慈悲は人間にとって行為しうる経験現実か?

このQ&Aのポイント
  • 慈悲(じひ)とは、人々に平等の友情をもつことを指す。
  • 悲(ひ)とは、人間の苦しみに対する共感から生じる思いである。
  • 仏教では慈悲心を衆生縁、法縁、無縁の三縁に分けて説く。無縁の慈悲は仏にしかない心であるとされる。
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慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?

 わたしたち人間の能力を超えていることなのか? それとも 人間のおこないうる行為であるのか? これを問います。  《ヰキペ:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉( スサノヲ人間( S )語 )であって しかもすでに同時に 抽象一般化しまたその概念を純粋化し高めたもの( アマテラス普遍( A )語 )であると考えられます。  抽象化され高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  1. 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【 S 語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【 A 語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  2. 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【 S 語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻(うめ)き」にあるという。  「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。     ☆(私註) これらの S 語は 日本語の《もののあはれ》に通じて     いると思われます。  【 A 語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  3. 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【 S 語】か? つまり経験現実か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【 S 語】か? そのような経験現実か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【 A 語】であろう。あたかも≠【 S 語】か? それとも 【 S 語】じたいの中に潜在しているというのか?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことであるとも考えられます。そのことをも含めて 慈悲は 人間の実際におこないうる現実であるか? こう問います。  あるいはまた 《もののあはれ》という S 語は 普遍 A 語の内容をも宿しているか? この問いも含みます。  ずばりおしえてください。

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noname#135843
noname#135843
回答No.8

