日米和親条約の調印式の会場について
- 嘉永7年3月3日に調印された日米和親条約の調印式の会場について、横浜村でサインした説とサスクェハンナでサインした説があります。正しいのはどちらでしょうか。
- 1854年3月31日に調印された日米和親条約の調印式の会場について、横浜村とサスクェハンナの甲板の2つの説があります。
- 日米和親条約の調印式の会場に関して、横浜村でサインした説とサスクェハンナでサインした説が混乱しています。どちらが正しいのでしょうか。
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日米和親条約の調印式の会場について
日米和親条約の調印式の会場について 自称、歴史家です。分からないことがありますので教えて下さい。 嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、「日本國米利堅合衆國和親條約」の主条約(通称、日米和親条約。神奈川条約ともいう)が調印されました。この時の調印式の会場について質問です。 米艦隊司令官のペリーが兵士を率いて横浜村に上陸し、日本側が用意した会場で条約文書にサインしたという説と、日本側が米艦隊の旗艦「サスクェハンナ」に出向いて甲板でサインしたという説とがあります。混乱しています。どちらが正しいのでしょうか。 ※主条約の細則は嘉永7年5月22日(1854年6月17日)、伊豆下田の了仙寺で調印されたといいます。(⇒下田条約という)
- hinode11
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 「自称同士」ですね。(笑) >>日米和親条約の調印式の会場について 回答から先に述べますと、 横浜に上陸して「応接館」で調印されました。 すでに十分にお調べとは思いますが、整理してみましょう。 (1)嘉永6年(1853)5月26日、ペリー艦隊那覇港に入港。 (2)同年6月1日、ペリー艦隊江戸湾に入る。 (3)6月3日、4隻の黒船が浦賀に接近する。 この時、浦賀奉行与力、中島三郎助が副奉行と偽り、通史堀達之助と乗船して長崎での会見を求めるが拒否される。ペリーは米国ミラード・フィルモア大統領親書の江戸での受け取りと開国通商を求める。 これには、幕府としては、江戸市中の混乱を回避するために、江戸から少しでも遠い場所で交渉を進めたかった。 (4)その後も話し合いは継続され、旗艦サスケハナ号での交渉の末、6月3日、久里浜へ上陸することが許され、浦賀奉行所の陣屋として使われていた館で、浦賀奉行戸田伊豆守氏栄(うじよし)、井戸石見守弘道を幕府代表として、親書を受け取る。 陣屋はペリーたちのため、畳の上に赤布などを敷き、土足のままで上がれるように改修されました。以後、「応接館」と呼ぶようになる。 (5)6月12日、ペリー艦隊は一年後に再来することを告げて久里浜を出港。 (6)嘉永7年(1854・安政元年)1月16日、ペーリー艦隊浦賀に再来。 (7)幕府は横浜に上陸することを許可する。 (8)この時、久里浜にあった「応接館」を解体し、横浜に運び込み、4日間で完成させた。 (9)2月10日、横浜の応接館で第一回会談。 (10)2月19日、同じく横浜で第二回会談。 (11)3月3日、横浜村の応接館で条約を締結する。 2月10日にペリーが上陸した時の様子は、「日本遠征記」によると、 上陸するや、提督は士官たちの群に迎えられ、また、士官たちは一列になって提督に随行した。今や楽隊が活発な音を奏で、また、青と白の制服を着し銃剣を持って隊伍堂々と整列した実に勇ましく威儀堂々たる陸戦隊は、直参の幕僚と立派な様子の護衛兵と多数の部下の士官とを従えた。提督が海岸を進行していくときに捧げ銃をした。大旗、小旗、吹流しを持った立派な服装の日本護衛兵、即ち、従者の一群は、条約館入口の両側に集まっていた。 さらに、応接館について、 提督と部下の士官たちが最初に入った部屋は大広間で、久里浜の部屋と同じようにしつらへてあった。床には厚い稲藁の畳が敷き詰められ、赤布で覆うた長く幅広い長椅子が両側に列べられ、同じような布を掛けたいくつかのテーブルがその前に配置されてあった。窓は油紙でつくられ、それを通して、緩和されたなごやかな光が広間を照らしていた。 現在、応接館は取り壊されて、「開港広場」となっている。 また、近くには「横浜開港資料館」もありますので、一度訪ねられたらいかがでしょうか。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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あぁあるんですね。 http://contest.thinkquest.jp/tqj2000/30061/bohatan.htm http://www.timeslip-y.jp/minato/nitibei.html ですね。 やはり、軍艦上でやる慣習があるのでしょうかね。降伏文書調印のミズーリ号みたいに。
お礼
「日本側が用意した会場で」が正しいようです。異説はデマですね。ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84では日米和親条約調印地 横浜市中区日本大通(横浜港開港広場)と写真まで載っていますね。 これに異説があるのですね。
お礼
「日本側が用意した会場で」が正しいようです。異説はデマですね。ありがとうございました。
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「日本側が用意した会場で」が正しいですね。近いうちに「横浜開港資料館」へ行ってみます。ありがとうございました。