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無についての問答
- "無についての問答"とは、人の道で行われた無に関する質問に対する答えをまとめたものです。
- 無の世界には、光や音、匂いや味、風や熱い寒い、喜びや悲しみといった感覚や感情は存在しません。
- 無の世界には何もありません。人が死んだら消滅し、無になるのです。
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やはり、「生きていた人の心」は、脈々と続いているわけですね。。。 >>> No.26 お礼欄 わしが死んでも供養などせんでええー、わしが生きとる間大切にしてくれと。 わしの祖父さんも、祖母さんもそう言うとった。 死んでから供養してももう遅いんや。 何故かちゅーと人は死ねば消滅し無になるからや。 わしの祖父さんも、祖母さんもそう言うとった。 わしが死んだらもうーおらんのやでー、もう何も出来んでーと言うとった。 <<< ご先祖様の「思い」を大切にして、「無」という概念を子々孫々「心を込めて」伝えてあげてください。 それでいいと思います。
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- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> No.24お礼欄 自然界に心が有る、宇宙に心が有ると考えるのは自由や。 しかし自然界に心が有ると考えたところでそこからは何も出てこんのや。 宇宙に心が有るとしたところでそこからは何の感動も生まれん。 生きとる人の心が大事なんや。 <<< まさにその通りだと思います。 ただし、「生きている人の心」は、(生前の活動ゆえに、)死後も他者に影響を与え続けるのです。 亡くなった祖先からの繋がりを「無」という言葉で断ち切れるのか、断ち切れないのか・・・ ご質問に列挙しておられる文言だけでは、「生きている人の心の大切さ」→「死後にも現世に影響を与え続ける繋がり」といった「思い」は(失礼ながら)微塵も感じられないのです。 「生きている人の心」が「大切」であれば、必然的に「生きていた人の心」も「大切に思おう・思いたい」という能動的・自発的な衝動が生み出されることでしょう。 そういった「思い」は、「無」といった言葉とは相反するように思われます。 個人的には、「生きたままでは、決して乗り越えることのできない生死の境界」と、「厳然とした境界を越える情」との両者を併せ持つ必要性があると思っています。 「死後が無であるかどうかとは、無関係に」です。
- 来生 自然(@k_jinen)
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申し訳ございません。 No.24で、少し訂正・補足があります。 後述の様に訂正・補足させていただきます。 あと、「問う人」として記述している「死んで無になるのなら、どうして私を産んだの?」 について「人の道」ならば、どう答えるのか?が不明のままです。 ※上記「問う人」の問いに、まともに答えるには、「自然・人為・受動・能動・意識・無意識・自由意志・決定論」といった概念(およびその境界の揺らぎ)が深く絡んでくるはずです。 「気付いたら生まれとった・死んだら無」といったとき、上記概念にどのように絡んでくるのか? 「問う人」の質問の意図は、そこにあります。 ====No.24の訂正・補足=== 修正前) >>> 4-2.その「概念・体系」が、「科学」と呼ばれるものであるとき 願いや思いを押し殺し、有るがままの現実の壁を越えようとする精神が乏しくなる。 <<< 修正後) >>> 4-2.その「概念・体系」が、「科学」と呼ばれるものであるとき 与えられた現実の壁を越えようとする精神が乏しくなり、願いや思いが即物的になる。 <<< 修正前) >>> 簡単にまとめると、 a).脳内活動を意識と無意識に分けると、自覚し得ない無意識が「意志決定」に先行して動作を決定している(場合がある)。 b).脳内活動の「無意識」は、環境因子(たとえば、外部の磁場の変動)によって影響を受ける。 ということです。 上述の実験を知らなくても、脳内活動の「意識・無意識」を含め、(磁場変動以外の)周囲環境の影響を受け、そして逆に外部にも影響を及ぼしてていることは、自明のことです。 <<< 修正後) >>> 簡単にまとめると、 a).脳内活動を意識と無意識に分けると、自覚し得ない無意識が「意志決定」に先行して動作を決定している(場合がある)。 b).脳内活動の「無意識」は、環境因子(たとえば、外部の磁場の変動)によって影響を受ける。 ということです。 上述の実験を知らなくても、脳内活動は「意識・無意識」を含めて、(磁場変動以外の)周囲環境の影響を受け、そして逆に脳内活動が言動を通じて外部にも影響を及ぼしてていることは、自明のことです。 <<<
- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> No.20 補足欄 人間宗教漬になると願いや思いが前面に出るようになる。 <<< 順番が逆でしょうね 1.亡くなった肉親への思いが先にある。 2.その思いの方向に、たまたま「何らかの形を与える」概念・体系に出くわす。 3.その「概念・体系」が、たとえば「宗教」であり、「科学」であるわけです。 そうして、 4-1.その「概念・体系」が、「宗教」と呼ばれるものであるとき >>> No.20 補足欄 願いや思いが先行し、有るがままの現実を捉えんとする精神が乏しくなる。 そして死後も霊魂は残るのではなどと言い出す。 しかしこういう考えは場合によっては恐ろしい結果を生み出すことになるちゅーのが分からんのやろうか。 <<< ということが多くあり、 4-2.その「概念・体系」が、「科学」と呼ばれるものであるとき 願いや思いを押し殺し、有るがままの現実の壁を越えようとする精神が乏しくなる。 そして死後の肉親の体(ひからびた死体)を利用して金儲けに走る。 >>> No.20 補足欄 しかしこういう考えは場合によっては恐ろしい結果を生み出すことになるちゅーのが分からんのやろうか。 <<< ということが多くあるのです。 >>> No.20 お礼欄 心の不思議さを説明するのに信仰に至る必要はない。 これも人の脳内で起こる自然界の法則として捉えることの方が感動も大きいんじゃ。 心は人の脳内で起こる自然界の法則の営みであり、その営みは脳が消滅すればその脳と共に自然消滅する。 <<< そう思う人もいるし、思わない人もいる。 そう思う人は「前野氏の受動意識仮説」を正しいと思う人でしょう。 (「受動意識仮説」の内容については、たとえばhttp://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/27/news022.html , http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/28/news050.html あたりを中心にまとまっています。) この考え(仮説)のみを信じた場合、たとえば「自由意志」というものが存在しないということに繋がりかねず、問題を引き起こすこともあり得るでしょう。(たとえば、wikiの自由意志:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97 の、決定論と道徳的責任の項目に詳しく記述されています) さて、前野氏の受動意識仮説は、リベットの実験が元になっています。 >>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97 Libet は、被験者の脳の活動が、意識的に動作を決定するおおよそ1/3秒前に開始したことを発見した。これは、実際の決定がまず潜在意識でなされており、それから意識的決定へと翻訳されていることを暗示している。 後に Dr. Alvaro Pascual-Leone によって行われた関連実験では、動かす手をランダムに選ばせた。ここでは、磁場を用いて脳の異なる半球を刺激することによって被験者のどちらかの手に強く影響を及ぼしうることを発見した。例えば、標準的に右利きの人は実験期間の60%の間右手を動かすことを選ぶ、しかし右脳が刺激されている間、実験期間の80%の間左手を選んだとされる(右脳は体の左半分を、左脳は左半球を統括していることが想起される)。 <<< 簡単にまとめると、 a).脳内活動を意識と無意識に分けると、自覚し得ない無意識が「意志決定」に先行して動作を決定している(場合がある)。 