• ベストアンサー

命(=精神や心)がない所に世界(=物質世界)は存在できますか。

pupPeTeer119の回答

回答No.3

>この世の存在を認識できるものは、命(=精神や心)だけだとしたら、 >その命がなければ世界(=物質社会)の存在が危ぶまれると思うのですが・・・。 仰る通り、「命」は【世界】を認識しています。 で、ここからが問題です。「命」が存在しないと言う状況が生じたとして、【世界】が無くなるでしょうか? 私にはそうは思えません。「命」の有無に関わらず、【世界】は存在するものであると思います。 【世界】にとって、「命」は単に”観察者”として、その内に存在しているだけのものです。それは”共存”ですらありません。 ”観察者”である「命」にとって【世界】は無くてはならないものですが、【世界】にとって”観察者”の有無は何の問題にもなりません。 質問者さんが、「命」の存在の有無が【世界】の存在に大きく関わっているとお考えになる根拠が私には見出せません。 確かに、”観察者”にとって、”観察者の存在しない【世界】”、または”【世界】の中で観察者が観察していない部分”は『存在しないに等しい』ものでしょう。 ですが、それは“観察者”にとってそうである、というだけで、【世界】にとってはそうでは無いのです。 以上が私の考えですが、私はご質問について何か間違えた捉え方をしているでしょうか?

noname#119990
質問者

補足

ややこしい補足になりますが 「命」が存在しないと言う状況を想像している自分自身をさえも消してみてください。 えーっと、・・・想像してください。・・・この世の生命をすべて死滅させ、回答者さん独りがこの世で生存しています。そして最後に残った回答者さんが消えました。そしたら完全なる死の世界が想像できるでしょう。でもそれではつじつまが合いません。消えたはずの回答者さんが、生きていて完全なる死の世界を想像しているではないですか。完全なる死の世界を想像できるというのは消えずに誰かが生きているということです。だれもいないというのは、完全なる死の世界も想像できないということです。 私も訳が分からなくなってきました。

関連するQ&A

  • 宇宙(物質世界)と生命(心あるもの)はどちらが先に誕生したの?

    宇宙(物質世界)と生命(心あるもの)はどちらが先に誕生したの? 宇宙の誕生は約100億年前 地球は45億年前といいますが、 宇宙(物質世界)と生命(心あるもの)はどちらが先に誕生したのでしょうか。

  • 霊的な世界が物質を超える世界だとしたら、この宇宙には精神的生物の住む星

    霊的な世界が物質を超える世界だとしたら、この宇宙には精神的生物の住む星が無数にあってもいいのではないでしょうか。さらにその各々の異星人種は皆、愛、罪、善、悪、などといった地球人と同じ心のはたらきをもっていないとおかしいですよね。 そんなことは現実ありえるのでしょうか?

  • 『存在と時間』、“世界=内=存在”について。

     ちくま学芸文庫版、『存在と時間』上巻、142pについて質問があります。  『現存在自身において、現存在自身にとって、この存在構成はつもすでにある仕方で知られている。ところがそれを認識しようとすると、あたかもこのような課題のなかで表立ってくる認識が、自分自身をー世界についての認識としてー「心」の世界への関係の範例にすることになる。それゆえに、世界の認識や、あるいは「世界」を呼び「世界」について語る言説が、世界=内=存在の原義的な様態としての役割をひきうけるようになり、世界=内=存在そのものは理解されなくなる。』  とありますが、「心」の、世界への関係の範例となってしまう認識とは具体的にはどのようなものでしょうか?また、そのような“認識”は「世界=内=存在」といった認識とどのように違うのでしょうか?  ご回答お待ちしております。    

  • 「なぜ世界は存在しないのか」について

    マルクスガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」を読みました。 この本を読んで腹が立って仕方ありませんでした。 「物質なんか存在しない」という話なのかなと期待して読みましたが、そうではありませんでした。宇宙は存在するけど、世界は存在しない、という話でした。つまり物質的世界はそのまま認めた上で、個人の観測している「世界」を1つの世界にまとめることができないという話でした。 それはそうだと思うけど、それってわざわざ本に書いてまとめるほどのことなのか?著者の言葉遊びに付き合わされているようで腹が立って仕方なかったです。くだらないと思いました。 私のこの本の理解は間違っていますか?

  • 物質世界で「善く生きる」方法は?

    今まで漠然と、愛と慈悲にあふれた世界は素晴らしい。利己を持たず、全てが調和した世界が(私はみんなで、みんなは私)理想だと思っていました。今でもそう思っています。理想の世界は、個々が「清く正しく美しく」生き、他を愛と慈悲を実践する対象ととらえれば可能だと思っていました。 しかし、よ~く考えてみると、そんな理想の社会は実現と同時に破綻しないでしょうか?皆が分け与え、弱いモノを助け・・・もちろん他の動物も慈しみます。(お米をかじるネズミを駆除するのは人間の利己ですから、「お米かじらないでねご飯ちゃんとあげるから」) 人口と動物がどんどん増加しますよね?みんな一生懸命働いて世界を賄おうとします。みんな利己的ではないのでお米が足りなければ少しで我慢します。でも動物は我慢できません。みんなが幸せに生きられるようにどんどん宇宙に出て行って(もちろん宇宙人とも仲良し)・・・。でも限りがあるように思えるのです。 そこで本当に倫理的な思考は自らが生きていくことを止めようとはしないでしょうか? 人間には愛も慈悲も備わっていると信じられます。 でも肉体の中に生きる限り、物質世界に存在する限り、実践は不可能ではないでしょうか?本当に「善く生きる」ことは精神世界(肉体のない魂?だけで成り立つ世界)だけでしか叶わないのでは?と悲しくなってしまいました。早くこの考えを否定されたいです。 肉体を持つ私達はこの世でどうやって善く生きていけばいいでしょうか?

