慈悲は人間にとって行為しうる経験現実か?

このQ&Aのポイント
  • 慈悲(じひ)とは、人々に平等の友情をもつことを指す。
  • 悲(ひ)とは、人間の苦しみに対する共感から生じる思いである。
  • 仏教では慈悲心を衆生縁、法縁、無縁の三縁に分けて説く。無縁の慈悲は仏にしかない心であるとされる。
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慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?

 わたしたち人間の能力を超えていることなのか? それとも 人間のおこないうる行為であるのか? これを問います。  《ヰキペ:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉( スサノヲ人間( S )語 )であって しかもすでに同時に 抽象一般化しまたその概念を純粋化し高めたもの( アマテラス普遍( A )語 )であると考えられます。  抽象化され高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  1. 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【 S 語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【 A 語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  2. 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【 S 語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻(うめ)き」にあるという。  「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。     ☆(私註) これらの S 語は 日本語の《もののあはれ》に通じて     いると思われます。  【 A 語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  3. 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【 S 語】か? つまり経験現実か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【 S 語】か? そのような経験現実か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【 A 語】であろう。あたかも≠【 S 語】か? それとも 【 S 語】じたいの中に潜在しているというのか?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことであるとも考えられます。そのことをも含めて 慈悲は 人間の実際におこないうる現実であるか? こう問います。  あるいはまた 《もののあはれ》という S 語は 普遍 A 語の内容をも宿しているか? この問いも含みます。  ずばりおしえてください。

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noname#135843
noname#135843
回答No.8

 こんばんは、勝ってながら「もののあはれ」から、こちらの方に移ってきました。Hidocchiです。  まず、余談ではございますが、この「慈悲」という言葉なのですが、当初は、釈尊の発せられた言葉と理解しておりました。ですが、スッタニパータを見ましても、“無慈悲”という言葉が見られるぐらいで、この「慈悲」ということばは見当たりませんでした(訳者は中村元氏です)。そこで、由来を調べていきますと、世親(vasubandhu)ぐらいからだと判明致しました。つまり、世親の「浄土論」に、曇鸞大師(どんらんだいし)が注釈をつけ、「浄土論註(じょうどろんちゅう)」を著し[参考1]、その中で、かような小悲(しょうひ)、中悲(ちゅうひ)、大悲(だいひ)と位置付けをしているようでございます[参考2]。 参考1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C%E5%84%AA%E5%A9%86%E6%8F%90%E8%88%8E%E9%A1%98%E7%94%9F%E5%81%88%E8%A8%BB 参考2 http://www.hongwan.net/index.php/%E4%BB%8F%E5%BF%83%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%AF%E3%80%81%E5%A4%A7%E6%85%88%E6%82%B2%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%82%8A  そこで、ご質問なのですが、3つに分けて愚見を述べてみたいと思います。 Question 【S 語】or【A 語】?  小悲:一般的には【S 語】と解します。ですが、例えば、アメリカの共和党(小さな政府;必然的に貧富の差が生じます)と民主党(大きな政府;民主社会主義的な面を持ち、貧富の差が小さくなります)、さらに英国の保守党と労働党も同じ関係にあろうと考えられます。つまり、国民に選ばれた為政者(A側かと察せらます)も、国民の意思(例えば、貧富の差の縮小・白人以外の他民族の意思の尊重)に沿った形で政策を進めるからでございます。  従いまして、基本的には【S 語】、しかし、【A 語】ともなりうると解しております。 中悲:契機・予定論的な要素も含んでいるかと考えられます。つまり、かような(“空”観思想に触れるという)偶然性のようなものがあると思うからでございます。一方、仏性を持った人が、他の人を教えることもあろうかと考えらます。従いまして、これも、原則は【S 語】と解しております。 大悲:相依・相待という関係(縁起)により、ひとがありうる ということかと愚生は解しております(上記 参考2からでございます)。これも偶然性も絡んではきますが、「それ(縁起・空)を理解できる人が存在する」 ということを鑑みますと、中悲と同じ結論になろうかと考えております。  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。  ★ この「慈悲」という言葉なのですが、・・・由来を調べていきますと、世親(vasubandhu)ぐらいからだと判明致しました。  ☆ そうでしたか。《仏性》と同じような位置づけになるでしょうか。ブッダの直説ではないという点で。  整理します。  1. 『無量寿経』:浄土三部経の一つ。ブッダの直説ではない。  2. 『浄土論』:上の経典の世親による注釈書。  3. 『浄土論註』:世親注釈書の曇鸞による注釈書。  4. 『仏説無量寿経』:(1)の康僧鎧による漢訳書。法然や親鸞らはこれを読んだ。  5. 三縁(衆生縁・法縁・無縁)の慈悲:『涅槃経』に説かれる。  6. 小悲・中悲・大悲:このように三縁をそれぞれ位置づけたのは 『浄土論註』。  7. [参考2] 《仏心というは、大慈悲これなり》 ~~~~~~  衆生縁の慈悲(小悲)というのは、病などで苦しんでいる人に出会ったときに、助けたいと思う心、人情としての慈悲と言ってよいでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ スサノヲ人間語ですね たしかに。人情と言ってもよいようです。  8. [参考2] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  法縁の慈悲(中悲)というのは、仏教に出遇ったところにはたらく慈悲です。諸行無常とわかりながら、どこまでも、執着を離れ得ない、そういう自分の身が明らかにされ、はずかしく思う心を起こさせるのが法縁の慈悲です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ スサノヲ人間語が 磨かれ始めるといった感じでしょうか。  9. [参考2] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  対象のない慈悲が無縁の慈悲(大悲)です。  対象がないということはどういうことでしょうか。私たちは全てのことがらの出発点に自分があります。そして、私の存在こそが中心であると思っています。けれども私と思っているだけで、何の根拠もありません。仏教はそのことを「縁起(えんぎ)」と教え、「空(くう)」と教えています。  私はここに生きていると言いますが、実はあるものに依ってあるものがあるという相依相待(そうえそうたい)において、あり得ているだけであり、他には何もありません。生きているのではなくて、むしろ生かされているのです。  このように自己の存在を明らかにしてくれるはたらきが無縁の慈悲です。仏教における本当の慈悲とはこの無縁の慈悲のことです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。深いんですね。――ただ こうだとしますと もはやひとは何もしないといったことにもなるやに思われます。人とのまじわり(交通)におけるアマテラス人格語であるのかどうかが 問われませんか?  ▲ (ヰキぺ:成仏) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E4%BB%8F  さらに後期大乗仏教になると、・・・    《一切衆生は本来成仏している》  と考える思想(如来蔵・本覚)や、    《信によって本尊に加持することで煩悩に結縛された状態から、ただ    ちに涅槃に到達できる》  とする密教の即身成仏などの思想も生まれた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これら《本覚思想》あるいは《即身成仏》――要するに 《〈われはブッダなり〉と誰もがそれぞれ宣言する》方向――と軌を一にすると言ってよいでしょうか? いかがでしょうか? そしてそのときの対人関係における実践はいかに? という問いをなお持つのですが?

