• ベストアンサー

カントの物自体について

彼の理性批判のキーとなった物自体ですが、彼はこれを 観念論者の「思考する者だけが存在する」というテーゼへの反論として 提示しています。では、単純に、彼が物自体があると思ったのはなぜなのでしょうか。 それが超越論的な表象をみとめることによって合理論者と経験論者どちらか一方への 傾斜を避けるためならば、彼はなぜその立場をとる必要があったのでしょうか。 三大批判を読んでも結局このところが見えてきません。 いったいいかなる背景が彼をその「間」に置かせたのでしょうか。 結局最後は哲学者自身の「信」にいきつくのでしょうか。

noname#5246
noname#5246

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.5

昔のノートを引っ張り出してきました。 これでちょっとは正確なことが言えるかも。 では、まず答えやすいところから。 >「合理論か観念論」という双方どちらかの立場を避けようとさせたのはなんなのか、ということであります。 カントは合理主義と経験主義を統合した「超越論」を主張しました。だから、カントの哲学を「超越論的観念論」っていうんですね。 哲学の教授は「哲学することというのは、哲学史を学ぶことだ」と言っていました。つまり、従来の哲学的体系をふまえ、それを批判的に継承・発展させるのが哲学である、と。 カントも当然その例外ではなく、というより、従来の哲学の流れを継承し発展させることに、非常に自覚的な存在だったのだと思います。 >to believeの部分、これをもちうる背景、その立場をとる理由、というのが究極的にはなにによっているのだろう? これね、ヒュームは途中、日和っちゃうんです。 いかなる原因が物自体の存在を信じさせるようにするか、考えれば考えるほどわからなくなるから、やめてしまおう。考えてもきりがないから、なかったことにしちゃおう、と言っている(ほんとです)。 で、そこを日和らずに、ぐぐっと考えを進めていったのがカントの『純粋理性批判』なんです。 質問者さんの問題意識は、『純粋理性批判』のキモの部分だと思うんです。 ですから、もう少し丁寧に見ていきましょう。 “序説”をあらっぽく要約すると(そのまえに、理性、悟性など用語の定義付けは押さえておいてください) 1. 認識には先天的なものと経験的なものがある。われわれはある種の先天的認識を持っている。 2. 数学は空間と時間という純粋直観にもとづいた総合的判断である。 3. 物理学は経験的な世界を対象としているが、経験によらない総合的判断が含まれている。   4. 形而上学は完全に総合的な命題を経験によらずに探求することである。 5. 純粋理性はまったく経験によらない認識原理を提供する能力である。形而上学を展開するためにはこの純粋理性の源と限界を明らかにしなければならない。 要は理性という一本の線の両端をあきらかにしようとしたのが『純粋理性批判』なんです。 カントは「二律背反」ということを考えます。 ・世界には空間的・時間的な限界があるのかどうか ・世界の構成要素は単純なものかどうか ・世界に自由はあるのか、必然性が支配しているのか ・世界には絶対的なもの(=神)があるのかどうか 理性は正命題、反対命題、どちらも正しいと証明できるのです。 さらに、両者とも証明不能とすることもできる。 その結果、カントがたどりついたのは、 “理性が対象とできるのは現象の世界に限られる” “無限、自由、神の存在といった事柄は、物自体に属することであって、人間には認識できない”。 「物自体」の対象はこのように厳密に措定しています。 以上、自分のノートを非常に乱暴にまとめてみました。 質問者さんの理解の助けになれば幸いです。 あと、考え違いや理解の至らない点ありましたら、どうかご指摘ください。

