慈悲は人間にとって行為しうる経験現実か?

このQ&Aのポイント
  • 慈悲(じひ)とは、人々に平等の友情をもつことを指す。
  • 悲(ひ)とは、人間の苦しみに対する共感から生じる思いである。
  • 仏教では慈悲心を衆生縁、法縁、無縁の三縁に分けて説く。無縁の慈悲は仏にしかない心であるとされる。
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慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?

 わたしたち人間の能力を超えていることなのか? それとも 人間のおこないうる行為であるのか? これを問います。  《ヰキペ:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉( スサノヲ人間( S )語 )であって しかもすでに同時に 抽象一般化しまたその概念を純粋化し高めたもの( アマテラス普遍( A )語 )であると考えられます。  抽象化され高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  1. 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【 S 語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【 A 語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  2. 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【 S 語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻(うめ)き」にあるという。  「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。     ☆(私註) これらの S 語は 日本語の《もののあはれ》に通じて     いると思われます。  【 A 語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  3. 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【 S 語】か? つまり経験現実か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【 S 語】か? そのような経験現実か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【 A 語】であろう。あたかも≠【 S 語】か? それとも 【 S 語】じたいの中に潜在しているというのか?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことであるとも考えられます。そのことをも含めて 慈悲は 人間の実際におこないうる現実であるか? こう問います。  あるいはまた 《もののあはれ》という S 語は 普遍 A 語の内容をも宿しているか? この問いも含みます。  ずばりおしえてください。

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noname#135843
noname#135843
回答No.8

 こんばんは、勝ってながら「もののあはれ」から、こちらの方に移ってきました。Hidocchiです。  まず、余談ではございますが、この「慈悲」という言葉なのですが、当初は、釈尊の発せられた言葉と理解しておりました。ですが、スッタニパータを見ましても、“無慈悲”という言葉が見られるぐらいで、この「慈悲」ということばは見当たりませんでした(訳者は中村元氏です)。そこで、由来を調べていきますと、世親(vasubandhu)ぐらいからだと判明致しました。つまり、世親の「浄土論」に、曇鸞大師(どんらんだいし)が注釈をつけ、「浄土論註(じょうどろんちゅう)」を著し[参考1]、その中で、かような小悲(しょうひ)、中悲(ちゅうひ)、大悲(だいひ)と位置付けをしているようでございます[参考2]。 参考1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C%E5%84%AA%E5%A9%86%E6%8F%90%E8%88%8E%E9%A1%98%E7%94%9F%E5%81%88%E8%A8%BB 参考2 http://www.hongwan.net/index.php/%E4%BB%8F%E5%BF%83%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%AF%E3%80%81%E5%A4%A7%E6%85%88%E6%82%B2%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%82%8A  そこで、ご質問なのですが、3つに分けて愚見を述べてみたいと思います。 Question 【S 語】or【A 語】?  小悲:一般的には【S 語】と解します。ですが、例えば、アメリカの共和党(小さな政府;必然的に貧富の差が生じます)と民主党(大きな政府;民主社会主義的な面を持ち、貧富の差が小さくなります)、さらに英国の保守党と労働党も同じ関係にあろうと考えられます。つまり、国民に選ばれた為政者(A側かと察せらます)も、国民の意思(例えば、貧富の差の縮小・白人以外の他民族の意思の尊重)に沿った形で政策を進めるからでございます。  従いまして、基本的には【S 語】、しかし、【A 語】ともなりうると解しております。 中悲:契機・予定論的な要素も含んでいるかと考えられます。つまり、かような(“空”観思想に触れるという)偶然性のようなものがあると思うからでございます。一方、仏性を持った人が、他の人を教えることもあろうかと考えらます。従いまして、これも、原則は【S 語】と解しております。 大悲:相依・相待という関係(縁起)により、ひとがありうる ということかと愚生は解しております(上記 参考2からでございます)。これも偶然性も絡んではきますが、「それ(縁起・空)を理解できる人が存在する」 ということを鑑みますと、中悲と同じ結論になろうかと考えております。  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。  ★ この「慈悲」という言葉なのですが、・・・由来を調べていきますと、世親(vasubandhu)ぐらいからだと判明致しました。  ☆ そうでしたか。《仏性》と同じような位置づけになるでしょうか。ブッダの直説ではないという点で。  整理します。  1. 『無量寿経』:浄土三部経の一つ。ブッダの直説ではない。  2. 『浄土論』:上の経典の世親による注釈書。  3. 『浄土論註』:世親注釈書の曇鸞による注釈書。  4. 『仏説無量寿経』:(1)の康僧鎧による漢訳書。法然や親鸞らはこれを読んだ。  5. 三縁(衆生縁・法縁・無縁)の慈悲:『涅槃経』に説かれる。  6. 小悲・中悲・大悲:このように三縁をそれぞれ位置づけたのは 『浄土論註』。  7. [参考2] 《仏心というは、大慈悲これなり》 ~~~~~~  衆生縁の慈悲(小悲)というのは、病などで苦しんでいる人に出会ったときに、助けたいと思う心、人情としての慈悲と言ってよいでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ スサノヲ人間語ですね たしかに。人情と言ってもよいようです。  8. [参考2] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  法縁の慈悲(中悲)というのは、仏教に出遇ったところにはたらく慈悲です。諸行無常とわかりながら、どこまでも、執着を離れ得ない、そういう自分の身が明らかにされ、はずかしく思う心を起こさせるのが法縁の慈悲です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ スサノヲ人間語が 磨かれ始めるといった感じでしょうか。  9. [参考2] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  対象のない慈悲が無縁の慈悲(大悲)です。  対象がないということはどういうことでしょうか。私たちは全てのことがらの出発点に自分があります。そして、私の存在こそが中心であると思っています。けれども私と思っているだけで、何の根拠もありません。仏教はそのことを「縁起(えんぎ)」と教え、「空(くう)」と教えています。  私はここに生きていると言いますが、実はあるものに依ってあるものがあるという相依相待(そうえそうたい)において、あり得ているだけであり、他には何もありません。生きているのではなくて、むしろ生かされているのです。  このように自己の存在を明らかにしてくれるはたらきが無縁の慈悲です。仏教における本当の慈悲とはこの無縁の慈悲のことです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。深いんですね。――ただ こうだとしますと もはやひとは何もしないといったことにもなるやに思われます。人とのまじわり(交通)におけるアマテラス人格語であるのかどうかが 問われませんか?  ▲ (ヰキぺ:成仏) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E4%BB%8F  さらに後期大乗仏教になると、・・・    《一切衆生は本来成仏している》  と考える思想(如来蔵・本覚)や、    《信によって本尊に加持することで煩悩に結縛された状態から、ただ    ちに涅槃に到達できる》  とする密教の即身成仏などの思想も生まれた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これら《本覚思想》あるいは《即身成仏》――要するに 《〈われはブッダなり〉と誰もがそれぞれ宣言する》方向――と軌を一にすると言ってよいでしょうか? いかがでしょうか? そしてそのときの対人関係における実践はいかに? という問いをなお持つのですが?

