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赤穂浪士討ち入りって?

noname#217196の回答

noname#217196
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回答No.2

赤穂藩城主浅野内匠頭長矩の辞世の句とされる 風さそふ 花よりも尚 我はまた 春の名残を いかにとか(や)せん ですが、切腹に立ち会った幕府目付役多門伝八郎筆記にしか記録されておらず、内匠頭預先、一関藩藩主田村家から幕府への切腹報告書や田村家家臣の記録にもないため、伝八郎の偽作と疑問視されています。丸谷才一に至っては、元禄武士の記したものにしては文章がツルツルしていると評して伝八郎筆記自体偽書と疑っています。 それはともかくとして、内匠頭の辞世の句とされるこの句のまっとうな解釈はなかなかお目にかかれません。中公新書の『辞世の句』や小林秀雄が『考えるヒント2』で解釈を試みていますが、詩歌に造詣が深いわけでもないので通りいっぺん、皮相的です。 勅撰集などあたっても、花さそふ風 という表現はいくつも見つかりますが、風さそふ花 という逆の表現はほとんど見つかりません。奇異な歌なのにそれに触れた解釈は見ませんね。 なお、書写時の紛れと考えられますが、「いかにとやせん」「いかにとかせん」の二通りで本によっては引いてあります。

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