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命(=精神や心)がない所に世界(=物質世界)は存在できますか。

雪中庵(@psytex)の回答

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回答No.10

物質が先(=唯物論)か、心が先(=唯心論)か、という問題は、古くからの課題です。 唯物論は、「物質が世界の本質=心は二次的に物質(脳)の中に生じる」とする立場で(一般の人が日常なんとなくそう感じているのを素朴唯物論という)、観念論(唯識論、唯心論)は、「心が世界の本質=宇宙は心の中に生じている」という立場です。 物理学は、物体の性質を本質的に追求していくものですから、基本的に唯物論ですが、量子論の根本として不確定性原理が明らかになり、その「不確定性」が二次的に生じるのではなく物質の本性が確率波動であるとするコペンハーゲン解釈、さらにその確率性が有限化(存在性)するのは観察においてであるという事実の延長に、「人間原理=宇宙は認識を可能にするようにできている」という立場が(かなり宗教がかっているにもかかわらず)アカデミックに認知されるようになったのです。 「唯物論の物理の追求の果てに、観念論に至った」と言っても良いのかも知れませんが、それは「心が先」という事ではなく、「自我仮説(心)と時空仮説(物質)が、(不確定性原理の相補的不確定性を介して)相補分化している=全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完である」という事なのです(心が「先」になる訳でもなく、先にあるのは無)。 全ての存在性が量子的な確率波動に基づくなら、無限につめ込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇の中に、仮想的な認識体の断面を切り、その仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の補完(相補的不確定性)としての時空仮説を認識するのです。 それにより、「どちらが“先”か」という問題についても、回答が得られます。 我々は、「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、「存在は現在」と考えますが、真の『現在』とは、認識体の感受表面での量子相互作用(光速)のみであり、その経験(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として時空的広がりは発生しているのです。 超弦理論において存在の根源は量子=光速に還元され、非光速性は階層現象を(本質的に確定せずに)表面的に捉える時に派生する虚像であることが明らかとなっています。 「自我仮説」が、宇宙膨張=光速の低下=物体収縮=不確定性(h)の収束における、hの減少の時系列化である時、それが架空の時間軸となって、絶対化としての無限不確定性が、超光速(過去=経験=時間)と光速下(未来=予測=空間)に相補分化する受け皿となり、同一軸の延長が仮説的に直交基底をなす事によって、相補的不確定性を生じ、経験による予測=現象表面的定性化における、有限的存在(=非光速)を幻出しているのです。 自我仮説(唯心論=時間軸)と時空仮説(唯物論=空間軸)は相補分化し、その複合(量子的相補的不確定性=時空性)において、存在(相補分化の相殺=『何かあるんじゃないの?』という疑問への無の射影)は派生しているのです。

noname#119990
質問者

お礼

これほど難解な文章は初めてです。 一般人にも分かるように咀嚼して欲しいところですが、 でも、こんなにいっぱい答えていただいて感謝しています。 どなたか理解できる方の目に触れるといいのですが、 ありがとうございました。 そしてお疲れさまでした。

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