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noname#135843
noname#135843
回答No.17

 こんばんは、ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。Hidocchiです。  愚生の今までの意見は確かに抽象的すぎたかと反省しております。以下、具体的に述べてみたいと思います。 > そうしますとですね――つまりもはやこれまでのやり取りを互いに了解したとしますと―― 考えたのですが こうなりませんか?  1.ブディズムは 仏性と言うだけではなく 慈悲心と言う場合にも 基本的には 存在論として成り立っている。こうでしょうか?  “無縁”のところで顕著に現れますが、“縁起”説からも、(相対的要素を含んだ)存在論と解しております。 2.すなわち 《本来は「友情」「同志」の意味である「ミトラ」(mitra)》(= S 語)から作られた《マイトリー(maitrii)=慈》は 抽象概念として・理念として《いっさいの人々に対する平等の友情》という A 語を持ったと言うとき それはあくまで ひとりの人間の境地を言うというその意味での存在論である。こうでしょうか?  上述の通り、存在論かと考えてはおります。ただ、特殊な“境地”なるものはないものと考えております。《いっさいの人々に対する平等の友情》とは、その周囲の紡ぎあいのようなもの(“縁起”)から自然と(本人の意思とは関係せずに)導かれるものと考えております。 3.縁起共生と言いますが 《共生》のほうよりも基本としては個人におけるその空観の目覚めということに重きが置かれているのでしょうか?  “空観の目覚め” → “縁起による(偶発的)関係性” → 《共生》の意義の把握  という経路で営まれるものと考えてございます。従いまして、どちらが重いか? というよりも、(ほぼ)同時なるものかと考えております。 4.アン・アートマン(無我)と言いますが この無我を ブッダとして体得した《わたし》は いるのではないでしょうか? それともニルワ゛-ナというように 《わたし》は文字通り消えてしまうのでしょうか?  ブッダとして体得した《わたし》も存在していると思われます。確かに、“諸法無我”とは申しますが、現在のこの現実世界を生きている限りにおきましては、《わたし》の存在(自覚)は認めざるをえないと考えております。ただ、それ(我)に執着しすぎてしまいますと、“苦”が生じてくるとの“戒め”の意味を兼ねているものかと推察しております。釈尊ご自信が、出家した理由は(少なくともその一つは)、“苦からの開放・解脱”だったかと記憶しております。つまり、“諸法無我”を通して、この《わたし》に執着しすぎるところから生じる“苦”、これからの開放・解脱を説きたかったのではないか とそう推察しております。 5. まとめて ブディズムは 《社会性》についてどう捉えているのか?  繰り返しとなってしまいますが、《共生》を通して、ひとは、自分に可能な(偶発的要素も多少はあろうかと存じますが)“慈悲”(=”衆生縁“)も、重要視しているかと考えております。従いまして、”慈悲“を通した、共存関係を主張していると考えております。 ☆考えてみますと 《四方サンガ》ということをおそわったことがあります。世界(=四方八方)が共和国(サンガ)であるというひとつの社会観であるかと考えます。ただ これも ブディストにとっての共生の大地ということなのでしょうか? しかもひょっとしたら それは 出家者だけの世界であるのでしょうか?  出家者のみならず、在家者も含まれると解しております。“空観”が謳われたのも、大乗仏教からだったかと記憶しております。従いまして、出家・在家は関係ないものと考えております。  王法――仏法に対して 王法―― これも社会観につながる思想の一端だと考えますが 基本は 個人としての《目覚め》 というブッダの境地 これになりましょうか? ひとことで言って 友がらへのこころとしての慈悲も おのれひとりの成仏ということにすべて帰着するという思想なのでしょうか?  釈尊も一人で《目覚め》たかと思われます。そして、秘密にはせず(出し惜しみをせず)、旧友や、弟子たちに説いていったとされております。これは愚見でございますが、“おのれひとりの成仏”には否定は致しませんが、“すべて帰着する”という箇所には疑問を持っております(まずは、お手本となる釈尊を真似るというのが基本かと考えております)。  以降は次回に記載させていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。  ☆☆ ひとことで言って 友がらへのこころとしての慈悲も おのれひとりの成仏ということにすべて帰着するという思想なのでしょうか?  ★ ・・・“おのれひとりの成仏”には否定は致しませんが、“すべて帰着する”という箇所には疑問を持っております(まずは、お手本となる釈尊を真似るというのが基本かと考えております)。  ☆ ここら辺に 核心があるように思うのですが どうなんでしょう。  復唱・整理も端折らせてもらって このあたりに対して反応を持つのですが まづは 屁理屈ないし揚げ足取りとしまして  (1) 《おのれひとりの成仏にすべて帰着する》ゆえにこそ その《わたし》に関係性や――ヘンな日本語ですが――ともがら性やあるいは共生の素(もと)のような力も香りも出てくるのではないでしょうか? どうでしょう?  ☆ たしかに 《言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある》(箴言 10・29)と聞きますが 《ときを得ても得なくても〔伝える〕》(これは テモテへの第二の手紙4:2でした。パウロ本人の文章ではないようですが)とも聞きます。  (2) 受け身でいるというのは ほんとうだと思いますが 受け身でいるかたちで積極的にまじわりを志向している――というような格好にはならないでしょうか?  ★ “無縁”のところで顕著に現れますが、“縁起”説からも、(相対的要素を含んだ)存在論と解しております。  ☆ (3) 《無縁》つまり赤の他人ですよね? 赤の他人であるゆえに まじわりに関して積極的に 受け身の姿勢でいる。こうなりませんか?  ★ 確かに、“諸法無我”とは申しますが、現在のこの現実世界を生きている限りにおきましては、《わたし》の存在(自覚)は認めざるをえないと考えております。ただ、それ(我)に執着しすぎてしまいますと、“苦”が生じてくるとの“戒め”の意味を兼ねているものかと推察しております。  ☆ (4) 《われはブッダなり》と宣言する場合には 潜在力としてであっても あらゆる《戒め》から自由であるという存在が想定されていませんか?  (5) 悩みや苦しみもあるのですが・つまり 永遠の現在なる過程にも つねにというほどに起こるわけですが その苦悩をも含めてそれぞれの人生としての縁起の過程があたかも空観においてつつまれている。つまりは この空観が《戒め》――あるいは何なら 《律法》――に取って代わったのではないでしょうか?  ☆ つぎのご指摘について了解しました。ありがとうございます。  ★ “空観”が謳われたのも、大乗仏教からだったかと記憶しております。従いまして、出家・在家は関係ないものと考えております。  ☆ 乱雑になりましたが 考えをぶつけさせていただきました。偽らぬ問いになりました。いかがでしょう?