 こんばんは、勝ってながら「もののあはれ」から、こちらの方に移ってきました。Hidocchiです。  まず、余談ではございますが、この「慈悲」という言葉なのですが、当初は、釈尊の発せられた言葉と理解しておりました。ですが、スッタニパータを見ましても、“無慈悲”という言葉が見られるぐらいで、この「慈悲」ということばは見当たりませんでした(訳者は中村元氏です)。そこで、由来を調べていきますと、世親(vasubandhu)ぐらいからだと判明致しました。つまり、世親の「浄土論」に、曇鸞大師(どんらんだいし)が注釈をつけ、「浄土論註(じょうどろんちゅう)」を著し[参考1]、その中で、かような小悲(しょうひ)、中悲(ちゅうひ)、大悲(だいひ)と位置付けをしているようでございます[参考2]。 参考1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C%E5%84%AA%E5%A9%86%E6%8F%90%E8%88%8E%E9%A1%98%E7%94%9F%E5%81%88%E8%A8%BB 参考2 http://www.hongwan.net/index.php/%E4%BB%8F%E5%BF%83%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%AF%E3%80%81%E5%A4%A7%E6%85%88%E6%82%B2%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%82%8A  そこで、ご質問なのですが、3つに分けて愚見を述べてみたいと思います。 Question 【S 語】or【A 語】?  小悲:一般的には【S 語】と解します。ですが、例えば、アメリカの共和党(小さな政府;必然的に貧富の差が生じます)と民主党(大きな政府;民主社会主義的な面を持ち、貧富の差が小さくなります)、さらに英国の保守党と労働党も同じ関係にあろうと考えられます。つまり、国民に選ばれた為政者(A側かと察せらます)も、国民の意思(例えば、貧富の差の縮小・白人以外の他民族の意思の尊重)に沿った形で政策を進めるからでございます。  従いまして、基本的には【S 語】、しかし、【A 語】ともなりうると解しております。 中悲:契機・予定論的な要素も含んでいるかと考えられます。つまり、かような(“空”観思想に触れるという)偶然性のようなものがあると思うからでございます。一方、仏性を持った人が、他の人を教えることもあろうかと考えらます。従いまして、これも、原則は【S 語】と解しております。 大悲:相依・相待という関係(縁起)により、ひとがありうる ということかと愚生は解しております(上記 参考2からでございます)。これも偶然性も絡んではきますが、「それ(縁起・空)を理解できる人が存在する」 ということを鑑みますと、中悲と同じ結論になろうかと考えております。  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。  ★ この「慈悲」という言葉なのですが、・・・由来を調べていきますと、世親(vasubandhu)ぐらいからだと判明致しました。  ☆ そうでしたか。《仏性》と同じような位置づけになるでしょうか。ブッダの直説ではないという点で。  整理します。  1. 『無量寿経』:浄土三部経の一つ。ブッダの直説ではない。  2. 『浄土論』:上の経典の世親による注釈書。  3. 『浄土論註』:世親注釈書の曇鸞による注釈書。  4. 『仏説無量寿経』:(1)の康僧鎧による漢訳書。法然や親鸞らはこれを読んだ。  5. 三縁(衆生縁・法縁・無縁)の慈悲:『涅槃経』に説かれる。  6. 小悲・中悲・大悲:このように三縁をそれぞれ位置づけたのは 『浄土論註』。  7. [参考2] 《仏心というは、大慈悲これなり》 ~~~~~~  衆生縁の慈悲(小悲)というのは、病などで苦しんでいる人に出会ったときに、助けたいと思う心、人情としての慈悲と言ってよいでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ スサノヲ人間語ですね たしかに。人情と言ってもよいようです。  8. [参考2] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  法縁の慈悲(中悲)というのは、仏教に出遇ったところにはたらく慈悲です。諸行無常とわかりながら、どこまでも、執着を離れ得ない、そういう自分の身が明らかにされ、はずかしく思う心を起こさせるのが法縁の慈悲です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ スサノヲ人間語が 磨かれ始めるといった感じでしょうか。  9. [参考2] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  対象のない慈悲が無縁の慈悲(大悲)です。  対象がないということはどういうことでしょうか。私たちは全てのことがらの出発点に自分があります。そして、私の存在こそが中心であると思っています。けれども私と思っているだけで、何の根拠もありません。仏教はそのことを「縁起(えんぎ)」と教え、「空(くう)」と教えています。  私はここに生きていると言いますが、実はあるものに依ってあるものがあるという相依相待(そうえそうたい)において、あり得ているだけであり、他には何もありません。生きているのではなくて、むしろ生かされているのです。  このように自己の存在を明らかにしてくれるはたらきが無縁の慈悲です。仏教における本当の慈悲とはこの無縁の慈悲のことです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。深いんですね。――ただ こうだとしますと もはやひとは何もしないといったことにもなるやに思われます。人とのまじわり(交通)におけるアマテラス人格語であるのかどうかが 問われませんか?  ▲ (ヰキぺ:成仏) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E4%BB%8F  さらに後期大乗仏教になると、・・・    《一切衆生は本来成仏している》  と考える思想(如来蔵・本覚)や、    《信によって本尊に加持することで煩悩に結縛された状態から、ただ    ちに涅槃に到達できる》  とする密教の即身成仏などの思想も生まれた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これら《本覚思想》あるいは《即身成仏》――要するに 《〈われはブッダなり〉と誰もがそれぞれ宣言する》方向――と軌を一にすると言ってよいでしょうか? いかがでしょうか? そしてそのときの対人関係における実践はいかに? という問いをなお持つのですが?

その他の回答 (36)

noname#112269
noname#112269
回答No.6

世尊って呼びかけてるのは、無論、ロンヌさんのことだぜ。 ロンヌさん、修行しろ。 必ず仏になる。世尊なんやから、修行せなだめだぜ。 ほんまもんは、身につけて何ぼやさかい、修行せな。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ほんまもんは、身につけて何ぼやさかい、修行せな。  ☆ 《修行せな》の部分に反応します。  やはり 《はからひ無きこと》をむねとしたいと考えます。ふたつ前で    《ひとは ブッダである。すでにブッダである》  というくらいの命題にしなくっちゃと言いましたが さらには     《わたしは ブッダである。すでにブッダである》  と宣言するところからすべてが始まるという言い方もよろしいかと思いました。  ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕 ~~~~~~~~~~  自然といふは  自はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。  然といふは しからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。       * 爾(に・じ):しかり。そうである。  ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~  自己を運びて万法を修証するを迷とす。  万法進みて自己を修証するは悟りなり。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どぢゃ?  世尊ったぁ いったいなんやねん? どないやねん?

