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- abc2008
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心と身体の関係について、分かり易く当方のブログに載せてあるものを下記に紹介しますので、良かったら参考にしてみてください。 >誰もが時々つめを切りますが、切られたつめは自分のものではあっても自分自身でないことは誰にでも分かります。なぜなら、切られたつめは痛がりませんから。 ではもっと極端な話、体の半分を切った場合はどうでしょうか。上と下、一体どちらに痛がる自分がいるでしょうか。当然、上の部分でしょう。そしてさらにそれを半分、また半分と切っていった場合、最終的に痛がる自分というものは、一体どこにいるのでしょうか。 おそらくは誰もが行き着くところ、頭脳かと思われます。ということは、頭脳以外の肉体というものは、自分の所有物ではあっても、決して自分自身ではないということを物語っているのではないでしょうか。 では、頭脳こそが自分自身なのでしょうか。もしそうなら、頭脳を構成している神経細胞をバラバラにした時、自分自身はその中のどこにいるのでしょうか。また、その神経細胞を作り上げている物質は誰のものでも同じものなのに、なぜ、それぞれ個性というものが存在するのでしょうか。 さらに生理学的に見て、人間の細胞というものは新陳代謝という形で、ほぼ7年で一新されるそうです。つまり、肉体的には7年ごとに別人になっていると言ってもよいのです。にもかかわらず、いずれの時でも自分は自分のままではないでしょうか。 つまりは5歳の時の自分、20歳の時の自分、50歳の時の自分、80歳の時の自分、おそらく外見的には、はたから見れば別人のようでしょうが、一貫して自分というものを堅持しているのではないでしょうか。 つまり、新陳代謝を何度しようが、いくつになろうが自分は自分であり続けているはずです。 では、その変わらぬ自分とは一体何なのでしょうか。実はそれは『心』なのです。もっと具体的には『思い』と言ってもよいでしょう。 つまり、5歳の時の『自分』という思いも、80歳になった時の『自分』という思いも肉体がどんなに変化しようとも、それはまったく同じであるはずです。歳を取ったからといって『心(思い)』というものが、まるで別物に変化したということはないはずです。『心(思い)』は、それこそ生まれてから死ぬまで、ずっと自分を自分たらしめているはずです。 このことに気がついた先覚者が、かのデカルトなのです。『我思う、ゆえに我あり』という有名な言葉がありますが、この言葉はまさにその核心をついています。 つまり、『自分という思いがあるからこそ、自分は存在する』と言っているのです。本当の自分自身とは『心(思い)』そのものであるということで、肉体があるから自分があるということではない、と言っているのです。 早い話が、『自分自身の存在というものは、肉体の有無に関係ない』ということなのです。どうしても我々は身体や頭脳があってこそ、自分が成り立っているという固定観念を持ってしまっていますが、それは現象の一部分のみを観て、それが全体、真の姿であると錯覚しているに過ぎないのです。 例えば、今では地動説(地球も自転と公転をしている惑星の一つにすぎない)は、当たり前になっていますが、今から400年前の人々の宇宙観といえば、誰もが地球は止まっていて、その周りを宇宙が回っているという天動説を信じていました。 確かに目で見る限りにおいては、太陽は東から昇り、西に沈みますし、月や星々も時間とともに夜空を駆け巡っています。また、木々や家々、我々もちゃんと立っていて、この大地が、地球が動いているなんてとても思えない。ですから、当時は天動説を信ぜざるおえないし、そのような固定観念が根付いたとしてもやむおえなかったことでしょう。 では、現在ではどうでしょうか。一体、何人の人間が天動説などを信じているでしょうか。おそらく信じているとしたら、よほどの変わり者でしょう。確かに今でも、見た目には400年前とさして変わりませんが、真実の姿が科学によって明らかになっている以上、誰が地球が止まっているなどと信じるでしょうか。 