• ベストアンサー

キリスト教徒の方にお尋ねします

outbackの回答

  • ベストアンサー
  • outback
  • ベストアンサー率21% (7/33)
回答No.6

おおよそ、aminouchiさんが答えられた通りだと思いますが、聖書の、特に旧約聖書に登場する神は、かなり人格的な特徴を持っています。そのひとつの特徴として、「ねたむ神」、つまり、人間が自分以外の存在や偶像を神として崇めることを、非常に嫌う姿が書かれています。モーセの十戒にもそれが反映しています。ですから「あなただけが唯一の神である」ことを信じているという告白は、キリスト教での最も大切な信仰告白のひとつだと考えられています。 しかし、これは私の考えですが、そのような信仰が、他人が他の宗教を信じることを否定するべきではない、と考えています。 マザーテレサが、本人はカトリック信者でありながら、死にかけている人を見つけたときまずその人の宗教を聞いて、その人が亡くなったとき、その宗教で葬式をしてあげていたことは有名ですね。

tomofly
質問者

お礼

人格的な神だったなんて僕は何にも知らなかったなー!と思いました。旧約聖書から受け継がれている性格的な面が大きく影響しているのですね。マザーテレサのエピソードはびっくりしました。人種間の対立が表面的に影を潜めその代わりに文化や宗教の対立が浮き彫りになってきている昨今、宗教に多様性を認める価値観は必要なことだと思います。そしてそのような時代だからこそ無宗教という一見宙に浮いてみえるような人々が、対立間を共存しあえるような環境を整備する手助けになればいいと思います。そのためには理解が必要だし理想の話ですが。

関連するQ&A

  • キリスト教徒などに聞いてみたいこと。

    一度違う場で質問した内容なのですが、興味深かったので回答者にお礼と質問のできるこの場をお借りします。 キリスト教徒の方々は当然神の存在を信じているかと思います。 その神の天地創造の話に恐竜って出てきませんよね? でもキリスト教徒の方たちが信奉している聖書に反する恐竜の存在に対する抗議とかって聞いたことがありません。 キリスト教徒の大半の方って恐竜とか人間が出てくる前の時代をどのように捉えているのでしょう? 恐竜がいたという方が嘘になるのでしょうか?恐竜の存在は信じないとか… それとも、聖書に載っているアダムとイブなどが虚構の話と思ってるのでしょうか? またもし、神の天地創造をフィクションだと捉えているのであればそれは教徒として許されるのでしょうか? 確か、主って自分のことを疑ったり否定した教徒を許しませんよね? ということは、恐竜が嘘と考えてる? う~ん、考えれば考えるほど謎です。 冗長な文となってしまいましたが、よかったら宗教に疎い私にお教えください。キリスト、ユダヤ、イスラム教の方たちでなく一般考えでも全然お聞きしたいのでよろしくお願いします。  神学という分野の質問らしいのですけどそのカテゴリがなかったので、社会に置きました。分野別でしたらゴメンなさいm(__)m

  • キリスト教徒になるには

    私はキリスト教徒になりりたいと思います。聖書はちゃんと読みました。しかし近くに教会がありません。高校生なので遠くの教会に行くことができません。そのような場合どうすればキリスト教徒と認めてもらえるのでしょうか?どうすればキリスト教徒になれますか?教えていただければ幸いです。(宗派はプロテスタントです。)

  • キリスト教徒になれますか?

    牧師が2回来ました。 門前払いしてしまいました。 ザンゲはしなければならないですか? 細川ガラシアさんはキリスト教でしたが、 不幸になりました。 キリスト教は信用できますか? 神を疑う者はキリスト教徒になれますか? 聖書を踏んだことがあります。 神は許してくれますか? 私はキリスト教徒になれますか?

  • キリスト教徒のセックス観

    映画『ダ・ヴィンチ・コード』について、「原作のテーマが、イエス・キリストが結婚して子供をつくり、その子孫が現在も生きているという、聖書を重んじるカトリック教徒にすれば冒賣的な内容なのです。」と解説した記事(http://www.excite.co.jp/News/entertainment/20060521100000/Gendai_19935.html)を読みました。 キリスト教では、教祖であるイエス・キリストは結婚したり子供をつくったりしていない、と伝えているようですが、聖書を重んじる人々は、結婚しない、子供を作らない、ということを美徳としているのでしょうか? しかし、カトリック教徒にも子孫が存在する現実を考えると、それは不自然なので、きっと実際はそのような考えではないのだろうと思えます。 宗教に疎い(聖母マリアが処女でありながら受胎したことや、宗派によっては自慰行為を認めていない、ということを見聞きした程度)ので、キリスト教徒のセックスに関する基礎的な概念をご教示いただけると幸いです。 なお、宗教のカテゴリが見当たらないので「哲学」で投稿しました。

  • キリスト教徒と名乗って良いですか?

    教会に通いはじめたばかりなのに、良く友人から「キリスト教徒なの?」と聞かれます。 そのつど「通っているだけでまだ洗礼は受けていない」と答えています。 でも洗礼の意味さえ知らない人もいて面倒です。 私は神様は信じているし、聖書も友人に対して詳しいと思われています。 でもレベル」は低くて神社にも行きます。 正式に洗礼を受けていないとキリスト信者とは言ってはいけないのでしょうか?