その他の回答 (36)

回答No.27

大変無責任な回答をした事を、お詫びいたします。社会とどう向き合ってゆくのか、或いは社会の中でどう自分が働いてゆくのかと言うことでしたら、書きやすいと思います。 今は62歳になります、14歳の時に、『人生とは何だろう?或いは死にたくない、永遠の命が欲しい』という訳の分からない事で、大変に生き難い想いで過ごした経験が有ります。ノイローゼになった経験です、27歳になって結婚をして28歳で長男が生まれた頃に、生活が変わったせいか、生き難い想いが強くなって、どうしょううも無く、入院森田療法をした者です。 鈴木知準先生という方でした。講話と言う形でいろいろな話を聞かせてくださいました。その話の内容は、悟りを開いた人の話や、弓道の話や 剣道の話などでした。今に思えば全てが『悟り』に関係していました。 あの頃には何のことやら、さっぱり判らなくて、ちんぷんかんぷんでした。『今は分からないだろうが、聞いておくように』というで出しから始まっていました。そうして『分かる時が来たら、ぴたりと分かるから』と言っていました。 時折いう言葉に『ノイローゼは悟りを開かないと治らない』或いは『ノイローゼの一年は、座禅を十年した事と同じ』と言うものが有りました。2ヶ月の入院治療の後退院しました。それから、4年後の、或る日、『無意識の意識』に出会うと言う体験をしました。 その日限りでノイローゼが『完治しました』それから、ノイローゼになった事も、治った事も忘れ果てていました。59歳になった時に近所の若い者がうつになったということを聞いたもので、興味を持って精神科医の講演が有ると言う事で、聞く機会が有りました。話を聞いた時に『心に対して、余りに無知な事をしている』と感じて、インターネットなどで調べるようになりました。 神経症の中に書けいと言うものが有ります。その専門医のホームページに書いてありました。『書けいの原因は分かりませんが、治療をすれば治ります』或いは精神医療関係の本を読んでいる時に『、『精神疾患の原因を解明できていない事は、精神医療の恥』と言う言葉に出会いました。 今の精神科医達でさえも、世界の精神科医たちの間でも、原因を特定できていない事には、驚いています。『無意識の意識』に会った経験から精神疾患の原因がはっきりと分かります。それは『心の矛盾』からです。自我意識がもう一つの『無意識界や潜在意識界の人格(仏性)』と矛盾や対立や、ひどい時は分裂をした事が原因と分かります。 もうすぐ65歳になります。その時になって今の仕事のけりをつけて、息子に譲って、是からの苦しんでいる人達に出来る事はないだろうかと模索中です。もうホームページを立ち上げて3年ほど経とうとしています。今も苦しんでいる人たちが大勢居ることが分かって、人知れず、涙がこぼれる時が有ります。『あの苦しい想いを、今もしている人達がいる』この事に悔しい想いで、います。 人間は如何して苦しまなければならないのかが、分かった今でも、他の人に教えてあげるのがとてつもなく困難な道と言う事も分かっている事から『涙が勝手に流れ落ちてきます』

bragelonne
質問者

お礼

 つまりとうさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。  分かりました。社会性を閉じておられるわけでなく 社会的交通の用意はつねにあると言っておられる。(ちなみに わたしは 1946年生まれです)。  そうですね。たしかに この質問も 対話や意志疎通あるいは 昔のことばで 対人関係でしょうか そういった人間関係の問題にどう対処するかというふうに具体的な実践として取り扱うなら さらにそれとして現実的であるかとも考えられます。  思わずわたくしもその昔 いわゆる赤面症で悩んだことがあったことを思い出しました。いまもその傾向は変わっていませんが・つまりですから 現象は同じようですが おかげで 面の皮が厚くなっていますので 別にどうというふうにも思わなくなっています。  さて 拝読した文面に反応すれば まづ以上のようなことになりますが――ちょうど 直前のご回答とのやり取りでも 何だか・どこかこの質問は 行き詰まりになるような感覚を覚えましたが―― 果てさて ここからどういう方向へ話を持っていけばよいのでしょう? と問わざるを得ない状態ではあります。  ここまでの時点では こういう解が得られています。中核は個人のさとりである。この基本は外せない。慈悲心は 存在論であり 《わたし》の自己到来の問題なのだと。そこから 交通ないし共生へと 少しなりと 手を差し出す。人びととまじわる。  でもですね。即身成仏という命題もわたしたちはここで持ちつつあります。すでに持っています。完璧な状態になるのでなくても すでに 潜在的にでも 目覚めています。すでにブッダである。すでに我れはブッダなりと宣言してもよいのだし すでに宣言している。  あとは 自己表現あるのみだと。  たぶん 無意識の意識ですとか あるいは仏性との矛盾対立ですとか それらすらも へのかっぱなのだと。なぜなら すでにブッダであるのですから。  どうでしょう? このように次元と舞台とが一段と揚棄されているでしょうか われわれは?  無意識界という分析的認識は要らないのだと。意識していなかったことは意識していなかったことだ。こう知るのみ。そう知ればよい。  というのですが どうでしょう?

noname#135843
noname#135843
回答No.26

 続きからでございます。 > ○ ブディズムでは 対話・意志疎通つまりコミュニケーションについて 基本的にどういう考え方をするのか?  ☆ 社会的交通における《ことばの位置づけ》ということにもなるでしょうか?  ☆☆ 慈悲の余力は どう社会的に展開されるのか?  慈悲は、“衆生縁”のみならず、“法縁”を説く場合にも用いられ、つまり、世界中の人たち全員をブッダ(苦から開放されたもの)に導くものかと思われます。では、そこでのコミュニティーでは、どういった“社会的交通”がなされているのか? でございますが、以下にスッタニパータから引用させていただきます。種々の”戒め”の形で述べられておりますが、かような実践がなされるかと推察しております。 8章 慈しみ からでございます。 143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。 144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。 145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。 146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、 147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。 148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。 149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。 150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。 151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。 152 諸々の邪まな見解にとらわけず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。  ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきます。  社会的交通論  そうですね。特徴として捉えられるところは  (1) 《崇高な境地》が述べられること。  (2) 個人の存在論であり その自律の方程式を模索するものであるようだ。  (3) 《戒》という要素も見られる。  (4) 《150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし》から行けば いわゆる広義の博愛主義と相い容れないものではなかった。  (5) 《149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように》というところからは 《もののあはれ》に通じるところもあるようだ。  ただですね。どうも 申し訳ないですが ピンと来ていません。  (6) いわゆる宗教でなくても あるいはまた特定の思想を掲げなくても 一般のひとがふつうに生活する上で持つ生活態度であるように思われるのです。   互いに対する思いやりをかけるとか 助け合いをこころがけるといった生活の知恵に還元されると思われるほどでもあります。  三人寄れば文殊の知恵と言いますが 万機公論に決すべしといった民主主義のひとつの考えなどは 掲げられていないのでしょうか?  どうも こうなりますと あれですね つまり よほど個人の個人による個人のさとりが 根本であって そこに慈しみのことが付け足されているだけだと 意地悪く見たくもなって来ましたが 収拾のつくことでしたら きっぱりと結論を明らかにしてくださいませんか?  つまり たとえ敵を愛せと言ったとしてもですね けっきょく ほかの人間を自分よりはほんの一秒だけ先に思えといったおしえになるのではないかと思うのです。思うのですが そういうふうに社会性ということ自体は けっこう現実の問題として受け止められているのではないでしょうか? 聖書の系譜としてはです。隣りびとの話もありますし 社会的な関係性については つねに目がそちらに向いていると言いますか 開かれているように感じます。  どうなのでしょう 個人という中核をどこまでも大事にするという方針こそが 社会的な交通の要諦に 周りまわって 成ると考えるのがよいでしょうか? そこらへんは どのようにお考えになりますか?

