• 締切済み

なぜ文章を難しく書く必要があるのか

なぜ文章を難しく書く必要があるのか 大学生なのですが、高校時代から疑問に思っていたことがあります。 なぜ、文章をわざわざ言い回しを難しく書かなくてはならないのでしょうか。 特に評論がそうではないでしょうか。 大学受験を通じて、「ここはどのようなことをいっているのかわかりやすく答えよ。」 という問いを幾度となくこなしてきました。 なぜ始めからわかりやすく書く努力をしないのであろうかと思われたのです。 そして難解なレトリックや比喩の多い文章ほど、経験上、内容が貧困なのです。 本来、文章はコミュニケーションの一つの手段として用いられるべきであるのに、 わざわざ相手の理解を難しくしているような気がしてならないのです。 また、文章を世間に出すということ自体が、知的階級に属していることを示していますが、 知的階級の使命とは、「難しいことをわかり易く伝えること」であると思われるのです。 結局、難解な文章を書く人間は自己満足に浸っているだけなのでしょうか?

みんなの回答

  • Postizos
  • ベストアンサー率52% (1786/3423)
回答No.3

いろいろな場合があると思うのです。 質問されている方もわかった上で言っていると思うのですが。 例えば新しい概念を発表している場合、これを今までの手垢のついた表現に言い直してしまうと意味が変わってしまうということがあります。 これは新聞でけっこう見かけるのですが、見慣れない新しい言葉をわざわざ発明しているのに、自分が知らない、わからないから読者もわからないに決まっていると思い込んで僭越にも見慣れた言葉に直してしまうケースがあります。 そうすると全く趣旨が違って来てしまうのですね。 その概念がどういうものかは原文にたいてい苦労してその前とかあととかに書いてあることが多いです。 それからある程度同じ素養の上に立った人が読むものと絞って書いている文章の場合。 例えば美術の抽象表現主義とかポップアートとか、見てきてあああれねとわかっている人を読者に想定していたらいちいちその解説から書くのでは字数が足りなくなって言いたいことの核心にたどり着けない。 例えばこの質問文の中にも「評論」「レトリック」「比喩」「コミュニケーション」「知的階級」というわかっていればなんでもない言葉が入っています。 でも場所によってはこの程度でも通じない場合は実際多々あります。 また評論と言ってもコミュニケーションの「手段」だけではなくて、それ自体が何か言葉のつながりによる発見やインスピレーションが生じるのを期待しているようなものもあると思います。文章による新たな作品と考えるなら創造の部分があるようなそういうのがあってもしかたないように思います。 その上で単にひけらかしや、ネタが無いためにわざと分かりにくく書く、やさしく書く能力が不足している、原文の意味がわからないので適当に翻訳している、などの例はおっしゃる通りたくさんあると思います。 自己満足と言うか独りよがりの場合もあるだろうし、締めきりに追われてとか、能力不足とか、まあ理由はいろいろではないでしょうか。 できの悪いのだけを例にあげて難解なのを全部ひっくるめて悪く言うことはできないと思います。 なお「知的階級の使命」と言う考え方は考え方として共感できる部分はありますが「使命」ばっかりでもないだろうという気もします。 特権という部分もあるし使われてる部分もあるのですから。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • ttt1214
  • ベストアンサー率20% (65/323)
回答No.2

難しい事を難しく書くことは、ばかでもできる 難しい事を誰でもわかるように書くことは、真に頭が良くなければできない。 僕の場合はそう教わりました。 難しい事を難しく書くことは、ただ単に、知識をひけらかす事でしかないけど、 そういう風に書くことで、頭が良いと思われる事に対して、酔いしれてるばかなやつだと思います。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • FEX2053
  • ベストアンサー率37% (7987/21355)
回答No.1

簡単に書くと厳密性が薄れる場合があるからです。論文などで難しく書いてある場合は、解釈に厳密性が求められる場合が多いです。最近人気の「池上解説」って奴は、聞く人が聞けば突っ込みどころ満載なんですよ。 文学作品などでは「敢えて隠す」ためにややこしく書くこともありますけどね。厳密性も文学性も求められないエッセイや記事などでは、「難しくしか書けない」なら書く人に筆力が無いってだけの話です。 ちなみに毎日新聞の記事は「小学6年生が理解できるように書かないとデスクに没にされる」と、昔毎日新聞に見学に行った時に、編集担当者が教えてくれたと記憶しています。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 文章力をつけたいです。

    論理力を身につけるために、文章力をつけたいと思っています。 なぜなら、自分は国語が大の苦手で、論理力が弱く、そのせいで数学や物理、そして英語の勉強が難航しているので、文章を書く力を養うことによって、論理力が身につき、結果的には勉強ができるようになる。そう考えるからです。結果的には、論理力を身につけたいのです。苦手というのは、自分は現代文の随筆文によく出てくるレトリック表現が全く分からないからそう思っているのです。 自分の考えた方法としては、なにかテーマを決めて、文章を書いて、第三者に添削してもらう。という手法を考えています。それは自分にとってこのやり方は評論文を解くよりも、ずっと接続語や文脈や論理構造を意識できるからです。しかし、現在は理工系の大学に通っているので、添削してもらう機会はなかなか見つかりません。すこし諦め気味の案なのですが・・・・。 文章力をつける。論理力を身につける。それにはどんな方法があるでしょうか。 更に、何故そんな方法が有効なのか、理由も添えて回答していただけると非常にありがたいです。

  • 評論文とは?