noname#5246
質問者

お礼

二度目の回答ありがとうございます! めちゃめちゃ分かりやすかったですよ実際。 ghostさんのような方に回答していただいて今回運がよかったですね、僕。 一番助かったのが自分の問題がはっきりしたことでした そうかー。要するに「物自体の存在への信はなにによるか」だったんですね。ようやくはっきりしました。 さらにチャートっぽくやっていただいたことによって考えが整理できます。 あ、今またひとつ思いつきました。 カントは一見奇妙なアンチノミーの数々で理を詰めていきましたけど(世界に自由はある=正命題、必然性による=反対命題) それはそのまま経験論(=正命題)と合理論(=反対命題)との総合を目指した 「超越論的」な立場を示しているんですね。 つまり従来ある「哲学史」を発展させるためにカントの場合アンチノミーを使った、と。 僕がカントのアンチノミーのなかで一番興味深いのはやはり「偶然か必然か」ですね。 スピノザの決定論を認める一方で「自由であれ」という「命令」をも承認する。 ここらあたりの世界の捉え方はわくわくしますね。 >無限、自由、神の存在といった事柄は、物自体に属することであって、人間には認識できない というテーゼにいたるカントの思考を理解するにはまだまだ時間がかかりそうです。 今回は二度にわたっての回答、ありがとうございました。

その他の回答 (4)

noname#4646
noname#4646
回答No.4

レスどうもです。カントも最終的には神を信じていたので、 デカルトおじさんも そう遠い人には思えなかったのですが。 無学なりの答え、もっとシンプルにしてみます。 カントが物自体を、直観できないにもかかわらず、信じたわけ。 それは、  「無の完全な証明が、まだ終わってないから(決定不可能だから)」 だと思います。 カントおじさん、「あるもんはあるちゅうねん!!」てな感じですかね――? この質問締め切ったら、哲学の先生をたずねると良いと思います。 教授にはこういう時こそ、働いてもらいましょう。では。

  • ret
  • ベストアンサー率40% (8/20)
回答No.3

昔カント哲学を勉強したのですが、 今はあやふやですので、間違いがあればご指摘ください。 物自体の存在の是非をカントは考えていなかったのでは?。 これはバークレーの批判でもあります。 バークレーの主観的観念論に対し、カントは超越論を唱えました。 物自体が存在するかどうかより 物自体の形式が何処に存在するかを重要視する哲学です。 われわれは感性によりモノを知り、悟性により認識し、理性により理解します。 これらの性が形式となるので、時間や空間も形式の一つとなります。 因果律などもですね…。 しかし、これは当然種々の反感をかいます。 ヤコービは 「物自体を仮定しなければカントの体系の中に入ることはできないし、 しかも物自体によればカントの体系の中に留まれない」 とカント哲学を批判しています。 趣旨とずれたでしょうか?(^^;

noname#5246
質問者

お礼

どもはじめまして。 私、初学者もいいとこなんで大変参考にさせて頂いております。 あー、カント自身にとって物自体は手段的な側面が強かったということでしょうか。 それだと私の問いの意味もかなり、というか相当薄まりますね。 ま、せっかくですんで物自体にあえて焦点を当てて雑談させていただきますと、 カントの重視した人間に備わっていると言うアプリオリな形式から浮かんでくる 物自体ってやつを(たとえ手段としてにせよ)「考え出した」のは なぜなんでしょう。そりゃ人間の認識形式を明らかにするためだよ、となるでしょうが、 それだったら合理論も経験論もおんなじですよね。 なのに彼はあえてそれを避けて(後世主観の哲学として攻撃されるのを甘んじて受けて) 作っちゃいましたよね。 そうさせたのはなんだったのかなー、と、思いまして。 うん、たぶん誰にも分からないことなんだと思いますけど。初学者としては 哲学の答え以前に哲学史的な答えを知っとかなきゃいけないようで。 それならOKWebの趣旨にもあうでしょうし。