noname#112269
noname#112269
回答No.16

文章の訂正です。 もし浅い迷妄であるならば、正法のみがあればよいのであって、諸仏の説く理法の言葉は、もし仮に説く時があったとしても、ちょっとした躾としてということの効能になるでしょう。 あるいは、よく気をつけている人々が集まって、法について語るのも、また迷妄の呪縛を解くことを直に為す働きと+α、つまり解脱が期待できます。 それは喩えば、林の中でめいめい迷子になっている人同士が再会するのも喜ばしいですが、それは一人で歩く人同士が、不意に再会するようなものです。再会したならそれは、林から出る縁起を得たのであるとも言ってよいし、あるいはもう法を得たとも言えるのです。  ↓ もし迷妄が無いのであるならば、人は正法あるいは理法を語る存在であるということになります。 よく気をつけている人々が法について言葉を交わす事は、即ち観です。 観は思索を超えた思索であり、気をつけて歩いていることその人の有り様でもあるとも言い得ます。 観は静けさと明るさをともなっていて、たとえるならば月のようであるというのもOKですし、仏のそれは太陽のようであるとも聞きます。 とまれ、観を完成させて、人は真実を見知るのだといっても過言ではないでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 直前のお礼欄にて 述べております。

noname#112269
noname#112269
回答No.15

おそらく仏道の起源は、人は皆独りであるというところから来ているのではないかと思います。 いつかは一人発ちせねばならぬ、それも本当なのですが、いやおうなく独りになってしまう、そういう境遇で生きてきた我々であるから、故に、今ここでは、仏国土が完成するのであるということが、永遠の真理なのではないかと思うのです。 ところで、人は時に迷妄の林に絡め摂られてしまうことがあります。それはくもの巣のようでもあります。 迷妄とは、言葉によって生じた恐ろしい林の名前であり、ここに落ちると、夢を見たまま死に至るという恐怖の林です。このために、仏になった人は、理法を説いてその呪縛を解くのであるとも言えるのです。 もし浅い迷妄であるならば、正法のみがあればよいのであって、諸仏の説く理法の言葉は、もし仮に説く時があったとしても、ちょっとした躾としてということの効能になるでしょう。 あるいは、よく気をつけている人々が集まって、法について語るのも、また迷妄の呪縛を解くことを直に為す働きと+α、つまり解脱が期待できます。 それは喩えば、林の中でめいめい迷子になっている人同士が再会するのも喜ばしいですが、それは一人で歩く人同士が、不意に再会するようなものです。再会したならそれは、林から出る縁起を得たのであるとも言ってよいし、あるいはもう法を得たとも言えるのです。 林には、毒の実もあれば爽やかな実もあります。爽やかな実を食べて、力をつけることはよいことです。ですから、人は口にしてさとしい言葉を語るべきです。 林には、ぬかるんだ沼地もあれば、清涼な泉やせせらぎも存在します。清涼な飲料水を得て、元気を取り戻すのはよいことです。ですから人は、やさしい言葉を語るべきです。   しんがりになろうという心構えは、まったく仏になる人(何びとであっても)に相応しい心構えであり、そうであってこそ、その人は智慧豊かな人になりえるのです。迷いにあって覚悟の決まる人、かれこそ大乗の人であると言われるでしょう。見る人は、彼を先であると見るからです。仏弟子が仏弟子を教化するということの真実は、こういうことなのです。しんがりから見れば他のしんがりは先であり、先を行く人から見てもしんがりは先であり、ひとりも置いていかないということが仏乗に他なりません。そしてこのような法縁こそが、一人残らず解脱せしめるダルマの普遍的真実であるといってもよいのです。 この世はすべてが妄執です。しかし心構え正しく、真実に浄らかなるものを求めて精進し、人々にはやさしさと智慧を施して、自らもまたそのよう(=無住心)であるならば、それが即ち直き道に他なりません。 無住心のその人が、自ら弁え自ら知って自ら行い自ら覚る、自ら行うその道によって自らの歩んだ目前のその道を浄めつくして、不滅の安らぎを体解する。 地球に端っこがないように、この道は円なる道であるというのです。 合掌

bragelonne
質問者

お礼

 てるてるさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。  次のご投稿での訂正を合わせて――そう言えば 書き直された文章は すっきりしたというふうに感じました―― 今回のご文章は この質問を訪れる人たちが読んでひとつのおみやげにするものと思います。  わたしの考えをも採り入れてくださって ありがたいと思います。  今回の文章は ここをこう捉え そこをどう捉えるという性格のものではないようです。    そこで なお残る違いについて取り上げます。  推測で述べますので 間違いについてははっきり指摘してください。とおことわりしてですが これは ひどっちさんとのやり取りでも出ましたが   ○ 即身成仏について どうお考えになるか?  ☆ お訊きしたいと考えます。わたしの言葉では 《いま・ここ》が《永遠の現在》だという命題です。あるいは別様に言いかえれば 《ひとは 終わりから始める》という立ち場です。  ★ 無住心のその人が、自ら弁え自ら知って自ら行い自ら覚る、自ら行うその道によって自らの歩んだ目前のその道を浄めつくして、不滅の安らぎを体解する。  ☆ すでに《わたしは ブッダである》から始める――となります。《潜在性として 清浄心はすでにめぐみとして与えられた》ところから始めるです。《その道を浄めつくして》からにするとは思わないわけです。あとで《不滅の安らぎを体解する》のではなく 想定として・自然本性として すでに得ている――ここから始めるとなります。  どうでしょう?