noname#135843
noname#135843
回答No.25

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > 《言葉では表現できない》という帰結になるときの問題なのです。  愚生は、言語学には疎いため、なんとも申し上げられないのですが、確かに、言語だけでなく、手本(実技・実践)を通して、釈尊が教義を説いていたかもしれません。ですが、経験世界のことであったことは確かだと考えております。 > たしかに 信仰ないし神はそうなのですが それでも仮りの表現として 互いの対話をすすめると思うのです クリスチアニズムの場合はです。ブディズムの場合には 対話を避けているとさえ感じられる部分があるわけです。  元来は、釈尊がそうであったように、対話は必要であったかと考えております。ですが、仰られますように、今日では、“対話を避けている”という感覚は愚生も感じております。おそらく修行の一環としてなのでしょうけれど、この修行は、超越論的なブッダ像を追い求めて、厳しさを極めたもののようにも感ぜられます。確か釈尊は、厳しいだけの修行には、否定的だったかと記憶しているのですが……. > ほかの思想の人間とは《地続きではない》と思っているのではないか? こういう意味のことを 《外道という呼び方が いまでも通用しているのではないか》と表現したものです。 http://www.horakuji.hello-net.info/lecture/vinaya/SectarianBuddhism.htm#GOLF  [二人の大天] 「説一切有部は、この大天の説を悪見つまり邪説であるとし、大天に反する立場を採っていた事が知られますので、大天の説を支持した比丘達が、大衆部を形成したということになります。また『異部宗輪論』では、仏滅後二百年が過ぎた頃、同じく大天という名の“外道”を信奉していた者が、大衆部にて出家受戒し、制多山(Caityaśaila[チャイトヤシャイラ])にあって修行に励んでいたが、やがて先の大天と同じく「五事」を提唱。これによって、大衆部からさらに三つの部派が形成されたとも伝えています。」  ここでは、 正論者:説一切有部 外道:分裂した大衆部  となっております。おそらく、仏教内での分裂過程におきまして、他派を貶める言葉だったかと思われます(逆に申しますと、自派の優越を謳うもの?)。つまり、仏教“外”の人たちに向けられた言葉ではないと推察しております。従いまして、少なくとも愚生は、少なくとも仏教“外”の方たちまでをも、“外道”扱いはしていないと考えております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  次に続きます!?

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    正論者:説一切有部    外道:分裂した大衆部      ・・・つまり、仏教“外”の人たちに向けられた言葉ではないと推察しております。従いまして、少なくとも愚生は、少なくとも仏教“外”の方たちまでをも、“外道”扱いはしていないと考えております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かりました。ただ もうこの用語は使わないとして 《仏教》と《それ以外の思想ないしいわゆる宗教》 とで区分することは どうなんでしょう?   ここで質問したとき 真っ先に指摘されたことは クリスチアニズムとの対比として (1) 《何ものにも依存せずみづから自存してしる存在》は認めない。つまり ブラフマンや創造主としての神を認めないのが仏教である。(2) 因果関係もしくは 縁起のことでしょうから相互の依存関係や作用関係を説くという特徴がある。これは ほかにないと。この二点だったかと思います。  ですから わたしは 《絶対》の概念についてどう捉えているのか? また ブッダは絶対者であるか? などと問うていました。  言ってはなんですが ブッダが人間であってふつうの人間と同じく修行の段階があると明らかにしたのは ひどっちさんが初めてだったのです。ほかは超越論的な話が 大なり小なりついて来ます。  どう治めていいのか分からなくなりましたが 分裂などの話を聞きますと 竜樹は優れたひとだったのですね。  とりあえずこのまま次のご投稿に移ります。

回答No.24

No20で書いた者です。” 《これこれの暁には 分かるはずだ》という論法は ただの論法であって 問い求めに対して まじめに向き合っていないことを物語る。こう わたしは思います。いかがでしょう?” という事を受けて書いてみます。貴方の学問の邪魔をするかもしれませんが、書いてみます。 仏教のの極意、或いは宗教の極意は、『体得』するところに在ると思います。日本語でも500年前、1,000年前の言葉は今の時代の人には分かりません。ましてインドの言葉を中国に伝え、中国の言葉がもう一度翻訳されています。『分かるはずが無い』と言っては、いい過ぎでしょうか?。 そうであるならば、お釈迦の心を直に伝えていると言う『禅』と言うものを学ぶ事をお勧めしたいと思います。禅の門を通らないで、在家で、14歳から32歳までの、18年間の悪戦苦闘の末に、自分の命の働きと出会うと言う体験をしました。 それは、或るきっかけから知った『鈴木大拙』博士の著作集からです。 言葉から入るのでしたら、まだその方が分かりやすいと思うからです。禅の中には『教えてもらわなくても、誰にも、大悲、と言うものが在ることが分かります。』 それは言葉では伝えられないものの、一つと思うからです。