我々は科学技術のおかげで、今では本末転倒とも言える錯覚的宇宙観を正すことができ、真の地球、宇宙の姿を客観的に見ることができます。このことからも分かりますが、全体を観ずして部分間にのみ捕われて判断することが、いかに真実とはかけ離れた結論をもたらすかが、よく理解できたかと思われます。ただ残念ながら、今の科学では宇宙観ほど生命観について明確に解き明かすことができていないことが現状なのです。 ところで、次にちょっと面白い科学実験を紹介します。 [ある人の脳に電極を差込み、電流を流すと左腕が曲がるという実験なのですが、なぜかその人は必ず右腕でその左腕を押えようとするのです。なぜそのようにするのか、本人に聞くと「左腕は自分で曲げたという意識はまったくなく、突然曲がるので押えた」というものでした] さて、もし脳が心を生じさせているのなら、脳への電気的刺激は心をも刺激し、無理やりとはいえ自分の意思で左腕を曲げた感覚になるはずです。ところが、そうではないと言う。つまり、右腕は自分の意思で動かしたが、左腕は自分の意思では動かしていない。 結局、電極は脳を刺激して働かせても、心までも働かすことができなかったということです。このことは『脳=心』ではないということを物語っています。 それでは脳と心の関係は一体、どのようなものかと言えば、昔の人は頭脳のことを『心の座』とか『精神の座』と呼んでいましたが、これは実にうまいネーミングで、脳は心や精神が座するところであると。 つまり、頭脳というものは心がドンと座る場所みたいなところであると言っているのです。これはちょうど、飛行機の操縦席と操縦士みたいな関係で、操縦士が操縦席に座って飛行機を操るように、心が頭脳に乗っかって、その肉体を操るようなものなのです。もっと分かりやすく例えれば、機動戦士ガンダムに出てくるモビルスーツとモビルスーツパイロットみたいなものでしょうか。 結局、心そのものは目で捉えることができないため、その表現手段として、肉体というものが必要だったのです。いわば心のための衣服というか、着ぐるみ、容器みたいなものですね。 ところで心というものが目で捕らえることができないとはいえ、我々はちゃんと心の存在というものを認識していますね。それはいつも頭の中にある『思い』という形で。つまり、先ほども言いましたが、『思い』はすなわち『心』であり、『心』はすなわち『思い』であって、それは取りも直さず『心=思い』ということで、これこそが何度も言いますが正真正銘の自分自身なのです。 心という目で捕らえることができないものが、本来の自分自身というと、何か釈然としないかも知れませんが、これはちょうど先ほどの話じゃないですが、400年前の人に向かって『地球は回っている』と言ったときに返ってくる反応と、もしかしたら同じかも知れません。 どうしても肉体があるからこそ、自分があると考えたくなるのは、400年前の人たちが天動説というものを固く信じていたことと根は同じでしょう。 つまり、目で見える範囲のみをもってして、それがすべて、実体であると思い込んでしまう。確かに鏡に映っている姿を見れば、それが自分であると認識したくなるのも無理はありませんが、でも、もうちょっと深く考えてみれば分かりますが、その姿かたちを見て自分だと思う『思い』があるからこそ、自分であると認識しているのではないでしょうか。 例えば、肉体以外の何かを見て、あれも自分だ、これも自分だ、と思ったとしても一向に構わないのです。なぜなら、尽きるところ自分と認めているものは、その『思い』以外の何ものでもないからです。 これはまさにデカルトでなくても『我思う、ゆえに我あり』と結論付けたくなるような分析ではないでしょうか。結局、このことを知らない人は、本来の自分自身をさしおいて、自分以外のものを指して自分だと思っているようなものなのです。 やはり、何事も物事の一面のみをもってして、判断してしまうのは実に愚かなことかと思われます。そして、更に愚かなことには、本当の自分でない自分を自分と錯覚し、それに執着して苦しんでいるのです。それが死に対する苦悩、恐怖でしょう。 元々、本来の自分というものには『死』などというものはないのです。ご存知のように『心』『思い』というものには色もない、形もない、目で見たり、手で捕らえたりすることはできませんが、やはり、厳然と存在することは誰にも否めません。 