noname#112269
noname#112269
回答No.5

わかったよ、ロンヌさん、もう仏にも、世尊にも遠慮しないよ。 そのかわり、逃げんじゃないよ(^^) それは、な、おおきなこころだよ、かんぜんむけつのおおいなるおおみちが、そのこころだよ。 っこれがこたえ。 これがしこうのかいとう。 何もかもが分からない中で一切の世の中を見つくして怖気ない。 一切を見通して尚且つはてしないその心を心に護持し誤らない。 無上の安穏ニルヴァーナは心の真実なのであるから、誰にでも示現しうる最高境地である。 もう誰にも遠慮する必要はない。 せそんにも、既に覚り終えた世尊にも、誰がその人をとどめたり労したりあるいは蔑んだりしたとしても、よもや何の害もなさない。 そうであってこそのニルヴァーナ。 誰でも会得できるが、本気でそれを得ようと思う人は少ない。 だから何の心配も要らない、世尊。 何の心配も要らないのよ。 不器用だけど仕方ない、そんなもんだよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 無上の安穏ニルヴァーナは心の真実なのであるから、誰にでも示現しうる最高境地である。  ☆ ふうむ。  で この《ニルワ゛-ナ》は 経験現実なのかい? と阿呆のごとく何度でも問い返したくなるのは 意地がわるく汚いのかなぁ。  たとえば こういうふうに問うとよいかも知れない。  ○ ひとは 赤の他人に甘えることが出来るか? つまり裏返せば ひとは赤の他人から甘えられることを 自由にかつ何の条件をもつけずに 受け容れられるか?  ☆ もし《甘え》は ただの我がままなのだから 無条件にそれを受け容れられるものではないという答えが返ってくるとすれば 次の命題との兼ね合いは どうなるのか。  ★ 何もかもが分からない中で一切の世の中を見つくして怖気ない。 / 一切を見通して尚且つはてしないその心を心に護持し誤らない。  ☆ どうでしょう? 赤の他人が甘えて来たら 《そのように我がままで生きることは よくありません》と言ってさとすのか? それとも まづは全面的に相手を受け止め 存在じたいとしては受け容れるのか? そしてそのあと どうするのが 慈悲の実践であるのか?  なお 甘えとは 我がままのことですが――そしてその点 もののあはれも 同じく共有する部分があると言わなければならないのですが―― しかし 親子のごとく自然の心での一体感の中にあることでもあります。(もののあはれの場合も 自然の心での気持ちや思いに 人びと誰もに通じる普遍性があると考えられます。単純に言って 親子の情と両性の愛情とですが)。  自然児そして野生児とさえ言えるような心のあり方 この心の持ち主に対して ブッダは その慈悲心でどのように向き合うのか? どのように相手を受け容れるのか? 実践可能であるなら 言葉で説明していただけないでしょうか?

noname#112269
noname#112269
回答No.4

誰でも仏になれるよ。 bragelonneさんももちろんなれますよ。 ならないということがないように、人は仏になるものです。 そのときに、慈悲喜捨の真実は理解されることでしょう。 何の心配も要らないですよ(^^)

bragelonne
質問者

お礼

 さて あらためまして あかるい内容のご回答をいただきました。ありがとうございます。お早うございます。  《希望》の問題として捉えるということではないかと思います。  ところで この場合も これまでと同じように 二通りの受け取り方が生じると思います。希望には かたちあるものと ないものとがあるからです。  かたちのない希望とは けっきょく 非思考つまり信仰の問題に帰着します。  かたちのある希望でしたら 願いなり目的なりがはっきりした中身を持っている場合です。  すなわち   ▲ (三) 無縁〔の慈悲〕とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。  ☆ この《仏の哀愍の心であると言える》という稀なる心のはたらきは 人間にとって経験的なのか それとも非経験であるのか?  どうですか? つまり  ★ そのときに、慈悲喜捨の真実は理解されることでしょう。 / 何の心配も要らないですよ(^^)  ☆ という場合 《人は仏になるもの》ではあるものの やはり実践は無理であって 認識・理解が可能となるにとどまるということなのか? それとも 実践も伴なわれるということなのか?  ですから まづ てるてるさんにもの申したいことは このように希望の性格をきちんと決めて その上でのぞみを持ち続けましょうというのであればそのぶんとして分かりますが そうでない場合には むしろそんな期待を抱かせてはいけないと考えます。それは そんな期待を持たせつづけていては それこそ慈悲のこころに背くのではないでしょうか?  子供だましに過ぎなくなるのではないですか?  あいまいな内に今のままともかく生きて行け――こう言っているに過ぎないように思います。  いっそのこと 《ひとはブッダである。すでにブッダである》 このくらいは言ってもらわなくっちゃなりません。これなら 期待に期待をつなぐというのでなく ポーンとなぞをぶつけているぶん 真実の鐘を撞いていると言えるかも知れません。どうかなぁ? ちゃうかなぁ?

