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なぜ藤原氏は天皇とならなかったのか。
kenkeyの回答
- kenkey
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お初です 源氏物語云々は分かりませんが、天皇を廃して自分たちがトップに立つ事は考えなかったと思います。天皇より位階の授与があって今の地位がある訳です。また、逆賊(逆臣)と呼ばれない為の策だったような気もします。クーデターを起こすより、影で糸引く方がまだ楽です。鎌倉時代、承久の乱後に北条氏は朝廷側の首謀者を流罪にしました。この後武家政権は朝廷に対して口出し出来るようになりましたが、潰すまではしませんでした。 ただ、日本には中国歴代王朝に見られる「禅譲」という概念があったかどうか・・・
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補足
>天皇を廃して自分たちがトップに立つ事は考えなかったと思います。 これは、そもそもその時代には、 権力を握った者が新しい王(?)になるという概念自体が なかったのでしょうか。 それとも天皇を利用することによって得られる利と 自分たちが新しい王になる労力とを比較して考えた結果の実利的行動でしょうか。 >天皇より位階の授与があって今の地位がある訳です。 藤原氏は私腹を肥やすために、荘園制度なるものをつくっています。 (この荘園制度の解釈は、 井沢さんの本からだけの知識なので 間違っていたら指摘していただけると助かります。) その荘園制度は国家財政を揺るがすほどの影響力を持っていたと言っています。 そんなに勝手なことをできる程の権力を得た藤原氏なら 法体系を改変して、位階の授与権も天皇から奪うことはできなかったのでしょうか。 ちょっと違う質問ですが、 藤原摂関政治が始まってからは、 天皇はただのお飾りになってしまったというような書かれ方がされていますが、 その時でも、位階の授与権は天皇にあったのでしょうか。