b).脳内活動の「無意識」は、環境因子(たとえば、外部の磁場の変動)によって影響を受ける。 ということです。 上述の実験を知らなくても、脳内活動の「意識・無意識」を含め、(磁場変動以外の)周囲環境の影響を受け、そして逆に外部にも影響を及ぼしてていることは、自明のことです。 すなわち、「心の不思議さ」は「脳内だけ」で成り立つものではなく、(人間同士の関係を含む)「周囲環境」とも密接に関連しているということです。 だからこそ >>> No.20 お礼欄 心は人の脳内で起こる自然界の法則の営みであり、その営みは脳が消滅すればその脳と共に自然消滅する。 <<< ではなく === 心という概念で捉えられる現象は人の脳内のみならず、関連し繋がり合っている自然界そのものの営みであり、その営みは脳が消滅しても消え去ることはなく、自然界の中で受け継がれていく。 === というべきものだと思います。 その自然界そのものに、神的な「何か」を求めようとする人もいるでしょうし、そうでない人もいるわけです。
お礼
自然界に心が有る、宇宙に心が有ると考えるのは自由や。 しかし自然界に心が有ると考えたところでそこからは何も出てこんのや。 宇宙に心が有るとしたところでそこからは何の感動も生まれん。 生きとる人の心が大事なんや。
- magga
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<<人間宗教漬になると願いや思いが前面に出るようになる。願いや思いが先行し、有るがままの現実を捉えんとする精神が乏しくなる。>> そうですね。 無根拠に賢硬に決め付ける形の信仰は あるがままの現実を捉えようとする精神が乏しくなると僕も思います。 <<心の不思議さを説明するのに信仰に至る必要はない。>> 全くそう思います。 理性的に論理的に実証的に科学的な手法を駆使し、原因と結果の法則を導き出し 探求すればいいだけのことと思います。 <<これも人の脳内で起こる自然界の法則として捉えることの方が感動も大きいんじゃ。心は人の脳内で起こる自然界の法則の営みであり、その営みは脳が消滅すればその脳と共に自然消滅する。>> どう捉えると感動が大きいかは、理性的に論理的に実証的に科学的な手法を駆使し、原因と結果の法則を導き出し探求する道とは異なります。 ともすれば、無根拠に賢硬に決め付ける形の信仰・あるがままの現実を捉えようとする精神が乏い方の思惟方法と同質の物になりかねません。 事実やデータと、そのデータをみた人間の感情の、感動の大きさは全く関係にないものです。 心は脳のみの働きであるという主張も。 ↓ <<しかしその議論については既にこの質問の前半にて済んでおるのでここでは繰り返しはせん。>> 前半にてなされた主張では、まったく根拠論拠が足りませんし、データの読み方にも問題があるのではないかと問題点を私なりに提示しましたが、それらに関して皆様に理解できるであろうだけの情報開示はなされぬままですので、今のところ「あなたの抱く結論がこのようなものである」しか皆様に伝わっていないと思います。 指摘したような「思索方法の問題点・根拠論拠・データの読み方の矛盾」などを明らかにされないで「これこそ事実、他は間違っている」という風に語る限り、皆様には単なる信仰の押し付けだとしか思われないでしょう。 よい思索の助けになりました。 ありがとう。 この回答が何かのお役に立ちますように。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.7 & 11 & 14 & 21です No.21では昼休みに携帯から投稿したため、改行関係に少し乱れがでてしまい、申し訳ございませんでした。 >>> No.21補足欄 「人の道」とは人が人として歩むべき道、真理を探究する道ちゅーことじゃ。 <<< No.7 問う人:無からどうして「有」(わたし)は生じるのでしょうか? 「道の人」:あんたはあんたのおかーの腹の中から、わしはわしのおかーの腹の中から生まれたんや。 No.11 問う人:人や生命が全て死んで「無」になってしまったら、生き物は二度と現れないの? もし、全てが死んで「無」になってから、命が芽生えてくるのなら、それはどうしてなの? 「人の道」:そんなことはない。