noname#112847
noname#112847
回答No.3

慈悲という言葉には大変に重いものを感じます。 そこが始まりであり、出口でもあるように思います。 人間としての行為なのかどうか・・・といった点ですが それは同時に、人間とは何かという問いにも聞こえてきます。 私には、慈悲というものが ただ許容するだけの、受け止めるだけのもののように感じます。 自らが発した、そのような心さえ、自分のものではないような感触をもっています。 そして他の心と争う事なく、満たされてゆくものを感じます。 慈悲の重さこそが自分を支えている、と言っても過言ではありません。 慈悲はいただくものです。 私が発するものではない。 客観的には人間の行為であるにしても、主観的には人間のものではないと思います。 空海の言葉に 加とは如来の大悲をいう 持とは衆生の信心をいう この言葉に尽きていると思われます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。補足欄にてお応えします。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。一気に核心に迫りたいと思いますが:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  慈悲はいただくものです。  私が発するものではない。  客観的には人間の行為であるにしても、主観的には人間のものではないと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように明らかなかたちで答えを述べていただいたのですが もしわたしの解釈に無理がないとすれば――直前のご回答へのお応えのごとく――やはり二通りの受け取りができると思うのです。  《主観的には人間のものではない》その《慈悲は いただくものです》と言われるなら (1) ほかの人間にこの慈悲を実践する人がいて その人の行為を受け取って《慈悲をいただく》ということなのでしょうか? それとも(2) いや 慈悲を実践する人は誰もいないのだ。わたしの言葉で言う《非思考ないし非経験》のかなたから――道元ではありませんが いえ 道元の言うとおりでもいいわけですが―― 人間であるわたしにやってくると 主観の範囲内で 受け止めるものなのだということなのでしょうか?  つまり (2)は きっちりと《信仰》の問題としてあるという立ち場ですし (1)は あくまで経験世界における事象であると言っています。すなわちこちらは 仏に成った人間が実践しうるものであり それを人びとは受け止めるかたちで慈悲が 経験的な現実であると言っています。次のご説明を聞けば (1)のほうの解釈に傾きますが それでよろしいでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  空海の言葉に  加とは如来の大悲をいう  持とは衆生の信心をいう  この言葉に尽きていると思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただ問題は残ります。如来ないし仏は じんるいの歴史において 実際に存在したのでしょうか? 何人いたのでしょうか? それをどのようにわたしたちは あぁなるほどそれは 如来であり そのおこないは 慈悲であるわいと受け止めればよいのでしょう?  こういうことでしょうか? すなわち一般の人間は 慈悲を実践することは出来ないが その実践を受け取ったとき あぁ これは慈悲の行為であるぢゃないか ありがたいと言って認識することができる。というものなのでしょうか? つまり 実践はできないが 認識はできる。それが 慈悲である。こういうことでよろしいでしょうか?  でも ですね。ううーん どうなんでしょう? いま現代人の中で実践している人つまり如来は いるのでしょうか? どうでしょうか? もし生きている人にはいないとしたら 歴史の中でどういふうに記録ないし口伝されているのでしょうか?  つまり奥歯に物が挟かったような言い方を止めますが 慈悲はいったいどういう現実なのでしょうか? 認識だけでもいいですから おしえて欲しいと願います。願いつづけて来ました。よろしくどうぞ!

noname#112269
noname#112269
回答No.2

いつかはわかりますよ。 それが今日なのか、明日なのかあさってなのか、またはずっと未来の事なのか、それは分からないですが、気にするようなことじゃないですよ。 いつかは解かりますよ。 人を蔑すむのは、よくないですよ。 無能でも良いんです。心が真っ直ぐだったら。 無力でも問題ないですよ。力は要らないから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。補足欄にてお応えします。