    大学入試・センター試験・模試などには評論文がありますが、自分にはそれらの意義がわからないのです 正直に言って模試等で評論文を読んでいても、「こいつは何を言いたいんだ」「よくこんな無味乾燥な文を書くな」と思ってしまうのです。もちろん著者を軽蔑しているつもりはありませんし、多少は文の内容を理解することが出来ます。 ただ、評論文というのは基本的には自分の考えを主張し、他者に理解して貰ったり、世間に自分の考えを広める事を目的としてると思うのですが、何故に難解な表現ばかりを使い、わかりにくくする必要があるのでしょうか? 普通の人が読んでも、理解出来るような文にしなければ、評論文自体の意味が無くなり、単なる自己満足の文になってしまうと思うのですが、どうなのでしょうか?

  • 評論文の意義

    よく模試や問題集には評論文、または新聞では天声人語等があり、大学入試のことを踏まえるとそれらを読むことが最近多くなったのですが、自分にはそれらの意義がわからないのです 正直に言って模試等で評論文を読んでいても、「こいつは何を言いたいんだ」「よくこんな無味乾燥な文を書くな」と思ってしまうのです。もちろん著者を軽蔑しているつもりはありませんし、多少は文の内容を理解することが出来ます。 ただ、評論文というのは基本的には自分の考えを主張し、他者に理解して貰ったり、世間に自分の考えを広める事を目的としてると思うのですが、何故に難解な表現ばかりを使い、わかりにくくする必要があるのでしょうか? 普通の人が読んでも、理解出来るような文にしなければ、評論文自体の意味が無くなり、単なる自己満足の文になってしまうと思うのですが、どうなのでしょうか?

  • 評論文の存在意義

    自分(学生)だけでなく、学生なら誰でも一度は思うことと思うのですが、評論文の存在意義とは何なのでしょうか? 個人的に、評論文は「傲慢な学者が、己の賢さを誇示するものだと思っています」 というのも、正直に言って、試験等で評論文を読んでいても、「こいつは何を言いたいんだ」「よくこんな無味乾燥な文を書くな」「大したこと言ってないやん」と思ってしまうのです。 そもそも、評論文の意義というのは基本的には自分の考えを主張し、他の学者や世間に考えを広めたり、それに対する批判を受けたりすることを目的としてると思うのですが、何故に難解・抽象的な表現ばかりを使い、わかりにくくする必要があるのでしょうか? 難解な表現は仕方なく、誤解も生じにくいという利点等あるかもしれませんが、その表現すら理解されなくては、誤解以前の問題と思います。 また、仮に評論文が「一部の人に考えを知らせるため」という目的のためにあるとしても、それの意味がわかりません(これこそ、単なる誇示ではないでしょうか)。まだ「世間に自らの考えを広め、何かしらの変化を起こしてやる」という風な理由のほうが理解できます。 普通の人が読んでも、理解出来るような文にしなければ、評論文自体の意味が無くなり、単なる自己満足の文になってしまうと思うのですが、どうなのでしょうか? 誤謬、および失礼な表現が若干あるかもしれませんがご了承ください

  • 普通の日本人なら誰にでも理解できる言葉文章を使わず、あえて小難しい専門

    普通の日本人なら誰にでも理解できる言葉文章を使わず、あえて小難しい専門家にしかわからないような言葉文章を使う連中をどう思いますか。 さも自分を権威付け、さも自分は頭が良いということを、世間に印象付ける、自己満足的な目的としか考えられないのですが。 裁判官や、検察官や、弁護士や、大学教授などもね。

  • 30歳の男性です。在宅ワークをしているのですが、生

    30歳の男性です。在宅ワークをしているのですが、生活できても低収入(約10万円)なので結婚は絶望的です。彼女いない歴=年齢なうえ、親の面倒みなければならない時点ですでに絶望的でもありますがね。まあ、お金より愛と言っている人は世間知らずなので、貧困層の気持ちは一生かかってもわかりません。 ちなみに自分は会社に雇ってもらえず、在宅ワーカーになりましたが、これはこれでいいと思います。 本題です。貧乏に生まれた人間は、最後まで貧乏でしょうか?お金がないうえに満足な教育を受けられず、満足に就職できず、早死にする運命でしょうか?日本政府や中流階級以上の人達の本音は、貧乏人は早く死ね、です。