bragelonne
質問者

お礼

 一夜あけました。ご回答をありがとうございます。  そうですね。ご説明を読みまして たぶんこの質問としての問題もあると思うのです。  《さとりとは何か》ではなく ――そのさとりをも含めて表わせば――《さとりを得た者は ひと(他人)とどうまじわるか? あるいは言いかえて どういう社会観を持って実践しているか?》 こうなっています。  さらに言いかえると こうです。もし慈悲心が  ★ それは言葉では伝えられないものの、一つと思うからです。  ☆ という見方が定まったものだとすればです そうするのならば それはそれで 《個人の主観内面におけるさとり》の問題として 必ずしも触れないでおくとまづします。その上で この《さとりを得たひとは 果たしてどういう社会観を持つのか? どういう基本的な考え方で ひととまじわるのか?》 こういう問いになると思うのです。  もしこの問いにも言葉による表現としての説明や見解がないということでしたら その《さとり》はきわめて独り善がりのものなのではないですか? もし好意的に見るとしても この世のものとも思われない極めて神秘的な思想であるということになると思うのです。  つまり早い話が 社会やまわりの人びとに何ら貢献しないものである。こうなると考えられませんか?  わたしに ではどういう考えがあるのかともし問われたとするなら たしかに はいこれですと言って指し示すものがあるのかと自問しますが ひとつには 何の無理もなく わたしが考えるには ひとは社会に向けて開かれていると思っていることがそれです。そういう感覚が むしろブディズムにあっては 押さえつけられているのではないかとさえ思われて来ているわけです。  もうひとつには たしかに 個人の存在論 という領域において 社会観への踏み出しをするといった程度ではあります。これは たとえば次のわたしの投稿を参照していただくとさいわいですが。   【Q:魂の存在について】その回答No.5です。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5762930.html  いづれにしましても こういう問い方もできるのではないでしょうか?  ★ 禅の中には『教えてもらわなくても、誰にも、大悲、と言うものが在ることが分かります。』  ☆ この《分かっている慈悲心》について それ自体は言葉による表現がむつかしいとしても それを会得した場合 ではどういう社会観が得られているのか? と問う場合です。  言いかえると 元に戻って たしかに誰にでも《分かっている》というその《慈悲心》について では この慈悲心は 人間が行為しうる経験現実であるか? これです。  tumaritou1 さんからは いやいや それこそ いまこうして投稿しているその姿こそが 実践ですというお答えをいただくものであるのかも知れません。  そしてそのこちら側の反応としては 言葉による説明は不可能という内容として受け取らざるを得ないということになっています。堂々巡りです。  ですから 下種の勘繰りで それは ひょっとしたら 外道だと思っているから もはや言葉による対話は避けているのだろうかという反応にもなるということなのです。  でも もし tumaritou1 さんのご見解に従うとすると ほかの回答者の方々は 言葉で言い表わせないことを言い表わそうとしていることになります。たしかに おひとりのかたは そういう表明をなさいましたが でもこの慈悲心が 信仰つまり非思考の出来ごとだというところまでは 明らかにされています。  わたしには 表現力の問題だと思われます。その余地がないとは言えないのではないでしょうか?  お答えがいただけるかどうか分かりませんが こういった交通整理がいまは精一杯のところです。どうでしょう?

noname#112269
noname#112269
回答No.23

追加文 ・〔空〕の箇所6行目中ごろから (大人になれば、綿飴などのお菓子には惹かれなくなるように、仏は善に対する執着を離れている。)    ↓ (大人になれば、綿飴などのお菓子には惹かれなくなるように、仏は善に対する執着を離れています。しかし仏は、大人たちが綿飴やりんご飴を子供達に買ってやるように、人々には善を惜しまない。人は善を喜ぶからです。しかしながら、仏が子供達に教えたいことは、善の味の他にあるはずなのです。それは、人々が善を惜しまないことです。人々は人々のうちにあって善を廻向し、しかも共々安らぎの境地へ至るからです。それは喩えば、子供同士の行き違いが、お菓子のやり取りで仲直りできるのではなく、子供が大人になることによって仲直りできるようなものです。人は善を知り、しかも仏になることによって自分達自身の関係を超越するのです。)

bragelonne
質問者

お礼

 了解です。ありがとうございました。

noname#112269
noname#112269
回答No.22

死せるはずのものでありしかも、正しく生きようという決意、これは、他の誰かにさとられる事は終にない。 我らは、ここにあって、死ぬはずのものである。そうであるから、正しく生きる念いが、喩えば泉の溢れるように起こる。そうであるから喩えば、水面に広がったのは波紋であると知って、鳥が水中を見通すように、一切の濁りなくものが見える。そうであるからいける一切のものどもを正しく摂さんとせん心が起こる。正しく摂さんという心で生きているので、一切のいけるものどもに差別ないことが明々白々となり、一切の生けるものどもに差別ないことが真実と知られる故に、一切の生けるものどもとその国土(=仏国土)が明らめられる。一切のいけるものどもの完成するに随って、安らぎの境地が現出する。 即身成仏と、死せるはずのこの身で死せるはずのこの人生を正しく生きることの真実については、このように覚悟されるとよいでしょう。 〔空〕 雲を観れば、空には微細な気流が渦巻いているのが分かる。もし空に身を投げ放ったならば、羽の弱い虫が風に巻かれるように、こころある人も妄執の網にかかる。真っ直ぐな割り箸にも、べたついた糖(情)が巻きつくように、直ぐなる心の持ち主であっても、水気(=愛執)のある間に、空に身をなげうてば、善を生じて妄執に巻かれる。しかし善を生じようがいまいが、善にこだわらないならば、ついに善の元のものをも超えるのである。(大人になれば、綿飴などのお菓子には惹かれなくなるように、仏は善に対する執着を離れている。) 空とはつまり、こだわりを離れることの知見です。空に止まろうとするなら鳥でも落ちるように、空は執着の対象にはならないものなのであると知って、賢者は空に囚わるべきではないでしょう。 賢者は空に対する想いさえも正しく制して、健き歩みを事ある毎に為すべきです。山の人が山の危険を知っているので、潜む生き物や崖下などの危険な場所を回避しつつ、自由自在に歩けるように、あるいは渡り鳥達が風の危険と便の双方を熟知しているように、賢者は世には妄執の網とこだわりを離れることの功徳があることを知っていて、世の中を自由自在に歩む。 賢い人は、危険を熟知して、空よりも高い気高さによって、地に勝れ。そこは本来誰にでも備わっている力とは言わない力(腎力)だからである。 〔無縁について〕 仏は、誰に対してもやさしい。 仏の無縁の慈悲とはこのようなものであると理解されるとよいでしょう。 仏は誰をも損なわず、ただ一切の世、人類から真実だけを得るからです。

