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なぜ清は琉球処分のとき武力に訴えなかったのでしょうか
なぜ清は琉球処分のとき武力に訴えなかったのでしょうか かつての琉球王国は日清両属だったのですよね? ならばなぜ日本が廃藩置県で琉球王国を強制廃止したときや さらには琉球藩を廃止して鹿児島県に編入したときに清は武力介入を行わなかったのでしょうか? 琉球は実質薩摩へ服属していたとも聞きますが一応は清との冊封を維持していたと思うので清の立場からすればキレても良い場面だと思うのですが。 強く反発はしても結局そのときに武力介入を行わなかったのはなぜなんでしょうか?
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形式上はそのとおりですが、実効支配をしていたのは薩摩藩です。清に限らず中国は海洋に対する関心が殆どなく、水軍と言ってもそれは主として長江での戦闘を前提にした装備であり、太平洋の荒波を越えて侵攻できる装備は保有していませんでした。 また、当時の清はアヘン戦争にやぶれて大変な国難に遭遇しており、琉球に軍を派遣することはできないし、そんなことを考える高官は皆無だったでしょう。冊封と言っても朝貢して来た使節をねぎらい、莫大な贈り物をすることで面子を保つことだけがその関係だったのですから、使節を送って来なくなったからと言って懲罰の遠征などはやった例は皆無です。むしろそれは経費がかからなくなってホッとしているという面があるのです。日本の遣唐使にそんなに度々来るなと愚痴ったという話も残っています。
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- beingpeace
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5 http://www.jiyuushikan.org/rekishi/rekishi67.html 台湾出兵⇒日清戦争で、清と日本とで合意して琉球が日本の領土と明確に確定された。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 琉球処分 [編集] 「琉球藩」も参照 1871年に全国で廃藩置県を実施した日本の明治政府は、1872年(明治5年)、琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置した。これは琉球国を国家としてではなく令制国として扱うという形を取った物である。しかし清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。当時の東アジアの秩序は、中国・清王朝を中心とした、朝貢を基本とする華夷秩序によって形成されており、琉球も例外ではなかった。これに対し、日本は「万国公法」にある近代的な「国民国家」理論を適用し、「日清重属」であった琉球を取り込もうとした。 日本は琉球領有の正当化のため、台湾原住民による琉球人殺害の報復として1874年(明治7年)に台湾出兵を行なった(宮古島島民遭難事件)。1879年(明治12年)、明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入した。同年中に沖縄県を設置し、薩摩以前の宗主国である清国との関係を重視する王族士族の抵抗(サンシー事件など)を退けた。一部の抵抗者は清に亡命し、琉球回復の政治活動を行い、彼らは脱清人といわれた。しかし日本政府が最も危惧した清国の武力介入は結局行われず、琉球王国は中央集権的近代日本国家に組み入れられて消滅した。国王(藩主)であった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられた。第二尚氏家系は現在も続いている。 清は、この動きに反発し、両国関係が緊張した。翌1880年(明治13年)、アメリカ前大統領グラントが仲裁に入り、沖縄県から先島諸島を分割し、清へ割譲する案を提示したが、清が拒絶したため頓挫。 最終的な領有権問題の解決は1894年(明治27年)の日清戦争後で、戦争に敗れた清は台湾を割譲、同時に琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなった。琉球処分以降の、中華民国の、尖閣諸島を含む沖縄諸島の認識は、日本領として正式に承認し、両国間では一応の決着がついていたことが判明している。その証拠として1920年に中華民国から日本の石垣村に送られた感謝状には『日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島』という記載がある[5]。また70年代頃まで中華民国で使われていた教科書や台湾の国防研究所と地学研究所が作成した地図でも尖閣諸島を日本領として明確に記載していた[6]。現在でも、中華人民共和国は公式の場にて日本の沖縄に対しての領有権を認めており、日中共同声明で日中両国の主権及び領土保全の相互尊重を表明している。 --------------------- 要するに、日清戦争で日本が清に勝ったからです。
- eroero1919
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そら、介入できるだけの武力があればいくらだって介入したでしょう。東シナ海を渡って沖縄に上陸し占領できるだけの海軍がなかったのですよ。 まあもし今でも尖閣紛争になれば負けるとは思わないのですが、我が国には現在憲法九条がございますので・・・
お礼
ありがとうございます。 やはり当時はそこまでの軍事力を持ってなかったという回答が多いですね
- juyjuy
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日曜の夜NHKで「蒼穹の昴」という日中合作のドラマをやっています。(作者は日本人です。)これを見ればすぐわかります。 要するに今の日本のように力がなかったからです。
お礼
蒼穹の昴 面白いです(。・ω・。)
- 馬鹿鳥 仁左右衛門馬鹿犬(@osuwariha)
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強く反発はしても結局そのときに武力介入を行わなかったのはなぜなんでしょうか? 清朝はこのとき支配地域の各地で内乱が多発しており、琉球まで出兵する余裕がありませんでした。 回族の反乱にてこずり、ヤクブベクの乱などもあり、新疆、甘粛、雲南が反乱軍の手に落ちていました。 自国の国内の大規模反乱で、朝貢国のところまで手が回らなかったというのが実情のようです。
お礼
回答ありがとうございます。 当時の清はそれどころじゃなかったんですね。 今では考えられない大変な時代です。
お礼
回答ありがとうございました。 当時の清の国情を考えれば武力介入はできなかったということですか。 清もこれ以後日本を警戒して北洋艦隊に力を入れるわけですよね。