キリスト教の禁欲とは?

このQ&Aのポイント
  • キリスト教の禁欲について理解できないという疑問があります。
  • タンホイザー伝説の翻訳書において、禁欲についての解釈が強く描かれていることがあります。
  • キリスト教の教義では、神を精神的・肉体的に愛することが罪になるのか?
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キリスト教の禁欲がよくわかりません…。

昔のヨーロッパの作家や芸術家の作品の中に、 キリスト教義の禁欲について書かれているものを見るのですが、 よく理解できません。 例えば、タンホイザー伝説の多くの翻訳書で、 「反キリスト教主義作家が解釈したものには "人間"であるタンホイザーが"神"ヴィーナスを肉体的・精神的に愛することは 罪(sin)である、ということが強く描かれている」 という見解を見ました。 ここで、質問を単一化しようと思うのですが、 「キリスト教義では、神を精神的・肉体的に愛する事は罪に値するのですか?」 非常にわかりにくい質問に名手しまいましたが、 最後の2行部分のみのご回答で結構ですので宜しくお願いいたします。

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noname#4429
noname#4429
回答No.1

こんにちは。 一応、なまけ者のカトリック信者です(笑 新約聖書マタイによる福音書22章37節にはこうあります。 「心を尽くし、魂を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。これが最も重要な掟である」と。 神は肉体を持った存在ではありません。キリストは 神が人となり、肉体を借りた存在です。 したがって、ご質問の「神を精神的に愛すること」は 罪であるばかりか、 キリスト教信仰の核心ともいえましょう。 反対に、「神を肉体的に愛する」ということは、 その概念さえありません。 ……お答えになっているでしょうか。。。

ivy2003
質問者

お礼

ご回答有難うございます!しかも迅速! キリスト教への理解に0410さんのご回答を第一歩として進みそうです。 がんばります。ありがとうございました!

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     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?