bragelonne
質問者

お礼

 (これは アウグスティヌスのことばをもとにしてわたしが表わしたものです)。  ☆ そういう過程だと思うのです。未完成の完成でしょうか? 脱線したらただちに中道に戻ることのできる不完全な完全なのだと思います。  その意味でも この個人ないし《わたし》が 社会についてどう考えどう振る舞っているかは とうぜん主題になるはずです。たしかに存在論じたいに社会思想はないのですが――あっても あくまで《わたしがわたしである》ことの確立に主眼がおかれているはずです―― とは言うものの この《わたし》が《〈わたし〉たち》として社会的にまじわるのは しごく当然だという感覚がわたしにはあるのですが どうもブディズムは そこのところが複雑です。  だから それはひょっとしたら 《外道》だという見方があるからではないかとさえ疑ったのですが そのあたりを解きほぐして行っていただくと たぶんこの質問はそこで満足すると思うのですが いかがでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 てるてるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  長考一番(かな?) なかなか読ませますね。こう言っては何ですが さらに一段おもしろくなってまいりました。あたらしい方の――むろん前から存じあげていますが――参加も得て 最初の心つもりからすれば思わぬ領域へも広く展開されてきているように思います。  《即身成仏》論ですが なるほどと思うところはもう端折ってしまいますが その後半つまり次の箇所は 希望つまり将来への希望として述べられているのでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   (α) 正しく摂さんという心で生きているので、 (β) 一切のいけるものどもに差別ないことが明々白々となり、(γ) 一切の生けるものどもに差別ないことが真実と知られる故に、(δ) 一切の生けるものどもとその国土(=仏国土)が明らめられる。(ε)一切のいけるものどもの完成するに随って、安らぎの境地が現出する。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 前半は 相対的な・限りのある存在としての条件に立って 自然かつ人為なる《生きる》を示しています。自然本性にもとづく自由意志による《生きる》です。ここには むしろ根拠を知り得なくても 身が動くとさえ言いうる《無根拠のなぞの息吹き》が感じられます。それゆえ  ★ そうであるからいける一切のものどもを正しく摂さんとせん心が起こる。  ☆ 去る者を追うことはないが 来るものを拒むこともない。無条件に――無条件に――すべてを受け容れるということであり それは 《無根拠 ないし 非思考》の主題にかかわっていると思います。これを承けて (α)⇒(β)が来ます。すなわち (β=γ)⇒(δ)が来ます。そうしますと  ★(δ) 一切の生けるものどもとその国土(=仏国土)が明らめられる。  ☆ というのは 《国土》と言っていますがそれは わが心の中の世界を言っているのでしょうか? つまりやはり慈悲心は おのれひとりの世界におけるあり方としてやはり《存在論》になるでしょうか? それとも きちんとした社会観であるでしょうか?   社会観だとすると 初めに述べたように《将来に向けての希望》の問題になるように思いました。  むろん 存在論だとしても その基礎から社会思想というものを開いていくはずのものではないかと いまやり取りをしています。  (ε)は おそらく基本として存在論であり しかもその存在論の余力を駆って 社会性へとおのれを開く。その過程および実践のあとのあたらしい世界を――希望としてであると同時に むしろいま――あたかも《永遠の現在》として 見通しており見据えている。  ★ (ε)一切のいけるものどもの完成するに随って、安らぎの境地が現出する。  ☆ おおむねこのひとつの命題に そのあとのご文章も通じるようであると受けとめ復唱・整理を割愛しますが そうですね どうなんでしょう? 即身成仏の自覚を得たそれぞれのブッダは なおその《目覚め》を深めつつ では ひと(他者・他人)とどうまじわるのか?  ★ (No.23) それは、人々が善を惜しまないことです。人々は人々のうちにあって善を廻向し、しかも共々安らぎの境地へ至るからです。  ☆ かつ  ★ (同上=No.23) 仏は善に対する執着を離れています。  ☆ ううーん。そうしますとですね いま問い求めようとしている社会観というのは 善とは何か悪とは何か? 善悪の彼岸とはどうなのか? こういった主題を一つひとつ明らかにしていくという道がやはり基礎なのでしょうか? あるいは執着とそれからの自由も問題なのでしょうね。あるいはまた 基本的な主題だとも思われることとして  ★ 廻向とは何か?  ☆ にもなるでしょうか? これが社会性・開かれた交通を問い求める道ではないかとも思われて来ます。  なおわたしの――信仰つまり個人の存在論にもとづく――社会観の基礎をお伝えしておきます。長いので参照してもらえるとさいわいです。  【Q:魂の存在について】その回答No.5です。   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5762930.html     さらになお 短く個人の空観――《愛》という主題で表現しますが――についてたたき台としていただければと思います。そういった課題もまだ残っていました。   ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    愛には恐れがない。    完全な愛は 恐れを締め出します。     (ヨハネの第一の手紙4:18)  けれども 愛には きよらかな恐れがある。  わたしの愛は全きものか とおそれる清らかなおそれがある。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#135843
noname#135843
回答No.21

 ご返答賜り、厚くお礼申しあげます。Hidocchiです。 > こう言っては何ですが どうもブディズムは いまだに《外道》という区別を持っているのではないか? ふとこう思われたのですが  外道 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E9%81%93 からでございます。 「元来外道とは、仏教以外の教え、またそれを信奉する人びとを総称した呼称である。もともとインドに仏教が興った紀元前5~6世紀ごろ、マガダ国に存在した六師外道という自由思想家たちや異教の思想一般を指して言った。これから転じて、正論者から異論邪説を唱える人たちを貶めていうようになった。”これがまた転じて日常用語となり、人を罵って使われる言葉となった”」  転々として、日常語化し、今の意味となったようでございます。また、他派・他宗教に対する批判的な意味での言葉は、他宗教にも見られますので、この個所は余り追及致しましても、詮無きことかと考えております。 > 向こうでは曲りなりにも 民主制を志向して来ましたが だとするとブディズムの側は こう言っては何ですが 遅れてるーっですね。 何だか ニルワ゛ーナという言葉が入り込んで来て どうも消極的な態度に映るのですが どうなのでしょう? へりくだりと言いますか 基本的に言って 控え目なのでしょうか?  仏教国と申しますと、日本、タイ等の東南アジア諸国の国々を想起させます。「遅れている」という観もございますが、(感情表現等が)控え目な国々とも思われます。    ”涅槃”と申しますと、字義が「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義だそうです。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。 とのことだそうです。つまり、どうしても、静寂感・静的・控え目等の香りが残っているものと思われます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83 からでございます。 > 慈悲の余力は どう社会的に展開されるのか? こういう課題に移ったでしょうか?  誠に申し訳ございません。明日にでも、ご返答させていただきたく存じます。  それでは、また明日よろしくお願い申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 〔《外道》にかんして〕他派・他宗教に対する批判的な意味での言葉は、他宗教にも見られますので、この個所は余り追及致しましても、詮無きことかと考えております。  ☆ いえ ひとえにそういう事情でしたら 何の問題もないと思います。ちょうどいま 《拈華微笑》なり《教外別伝》なりにかかわる問題が ほかの回答者の方から――こちら側から見たかたちとしては――提起されたかたちだと思うのです。  《言葉では表現できない》という帰結になるときの問題なのです。  たしかに 信仰ないし神はそうなのですが それでも仮りの表現として 互いの対話をすすめると思うのです クリスチアニズムの場合はです。ブディズムの場合には 対話を避けているとさえ感じられる部分があるわけです。  非思考の領域であるという説明すら 一般にはしないと思われます。ニルワ゛ーナを掲げ あとは修行であり体得の問題だと言い続けているように思います。  人間として地続きではないのか? それは地続きだが 教義としては・あるいはその体得としては 別だと言うと思いますが そのときその《別だ》というのは ほかの思想の人間とは《地続きではない》と思っているのではないか? こういう意味のことを 《外道という呼び方が いまでも通用しているのではないか》と表現したものです。  今ほかのお二人の方がたからも回答を得て 返答をしていて この主題にかかわっていますので どうかそのところをも読んでくださるとありがたいと存じます。  ★ 〔《ニルワ゛ーナ》にかんしましては〕つまり、どうしても、静寂感・静的・控え目等の香りが残っているものと思われます。  ☆ ということだとわたしも思うのですが 焦点は微妙に違っていますので 次のように問うのがよいと思うのです。  ○ ブディズムでは 対話・意志疎通つまりコミュニケーションについて 基本的にどういう考え方をするのか?  ☆ 社会的交通における《ことばの位置づけ》ということにもなるでしょうか?  ☆☆ 慈悲の余力は どう社会的に展開されるのか?  ☆ につながりましたので この質疑応答はかなり長いものと成って来ましたが どうかよろしくお願いいたしたいと思います。