noname#135843
noname#135843
回答No.14

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > その後の持続において むしろなぞとして・めぐみとして与えられる。こうでしょうか? つまり キリスト信仰とまったく齟齬はないと見ていらっしゃるのですね。  たぶんそうだと思うのですが その点など言葉に出してはっきりさせておきたかったのです。また 専門のと言いますかブッディストの側からもそのへんの事情をお聞きしたかったのです。  実を申しまして、愚生は、少なくとも敬虔なブッディストという訳ではないのですが(自称、仏教研究家です(笑))、どうしても、仏教におきましても、“なぞ”の部分が内包されているように思われるのです。従いまして、キリスト教信仰とは、全く別物とは考えてはいない次第でございます。 > ☆ この《S or A語のどちらに相当するか》ですが これもそうしますと 特にこだわらなくてもよいというようなのですね。すでに初めから ひどっちさんは見通しておられたのでしょうか。つまり 基礎は スサノヲ人間語である。存在は 自然本性にもとづくほかにない。むろんその スサノヲ語の中から 普遍概念としての言葉――いかんせん 言葉なのでしょうね アマテラス語は のその言葉――を磨き上げるしかないのだと。  《S or A語のどちらに相当するか》につきましては、自らquestionを挙げてはいたのですが、これまでの種々の資料から、答えを出すのにとても悩んだというのが実情でございます。愚生のとりあえずのご返答と致しましては、仰られますように、場合によっては、どちらにもとりうることができ、また活用・発展も可能ではないかと思った次第でございます。明確なご返答をできずに、申し訳ない限りでございます。  そうしますと 実際の人間的交通においては どうも ひとつには ケースバイケースだという見方が或る程度で基本になるということなのでしょうか? 対機説法などと聞きますが。  はい。仰られますように、ケースバイケースにより、考えをめぐらし、ときには“対話”を通しながら、交通整理をしていくものかと考えております。 > ▲ (大悲:仏心というは、大慈悲これなり) ~~~~~~~~~? 『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に?    「仏心というは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を    摂(せつ)す」  と説かれています。無縁の慈悲が大慈悲なのです。そしてそれが仏心なのです。  鈴木大拙師は    「慈悲の究極は存在にあり」  と言われました。仏は仏として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが仏の慈悲ではありません。澄んだ夜空に在って、衆生の闇を静かに包み、その闇の衆生といのちを共にしているお月様に譬(たと)えられています。このように「大慈悲」とは仏法のただ中に身を置いているところにはたらく慈悲であります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この説明には 慈悲にかんする交通における側面が述べられていない(もしくは 受け身の交通のみである)と思うのですが むしろこの種の説明で理解する道を求めるのがよいのでしょうか?  以下に、愚見を述べさせていただきます。  “仏”を彼岸から、此岸に持ってきたいと考えております。元来、初期仏教でもそうであったように“仏(ブッダ)”を“仏性を持つひと”と解したいと思います。従いまして、 「仏は仏として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが仏の慈悲ではありません。」 → 「“ひと”は“ひと”として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが“ひと”の慈悲ではありません。」    と訳したいと考えております。  つきましては、“縁起”=人々の中での関係性=「なぞ」ではありますが、何らかの契機により、結ばれた関係 とでございます。  お役に立つことがございましたら、幸甚でございます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうしますとですね――つまりもはやこれまでのやり取りを互いに了解したとしますと―― 考えたのですが こうなりませんか?   (極論しています。そのほうが 問答として話がすすむでしょう)。  1. ブディズムは 仏性と言うだけではなく 慈悲心と言う場合にも 基本的には 存在論として成り立っている。こうでしょうか?  2. すなわち 《本来は「友情」「同志」の意味である「ミトラ」(mitra)》(= S 語)から作られた《マイトリー(maitrii)=慈》は 抽象概念として・理念として《いっさいの人々に対する平等の友情》という A 語を持ったと言うとき それはあくまで ひとりの人間の境地を言うというその意味での存在論である。こうでしょうか?  3. 縁起共生と言いますが 《共生》のほうよりも基本としては個人におけるその空観の目覚めということに重きが置かれているのでしょうか?  