回答No.2

学部生の頃“講読”で『判断力批判』を読んで以来、この分野への興味を漠然と持ち続けている者です。 誤った記憶、理解不足の点があればどうぞご指摘ください。 自分の記憶では、確か、カントは、物自体は人間にそなわる形式をとおしてのみ、認識の対象となるのであるから、物自体は認識不可能である、という立場を取ったんじゃなかったでしたっけ。 物自体がある、とは措定しなかったように記憶しているのですが。 で、ヘーゲルが精神がすべてのものの実体であるから、精神によってすべては認識可能である、と批判したんですよね。 この「物自体」の措定は、ヒュームからくるものだというふうに自分は理解しています。 ヒュームはこんなふうに言っています。 We may well ask, What causes induce us to believe in the existence of body? but 'tis in vain to ask, Whether there be body or not? That is a point, which we must take for granted in all our reasonings. テキストはここから取りました。第四部、第二節です。 http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/texts/Hume%20Treatise/hume%20treatise1.htm#PART%20IV. ヒュームはここで物体(body)と呼んでいるものが、「物自体」だと考えてよいと思います。 この節では「物体の存在を信じさせようとする原因」について、かなり細かく考察しています。 結論だけが有名な部分です。 対象が連続的存在という考え方(the notion of the continu'd existence of their objects)は、知覚(perception)の恒常性(constancy)、整合性(coherence)、および想像力の働きによって生じる。 けれども、ごくわずかの哲学的反省によって(これ、けっこう情けない反論に思えるのは自分だけ?)誤りであることがわかる。 われわれに確かな存在は知覚である。ひとつの存在から、他の存在へ結論を導き出せるのは、原因と結果の関係によるものだけである。だが、知覚と対象の間は因果関係が観察されない。 すなわち、これが物自体を認識することができない、ということの根幹だと思います。 また第六節では自我の観念がいかなる仕方で成立しているかを考察して、デカルトのコギトに対する批判を行い、自我そのものではなくて、自我の観念の成立について述べています。 こうした点を見ていくと、17世紀の大陸合理論→イギリス観念論→カントの純粋理性批判という思想の筋道が見えてきます。 カントはヒュームのこの部分を発展させていったのであって、批判はしていないと思います。 ご質問の趣旨とずれていたら、ごめんなさい。

参考URL:
http://www.class.uidaho.edu/mickelsen/texts/Hume%20Treatise/hume%20treatise1.htm#PART%20IV.
noname#5246
質問者

お礼

どもはじめまして。私、大学に入って時間ができてから最近、この手の本に興味を持ったばかりの 初学者もいいとろのものなんで、ghostbusterさんのような回答をいただけると 非常に助かります。 と、いうわけで私の乏しい知識で分かった部分、分からなかった部分をかなりザックリと 話していきますのでお暇でしたらまた回答ください。もち、聞き流していただいても結構です。 あ、カントは物自体を措定してないんですか。 「物自体がなんであるかということについては、われわれは何も知らない。われわれはただ物自体の表れであるところの現象がいかなるものであるかを知るに過ぎない」ときて、「・・・それだから私とてわれわれの外に物体のあることを承認する」とカントがいうとき、それはアプリオリな感官の形式を通した現象しかわれわれが知りえないとしても、現象としての他者性(デカルトが欲しがったもの)としての「物自体」については認めた、というふうに一応私はぼんやりと考えとりました。物自体って実際には「存在する」とは言えないけども、(つまり仮象だけども)取り除けないと言う意味で承認した、と。 そうすると彼の言う総合判断はそれを支える超越論的な仮象という「哲学者の信」によって選ばれたことになり、そうなった背景はなんだろう?というのが私のふとした疑問です。ですのでghostbusterさんの回答はとても参考になりました。 ただ、まだヒュームを読んでいないのでなんともいえないのがアレですが、その >What causes induce us to believe の部分のwhatではなく、to believeの部分、これをもちうる背景、その立場をとる理由、というのが 究極的にはなにによっているのだろう?(たとえばカントの場合)というふうになるでしょうか、私の問いに照らすと。いや分かりませんが。 それは角度を変えて言うと >17世紀の大陸合理論→イギリス観念論 の、「合理論か観念論」という双方どちらかの立場を避けようとさせたのはなんなのか、ということであります。 こんなとこに書くより前にヒューム読めっちゅう話ですけど。でもこういう話って 体系的にやろうとすると萎えません?なので気楽に好きなように読みつつさらに考えを 進めるためにはOKWebはおいしいかなーなんて思ったもので。

noname#4646
noname#4646
回答No.1

その辺は「われ思う」と同じ原理でよろしいのでは? この自意識 「無」の証明ができていない以上、存在は「ある」のです。 その先はまぁ頑張って、あなたが哲学するのです。

noname#5246
質問者

お礼

「われ思う」と同じ原理?とは・・・。 すんません、ちょっとよく分からないです。 いや、まったく分かんないっす。「この自意識」? 要するに神という絶対的な他者性を持ち出さざるを得なかった デカルトが世界構成をやったのと同じイメージでカントが超越論的に自分を置いた ということですか?それならその「われ疑う」主体としてのカントはどこに「ある」のでしょうか。 当然この答えは一問一答ではないことは分かってるんですが、 このあたりの哲学史的なバックホーンは知っときたいよねー、と思ったもので。