回答No.20

この大悲と言う意味を習得するためには、心を究極の意味において「一切皆苦」と言う所に置かないと出来ないかも知れません。 それは『人間と言うものは如何して苦しい想いをしなくてはならないのか?』と言う事が分かった後の心の状態であって、そこまでに至らないものがいかに学問から学ぼうとしても出来ない事と言えるはずです。 一切皆苦の反対語が『涅槃』です。この意味が判ったときには自動的に分かるはずです。悟りを開く事が先に必要と言う意味です。

bragelonne
質問者

お礼

 たぶん そうであると言える部分もあるでしょう。  そうではないと言わなければならない立ち場もあることでしょう。  問題は 生身の人間にとっては ニルワ゛ーナが 〔修行の程度として〕どこまで行っても 完全な状態ではないということにあります。ですから 《これこれの暁には 分かるはずだ》という論法は ただの論法であって 問い求めに対して まじめに向き合っていないことを物語る。こう わたしは思います。いかがでしょう?  ご回答をありがとうございました。

noname#135843
noname#135843
回答No.19

 こんばんは、Hidocchiです。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > ☆ ここら辺に 核心があるように思うのですが どうなんでしょう。  復唱・整理も端折らせてもらって このあたりに対して反応を持つのですが まづは 屁理屈ないし揚げ足取りとしまして  (1) 《おのれひとりの成仏にすべて帰着する》ゆえにこそ その《わたし》に関係性や――ヘンな日本語ですが――ともがら性やあるいは共生の素(もと)のような力も香りも出てくるのではないでしょうか? どうでしょう?  確かに、共生の素(もと)のような”力”、”エネルギー”が出てくるかと考えられます。  (2) 受け身でいるというのは ほんとうだと思いますが 受け身でいるかたちで積極的にまじわりを志向している――というような格好にはならないでしょうか?  ★ “無縁”のところで顕著に現れますが、“縁起”説からも、(相対的要素を含んだ)存在論と解しております。  ☆ (3) 《無縁》つまり赤の他人ですよね? 赤の他人であるゆえに まじわりに関して積極的に 受け身の姿勢でいる。こうなりませんか?  《無縁》つまり赤の他人ですよね? → 仰る通りかと存じます。《法縁》もそうかと考えられます。  受け身の姿勢 → 少なくとも能動的・自発的要素は存在しないと思っております。 > ☆ (4) 《われはブッダなり》と宣言する場合には 潜在力としてであっても あらゆる《戒め》から自由であるという存在が想定されていませんか?  (5) 悩みや苦しみもあるのですが・つまり 永遠の現在なる過程にも つねにというほどに起こるわけですが その苦悩をも含めてそれぞれの人生としての縁起の過程があたかも空観においてつつまれている。つまりは この空観が《戒め》――あるいは何なら 《律法》――に取って代わったのではないでしょうか?  愚生には気づきませんでした。初期仏教の頃、もしくは有部の頃では、《戒め》があったかと思われます。特に後者におかれましては、種々の詳細な《戒め》があったかと思われます。ですが、この有部に対しまして、一矢を放った竜樹では、”空”にとって代わったことは十分に肯けます。 > たとえば《神のものは神へ カエサルのものはカエサルへ》という方針を持ちつつ 個人の個人としての人間の確立 これを基本とすると考えます。しかも この聖書の思想としては そこに社会思想や社会科学が確固としたものとしてはないと思うのですが 社会とのかかわりは ふつうのこととして捉えられているように思うのです。  すんなりと 社会性あるいはつまり具体的な人間関係をとおして社会の単位体(国家でしょうか)とのかかわりにまで 生活態度として ふつうに及ぶようになると思うのです。  このようなことが ブディズムには 稀薄なのでしょうか?   はい、残念ながら、新たな仏教思想家が待ち望まれている状況かと思われます(希薄かと考えられます)。 > 友がらの問題として 慈悲心を立てつつ 問題は 個人のさとりになっている。つまり そうなっていて いいわけですが そのとき 社会性もついて来ている。はずですよね?  たしかに まじわりをも受け止めるようになるとおっしゃっているわけですが 何だかいまひとつ かゆいところには届いていないように感じるのですが どこで理解においてつまづいているのでしょうか。  社会性の観点というのが、ブティズムの弱点かと考えております。これが原因なのでしょうか。もう少し考えさせていただければ幸いでございます。 > 民主主義とも けっきょくのところ 通じている。つまり同じ土俵であり舞台であるとも うかがいましたし・・・。《“衆愚政治(Ochlocracy)”》に落ち入るおそれがあるから まづは何が何でも 個人におけるさとりを 一にも二にも 問題とするのだといったことでしょうか? そんな単純なことではないですよね?  いえ、その単純なことでございます(笑)。最近、福山哲郎著「民主主義が一度もなかった国・日本 (幻冬舎新書)」という本が売れているようでございますが、選管は以前も健全に機能していたと思うのです。ではいったい、「一度もなかった」とは? と思ってしまうのです。やはり、「その国民の身の丈にあった政治家しか選ばれない」と言われますが、ある意味あたっているのではないかとも考えております。ですが、民主主義を推し進めていく以上は、”個の確立”のようなものも必要なのでは? と思った次第でございます。  駄文、ご一読いただきましてどうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 今晩は ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。  ☆☆ ・・・《“衆愚政治(Ochlocracy)”》に落ち入るおそれがあるから まづは何が何でも 個人におけるさとりを 一にも二にも 問題とするのだといったことでしょうか? そんな単純なことではないですよね?  ★ いえ、その単純なことでございます(笑)。・・・  ☆ そうなんですか。ううーん。徹底的に個人の個人における個人および共生のための修行といったところでしょうか。その昔 サンガと聞いたときには 共和国と思って それはそれは 共生の原理が展望されていると思ったことが想い出されます。  こう言っては何ですが どうもブディズムは いまだに《外道》という区別を持っているのではないか? ふとこう思われたのですが どうかきちんと否定してくださいませ。世界宗教会議とかいった交流があるのですよね?  ☆☆ ・・・この空観が《戒め》――あるいは何なら 《律法》――に取って代わったのではないでしょうか?  ★ ・・・ですが、この有部に対しまして、一矢を放った竜樹では、”空”にとって代わったことは十分に肯けます。  ☆ こうお聞きしてまことにうれしい限りです。  ★ 確かに、共生の素(もと)のような”力”、”エネルギー”が出てくるかと考えられます。  ☆ このご指摘も うれしいです。  かくなる上は 個人と社会性とを一たん分けて捉える必要があるのかも知れません。  縁起すなわち空観があくまで個人において確立されることを 中核とする。そこから縁起共生の側面――すなわち おそらく民主主義と言いかえてよいと思うのですが この民主主義のあり方―― これがあたかも第二段階として 実践されていく。  強いて分けて考えるなら 個人の中核は 慈悲心であり 社会的共生の側面は 自由・平等そして 友愛としての・人間関係としての慈悲心が来る。でしょうか? あるいは 友愛の次元は もう慈悲心とは言わないでしょうか?  向こうでは曲りなりにも 民主制を志向して来ましたが だとするとブディズムの側は こう言っては何ですが 遅れてるーっですね。でも  ★ 受け身の姿勢 → 少なくとも能動的・自発的要素は存在しないと思っております。  ☆ なんでしょ? あぁ つまりこのご指摘は 個人の中核の次元でした。そのあと共生の次元で どうなのか? になりますね?  何だか ニルワ゛ーナという言葉が入り込んで来て どうも消極的な態度に映るのですが どうなのでしょう? へりくだりと言いますか 基本的に言って 控え目なのでしょうか?  慈悲の余力は どう社会的に展開されるのか? こういう課題に移ったでしょうか?