  • ズバリ!見えない世界(精神世界)を信じてますか?

    1.ズバリ!見えない世界(精神世界)を信じてますか? 2.その理由 私は 1.信じてます 2.理由は、偉大な方々も精神世界(輪廻転生や神の存在、スピリチュアルなことをおっしゃられてるからです)。でないと、彼らが死ぬ間際に大嘘を残していったとは考えられないからです。この世には偉大なるなにかの精神的な力が働いてるように思います。宗教はやってません。

  • 【人間の心は物質なのになぜ心があるのでしょうか?】

    【人間の心は物質なのになぜ心があるのでしょうか?】 物質には意識はないというが、人間の心は物質なのに意識が存在しているではないですか! 人間は所詮、物質なので意識はないと言っておきながら、「人間の進化は常に生きる事を目的としている」と大風呂敷を広げて特技げになっているが、 それだと人間が自殺するのはなぜでしょう? 人間の進化が常に生きる事を目的としているのなら今、日本で少子化が進んでいるのはなぜでしょう!! 子供どころか結婚すらしていない。 彼ら彼女らは人間の進化が自らが生きる事という選択において、自分の子孫を残すより自分の命が生き延びる方が人間の進化の過程において、最適解だと導き出した解の説明を出来ますか? 子孫を残すより自分が生き延びる道のどこに未来に繋がる進化が存在しているのでしょう!! この謎を解明出来て一定の答えを出せている賢者はいますか? これのどこが人間の進化なのですか?

  • 証明:純然たる観念世界は存在し得ない

      宇宙の公理および人間精神も宇宙の法則に支配される(証明済み)を用いてこれを証明します。 証明: 観念世界は人間精神が作り出す創作物の一つである。 人間精神も宇宙の法則に支配される(証明済み)のであるから、人間精神が作り出す創作物の一つである観念世界も宇宙の法則の結果として生まれる。 このとき第2公理より宇宙と宇宙の法則は一体であるから、観念世界が宇宙と遊離して単体で存在することは出来ない。 故に純然たる観念世界、つまり宇宙と遊離した単体の観念世界は存在し得ないと結論できる。 証明終わり。 宇宙の公理 第1公理 宇宙は存在する 第2公理 宇宙と宇宙の法則は一体である 第3公理 宇宙の法則は宇宙の全現象を支配する 第4公理 宇宙の法則は唯一絶対である 第5公理 宇宙の法則は永遠無限に均一である 第6公理 宇宙の法則は永遠無限に不変である (※永遠とは無限時間、無限とは無限空間を意味する)   証明:人間精神も宇宙の法則に支配される http://okwave.jp/qa/q8860468.html  

  • 人の存在は 自己(心)と環境とが相補性の下にあるか

     ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この命題について 別様に問います。  《全ての存在》のなかで 人の存在は  ▼ 量子的な不確定性に基づいており  ☆ と言えるか?   すなわち 世界を おそらく心としての自己と そして自然および社会としての環境(時空間?)とのふたつに分けて捉え これらのものが 相互に補完するようなかたちであると言えるか?  すなわち 自己つまりワタシが この世界において《すべての国家は その執行部たる公民が 生活者市民に 大政奉還すべし》とうったえ そのように実践しようとするとき 相手の環境たる政府について何も認識し得なくなるだろうか?   また 政府じしんも その自己の意志決定が出来なくなるほど 相手つまりワタシのことが認識できず 見えなくなると言えるだろうか?  言い得まい。  たとえモノにかんしては その現象が 相補性なるあり方をしていたとしても 人間にかんする世界としての現実は そうではあるまい。それにちなんで 次のような仮説を示します。   ○ 人間にとっての《現実》 ~~~~~~~~~~~~~~~~    (あ) 人間存在= 自然本性(身と心)     一般に 心(精神)において 現実を捉える。     身(感性)において知覚したものをも 心で認識して概念として扱う。    (い) 人間としての《現実》= 世界事実 + 主観真実(*)      * 主観真実= 事実認識 +ウソ(想像・虚構)    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ すなわち このワタシの《主観真実》は 環境をそして自己をもすでにそのつどの時点で捉えている。その捉えた中身についての正否を超えて この主観真実として ワタシは意志行為を成し 相手も同じくそうする。試行錯誤でもある。  つまり 世界は 認識〔のみ〕の問題なのではなく 一般に主体と見なされる存在が――主体ではなくても現象する自然とともに―― つねに問いと答えを繰り返しつつ その意味での対話としての動態過程をあゆむ。  自己(心)を測定すると 環境が測定できなくなるといった情況にはない。測定だけではなく意志行為もが行なわれる。   つまり認識および判断決定をともなってワタシたちがあゆみ生活するとき その測定や意志する内容が 正否の問題を超えて たえず互いに問い求められ その動態として社会的世界的な実践が成されて行く。  これを問います。

  • 性質としての精神・人間存在、唯物・唯心の融合?

    私達人間は精神です、精神は性質で出来ています、性質としての存在が人間存在です 我思う処の我は 性質としての人間存在です。実存です。 実存でなくても客観視すれば世界が存在している事は自分が世界であることから間違いありません 物質が存在し その脳内物質の性質が精神としての実存を実現してる 唯心論と唯物論の融合です。人生観と世界観の根拠です。 存在性について語りたいのですが 分かる人が少なくて困っています。 誰か分かる人はいませんか?