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国際政治への関心は無駄か

国際政治への関心は無駄か 国際政治における推理に興味があり、政治カテで発言してましたが しょせんは推理にしか過ぎず。妄想を強めているだけかなとも思います。 手の届く範囲で最善を尽くすことの哲学的、宗教的意義を教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

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  • rurubonpp
  • ベストアンサー率26% (128/488)
回答No.2

仏教の目標の一つに「仏国土建設」というものがあります。これはこの現世の世界を平和な浄土にしようということです。これは他の宗教に置いても同じ願いではないでしょうか。 戦争の無い平和な世界を目指して、国際政治を勉強することは宗教的意義のとてもあることだと思います。 また、世界の平和や幸福に貢献出来なくて、何の哲学か何の宗教かと言えますね。 哲学や宗教に限らず、あらゆる学問が世界平和や世界幸福を目標に頑張ることは、とても大事なことであり、それこそが学問の存在意義だと思います。 もし、学問が戦争や世界の不幸になることだけにしか使われないのであれば、人間は何の進化もしなくて、猿のままだった方がマシだったと思います。

noname#118718
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >また、世界の平和や幸福に貢献出来なくて、何の哲学か何の宗教かと言えますね。 目的は賛成ですが、自らのこころを(安楽とは異なる)平和な状態にしないとなかなか難しいという気がします。

その他の回答 (1)

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.1

>手の届く範囲で最善を尽くすことの哲学的、宗教的意義を教えてください。  目に見える問題、直面している状況 例えば相手の反応とか表している感情をどのように捉え、考え、対処していくかということと、哲学・宗教は関係ないと考えます。  他者から見た「客観的自我」が、本当に客観的自我と言えるのか。他者の個人的な主観による自分(私)への批評や批判や働きかけを受け入れるのか。それとも「そうあれ」という要求であるに過ぎないと考え、自分の「こうありたい」という望みを、通せる範囲で通し、関係性を変えることで理想的自我を実現していくのか。  少なくとも他者が捉え、規定した私自信への評価、働きかけによって自分自信を規定するのは危うい、と思うのですが。  手の届く範囲で最善を尽くすために、哲学と宗教に意義はない、それどころか道を誤る可能性があるのではないですか。

noname#118718
質問者

補足

回答ありがとうございます。 >少なくとも他者が捉え、規定した私自信への評価、働きかけによって自分自信を規定するのは危うい、と思うのですが。 おそらく以下の質問での回答に対して述べているのだと思いますが http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5987547.html http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5989068.html よく読めば、客観的な評価が普遍的な評価と一致するとは述べていないことがわかると思います。 箴言で表現すれば「猫と遊びたいなら猫からの評価を基準に行動した方がいい」ということです。 まあ、客観的=正しいという思い込みは一般的にあることが再認識されましたので感謝したします。

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