noname#135843
noname#135843
回答No.18

 字数制限のため、続きを以下に記載させてもらっております。  ▲ 勝手な要求  ☆ とは いったい誰が判断するのか? その判断の妥当性は どのように誰が判断するのか? どこかに勝手な判断は入って来ていないか? うんぬんうんぬん。しかじかかくかく。  まず、釈尊やナーガルジュナの時代とは、かなり異なった社会形態になってしまったかと思われます(ここまで、資本主義化・個人主義化した世界は予想していなかったと思われます)。従いまして、新たな“思想家・解釈者”が、今日、望まれているものと考えております。日本にも、優れた仏教思想家、例えば、道元、親鸞らがいましたが、また、彼らの時代とも、現代社会は、異なったものかと思われます。従いまして、愚生には荷が重過ぎるのですが、少しばかりの戯言をお許しくださいませ。 “民主主義”、かつては、今もそうでございますが、“衆愚政治(Ochlocracy)”という言葉もございます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%86%E6%84%9A%E6%94%BF%E6%B2%BB  ですが、現実的には、この“民主主義”以外に、他に政を治める方法はないとも考えております。実際のところは、その是非等(「単なる勝手・わがままであった」 or 「全うな正論であった」)かは、後世の歴史家なりに委ねることになろうかと思われます。では、今現在、“勝手な要求”と判断しているのは、今日いる多数派の意見かと思っております(“民主主義”である以上は、その正誤は分かりませんが、多数決に従わざるをえないと考えています)。 では、“民主主義”なるものを支えているのは と申しますと、その根底には、人には(ほぼ)平等に、判断力があり、それらを尊重しようではないか というものであろうかと考えております。つまり、ブディズムも、“民主主義”とは、矛盾するものではないものと解しております。 > ブディズムとは いったいどういう人間のいとなみとして成ったものなのでしょうか?  残念ながら、愚生には分かりません。ですが、次に、ブディズムとは反する例を述べさせていただきたく存じます。 ・教義の習得・修行はしたものの、それのみによって、“賢しら”を振り舞うようなひと(?)  お役に立つところがございましたら、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 途中での考えを述べてひとまづのお応えとさせてください。  たとえば《神のものは神へ カエサルのものはカエサルへ》という方針を持ちつつ 個人の個人としての人間の確立 これを基本とすると考えます。しかも この聖書の思想としては そこに社会思想や社会科学が確固としたものとしてはないと思うのですが 社会とのかかわりは ふつうのこととして捉えられているように思うのです。  すんなりと 社会性あるいはつまり具体的な人間関係をとおして社会の単位体(国家でしょうか)とのかかわりにまで 生活態度として ふつうに及ぶようになると思うのです。  このようなことが ブディズムには 稀薄なのでしょうか?   友がらの問題として 慈悲心を立てつつ 問題は 個人のさとりになっている。つまり そうなっていて いいわけですが そのとき 社会性もついて来ている。はずですよね?  たしかに まじわりをも受け止めるようになるとおっしゃっているわけですが 何だかいまひとつ かゆいところには届いていないように感じるのですが どこで理解においてつまづいているのでしょうか?  民主主義とも けっきょくのところ 通じている。つまり同じ土俵であり舞台であるとも うかがいましたし・・・。《“衆愚政治(Ochlocracy)”》に落ち入るおそれがあるから まづは何が何でも 個人におけるさとりを 一にも二にも 問題とするのだといったことでしょうか? そんな単純なことではないですよね?  澄みません。まとまっていません。経過報告のようなかたちです。

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     《無縁社会》は あたらしい造語だそうです。  そういう社会のあり方にすすんで行っているのでしょうか?  地縁血縁のきづなが ほころびて来ているのでしょうか?    農村にしろそうでないにしろ地方から都会に出て働きそこに住むようになったばあい 田舎とのつながりは断たれたのでしょうか?  そういう場合は あらたな地縁とそして社(会社)縁のつながりができて来るとも言います。  少子高齢化などにより単身者として生活する場合が増える。  就職の形態が正規でない場合が増える。  となると あたらしく出来たと思った地縁社縁もほころびて来るのでしょうか?  昔から無縁仏になるという情況もあったようですが 社会的孤立の量も質も変わって来ていましょうか?  ヰキぺの無縁社会には 《個人主義》という主題も関連項目として挙げられています。  経済や社会の仕組みの変化以上に そういったあらたな思想の台頭も影響していましょうか?  ○ ヰキぺ:無縁社会:  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%B8%81%E7%A4%BE%E4%BC%9A  ○ ヰキぺ:個人主義:  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9  ここでは 次の二点を問います。  A. 無縁社会なら 単純に言って もはや人と人とのつながりは 無縁からの――ゼロからの空からの――出発であり そこに色をつけるなら 無縁慈悲としての人間関係論が展開されるであろう。  としか考えられないのですが どうでしょうか?  B. ヰキぺの《個人主義》には その対義語として 《全体主義・集団主義》とあります。ただちにキレて そんなばかなという反応を持ちましたので その反論をのべて問います。   1. たとえば《無縁慈悲》なる行為をおこなうには――それが 人間のおこないうる経験事象であるとして―― 自分もひとり 相手もひとり それぞれが《ひとり》なる人間であるのでなければ成り立たない。互いに対等な存在であって初めて その愛は成り立つ。    《主人と奴隷》なる A‐S連関制では 何も人間的なことは成し得ません。ほどこしと物もらいの関係では 動物以下の《縁》でつながっているに過ぎません。  ゆえに 《主義》かどうかを別としても 《個人=ひとり》は 大切なことであり 欠かすことは出来ません。  2. 全体主義がたしかに対義語であるのかも分かりませんが それはしかしながら先ほどの《A(主人)‐S(奴隷)》の連関制――つまり その主人にしたところでその奴隷がいなくなれば 主人ですらなくなりその限りで人間でもなくなります――が内容だとすれば それはむしろ論外とすべきことがらです。  ということではないでしょうか?  (哲学以前という論外だとまづ見なして それとして哲学は扱わねばならない)。  3. けれども それでは《集団主義》が 《ひとりなる実存としての個人》の対義語になるでしょうか?  これも《主義》と言うと一般に極論を指し示そうとする傾向がありますので そのあたりのことは別としますが それでもたとえば《集団志向》 これは 単純に人びとが互いに協力するということであり チームワークの問題であって そのときには《個人》をも互いに活かすという前提に立っているのではないでしょうか?    おそらく家族や身内としての集団による拘束から始まって組織集団の内外における人縁は シガラミにまで成り得るので 《個人 vs. 集団》という図式が描かれるのかも分かりませんが 家族にしろ経済活動の組織にしろ 基本的な前提としてじゅうぶんに個人を活かしそれぞれの自由を発揮しまもろうとする志はある。と言わねばなりません。  自律・他律の問題ではなく それぞれの個人の《ひとり》としての自立において自分も活きるし他人(ひと)も活きるそういう共同・協働の体制であるはずです。  すなわち 集団志向は個人志向と相容れないものではない。集団主義の対義語が 隠遁だとか言うのもおかしい話でしょう。  C. あらためて われわれ現代人のあいだに 《無縁慈悲》は成るか? こう問います。

