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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文: 良心とか、好ましい心、といった表現について。)

良心とは?心のあり方について考える

雪中庵(@psytex)の回答

回答No.2

人の生きる目的が物質的な繁栄や即物的な利益の追求ではなく、 精神的充足感の追求であれば、「良心」や「善悪」といった 社会的価値は二次的なもので、自己の充足量の最大化において +になるか-になるかだけが価値基準です。 「善悪」のように、自己の衝動の展開とは独立した、他律的価値 によって強制される社会行動は、原理的認識が伴わないため、 「充足量の最大化」において次善の策となる。 (「悪」についての過去の回答を下に付けます) 悪(あく):深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。 その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。 それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属する。

yy8yy8az
質問者

お礼

 よく使われる「真実の自己」と言う表現。  これに相当する“自身”を成長させる事柄を「善」と言い、妨げる事柄は「悪」とする。  このように受けとめてみました。  回答ありがとうございました。(27/9:43)

yy8yy8az
質問者

補足

 「良心」という言葉についての「概念」を抽象的に表現した“回答”と受け止めました。内容は分かってないので自身ありませんが。  この視点で、人が持つ感情、「他を思いやる心=やさしさ」について、語ってみていただけないでしょうか。  よろしくお願いいたします。    

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