4. アン・アートマン(無我)と言いますが この無我を ブッダとして体得した《わたし》は いるのではないでしょうか? それともニルワ゛-ナというように 《わたし》は文字通り消えてしまうのでしょうか?  5. まとめて ブディズムは 《社会性》についてどう捉えているのか?  ☆ 考えてみますと 《四方サンガ》ということをおそわったことがあります。世界(=四方八方)が共和国(サンガ)であるというひとつの社会観であるかと考えます。ただ これも ブディストにとっての共生の大地ということなのでしょうか? しかもひょっとしたら それは 出家者だけの世界であるのでしょうか?  王法――仏法に対して 王法―― これも社会観につながる思想の一端だと考えますが 基本は 個人としての《目覚め》 というブッダの境地 これになりましょうか? ひとことで言って 友がらへのこころとしての慈悲も おのれひとりの成仏ということにすべて帰着するという思想なのでしょうか?  ▲▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   鈴木大拙師は    「慈悲の究極は存在にあり」  と言われました。仏は仏として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが仏の慈悲ではありません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  “仏”を彼岸から、此岸に持ってきたいと考えております。元来、初期仏教でもそうであったように“仏(ブッダ)”を“仏性を持つひと”と解したいと思います。従いまして、    「“ひと”は“ひと”として存在すること自体が慈悲であって、    衆生の勝手な要求に応ずるのが“ひと”の慈悲ではありません。」    と訳したいと考えております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 普天間基地は 町の真ん中にあるから 引っ越せというのは 衆生の勝手な要求です。県内に基地は置きたいというのも 勝手な要求です。他国だが他国でも条約として守ってくれというのも しかりです。外国よ 攻めてくるなも そうです。攻めるのも ミサイルを作るのも しかり・しかりです。  ▲ 勝手な要求  ☆ とは いったい誰が判断するのか? その判断の妥当性は どのように誰が判断するのか? どこかに勝手な判断は入って来ていないか? うんぬんうんぬん。しかじかかくかく。  ブディズムとは いったいどういう人間のいとなみとして成ったものなのでしょうか?

noname#112269
noname#112269
回答No.13

そうですよね、大人になったら悪い道に入ってええんかってことになったら、それは言うまでもないことですからね。日々これ清浄ってことかもしれないですね。 修行が終わってたら、清浄といわなくてもそうあれるのでしょうね。 最近爽やかな話が多いんです。 実は最近キャッチボールをおぼえたんですよ。リラックススルー(^^) ここらで初心にかえります。 一つ質問を良いですか? ・清浄心の人、本来清浄心の人、そのような人々は、どのような道に住み どのように歩いて どのような場所に到達するのでしょうか

bragelonne
質問者

お礼

 てるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 実は最近キャッチボールをおぼえたんですよ。リラックススルー(^^)  ☆ とびきり若いということではないでしょうのに なんで今頃? と思ってしまいましたが こだわることもないですよね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  一つ質問を良いですか?  ・清浄心の人、本来清浄心の人、そのような人々は、どのような道に住み どのように歩いて どのような場所に到達するのでしょうか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《本来清浄心の人》と言えば みなそうですよ。  ま 屁理屈はやめにしまして わたしに答えられるかぎりでですが。  ★ どのような場所に到達するのでしょうか  ☆ これは はっきりしています。と言っても キリスト信仰者としてのわたしの考えです。(その立ち場で 親鸞とは相い通じるものを感じますので ブディズムにも関心があります。ブディストか? と訊かれれば 積極的にそうだとは言えません)。  清浄心を与えられたと確信したそのとき・その場で《わたしがわたしである》存在を――潜在的にせよ――確立したと捉えます。  すでにそのとき 《永遠の現在》という過程にあります。永遠の現在がそのまま過程して行くかたちです。(海面上にさまざまな心理的な悩みなどの風雨が起こることも 実際です)。  つまり 《わたし》に到来します。到来し続けます。    そして 《わたしがわたしする》過程をあゆみます。わたしの自己表現の道です。表現はあらゆるかたちにおいてありうるでしょう。  たぶんすべてと言っていいほど その時には受け身ですすむというふうにも言えるかと思います。あるいは つねに後ろ向きに前へすすむというかたち。これは 《九十九匹よりも一匹を〔大事にしよう〕》という考え方です。先頭のほうに身をおいている場合もあるのですが 気持ちはしんがりで進むということになるかも知れません。  そんなふうに思います。  