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  いやぁ それならいいのです。了解します。分かりました。  というのも それなら・つまり  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  いつかはわかりますよ。  それが今日なのか、明日なのかあさってなのか、またはずっと未来の事なのか、それは分からないですが、気にするようなことじゃないですよ。  いつかは解かりますよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こうならば 解釈が定まります。解釈は二つにひとつです。  ひとつは すなおに読めば この《慈悲》にしても《仏性》にしてもあるいはブッダのおしえのすべてについてにしても けっきょく経験科学であるという意味内容になります。  つまり いま現在は 《未知》だというものです。つまりブッダは 物理の理論などと同じように 仮説しておいたという意味です。  でもたぶん この解釈では 味気ないでしょう。  とすると 字面からは離れるけれど もうひとつの解釈もできると考えられます。  それは 《未知》なのではなく・だから経験科学や経験思考なのではなく そもそも元から 非経験のことがらであり 非思考の問題だったというものです。  早い話が 非思考つまり《信じる》ことだという意味です。  だったら早く言えばいいのです。  無神論だが 信じるという人間の非思考としての現実なのだ。――こう説明していれば 文句はありません。その集団組織としての宗教化は いただけませんが(これは わたしの持論です) 個人にとっての信仰としてなら 良心・信教の自由にもとづくまったくの表現の自由としての行為です。  要するに 《なぞ》を抱いているということ。これをきちんと前提としまた自覚しつつ しかもこのなぞを今度は経験思考において 仮りのではありながらも 説明をほどこしてすすむということ。  これなら まったく問題ないでしょうし 納得です。  でも 果たして そういうふうに説明したひとがいるでしょうか?  そういう説明のかけらもしていない・出来ていないというのであれば  ☆☆ 無能で無力である。  ☆ とはっきり言ってやることで初めて目覚める――つまり ブッダになる――ことでしょう。  ただし 《慈悲》について さらに詳しい説明が要求されることでしょう。  人間に出来るかどうか分からないということは どういうことか?  慈悲は ただの理念であって 指を口にくわえてただ眺めているだけのそれなのか?  いやいや 慈悲を実践したという歴史的事実がありますよとなるのか?  はてさて?

noname#112269
noname#112269
回答No.1

わからん。仏の世界の事は。 仏になったらわかるよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  だからブディズムはだめなんぢゃないですか?  二千何百年経っても 分からんじまいではないですか?  いったい何をブッダは言ったのか?  いったい何を人びとは伝え聞いて来たのか?  いったい何を多くの人間が時間をついやして学び修行して来ているのか?  ★ 仏になったらわかるよ。  ☆ 大人になったら分かるよ方式だね。無力無能を自認したという意味にとってよいのだろうか?  こうなりゃあ ブディストに対しては 端からさげすんでやって初めて人間扱いになるといった情況だと 認識をあらためなくてはならぬ。ちゃうか?

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    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081106-00000090-san-soci 報道を見ていますと、大阪のひき逃げ犯人(22歳)は、 知性も教養もない、プラス幼稚な人物という感じです。 更にそれに加えて、憐憫の情や慈悲の心もなく、人間性が感じられません。 1、幼稚で教養も無い、加えて慈悲心もない・・・ ないないだらけですが、 どうすればこんな人間が出来上がってしまうのでしょうか? 2、その後の教育次第では、教養は付きますし、幼稚さは矯正されますが、 慈悲心は、いったいどうやって身につけさせるのですか?