  • キリスト教徒にとっての神

    難しくてさっぱりわからないので、教えてください。 ユダヤ教の神とキリスト教の神は同一のはずですが、神がユダヤ教徒に約束の地を与えたりと、ユダヤ人ばかりひいきしている様に見えるのですが、キリスト教徒はそのような神をあがめているのでしょうか。 過去の質問で、『「ユダヤ人はイエスを殺した民族」という理由でキリスト教徒がユダヤ教徒を迫害した過去がある』とありましたが、神が特別に思っているユダヤ人を迫害したら神の意志に背くと考えた人はいなかったのでしょうか。 また、キリスト教徒は、神とイエスのどちらを大事に思っているのでしょうか。 教会では十字架のイエスにむかってお祈りをしています。 ほんとは神に祈っているのかもしれませんが… 私はキリスト教徒ではないので詳しくはわからないのですが、そのように見えるんです。 質問のどれかひとつでもいいので、お願いします。

  • 仏教徒はキリスト教徒ユダヤ教徒とどう付き合うべき?

    宗教戦争に仏教徒は、基本的に外野で無関係ですが、キリスト、ユダヤ連合に加担すれば、イスラム教徒の報復を受けることを今回、学びました。仏教徒の日本人が進むべき道を宗教にお詳しい方、是非ご教授ください。

  • キリスト教徒との付き合い方

    初めて投稿します。 質問というより、僕の考えについて皆さまの意見をいただきたく。 自分には、婚約をしている彼女がいます。  彼女=キリスト教徒(熱心。毎週教会へ)  自分=無心教徒(家系的には創価学会員。) です。 結婚をし、一生を共に暮らしていくにあたり、 彼女側の家族(家族も熱心なクリスチャンです)との付き合いや、 彼女自身が信仰している宗教に対する理解を得る為、 自分も毎週彼女の教会の日曜礼拝に出席しています。 教会では当然、毎回のように勧誘の嵐にあいます。 そこでは皆「信じなくてもいいから。まずは思い切って入ってみることだ」と、踏み切らない僕を信者にするよう説得してきます。 彼女もこれには同意見なようです。 「信じなくてもやってみる」とはつまり、腹の中では信じてないが、 「信じてますよー。アーメン」と口にしろっていってることですよね。 そこで今日、仮に僕の実家で法事や墓参りがあった場合、 彼女は参列してくれるか聞いてみました。 彼女は、「参加はするが、手を合わしたり焼香することは絶対しない」といいます。 信じなくてもいいからやってみろといっている人間が、 信じていない(他宗教)のしきたりは絶対しないなんてあまりにも 虫が良すぎる話だと思います。 無神教の僕に対して信じていないキリスト教をまねごとでいいから信じてみろということは、 キリスト教の信者である彼女に仏教のしきたりを信じないまでも 動作振る舞いだけまねてくれというのは同義だと思うのですが。。。 僕がどの宗教も受け入れられないのは、 宗教をするひとのこういったよくわからない排他的でほかの考えの人の意見や気持ちを顧みない一方的なものの見方しかできないところに起因します。 皆さまに聞きたいです。 僕は間違っているでしょうか? 最近では、信仰を持たない自分が教会へ別の動機で行くことさえ、 正しいことなのか間違ってるのかわからなくなってきました。

  • キリスト教徒に求められる意識について

    はじめまして。 キリスト教の洗礼を受けるべきかどうか悩んでいます。 私はカトリック校に在籍する高校生(哲学科への進学希望)、祖母、父はキリシタンです。 唯私は洗礼を受けていません。 また、今まで宗教には全く関わりのない生活をしておりました。 まず、洗礼を思い立った経緯について話させていただきたいと思います。 最近はすっかり落ち着いたのですが、一頃自傷に至るほど自己否定が激しく、 父の援助のおかげで緩和した後も、 独善とした人間性や自身に対する激しい拒否は解消されたわけではありませんでした。 その結果思ったのは、 私は自身のことを、「私を生かす存在」として認識しているのが悪いのではないかと言う事でした。 外的なものに「生かされる存在」でなく、「生かす存在」と思っているからこそ 自身を思い通りに傷つけてよい、生死の選択を許されていると思ってしまったのではないか、 その結果自身以外を眼中に入れない人間になってしまったのではないかと。 私はできれば独善とした態度を改め善き者になりたい、 他人に対して誠実にありたいと思います。 そして「生かされている」と言う事を実感し、大きな指針のもと倫理的にありたい。 また、どこかで主のようなものに縋っていることも自覚しております。 信仰と言うものを悪いものとは一切思っておりません。 唯私が洗礼を受けることを躊躇しているのは、 一つに私は今心底信仰を得ているわけではない、むしろ即物的な思考を持っていること。 二つに覚悟の問題。 そして最も大きな懸念は、私は自身のためにキリスト教を利用しているのではないか、 神を愛するためでなく自身を愛するための道具にしているのではないかと言う事です。 善い事と思っている信仰に対して、私は誠実になりきれておりません。 確かに聖書は素晴らしい、興味深いものとして読んでおります。 しかしそれだけでよい訳では決して無いでしょう。 信仰は日々聖書を読んでいくことで勝ち得ていくものなのか、 深い信仰を自覚したときに初めて洗礼を受けることが許されるのか、 今それらに結論を与えようとすることが間違っているのか、 これらに答えることができません。 キリスト教徒に求められる意識とはなんでしょうか。 イエスに対する敬虔さでしょうか。 それともキリスト教そのものに対する思いでしょうか。 教義に沿い、自身の精神を神の求める形に変えていく事でしょうか。 キリシタンの方に特にお伺いしたいと思います。 拙悪な文章で申し訳ありません。

  • キリスト教と仏教

    キリスト教の教徒でありながら仏教の宗派にも入れますか?逆でもいいです。 もし入れないのであれば一教信でなければならない理由を教えてください。 (個人的に神様の方々はそんな懐の狭い感じに思えませんので) それにしても「宗教」というカテがないのも謎です。教えて!が意図的に避けてるのでしょうか? 合わせて回答して頂ければ助かります。