noname#112269
noname#112269
回答No.12

ずばり行きますよ。OKすか? 三縁の慈悲とはつまり、 第一 大投手スサノオことノビノビタが、投げます。直球ね。MAX大リーグボールって感じで。 第二 偉大なる捕手アマテラスこと源しづか 受けます。ずどんと。ど真ん中でね。これはすげぇー球だあ。 第三 これがほんとの仏縁 大打者 それも超A超高校級、デキスギタケシ ね、この人が、しゃばぁっと一振りで、バッテリーの夢は砕け散るわけですよ。ボールは野を超え山超え谷越えて、海を越えてホームランですよ。これが、出世間法です。あぁ 無常 。 ずばり行きますよ。OKすか? 三縁の慈悲とはつまり、 第一 大投手スサノオことノビノビタが、投げます。直球ね。MAX大リーグボールって感じで。 第二 偉大なる捕手アマテラスこと源しづか 受けます。ずどんと。ど真ん中でね。これはすげぇー球だあ。 第三 これがほんとの仏縁 大打者 それも超A超高校級、デキスギタケシ ね、この人が、しゃばぁっと一振りで、バッテリーの夢は砕け散るわけですよ。ボールは野を超え山超え谷越えて、海を越えてホームランですよ。これが、出世間法です。あぁ 無常 。 別のパターンもありますよ。大打者デキスギスネオを打ち取るパターンです。 こっちはねぇ、やる気がない。勝負するんだったら、超高校級と勝負したい。だろ? もう一つたとえ話をしましょう。縁起についてです。なぜ見えないように見えるのか? 高校球児の話です。 さて、熱闘甲子園といわれるように、高校野球の頂点ではあつい試合が繰り広げられます。 互いに健闘をたたえる高校球児の姿には、誰もが爽やかな余韻を授かることでしょう。 そのような闘いの中では、一生に一度の悔し涙や、その時にしか現れ得ないファインプレーというものが存在しますでしょう。いわばそれが縁起なのです。 高校球児たちは、どのチームも、日夜練習に励み、寒い日も暑い日も雨の日も晴れの日も、修練を積んできているわけです。 そのような球児たちが、マウンドに立つ、グラウンドに出る、BOXにはいる、するとね、わかるわけじゃないですか。お互いが、お互いに、どんな高校生活を送ってきたのかが。 だから、一投一投が、一振り一振りが、一球一球が、彼らの青春のすべてなんですよ。わかりますか。 勝ちへの途中、それは事実、しかし真実は、勝ちへは途中、中身が本当なんですよ。 だから高校球児は、常に敗者と勝者が存在する世界においてもさえも、いやだからこそというべきか、希望を持って精進できるんです。 このような勝負には、敵味方というものを超えた、真剣勝負が現れます。それが、いわば道場です。 そしてそのような場においては、これはっという瞬間が時として現れる。これこそが、縁起なのです。 縁起は、互いが全力を出し切るという直ぐなる心の持ち主であって、しかも互いに譲らず、対等でね、只、一献一献に力をこめて投打に没頭する故に、決定的な瞬間、ね、勝負どころが存在するわけですよ。勝敗を決するときが来たと。皆、後悔はないかと、あるわけねぇよと。やるぜと、ね、そんな世界に、どこのだれがうらみなんか持ち込むの、慌しさなんか持ち込むの、ありえないでしょ、だってそこは、球児の聖地、甲子園のマウンドなんだぜ。

bragelonne
質問者

お礼

 てるてるさん お早うございます。(遅くなりましたが)。ご回答をありがとうございます。    そうですね。《稀有》説を或る意味で貫かれた――こういう受け取りですけれど まづは 見解の相違は何ら問題にはなりません。  問題は 慈悲心もしくは縁起共生の実現する現場ということについて 《稀有》というよりは《日常から離れた特殊な場合》について捉えようとしておられるのではないか。ここにとりあえず 注意が向かいました。  たしかに ふつうの人間が 仏性と言えば 清浄心ということでもあるでしょうから これをみづからの――もう一度使いますが――現場において発揮するということ。あるいは そこでの振る舞いの数々をとおして 慈悲心を見通せるようになるということ。これを扱っておられます。苦心の論文であろうと存じます。    でもここでは わたしはスネオに徹しましょうか。  ★(α) 高校球児たちは、どのチームも、日夜練習に励み、寒い日も暑い日も雨の日も晴れの日も、修練を積んできているわけです。  ☆ たしかにこのように 生活日常が大事であることにも触れておられます。だからこそ 卑近なことでは タバコを吸ったとか不祥事が出た場合には 大きく問題にされます。ですが だったら 高校を卒業したなら もう何でも大人の裏表の世界に染まって行ってもいいのかともなります。江川も桑田も その点では 時効無しです。ではないですか?  つまり 慈悲心の問題を 晴れの舞台といった特殊な場において発揮されるか もしくは そこでこそ見通されるというふうに 絞って行くのはなぜか?  ★(β) これはっという瞬間 / 投打に没頭する故に、決定的な瞬間  ☆ この(β)の特殊性は (α)の日常性を凌駕しない――こう言いたいのではないでしょうか? 慈悲心というのであれば。つまり わたしとしては (β)を特別視するところに 江川と桑田が現われた――こう考えます。  でも試合なんだから勝負は勝負ですよ。勝負を決めるというのは 普段からの練習と同じ次元です。日常性の延長です。それを 晴れの舞台なのだから 特別の縁起の瞬間なのだというのは どうも感覚としてピンと来ませんね。どうでしょう?  * BIGLOBE何でも相談室は 今朝から模様替えです。OKウェーヴに合わせてシステムが変わりました。ところが 原稿を確認して 投稿するに到ると 《アクセスが集中している》が出て 仕上がりません。でした。あぁ 苦労した。  補足欄も お礼欄と同じく 制限が2000字となったのですね。