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに価値判断すると アマテラス人格語として――ということは 倫理学として・また倫理規範として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. そこでは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語》のしかるべき有効な二層構造化 これを果たそうとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において人間である。自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家の人間化 ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語を回復させるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちは その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっているのではないか? あやまちをまぬかれる人間はいないのに。  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここからアマアガリして 抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?

  • 《人間を国家(公)的に》から《国家を人間的に》へ

     姉妹質問です。互いが互いにとって分かりやすくなれば さいわいです。  ここの主題は 《人間化》です。  1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。  13-1. インタムライズム。公(A語)は 私(S語)の内に自然なかたちでおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S圏)が 主権をすでに理論的に持つのだからこれを実践して行くこと。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。インタムライズム。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 仏教の『慈悲』をほかの言語・宗教・表現に置き換えて下さい

    私は、聖書をよく読みます。 また、日本の親鸞が説いた教えも大好きです。 これらは、弱者や文盲の人や罪人でも、信仰を受け入れることによってもたらされる普遍的な救いであると説いており、マクロな視点でみれば共通する教えではないか。と考えていました。 *1キリスト教世界では、死後救われるかは最後の審判までわからない…うんぬんかんぬん・・・というのはとりあえずおいといて、イエスをキリストと信じ、主を崇拝することによって得られる『現世での罪からの解放と救い』とさせてください。 *2親鸞の教えは阿弥陀様の慈悲にすがることによって、死後での救いが…うんぬん・・・ですが、これも、信仰することによって得られる現世での充足感のようなモノで捉えています。 かなり乱暴ですが、私の『慈悲』への認識は以上です。 で、質問です。 (1)慈悲を別の言葉に置き換えるとどんな単語、もしくは表現が相応しいのでしょうか。(日本語でも良いです。) 参考ウエブhttp://shinran-bc.tomo-net.or.jp/report/report03_bn06.html (2)キリスト教世界との愛の4形態と比較して説明すればどうでしょう? a.エロス 情愛にもとづく情熱的な愛(条件付かつ情熱的な愛) b.フィリア    理性的な人間の間に成立する友情としての愛(友愛)   c.ストルゲー  肉親への愛情(親子の愛)、 d.アガペー   キリスト教的な愛、神への崇拝 (3)質問自体が間違っている。慈悲とキリスト教世界のイエスの教えに共通点はない!!という意見をお持ちの方は、できればわかりやすい言葉で教えてください。 (1)・(2)・(3) どれかにお答えいただければ嬉しいです。 *編集部さまへ、内容が重複する点があり、本質的には一つの質問です。 削除する前にその辺に留意していただければ幸いです。

  • 《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

     《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。       *  さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。  1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。  11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。  13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。  16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。  17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。

  • 1.なぜ人間には慈悲があるのか?慈悲とはいったいな

    1.なぜ人間には慈悲があるのか?慈悲とはいったいなんなのだろうか? 2.皆さんにとって慈悲とは? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/慈悲 https://en.wikipedia.org/wiki/Loving-kindness https://en.wikipedia.org/wiki/Chesed https://en.wikipedia.org/wiki/Mettā

  • 人間と社会についての用語を新しいものへ

     §1  《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関  (1)  人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。  《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。  《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。  (2)  強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。身と心とは一体であると見ますが S者なるわたくしの運動は 一般に社会的な生活の中で自己のA者なる精神によって 記憶され知解(認識・意識)される。また 記憶にもとづき知解されたものごとを 人は身体のウゴキとともに意志する。  (3)  《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。  (4)  わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて公民の領域をも担い その共同自治のための――選挙等をつうじての――役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として存在します。政治家・官僚等いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。  (5)  これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。   (6)  次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特にはS者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味ではS者は 主観であり 人間語です。  あやまちうるスサノヲ人間語と あやまつべからざる〔と一応考えられている〕アマテラス科学語および人格語なる普遍語です。    §2 主観としての《S‐A連関》から出発する  (7)  主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。  (8)  すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。  (9)  このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 現実性あるいは特に知覚という事実性から離れた概念のことです。  (10)  主体的な生きたA語客観は おのおのの主観として殊に《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。  (11)  主観が 社会的に共同化されて共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が協働性を含むことは 言うまでもありません。    §3 共同主観と共同観念  (12)  さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけを取り出すときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように単なる観念であり あるいはそこから観念的な現実というまでのものになりえます。想像の領域です。  (13)  たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえうる・そして感性で理解しうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語ったり論じたりするからです。つまり 抽象的でもあります。  (14)  したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。  (15)  これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして論じられ 規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり共同観念をつくりあげることが 可能です。  (16)  この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。  (17)  共同主観は より一層S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。  (18)  しかも共同観念は 必ずしも感性的でないことによって観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。  (19)  もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。  (20)  つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一たん基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさって来るというようなしろものです。  (21)  また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま見出されるそれであるということになるでしょうか。    §4  記憶・知解・意志(愛)  (22)  身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。  (23)  同じく《知解行為》は 記憶の倉庫から概念をみちびき出すかのようにして ものごとを知解する。すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。  (24)  何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。  (25)  精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛(つまり愛とは 自治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。  (26)  記憶し知解し意志するワタシたる《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。  (27)  また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。  (28)  従って言いかえると 一般に新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤関係のなかで人は 生きることになります。  (29)  新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。  (30)  そこでこの区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。象徴はアマテラシテです。  全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。  (31)  以上のように人間と社会とをめぐって自己了解した図柄をえがきました。つまりこのような用語をつかって人間と社会とをあつかって行きたいと思いますが いかがでしょうか。