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室町幕府の成立時、観応の擾乱における足利直義と高師直の対立の原因は何だ

室町幕府の成立時、観応の擾乱における足利直義と高師直の対立の原因は何だったのでしょうか?

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  • tanuki4u
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回答No.3

独裁 簡単に独裁と書きましたが、鎌倉幕府における独裁というのは、鎌倉幕府の中における独裁です。 具体的には、徳宗政権時代において、北条家の当主(=徳宗)の家臣である御内人を中心に決定された事が、鎌倉幕府にとっての公式な組織である評定衆の決議に優先された、あるいは、事後承認されたというのが、鎌倉幕府における北条家の独裁です。 鎌倉幕府自体は、貞永式目という武家法にのっとり、摂家将軍なり宮将軍を上に戴いていました。 摂家将軍なり宮将軍の特徴は、成人してそれなりの政治的な権威が生まれると、退位させられていました。実際の権力を生む可能性が無ければ、退位させる必要はないわけで、執権なり徳宗として、摂家将軍なり宮将軍が「無きゃいけないが、不具合な存在」であったことを示しています。 師直のセリフだったかは忘れましたが、師直派の婆娑羅大名のセリフに 「帝の代わりに木像でもおいておけ」 というのがあります。政治的権限は必要なしという意思表示です。 コレに対して、直義の目指したのは、公式組織として旧来の公家とも融合して合理的な統治を目指します。 鎌倉幕府の評定衆が御家人だけを対象にしたのに対して、全国規模で合理的な統治を目指したわけで、その対象者は、武家も公家も寺社も含まれます。全国統治の足利家が行うという意味では、直義も独裁ですが、旧来のシステムも含めて、合理的に行うことを目指しました。 師直派は、「恩賞がなければ、荘園から盗み取れ」というセリフがあるように、公家や寺社の立場は考えません。足利家を頂点とした武家集団の利益が求めるものです。 このへんの「ナマ」な欲望の肯定が、独裁的な支配体系となります。 公式に公表している「式目」に則るのではなく、権力者が権力のもとに意志を通すという意味での独裁です。

sala1
質問者

お礼

ありがとうございます。良く理解できました。 直義派の理想どおりで進んでいたら南北朝の動乱はもう少し短期で済んだかもしれませんね。 師直派の理想とするところで進めば、荘園公領制の早期崩壊、その後の守護大名の権限拡大と群雄割拠、下剋上、戦乱への姿がもっと加速したものだったかもしれませんね。 大変参考になりました。

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その他の回答 (3)

  • tanuki4u
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回答No.4

とりあえず 本郷和人さんの一連の書籍から、自分なりの理解が先程の内容です。 社会主義運動で考えると、 プロレタリアート独裁(武家独裁)を目指した レーニン・師直 漸進的な改革を目指した、ファビアン協会・直義 というようなざっくりした理解を私はしています。

sala1
質問者

お礼

ありがとうございました。 良い例えですね。 後に義満が上皇にまで上り詰めて、足利王国独裁政権を樹立しようとした構想はこの二人の相違の問題に対する一つの答えになっていたと思えます。

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  • Pinhole-09
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回答No.2

観応の騒乱における足利直義と高師直の対立 一つは権力闘争で両雄並び立たずです。 もう一つは両英雄の性格の違いです。 性格では直義は、道徳を守る真面目な人 他方師直はすぐれた武将でしたが、策謀家で手段を選ばず えげつない戦法もとり、英雄色を好むの言葉通り、 女色を漁り直義の顰蹙(ひんしゅく)を買いました。 ただし真如寺に残る師直の書を見ると、立派な文字で力強い 英雄の風格があるそうです。  また歌道の心得もあり、 「太平記」などのお話に書かれているる人物像とは異なると 思います。 権力争い 室町幕府創立期、尊氏と直義の兄弟で政権を分担した。 統治者として各大名を支配する将軍尊氏と、 為政者として実際の政務を執る直義と、二頭政治になり、 尊氏の執事(代弁者)として権力を振るう師直と衝突した。 南朝方の楠木軍に敗れた、直義派の細川顕氏、畠山国清に 代わり高師直、師泰軍が楠木軍を破り、名声を挙げ、 顕氏の守護職を取り上げてしまった。     直義の声望が低下し師直を除く行動に出た。 尊氏と談判し、天下の政道を糺すとして高師直の執事解任を 決めた。   解任された師直は直ちにクーデターを起こし、 直義追討の兵をあげた。   山名、佐々木など多くの大名 が附き、一方直義方は少なく、戦わずしてクーデターは成功した。 のちに直義が僧籍に入る、この時の調停で 「直義は幕政から退き、その地位は尊氏の子義詮に譲る。」 とありこれは、尊氏の後を直義が継ぐ可能性を消したもの。 尊氏は我が子にあとを継がせる為に、前述の混乱を策した、 とか、尊氏の意を知って高師直が策したとの説もあります。

sala1
質問者

補足

二人の権力争い、性格の問題ということであれば、最終的に二人ともを失ってしまう結果になったことは棟梁である尊氏の人材活用のミスであったということになりますよね。 たらればの話ですが、 高師直の性格を考えれば、彼は関東の御家人からは好かれたかもしれません。 直義の性格をもってすれば南北朝廷間の交渉や公家・寺社との交渉もうまくいったかもしれません。 義詮が鎌倉にいた時期もあったのですから、彼を鎌倉で将軍とし管領に高師直、直義を六波羅探題ないしは京公方とするといったことで二人を隔離すべきであったかと思うのですが…。 そうすれば南北朝の動乱の期間も短かったかもしれないです。 ただいずれにしても、のちに幕府と鎌倉府が敵対し合ったように、京都と鎌倉の関係は悪化する宿命だったのかもしれないですね。

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  • tanuki4u
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回答No.1

鎌倉幕府の再建的な幕府を目指した直義 足利家(ないし、武家)の独裁政権を目指した師直 ということになります。

sala1
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 誠に恐れ入りますが今ひとつ腑に落ちません。 直義の目指す鎌倉幕府の再建なら、当に崩壊した鎌倉幕府は事実上、北条氏の独裁政権でした。 高師直の目指した独裁政権との違いはどこにあったのでしょうか? のちに足利義満が完成させる室町幕府の姿が朝廷をも飲み込む師直の理想の政権で、鎌倉府の姿が直義の理想とした姿なのでしょうか?

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