noname#112269
noname#112269
回答No.11

仏が稀有であると言うのは、ある意味で私の手抜きかもしれない。「仏が珍しいと思っているのは私だけ」たしかにその指摘には注目したくおもいます。 だけれど、皆が既に仏なのであれば、人は既にこの世に一人も存在していないことになってしまわないのか。 うーん。。どういうことなんでしょうね。 居る居ない、あるなしにこだわりすぎたかも。。 これもちょいとゆっくり考えさせてもらいます。

bragelonne
質問者

お礼

 今晩は てるてるさん。ご回答をありがとうございます。  ひどっちさんとのやり取りで   ★ だけれど、皆が既に仏なのであれば、人は既にこの世に一人も存在していないことになってしまわないのか。 / うーん。。どういうことなんでしょうね。  ☆ このあたりのところについて 間接的に触れているかと思っていますが いまは静かに見守らせていただきましょう。  どうぞ時間をじゅうぶん費やしてくださいませ。(ちょっと 冷たく)。

noname#135843
noname#135843
回答No.10

 こんばんは、ご返答いただきまして、また、詳しいご説明をも添えていただきまして、厚くお礼申します。Hidocchiです。 > ☆ ううーん。深いんですね。――ただ こうだとしますと もはやひとは何もしないといったことにもなるやに思われます。人とのまじわり(交通)におけるアマテラス人格語であるのかどうかが 問われませんか?  仏教との出会い、縁起(空)の理解等につきましては、何かしらの契機のようなものが存在しているのかもしれません。  ご存知のことと思われますので、概略だけ説明させていただきますと、釈尊が悟りを得、その後、旧友5人のところに行き、そして、皆が全員ブッダとなったとされています。また、舎利子も元々は別の教え(懐疑論者サンジャヤ・ベーラッティプッタの教え)に従っていたのですが、ふと釈尊に出会い、「釈迦の教えの一部を聞いたとたんに悟りの最初の段階に達したと伝えられる。」とされています。これらを考えて見ますと、予定論的な要素も含んでいるかのように見受けられます(参考1)。 ですが、必ずしも、その教え(縁起・空観)を聞いたとしても、理解できるとは限らないとも考えられます。その契機の次の段階でございますが、これには、人の努力(周囲の人たちの援助も含まれるかと思われます)が必要とされるかと思われます。  実際、世親(vasubandhu)の兄にあたる無著(asaNga アサンガ)は、「「空」の教理が理解できないため自殺しようと悩んでいたとき、東方、ビデーハ国(現在のビハール州北部)のピンドーラ(piNDola、賓頭羅)阿羅漢に出会い、ようやく小乗の空観をも体得した。」とされています。これも、契機と努力の結果かと考えられます(参考2)。  従いまして、「ひとは何もしない」に加えて、さらに「人とのまじわり」も必要ではないかとも考えております(S or A語のどちらに相当するかは、残念ながら、わからないのですが)。 参考1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E5%88%A9%E5%BC%97 参考2 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%91%97 > ☆ これら《本覚思想》あるいは《即身成仏》――要するに 《〈われはブッダなり〉と誰もがそれぞれ宣言する》方向――と軌を一にすると言ってよいでしょうか? いかがでしょうか? そしてそのときの対人関係における実践はいかに?   愚生は、誰もがブッダであると考えております。以前には(初期仏教の頃)、ブッダは少なからずいたようでございますが、ここ2千年を振り替えりますと、即身成仏となられた数名以外は分からないという状況でございます。しかも、例えば、密教系の真言宗では、教祖の空海と比肩しうる密教思想家は今日まで現れてはいないという状況でございます。逆に申しますと、“ブッダ”という概念を彼岸のまたその彼岸まで、勝手に人たちが追いやってしまったと考えております。  そして、その際の対人関係は と申しますと、未だはっきりとした回答を持ち合わせてはいないのですが、お互いの“仏性”を尊重し合えるような関係になると考えております(かなり個人的希望も含まれており、お恥ずかしい限りでございますが)。  ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。補足欄にてお礼を書いています。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。  だいぶんすすんでまいったと思います。ありがとうございます。  なるほど ブッダあるいは弟子たち さらにその後のブディスト探究者ら その人びとの足跡をたどって さとりを得たかどうか・どの程度だったかをさぐるというのは そのまま実践の問題を問い求めることなのですね。  ★ 愚生は、誰もがブッダであると考えております。  ☆ 仏性の問題と言い ブッダの修行ないしさとりの度合いと言い お聞きしていた内容として もはや《人はブッダである》は大前提であったのですね。分かりました。非思考(信仰)の問題として捉えるならば 必然的に存在はそうであるとなるとは たしかに思います。  そしてまた 慈悲心となれば この信仰の――最初のさとりのあとの実践過程として――その後の持続において むしろなぞとして・めぐみとして与えられる。こうでしょうか? つまり キリスト信仰とまったく齟齬はないと見ていらっしゃるのですね。  たぶんそうだと思うのですが その点など言葉に出してはっきりさせておきたかったのです。また 専門のと言いますかブッディストの側からもそのへんの事情をお聞きしたかったのです。  そうしますと ブディズムの側からさらにさらにご投稿があるとよろしいかと考えますが それはいま措くとして あとは 《目覚め》にしたがって残りの人生をどう生きるか そこでの実践はどのように成るのか この課題と言えば課題が持たれるというところでしょうか。  ★ 従いまして、「ひとは何もしない」に加えて、さらに「人とのまじわり」も必要ではないかとも考えております(S or A語のどちらに相当するかは、残念ながら、わからないのですが)。  ☆ この《S or A語のどちらに相当するか》ですが これもそうしますと 特にこだわらなくてもよいというようなのですね。すでに初めから ひどっちさんは見通しておられたのでしょうか。つまり 基礎は スサノヲ人間語である。存在は 自然本性にもとづくほかにない。むろんその スサノヲ語の中から 普遍概念としての言葉――いかんせん 言葉なのでしょうね アマテラス語は のその言葉――を磨き上げるしかないのだと。  そうしますと 実際の人間的交通においては どうも ひとつには ケースバイケースだという見方が或る程度で基本になるということなのでしょうか? 対機説法などと聞きますが。  ★ お互いの“仏性”を尊重し合えるような関係になると考えております  ☆ ううーん。これは 無難なお答えと言いましょうか だと思うのですが どうなりましょうか? つまりこの問題は ここでは その実践にかんして 実践じたいが現実なのだと人びとが納得し得たなら よしとすることになるわけですが そのような説明は どうなるでしょうか。  ▲ (大悲:仏心というは、大慈悲これなり) ~~~~~~~~~  『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に    「仏心というは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を    摂(せつ)す」  と説かれています。無縁の慈悲が大慈悲なのです。そしてそれが仏心なのです。  鈴木大拙師は    「慈悲の究極は存在にあり」  と言われました。仏は仏として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが仏の慈悲ではありません。澄んだ夜空に在って、衆生の闇を静かに包み、その闇の衆生といのちを共にしているお月様に譬(たと)えられています。このように「大慈悲」とは仏法のただ中に身を置いているところにはたらく慈悲であります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この説明には 慈悲にかんする交通における側面が述べられていない(もしくは 受け身の交通のみである)と思うのですが むしろこの種の説明で理解する道を求めるのがよいのでしょうか?  さらにわづらわせ申し上げますが よろしくお願いします。