宇宙の中でこれまで生命は何度となく滅びたが、その都度生命誕生は普通に繰り返されておるのや。 上記二つの質問にも少し含ませていたのですが、その「含み」を見事にフィルタにかけて排除し、一面のみからの回答を出してくださいました。 それは「無」以外への「思い」を消し去りたいという御自身の「思い」があるからでしょう。 しかし、下記の質問には、答えることを躊躇しておられます。 問う人:死んで無になるのなら、どうして私を産んだの? この質問を想定せずに「死んだら消滅し無になる」ということを述べ立てられるのは、問題が生じるということです。 この種の質問は、このカテゴリ内だけでも幾度となく為されてきています。 たとえば http://okwave.jp/qa/q66204.html なぜ人間は死ぬことをわかっていながら,生まれてくるのでしょうか http://okwave.jp/qa/q1919185.html 人が生まれ、死ぬことの意味。 それぞれが、それぞれの答えを求め、それぞれに納得しておられます。 無論、宗教的な側面を露骨に出しておられる場合もあるでしょうが、多くの場合、それぞれの回答者は、それぞれの人生にて自身が得た「知」を取りまとめて記述しておられます。その思索にはそれぞれが相反するような部分もあります。しかしながら、その根底には、「人生というもの」への強い思いが込められています。 知的な「正しい」とか「間違っている」とかいった断定そのものを越えた「思い」を表明することこそが大切なのではないでしょうか? 「人の道」のみではなく「人の(いや、御自身の)思い」を併記されることをお勧めします。
お礼
その答えは実は簡単や。 人は誰の意思で生まれてくるんや。 人は自分の意思で生まれてくる訳ではないやろ。 気付いたら既に生まれておった、これが実際のところや。 生まれたいと願おうが、生まれたくないと願おうが全ては後の祭り、気付いたら生まれとったちゅーことや。 ただそれだけのことや。 つまり全ては宇宙の法則に従い世界が動いた結果生まれてきたちゅーことや。 既に起こったことは元には戻らん。 だから後は生きるしかないんや。 どうせ生きるんやったら大いに羽ばたいて生きよちゅーことなんや。 そして時が来て寿命が尽きると死んで消滅する。 人が生まれ、死ぬことにたいして深い意味はない。 ただそれだけのことや。
補足
>なぜ人間は死ぬことをわかっていながら,生まれてくるのでしょうか >人が生まれ、死ぬことの意味。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No17です 問答形式の記述は、前回で最後にしようと思ったのですが、解釈が食い違ったままというのも問題なので、 敢えて書いておきます 問う人:おっしゃるところの「人の道」という概念と、私の思うところが食い違っているところ が解りました。 No.14:死んで無になるのなら、どうして 、私を産んだのでしょうか?
お礼
>死んで無になるのなら、どうして私を産んだのでしょうか? 一体これは誰に対して問うているんかのう。 自分を生んだ親に対して問うているんか。 誰に対して問うているにせよ、わしには到底想像もつかん問いかけじゃよまったく。
補足
「人の道」とは人が人として歩むべき道、真理を探究する道ちゅーことじゃ。
- magga
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論理矛盾を指摘も、情報の提示もしないのですね・・ <<なるほど、よー分かりました。つまりこういうことや。幽霊は存在せんが、>> ここで科学的論理的思考から外れているように感じます。 前提条件をおいています。 まず存在しないという論を真とし、そこから話を進めています。 これは科学的論理的思索という枠から外れています。 まずその方が考える○○の定義・条件や どのような体験からそのような思考に論理に至ったか をその語る方に聞くこと。 そして、定義や条件を体験を鑑みて思索してみるしか無いでしょう。 証拠不十分なら、決め付けること叶わぬ。思索の価値なしとすればいいでしょう。 <<その存在せんちゅーことは証明できん。だから幽霊はいるともいないともいえないと言うとる訳や。幽霊が存在せんちゅーことを証明できんのは事実や。しかしこれは当たり前のことや。