そして、この色も形もないということが大変重要なのです。姿かたちあるもの、例えば肉体のような物質であれば、いずれは朽ち果てなければなりませんが、姿かたちがない以上、朽ち果てることもないのです。 我々はどうしても、いずれどんなものにも無に帰するという固定観念に取りつかれているのですが、これも物事の一面しか見ていないために起こる誤認識なのです。 元々この宇宙には変化して無くなるものと、不変で永久に存続するものとの二つがあるのです。ただ前者は肉体のように色も形もあり、目で捕らえられるが、後者は心、思いのように色、姿形もないため目で捕らえることができないだけなのです。 いわば大きく分けて、物質世界と精神世界という二つの面があるのです。そして、この二つの世界は、まぎれもなく存在しているのです。ただ、見えるか、見えないかの違いだけなのです。 ともかく、我々自身そのものである『心』は、色も形も姿もない。でも、明らかに存在している。そこで分かり易い例えとして『透明人間』というものをタイトルに掲げたのです。 これは元々、H.G.ウェルズの小説ですが、この中の主人公は、自分自身を見えるようにするために透明の自分に包帯をぐるぐると巻いていましたが、これなどは前述で肉体は心の衣服と例えましたが、言わんとしていることは同じかも知れません。 ともかく永久不変、不滅の『心』こそが真の自分であり、鏡に映る肉体は自分を表現するための持ち物でしかないということをわきまえて、自分は永遠の存在であると自覚すべきです。 そして、これからは何事も永遠のスパンで推し量り、それこそ無限の余裕を持って悠々と生きていけばよいのです。<
身体を極微の世界にまで突き詰めれば、量子的な隙間だらけの空虚な世界です。 量子もその隙間も、その正体は未だに不明です。 細は微塵に入り、という言葉のごとく、突き詰めていくときりが無いのでしょう。 また、心は何によって出来ているのかという問いにも、未だに正解は出されていません。 身体に限らず、現象の本質を色心不二と表した言葉もありますが これは、物質と心は分けられないとする見方です。 物のすべてに心があるという事になりますが、科学的に分析できなければ否定されても仕方がない事です。 伏せておく疑問という事になるでしょうか・・・ 余談ですが、もうすぐ桜が咲きます。 桜の木には、気温とか日照時間の変化を知る働きがあるのでしょう。 植物にも、自然の変化を確かに知る働きがあるのです。 この、知る働きというものが、一種の心だとしたら その心がこの世界に、満ち溢れているようにも思えます。 やはり色心不二なのでしょうか。 そう考えると 私達の身体も含めた全てが、色心不二であり、その中の一つとして自分が存在するという事なのかもしれません。
あなたは、この問いで、何を得ようとしているのですか? たとえば、私が、「心は体でできている」と、答えたとします。 その答えから、何を得て、どう生かすことができるのですか?
- juyjuy
- ベストアンサー率22% (139/612)
「心身ともに健全」という言い方があります。 これは心と身体が別のものである事を示しています。 少なくとも身体は「心」で出来ているとは言いません。 「身体」は細胞で出来ており、細胞はたんぱく質、脂肪、糖類と微量の金属で出来ており、これらは色々な原子が組み立てられたものです。 「心」は今の科学では「脳」の働きであると云われています。脳は身体の一部ですから「心は身体で出来ている」というのはある意味で正しいと言えます。 ただ「身体」は物であり、「心」はその働き・・つまり身体が示す反応なので「心が身体で出来ている」という表現はちょっとおかしいですね・・。 もっと哲学的な議論としては 「身体がある」という認識は「心」がするので「心があるから身体がある」という事は言えます。 ただ 「身体がなければ心もない」という事は真ですから上の表現もおかしいですね・・。 変な論議になりましたがここにも「身体」と「心」という言葉の持つ相補性が現れているのだと思います。 回答になっていませんね。すみません。
- gracious17
- ベストアンサー率40% (76/187)
「心」=「体」vs「頭」 と言われております。
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