  • 無縁社会ってんなら 無縁慈悲の出番ぢゃん。

     《無縁社会》は あたらしい造語だそうです。  そういう社会のあり方にすすんで行っているのでしょうか?  地縁血縁のきづなが ほころびて来ているのでしょうか?    農村にしろそうでないにしろ地方から都会に出て働きそこに住むようになったばあい 田舎とのつながりは断たれたのでしょうか?  そういう場合は あらたな地縁とそして社(会社)縁のつながりができて来るとも言います。  少子高齢化などにより単身者として生活する場合が増える。  就職の形態が正規でない場合が増える。  となると あたらしく出来たと思った地縁社縁もほころびて来るのでしょうか?  昔から無縁仏になるという情況もあったようですが 社会的孤立の量も質も変わって来ていましょうか?  ヰキぺの無縁社会には 《個人主義》という主題も関連項目として挙げられています。  経済や社会の仕組みの変化以上に そういったあらたな思想の台頭も影響していましょうか?  ○ ヰキぺ:無縁社会:  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%B8%81%E7%A4%BE%E4%BC%9A  ○ ヰキぺ:個人主義:  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9  ここでは 次の二点を問います。  A. 無縁社会なら 単純に言って もはや人と人とのつながりは 無縁からの――ゼロからの空からの――出発であり そこに色をつけるなら 無縁慈悲としての人間関係論が展開されるであろう。  としか考えられないのですが どうでしょうか?  B. ヰキぺの《個人主義》には その対義語として 《全体主義・集団主義》とあります。ただちにキレて そんなばかなという反応を持ちましたので その反論をのべて問います。   1. たとえば《無縁慈悲》なる行為をおこなうには――それが 人間のおこないうる経験事象であるとして―― 自分もひとり 相手もひとり それぞれが《ひとり》なる人間であるのでなければ成り立たない。互いに対等な存在であって初めて その愛は成り立つ。    《主人と奴隷》なる A‐S連関制では 何も人間的なことは成し得ません。ほどこしと物もらいの関係では 動物以下の《縁》でつながっているに過ぎません。  ゆえに 《主義》かどうかを別としても 《個人=ひとり》は 大切なことであり 欠かすことは出来ません。  2. 全体主義がたしかに対義語であるのかも分かりませんが それはしかしながら先ほどの《A(主人)‐S(奴隷)》の連関制――つまり その主人にしたところでその奴隷がいなくなれば 主人ですらなくなりその限りで人間でもなくなります――が内容だとすれば それはむしろ論外とすべきことがらです。  ということではないでしょうか?  (哲学以前という論外だとまづ見なして それとして哲学は扱わねばならない)。  3. けれども それでは《集団主義》が 《ひとりなる実存としての個人》の対義語になるでしょうか?  これも《主義》と言うと一般に極論を指し示そうとする傾向がありますので そのあたりのことは別としますが それでもたとえば《集団志向》 これは 単純に人びとが互いに協力するということであり チームワークの問題であって そのときには《個人》をも互いに活かすという前提に立っているのではないでしょうか?    おそらく家族や身内としての集団による拘束から始まって組織集団の内外における人縁は シガラミにまで成り得るので 《個人 vs. 集団》という図式が描かれるのかも分かりませんが 家族にしろ経済活動の組織にしろ 基本的な前提としてじゅうぶんに個人を活かしそれぞれの自由を発揮しまもろうとする志はある。と言わねばなりません。  自律・他律の問題ではなく それぞれの個人の《ひとり》としての自立において自分も活きるし他人(ひと)も活きるそういう共同・協働の体制であるはずです。  すなわち 集団志向は個人志向と相容れないものではない。集団主義の対義語が 隠遁だとか言うのもおかしい話でしょう。  C. あらためて われわれ現代人のあいだに 《無縁慈悲》は成るか? こう問います。

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに価値判断すると アマテラス人格語として――ということは 倫理学として・また倫理規範として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. そこでは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語》のしかるべき有効な二層構造化 これを果たそうとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において人間である。自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家の人間化 ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語を回復させるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちは その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっているのではないか? あやまちをまぬかれる人間はいないのに。  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここからアマアガリして 抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?

  • 《人間を国家(公)的に》から《国家を人間的に》へ

     姉妹質問です。互いが互いにとって分かりやすくなれば さいわいです。  ここの主題は 《人間化》です。  1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。  13-1. インタムライズム。公(A語)は 私(S語)の内に自然なかたちでおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S圏)が 主権をすでに理論的に持つのだからこれを実践して行くこと。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。インタムライズム。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 仏教の『慈悲』をほかの言語・宗教・表現に置き換えて下さい