関連するQ&A

  • カント 純粋理性批判 カテゴリー表を獲得する意味 

    初めまして、純粋理性批判冒頭について質問させていただきます。 超越論的論理学において、カントが判断表ではなくわざわざカテゴリー表を使用しなければならなかったことの意味について把握しかねています。 私の今の考えでは、 判断表とカテゴリー表によって表されている悟性の統一機能はどちらも同じものであるものの、判断表においては、それは既に獲得された概念と概念とを結合するものとして考えられているため、どちらかと言えば一般純粋論理学に属する。 一方でその統一機能を、直観における表象間の結合に即して考えた場合、それは対象とのかかわりを持つために、超越論的論理学に属する。 したがって、超越論的論理学についての議論においては、悟性の統一機能の場を、概念間から直観における表象間へと”次元の繰り下げ”をしなくてはならなかった。 ということが理由なのかなと思っています。 とはいえ、なぜ表象の多様なものを扱ったとたんに、悟性の統一は、対象とかかわりあうようになるのか、などという点で全く疑問が解消されません。 どなたか、純粋理性批判のこの箇所について、理解のための助言をいただけませんか? お願いします!!

  • カントについて

    岩崎武雄著のカントで実践理性批判を読んでみたのですが、わかる部分ももちろんありましたがいまいち全体を理解できなかったというのが正直なところです。 実践理性批判を一言でいうと、というのはもちろん無理だとは思いますが、簡単にまとめると何が言いたいのかということを教えてください。(もう一度読む上でも参考にしたいと思うので) これは質問というより相談なのですが「現代におけるカント哲学」という章で近年の世界状況から見て、永遠平和論について考えていこうとおもっているのですがどうでしょうか。 もちろん近年のカントに関する国際会議についてなども入れたいのですが。 カントに関する国際会議についてあれこれ検索したところ、なかなか情報がなかったので可能な限りでよいので具体的な情報があれば助かります。HPアドレスや資料でも結構です。 よろしくお願いいたします。

  • 「要請」 ・ 「二律背反」について

    この場をかりて毎度お世話になってますm(__)m カントの「要請」について聞きたいことがあります。 カントは自由・不死・神の要請について述べていますが、これらの要請の理論を述べたきっかけは何なのでしょうか? あと、少し「要請」からはずれますが… 「純粋理性批判」の二律背反についてなのですが、これにおいてカントは合理論批判をしようとしたのですよね?!(正確にいうと合理論的宇宙論批判) そういうことになると、合理論はもともとどういう考えをしていたのでしょうか? 二律背反で言っていること(定立と反定立)自体はそこそこわかるのですが、どこが合理論批判なのかよくわかりませんでした(^^;) わかる方お願いいたします・

  • カント実践哲学、要請論を含む全体の妥当性(道徳法則って本当に実在するの?)

    カントの実践哲学の全体に関して、好みではあるのですが、今ひとつその論の中に納得の行かないところがあり、今のところカントの実践哲学全体への賛否を保留しています。 理性の事実としての道徳法則の実在から要請論へと展開していく中には問題がないように思えるのですが、肝心の道徳法則の実在を示すことはできていないように感じます。 『実践理性批判』第一編第一章第一節 定義の注の出だしに「我々が、純粋理性は実践的に…換言すれば、意志を規定するに、…十分な根拠を自らのうちに含みうることを認めるならば、実践的法則が存在する。しかしそうでない場合には、実践的諸原則は単なる格律でしかないだろう」とあり、純粋理性が実践的に十分な根拠を自らの内に含むことを示し、更にこの命題自体が正しいことを示すことができれば道徳法則が実在する、ということになるのでしょうが肝心のその点に関する言及が実践理性批判にはないようです。 この一点が否定されれば実践哲学としての体系全体が損なわれてしまう問題でもありますし、気を付けて読んでみたのですが、もしかしたら見落としてしまったかもしれません。まだ他の著作にはあたっていないので、もし、どこかでこの点に関する言及があることをご存じでしたらお教え下さい。

