家待たまくに  (万葉集 巻三・426番)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (3) 先の(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。   ■ (万葉集 三・415) ~~~~~~~     上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死〔み(身)まか(罷)〕れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首      家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ      草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   すなわち 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさいと声をかけています。聖徳ぼんくら太子の歌では ああ かわいそうに・気の毒にとだけ言っています。  (4) たとえば   ▲ (あ) 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。  口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく 人びとよ おれたちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。  (5) 聖徳うすのろ太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになり(そう言われています)そこで前者に味方し 後者の守屋ら物部氏を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらっちゃってもねぇ。  権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。  (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。  (7) しかも・しかも 聖徳へなちょこ太子の場合には そのウタに《旅人》として歌われた・みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだという尊き教えであります。――ちゃんちゃらおかしいわい。  (8) スサノヲ人麻呂の心意気なら 和の精神をめぐって何が大ごとだと見ますか? どこでエラーが出て来ているのでしょう?

  • もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・

     つぎの命題をめぐって考えるところを明らかにしてください。     もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・   ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。   聖徳太子批判としていちど尋ねましたが この命題そのものをめぐって みなさんのお考えが聞きたいと思います。  これでよいと思っているのですが さらにいろんな角度からのご見解をつのりたいと思います。

  • 和を以て貴しとなす を英語で?

    「和を以て貴しとなす」という聖徳太子の言葉。 人とのつながりを大切にしましょうという意だと思うのですが、英語でカッコいいフレーズがあるのでしょうか? 教えて下さい。

  • 冠位十二階

    冠位十二階の色(偉い順番)を決めた人って誰ですか? ・・・・・・聖徳太子って外人に見せびらかすために作った空想上の人物ですよね。

  • 比較競争のキリスト教 和の仏教

    ですか? キリスト教→キリストが唯一、全知全能の神。教えにそむけば、避難バッシング。キリストにとって価値があるものは高く評価され、そういう人が特別な待遇をうけるため、比較、競争、独立精神を大切にしている。ゆえにそれに反するものは戦争でも起こして淘汰する。社会の為にこうありなさいという教えはない。 仏教→聖徳太子の考え方でも有名で、「和」を大切にする考え方。神様はいない。無駄な比較、競争を嫌う。とにかく慈悲、共生を大切にした考え方。戦争をおこすとういう考え方は考えられない。社会がよくなるよう、こういう風になりなさいという教えがある。

  • 聖徳太子について

    カテゴリはここで良いのか、それすらも分かってないのですが、違っていたら「違います」の回答でも構いません。 聖徳太子、十七条の憲法の第1条『和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗と為す』の中の『和』とは何と読むのが一番正しいのでしょうか? 昭和10年に出された改訂では、「やはらか」つまり『やわら』と読んでいますよね? もしくは、少し聞いた話では、当時『和』と言う人がいたとか・・・。 それでも質問は同じです。『和』とは何と読むのでしょう? 実は、クイズみたいなもので調べているのです。 人(女性)の名前で『和』と書いた場合、何と読むのか? 上の文章は自分で調べ、そこまでたどり着きました。関係があるのかないのか、それも分からないのですが・・・。 下の文章は問題を出した知り合いからヒントと言う感じで聞きました。しかし「やわら」とは読まないそうです。 もし、『分かる』と言う方、『こうじゃないか?』と言う方、いらっしゃいましたらよろしくお願いします。

  • 『日出処の天子』を読んだことのある方

    聖徳太子に詳しい人や歴史研究家、飛鳥寺にもかなりけちょんけちょんに言われた『日出処の天子』 日本書紀にある『一晩で何里も移動』『一度に何人もの話を聞く』『未来を予見できる』...等 神格化された太子の逸話を随分大胆に物語にしているな、と以前読んだときマンガとして感銘を受けました。 猪の首の話など、実際語られている事を織り込んでいるところも多く見受けられますが、 『いくらなんでもそれはめちゃくちゃ』とおもわれるところ、 逆に『しっかり歴史的背景をつかんでるじゃないか』 と思われる処を幾つかお聞かせ願いますか? ホモと超能力は抜きにして。