    私は、聖書をよく読みます。 また、日本の親鸞が説いた教えも大好きです。 これらは、弱者や文盲の人や罪人でも、信仰を受け入れることによってもたらされる普遍的な救いであると説いており、マクロな視点でみれば共通する教えではないか。と考えていました。 *1キリスト教世界では、死後救われるかは最後の審判までわからない…うんぬんかんぬん・・・というのはとりあえずおいといて、イエスをキリストと信じ、主を崇拝することによって得られる『現世での罪からの解放と救い』とさせてください。 *2親鸞の教えは阿弥陀様の慈悲にすがることによって、死後での救いが…うんぬん・・・ですが、これも、信仰することによって得られる現世での充足感のようなモノで捉えています。 かなり乱暴ですが、私の『慈悲』への認識は以上です。 で、質問です。 (1)慈悲を別の言葉に置き換えるとどんな単語、もしくは表現が相応しいのでしょうか。(日本語でも良いです。) 参考ウエブhttp://shinran-bc.tomo-net.or.jp/report/report03_bn06.html (2)キリスト教世界との愛の4形態と比較して説明すればどうでしょう? a.エロス 情愛にもとづく情熱的な愛(条件付かつ情熱的な愛) b.フィリア    理性的な人間の間に成立する友情としての愛(友愛)   c.ストルゲー  肉親への愛情(親子の愛)、 d.アガペー   キリスト教的な愛、神への崇拝 (3)質問自体が間違っている。慈悲とキリスト教世界のイエスの教えに共通点はない!!という意見をお持ちの方は、できればわかりやすい言葉で教えてください。 (1)・(2)・(3) どれかにお答えいただければ嬉しいです。 *編集部さまへ、内容が重複する点があり、本質的には一つの質問です。 削除する前にその辺に留意していただければ幸いです。

  • 《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

     《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。       *  さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。  1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。  11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。  13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。  16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。  17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。

  • 1.なぜ人間には慈悲があるのか?慈悲とはいったいな

    1.なぜ人間には慈悲があるのか?慈悲とはいったいなんなのだろうか? 2.皆さんにとって慈悲とは? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/慈悲 https://en.wikipedia.org/wiki/Loving-kindness https://en.wikipedia.org/wiki/Chesed https://en.wikipedia.org/wiki/Mettā

  • 人間と社会についての用語を新しいものへ

     §1  《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関  (1)  人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。  《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。  《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。  (2)  強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。身と心とは一体であると見ますが S者なるわたくしの運動は 一般に社会的な生活の中で自己のA者なる精神によって 記憶され知解(認識・意識)される。また 記憶にもとづき知解されたものごとを 人は身体のウゴキとともに意志する。  (3)  《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。  (4)  わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて公民の領域をも担い その共同自治のための――選挙等をつうじての――役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として存在します。政治家・官僚等いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。  (5)  これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。   (6)  次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特にはS者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味ではS者は 主観であり 人間語です。  あやまちうるスサノヲ人間語と あやまつべからざる〔と一応考えられている〕アマテラス科学語および人格語なる普遍語です。    §2 主観としての《S‐A連関》から出発する  (7)  主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。  (8)  すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。  (9)  このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 現実性あるいは特に知覚という事実性から離れた概念のことです。  (10)  主体的な生きたA語客観は おのおのの主観として殊に《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。  (11)  主観が 社会的に共同化されて共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が協働性を含むことは 言うまでもありません。    §3 共同主観と共同観念  (12)  さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけを取り出すときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように単なる観念であり あるいはそこから観念的な現実というまでのものになりえます。想像の領域です。  (13)  たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえうる・そして感性で理解しうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語ったり論じたりするからです。つまり 抽象的でもあります。  (14)  したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。  (15)  これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして論じられ 規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり共同観念をつくりあげることが 可能です。  (16)  この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。  (17)  共同主観は より一層S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。  (18)  しかも共同観念は 必ずしも感性的でないことによって観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。  (19)  もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。  (20)  つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一たん基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさって来るというようなしろものです。  (21)  また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま見出されるそれであるということになるでしょうか。    §4  記憶・知解・意志(愛)  (22)  身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。  (23)  同じく《知解行為》は 記憶の倉庫から概念をみちびき出すかのようにして ものごとを知解する。すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。  (24)  何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。  (25)  精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛(つまり愛とは 自治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。  (26)  記憶し知解し意志するワタシたる《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。  (27)  また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。  (28)  従って言いかえると 一般に新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤関係のなかで人は 生きることになります。  (29)  新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。  (30)  そこでこの区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。象徴はアマテラシテです。  全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。  (31)  以上のように人間と社会とをめぐって自己了解した図柄をえがきました。つまりこのような用語をつかって人間と社会とをあつかって行きたいと思いますが いかがでしょうか。