なぜなら元々存在せんものについて、それが存在せんことは証明できんからや。>> 現状で証明できないことを全て「元々無いものだから証明できないのは当たり前」とするのは理性的な論理的な科学的な思索をしようとしている人の態度とはいえないでしょうね。 過去の科学物理の世界で誰も証明できなかったものが現代では証明できたりしているのですから。 原始時代の方々に「現代の科学で証明されるような物事」が証明できなかったからといって「元々無いものだから証明できなのは当たり前」ということにはならないでしょう? <<しかしこんなものをいくら寄せ集めて積み上げたところで殆ど何の意味もないことは自明や。>> 根拠論拠にの強さを鑑みて、整理して、保留しておけばいいはなしでしょう。 それを根拠論拠なく「無い」という前提条件を当てはめては、理性的態度とは程遠い態度だと思います。 <<人の死後についても全く同レベルの問題に過ぎんのや。>> 「生きている」という働きがどのようなものでどうなるのか。 詰められるだけ詰めて、肉体の崩壊後その働きがどうなるかについて現状のデータでは保留。 とするのは理性的だと思いますが。 根拠なく「無い」と断定するのは信仰です。検証の立場から離れた思惟だと思います。 <<自らは何も示すことはせず、ただこの証明できんちゅー事実の上にあぐらをかいて居座ろうちゅーのが宗教や。しかしこれは美しくもなんともない全く破廉恥な考えと違うか。こんなもんには微塵の価値も見出すことはできん。>> 証明できないというところまではいいのですが、その上論理的矛盾をはらむ概念などを絶対に事実だと決め付けることは、なんとも美しくもなんともない全く破廉恥な考えかもしれませんね。 そのようなものには微塵も価値を見出せません。 同じく、証明できないにもかかわらず、根拠論拠なく「ない」と決め付けその概念を絶対に事実だと決めつけることは、なんとも美しくもなんともない全く破廉恥な考えかと思いますよ。 そのようなものには微塵も価値を見出せません。 どちらも原始時代の方が「我々の技術で証明できなかったことは全てそんなもの無いからだ!」や「根拠無くこの概念が事実だ!」と自信を持って言っているとして、笑っていられませんよ。 同じようなことをしているのですから。 ・・・ ここらで私なりの回答を終わろうと思います。 この回答が誰かの思索の役に立てると幸いです^^b ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
お礼
心の不思議さを説明するのに信仰に至る必要はない。 これも人の脳内で起こる自然界の法則として捉えることの方が感動も大きいんじゃ。 心は人の脳内で起こる自然界の法則の営みであり、その営みは脳が消滅すればその脳と共に自然消滅する。 しかしその議論については既にこの質問の前半にて済んでおるのでここでは繰り返しはせん。
補足
人間宗教漬になると願いや思いが前面に出るようになる。 願いや思いが先行し、有るがままの現実を捉えんとする精神が乏しくなる。 そして死後も霊魂は残るのではなどと言い出す。 しかしこういう考えは場合によっては恐ろしい結果を生み出すことになるちゅーのが分からんのやろうか。
- eld3399
- ベストアンサー率4% (16/345)
無の中にも無時間が存在し、人間の思考では把握することもできない。
- vincero
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原因があるから結果があります。この世の原因は無でしょうか?無から有はありえないことです。 人は生まれ成長し誰もが変化していきます。肉体の死は無ではなく変化と考えられます。 肉体の死は無になることでなく、生命と肉体が分離する変化であると考えたほうが自然です。 この世に存在する以上、無が無いといえます。過去の存在も無とはならないようです。 現実にタイムマシーンはありませんが、理論上は造れるそうです。 「過去・現在・未来」も存在しているとは説明が難しいもの。ですが無ということはありません。 遠く離れている星を地球上で見ているときには、たとえば200万光年昔しの星を見ていたとして、その星はすでに消滅しているものもあります。その星は無になったのではなく変化したのです。 この目で現在を見ようとしても空間の距離がある以上、一瞬の過去を見ているので現在を見ることは理論上はできないことになります。