  • 自律・自我・さとりは すべて観念のまぼろし。

     つまり  (α) われわれ日本人のあたまは あまりにも《観念》が巣食っているのではないか? そうだとしたら なぜそうか?  これが 問いです。  この問題を捉えるに当たっては 聖徳太子の事例を取り上げるのがよいと思われます。    (β) 特に《さとり》の主題については これをどこまでも《精神 ないし 精神主義》において捉えるという傾向があり それは 聖徳太子の次の命題に現われている。のではないか?   【Q:世間虚仮 唯仏是真とは 世迷いごとではないか?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6791123.html  あるいは この傾向は 言わずと知れた《神》観にも現われます。  (β‐1) 《神とは 人間の精神である》とする勘違い神学。そうならば 人間が神であるとなる。  (β‐2) 《キリスト教を信じる》だの 《宗教を信じる》だのという勘違い。教義は 思考の対象であり 信じるのは 非思考の問題である。  (γ) 《主権在民= スサノヲ市民主権》についての勘違い。つまりはこの現実が ぎゃくに《精神上の問題》だと見なされ その主権問題は ただの観念に過ぎないと思われている。  (γ‐1) 《和を以って貴しと為す》と言うけれど この和の実態はあくまで スサノヲ市民社会・つまり二階建てから成る国家の第一階における生活現実にもとづいている。それを勘違いしている。→(γ‐6)  (γ‐2) 【Q:和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6633903.html  というように ウマヤドノトヨトミミがこの条文をしるしたのは あくまで 仏教の輸入について是か非かを問うて 崇仏派と排仏派とに分かれて殺し合いをおこなった結果 権力をにぎったあとである。   ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~   一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。  しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    (γ‐3) つまりは  《上と下 すなわち アマテラス圏とスサノヲ圏との睦び合い》としての《和》も  遠くは あくまで S 圏が A 圏に《くにゆづり》をしたあとの段階で言っている。  (γ‐4) つまりは ウマヤドさんは よっしゃこれでわれらが権力は安泰である どうだ 文句あるか? と言っているに過ぎない。   ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。  (γ‐5) そのためにこそ 《世間虚仮 唯仏是真》として 人びとのあたまを《観念》で覆おうとした。観念を巣食わせようとした。これが うまく行ったのである。大成功!!  (γ‐6) 自分じしんは 《和を以って貴し》としなかった。成し得なかった。そのあと あくまでスサノヲ市民社会のありさまとしての《和》をパクって 条文に掲げたのである。スサノヲ市民どうしは けんかをするほど互いに仲が良かった。《和》そのものであった。ウマヤド氏は うらやましかった。ゆえに頭をひねって考えた。  (γ‐7) そのアマテラス・マジックが どんぴしゃり うまく行った。この観念の手品が あたかも千数百年ものあいだトラウマのごとくにか あるいは白雲境のごとくにか 人びとのおつむに作用して来ている。  (δ) ゆえにそののち遠く西のほうから渡って来たところのたとえば自我なる概念 この《自我》も ただ《わたし das Ich 》と言っているに過ぎないのに 何か高尚な観念でもあるかのように後生大事にいだかれている。  (ε) このような大いなる《観念》――あるいは 観念の繭――の中で たとえば《自律せよ》などというまぼろしの哲学が 声高に言われている。  (ε‐1) 経済的に自立せよというのなら まだ分かる。自律・他律などというのは せいぜいが 共同律・社会律に人びとが参加するというほどのことしか言えないはずなのだ。  (ε‐2) それは 《自由 ないし 自由意志》の問題なのだから。たとえシガラミから自由になったとしても 社会は相手のいることだから 相互自律として成るしかないはずだ。  (ε‐3) それを 声高に《自律》と言って なおも観念の繭の中に居続ける。くだらん。まぼろしのアマテラス語(その訛った方言)で カッコウをつけて言えばいいとでも思っている。  (ζ) ・・・(つまり観念があたまに巣食うのは ほかにも 原因があるかも知れません)。  以上 日本のルネサンスがかかっているかと思われますが どの事柄でもいいですから ご教示をお願いします。質問者からもツッコミを入れると思いますが まなんでまいります。