  • 実存主義・イギリス経験論・大陸合理論・批判哲学・ドイツ観念論

    哲学のテストが今月にありまして、誰にしようかなと思いながら何冊か著作を読みましたがいざ書くとなると何と絡めて書けばいいのかわからず・・・(つまり理解できてない・・・)別のにしようかと思ったのですが、正直時間がありません。 実存主義・イギリス経験論・大陸合理論・批判哲学・ドイツ観念論(マルクス・キルケゴール・マルティン・サルトル・ニーチェ・ヘーゲル・ルソー・ロック・ヒューム・スピノザ・ライプニッツ・カント・パスカルなど等) の中の哲学者から選ぶのですが、レポートの書きやすい人はいませんか? よろしくお願いします。

  • 純粋理性批判の構成について

    こんにちは。純粋理性批判について質問があります。 純粋理性批判全体を通じて問われていることは「いかにしてアプリオリな総合判断は可能か」であると言われていますが、これは批判全てを読み終わって初めて証明可能となるのでしょうか? それとも、批判の途中で既に証明はされていて、その後は補足や付けたしといった形になるのでしょうか? といいますのも、現在超越論的弁証論を読んでいるのですが、感性論や論理学に比べると(それでもまだ難しかったものの)これは全く理解ができません。 この弁証論の(そして弁証論以後の批判の)、先の問いに対する立ち位置はいかなるものなのでしょうか? ここを読み解かない限り、あの問いへの答えへは全くたどり着けないのでしょうか? 感性論においてすら、ある種限定的であれ、総合判断の可能性への道は開けたのではなかったのでしょうか? どなたかアドバイスをいただけませんか? 今読んでいる箇所が、本全体の中でいったいどのような位置づけであるのかを知りたいのです。 よろしくお願いします。

  • 経験論の原理的問題点(生得観念の必然性について)

    「原理的に、経験から全ての観念が生じる」という考えの問題点について考えています。 特にこの考えの立場を徹底した人物としては、ヒュームが挙げられると思われますが、ヒュームに対するカントの批判などについても、どこか「空回り」の感が避けられません。 超越論的解釈を退けうる経験論の人間(人性)理解の限界について、あるいは、生得観念の必然性について、何らかのご意見をください。 もちろん、カントの立場からの批判も歓迎します。私の理解が及んでいない可能性が大いにありますので。

  • カントの純粋理性批判のアンチノミーは今どう解釈?

    カントの入門本『カント 信じるための哲学―「わたし」から「世界」を考える』石川輝吉を読みました。 カントは純粋理性批判で世界や有限や無限に関するアンチノミー(二律背反)を提示していますが、これらは19世紀~20世紀の科学を通過した現在では議論は成立しないのではないでしょうか? ・無限は存在し、濃度の差がある 集合論 カントール ・時間と空間は相対的である 相対論 アインシュタイン ・物質はエネルギーである 相対論 アインシュタイン ・物質は粒子と波の性質を持つ  量子論 ハイゼンベルク ・物質の位置と運動量を同時にわかることはできない 量子論 ハイゼンベルク  など の科学的な成果を哲学のほうではどう捉えているのでしょうか? 入門本ではカント以後の展開として、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、アーレントを 取り上げてて科学のほうは完全に無視されていました。

  • ニーチェとカントの出会い って?

     ニーチェとカントの出会い?  ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~~~~   デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。  理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。  そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。  これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。  そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 )  ~~~~~~~~~~~~~~~  ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。  そのほか ご感想やご見解をも述べてください。  質問者の物言いは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなくそのことが 社会制度としても――つまり 国家やあるいは国際連合などに必ずしも頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることである。    自由なご批判をどうぞ。  

  • マキャベリとプラトン

    プラトンの政治哲学は理想的だと言われます。 それに対し、マキャベリの手段を選ばぬ政治の行い方は批判されることが多いようです。 仮に、プラトンが「君主論」を読んだらどのような反論をするでしょうか?又、評価するところもあるでしょうか?