ですが現在が存在しなければ私達は存在しません。現在がなければ未来も存在しないのです。 実際に人の誰もが未来に肉体の死が待っています。宗教では死後の世界を説いているものがあります。これは否定することも肯定することもできます。 死後の世界を信じる人も信じない人も、同じこの世に存在していることは否定できないことであり、遅かれ早かれその誰もがこの世から去ります。人ならば肉体の死は避けて通れない道です。 人が生まれる前のことを無というのならば、人の肉体の死も無になると言えるかもしれない。 だが人が生まれる前にも後にもこの世は存在していて無というものが実際に無いんです。永遠に有るもののなかに存在しているので、人の死は無ではなく変化です。
お礼
>だが人が生まれる前にも後にもこの世は存在していて無というものが実際に無いんです。永遠に有るもののなかに存在しているので、人の死は無ではなく変化です。 人が1人生まれるも、死んで消滅するもこの宇宙の中では微々たることじゃ。 もちろん人が1人生まれたり、死んだりすることによりこの宇宙は微かに変化したと言えるが。 人は死ねば消滅しもはや存在せぬ状態になる、つまり無になるちゅーことや。 もちろん人が1人死んで消滅したからちゅうてこの宇宙が無になるわけはない、当たり前や。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
No.1 & 7 & 14です。。 >>> No. 14 補足欄 あんたも(中略)あるときは幽霊はいると言い、別のときは幽霊はおらんと言う面々の一人ではないんかと思うがどうや。 <<< 私の立場は、 http://okwave.jp/qa/q6058056.html の回答No.9で明らかにしています。 >>> 1.物質として捉えられ得るものも精神として捉えられ得るものも、関連しあっていて切り離すことは不可能。 2.そういった意味での一元論。 3.個人レベルでは世間一般で言われるような死後の魂の存在は(知的に)否定。 ただし、個人レベルで死後の魂の存在を信じる人には、その思いが生じる根本部分に共感する。 4.故人の思い(情)が後世に伝わって影響していくことこそが、本質。 死後の魂が現実世界に影響するといった世迷い言を信じるよりも、自身の死後の現世の未来に積極的に働きかけようとすることの方が重要であり、そこにおいてこそ、「死後の魂」を希求する人々の思いの本質が隠されていると考えるからです。 <<< >>> 何でもええーけどまず心は一つやないとあかん。 それが一番大事なことや。 それからや、生きとし生けるものの話をするのは。 <<< >>> No.14 お礼欄 人は「死後の魂」、つまり幽霊なんぞは誰も望んではおらん。 そんなもんは薄気味が悪いだけで誰も想像すらしとーないものなんや。 死んだ後も生き続けようなんちゅー考えがそもそも浅ましい心なんや。 人は「人の道」を歩む限りそんな考えはもたんもんや。 <<< 仰るとおりです。 同じようなことは、 http://okwave.jp/qa/q6031948.html にて、回答しております。
お礼
「人の道」: 皆にも聞く。人は死んだら消滅し無になるちゅーこと、よー分かったな。 >仰るとおりです。 「人の道」: よー分かったんやな。よろしい、これで納得や。
お礼
「生きていた人の心」はもう無いんや。 あるのは「生きている人の心」だけや。 だから生きとる人が大事なんや。 この世に死んでから供養してもらいたいなどと考える人間はおらん。 だから世の人は皆言うんや、わしが死んでも供養などせんでええー、わしが生きとる間大切にしてくれと。 わしの祖父さんも、祖母さんもそう言うとった。皆んなそう言うとる。 人は皆生きとる間を大切にしてもらいたいと願うんや。 だから生きとる間は粗末にしても、死んでから供養すればええーと考えるのは間違いや。 死んでから供養してももう遅いんや。 何故かちゅーと人は死ねば消滅し無になるからや。 わしの祖父さんも、祖母さんもそう言うとった。 わしが死んだらもうーおらんのやでー、もう何も出来んでーと言うとった。
補足
どうや、「人の道」の言う事は単純明快やろ。 ちっともめんどくさい話はせんのや。 こういうように真理とは常に単純明快なものなんや それだけ知っとけばええー。