• 締切済み

助けてください!!!

助けてください!!! どうしてもこのあと何を書けばいいか、行き詰まってしまいます。とにかくお願いします。 課題文で筆者は『どこに行っても、自分の興味を強くそそる何かを見る目さえあれば、世界は豊かな驚きに満ちている。そのことで、普段は見過ごしてしまっている出会いをもたらしてくれる。』と述べられている。 以前、ある先生が私に、紅葉について話をしてくれたことがあった。しかし、私は受験勉強で忙しく、紅葉の素晴らしい景色を見る余裕すらなかった。それゆえに、紅葉に対して見向きもしなかった。ましてや、もう紅葉が始まりつつあるのかと驚いてしまったくらいであった。 私は将来、日本文学について学ぶ。様々な日本の文学作品の中には、和歌が登場するのもある。和歌を詠むことで、当時の季節感や情景を想像することができる。それにもかかわらず、私は日本の季節の中で、紅葉による風景を見ていなかった。このことは、私にとって、紅葉を見る気持ちが未だにないことを意味する。更に先生は私に、紅葉によって少しずつ風景が暖色系に染まっていく姿や、徐々に秋の気配が感じられる様子を話してくださった。しかし、先生から紅葉について話を聞いて、なんとなく自分の頭の中にぼんやりと、紅葉の風景を思い浮かべるだけであった。←これで段落終わってはいけない。もう少し加えてほしいと。そしたら、次の段落で、『花鳥風月』の言葉を交えて書けと言われました。 この続きをどのように書けばいいでしょうか。教えてください。

noname#118901
noname#118901

みんなの回答

  • spring135
  • ベストアンサー率44% (1487/3332)
回答No.2

A:しかし、先生から紅葉について話を聞いて、なんとなく自分の頭の中にぼんやりと、紅葉の風景を思い浮かべるだけであった。 B:本当は、どこに行っても、見る目さえあれば、世界は豊かな驚きに満ちているはずだ。隣近所の風景でも、親しい人たちの中にでも、見出だそうと思えば、普段は見えない様々な面が多く見えてくる。ただ、多くの場合、そうした出会いを素晴らしいものにする、当人の実力が伴わないというだけである。 あえて出会いを意図してというのではないが、わたしは一日に数回は、何かに驚くように心がけている。恐怖を味わうためではない。驚嘆して感激するためである。ごく普通の日常の中に、都会では消えかけている季節を感じたり、道行く人々の顔に、思わぬ表情を見出だしたりすることがある。このような発見は、普段は見過ごしてしまっている出会いをもたらしてくれる。 同じ質問者の言っていることとして、根本的に矛盾しています。従って行き詰るのもムべなるかなと言うところでしょうか。 感じるということは実力ではありません。もっとpassiveなものです。 そして >わたしは一日に数回は、何かに驚くように心がけている。 こんな風に強制するものでは決してありません。 もっと直截に言えば BなのになぜAの紅葉が抜け落ちるのかが理解不能です。 >しかし、私は受験勉強で忙しく、紅葉の素晴らしい景色を見る余裕すらなかった 何をたわごとを言っているのですか。受験勉強だろうが何だろうが、紅葉への感慨はあるはずです。Bを心がけているのであれば。 『花鳥風月』を先生が出してこられたのは最後の助け船です。生の自然としての紅葉に感慨がもてないのであれば、それらを描写し思いを盛り込んだ先人の作品を見て何かを感じて見なさいということです。明治以降の作品で十分でしょうから日本画をひもといてみればよいでしょう。

回答No.1

これだけの内容で続きを書けと言われても・・・無理があります。 まず、最初に出てくる「課題文」というものを読んでいません。 続きを書くためには、「課題文」の内容を知っておく必要があります。 また、その他に何か、提示されていない「縛り」がある可能性もありますよね。 単にこの後、課題文の内容などは関係無く、「適当にストーリーを創作して段落を終わらせ、次ぎの段落で『花鳥風月』という言葉を入れ込んで文章を作成して良い」、ということなのであればいくらでも書けそうな気がします。 例えば、 私が分かったような分からないような顔をしていると、先生は私に、「日本人なのだから、もっと四季折々の自然に目を向ける必要があるね。」と仰って、次のような絵を見せて下さった。・・・・ とかなんとか、次の花鳥風月に繫がる話になるように勝手に膨らませて行く、という感じで創作していけばなんとでもなりそうな気がします。 ・・・私は何か勘違いをしているのでしょうか?

noname#118901
質問者

補足

課題文→ある漫画を面白いと思うのは、その内容のどこかが当人の鑑賞力のレベルと同等なのであり、かつ、その力が作品の内容と競い合っているからだ。世間では嫌われ者でも、好きになる人がいるのは、相手のどこかに、自分とそぐうところがあるからである。 たとえば、学校の授業で、ある絵画を名作だと先生から教えられても、生徒自身がその作品と本心で出会っていなければ、「これは名作だ」という単なる知識が残るだけである。その様な知識は、せいぜい学校の試験やクイズ番組でしか役に立たない。 わたしは、様々な文化や言語に関心を持ってきた。中でも、アフリカやカリブ海域を専門としたのは、世界の全域を調べた結果、そのような場所を選んだわけではない。気が付いたら、そうした地域の研究に関わることになっていた。肌があった、とでもいうのだろうか。自分の興味を強くそそる何かがあったのだろう。 本当は、どこに行っても、見る目さえあれば、世界は豊かな驚きに満ちているはずだ。隣近所の風景でも、親しい人たちの中にでも、見出だそうと思えば、普段は見えない様々な面が多く見えてくる。ただ、多くの場合、そうした出会いを素晴らしいものにする、当人の実力が伴わないというだけである。 あえて出会いを意図してというのではないが、わたしは一日に数回は、何かに驚くように心がけている。恐怖を味わうためではない。驚嘆して感激するためである。ごく普通の日常の中に、都会では消えかけている季節を感じたり、道行く人々の顔に、思わぬ表情を見出だしたりすることがある。このような発見は、普段は見過ごしてしまっている出会いをもたらしてくれる。

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