  • 中学・高校の国語科(現代文)教育は小説・物語などの文学作品に偏りすぎて

    中学・高校の国語科(現代文)教育は小説・物語などの文学作品に偏りすぎているのではないでしょうか? 大学受験の話に持っていくつもりはありませんが、 大学受験では、国語の現代文の問題で、小説文の問題はセンター試験や一部大学を除き 主要私立大学ではほとんど出ません。なぜ小説の問題は出題されにくいかというと 文章中の行と行の間の心情を読み取る行間を問題にするとどうしても主観的な要素が あるので解答しにくい、また出題者も文章中に明確な解答の根拠があるものでないと 批判される恐れがあるのでやりにくいというのを先生から聞いたことがあります。 また学校の現代文教育はどちらかというと物語などの名作に触れて生徒の感性を高めることに 力が配分されているのではないでしょうか? 前置きとして私の個人的な主観的な印象なので事実誤認があるかもしれませんが 自分の経験では、現代文の教科書は夏目漱石や芥川龍之介など著名な文筆家の文学作品をはじめ 最近の気鋭の作家の作品を授業で多く学んだ印象があります。 もちろん小説や物語も話として購読することは楽しく感じました。 ただ、外山滋比古などの小難しい評論文の作品はそれらの小説作品に比べて 教科書のなかで扱ってる数が少ない印象でした。 これらの難解で抽象的な内容の評論文を読みとくことで論理的な文章理解や思考が できるとされており文章に根拠があるので大学受験の現代文も評論文が主流ですよね。 自分が大学に入って感じたのは法律などの抽象的で難解な文章を読むことが結構 多いので、高校のときにもっと評論文などの論理性の高い文章に触れておいたほうが 事前の訓練としてよかったのではないかと思いました。 社会に出てから、上記の論理的な文章の読解力とともに、意見を述べてディスカッションして まとめて、問題解決を図る能力や 明瞭かつ論理的な文章を書ける能力も必要と感じました。 高校のときも、現代文の授業で一応申し訳程度に文章作法の単元もありましたが、 特別なコラムみたいな内容としてほんのちょっとしか扱われてませんでした。 中学高校の現代文教育は、全体的なカリキュラムを小説や物語に偏りすぎず、評論文の論理的読解力養成や 議論する能力や、文章作成能力の養成にもっと力の配分を傾けるべきではないのか?と思います。 いまの現代は文系理系問わず、ディベート力や文章作成力、コミニュケーション能力に関する 人気の本もよく出版されておりこれらの能力の必要性がよく話題にされています。 もちろん個々人の努力で身に付けるべきだというのは言うまでもないですが 教育のなかでもこれらの分野も強調して指導すべきではないでしょうか。 時代のニーズに現代文教育も合わせるべきではないでしょうか?

  • 文構造が捉えれません

    この文章の文構造を教えてもらえないでしょうか? Early attempts at written communication began modestly with pictographs. マーチレベルの大学の過問から抜粋しました。

  • 課題文型の小論文について

    課題文型の小論文について 大学の推薦入試で、課題文型の小論文が出題されます。 出題形式は、『次の文章を読んで、あなたの考えを800字で書きなさい。』というものです。 課題文のついた小論文は文章の始めに課題文の要約を書いたほうが良いと、過去の質問や小論文の書き方の本に書いてあったので、この前過去問で小論文を書いて、学校の先生に添削をしてもらったのですが、 その先生に、「課題文を再びまとめる必要はない」と言われました。 どうなんでしょうか? 別に課題文がついていても、文章を要約せずにいきなり小論文を書き始めても大丈夫なのですか?

  • 気になる子にどうアプローチして良いかわかりません。

    拙い文章ですが最後まで見ていただけると嬉しいです。 僕は大学一年生です。大学に入って初めての学祭でグループ発表をすることになったのですが僕はそのグループで班長をすることになりました。班長ですのでパワーポイントのチェックや発表原稿のチェックなどでグループのメンバーとコミュニケーションを取る機会は多かったです。そのグループとしての活動の一環で大学に入ってから気になっていた子とコミュニケーションを取る機会も出てきました。実際あってから話すよりもLINEでのやり取りがメインだったのですが、全然話せてなかった以前よりは少しは仲良くなれた気がします。LINEの内容はグループワークの内容ばかりで世間話などはほとんど出来ませんでした。LINEの文章も、敬語を少し混ぜての会話です。後半はタメ語も増えてきました。学祭の発表が終わったあとも関係を続けていきたいと思うのですが、LINEをどのように途切れないようにするか、また、どのようなタイミングでデートに誘うかを皆さんにお聞きしたいです。 参考までにお相手の女性の特徴を書かせて頂きます。はっちゃけるようなタイプではありませんが、笑顔が明るい方です。服装も短いスカートなど、刺激の強い服装をしているところは見たことなく、男性とも積極的に絡んでいるような感じはしません。 文章を書くのがあまり得意ではないので上手く伝えられたか分かりませんが、良ければアドバイスお願いします。