noname#112269
noname#112269
回答No.9

喩えば、野球部員がいて、甲子園を目指しているとします。 でですね、部員Aが、「俺達って、甲子園行けんのかな・・・」 と言ったとします。 部員Bは当然、「ああ、きっといけるさ。」 と自他を励ますその言葉に、疑問の余地はありません。 ところで、高校球児は、克つことを目的に甲子園を目指すのではありません。勝ちは途中、その中にあるものが欲しくて、甲子園を目指しているわけです。 それと同じで、今、僕らがこけたり起きたりしていて、 あるひとが、「俺らって、起き上がれんのかな・・・」 と言ったとします。 そしたら当然他の人は、「当たり前じゃねぇか。気に止む無いっ。」つって、 自他を励ますでしょう。 その言葉に疑問を挟む余地など無いのです。それが信です。 ところで我々は、歩くことが目的ではありません。歩きは途中、その真髄(=ゴール)を目指して歩くわけです。であるから、克己は途中、その中にあるものを探して僕らは歩こうというわけです。 > どぢゃ?  世尊ったぁ いったいなんやねん? どないやねん? これはつまり、すし屋の職人に、大将って呼びかけたり、あるいは、バーの店主にマスター、なんて呼びかけたりするのと同じです。 仏弟子は仏、法の店の店主を世尊と呼ぶのです。 ここで、bragelonneさんが世尊と呼ばれるのは、 未来の世尊だからです。今日か明日か、あさってか、もっと先か、何時にせよ、誰もがしあわせな未来を願われるのに似ています。  たとえば子供同士で、「ケンちゃんはどんな大人になんの?」と言っているようなものです。 それは相手の面影の向こうに、わからないのであるが、大人というものを見ているのです。 そのように大人になることを自分自身の事として受け止めて、子供らは自分達なりの答えをいつか見つけて、次第次第に、ひとりひとり、大人になって行くのです。 ところで人名の後につく「さん」は、「尊」なのだと私は考えています。「君」というのもあります。 つまり人は日ごろから、相手の事を世尊だと思っているということになります。 どこかの国でも、ヘイ、ブラザーなんて言うし、日本でも男性は誰でもにいさん、女性はねえさんと呼んだりします。それくらい、人は仏になってしかるべしなんだということでは?「ちゃん」も、舌足らずなだけで意味は同じだと思います。「様」も、変遷していますが、sama=san=尊と思います。 まぁ、呼び方は良いんですよ。要はだれでもそういう気持ちがあるってことです。 ところで、世尊は、めったにあらわれることはありません。人生に、二度、あっても三度と聞きます。私も、それはすごい稀有なんだなということは朧に分かります。 諸仏世尊、善知識、法(=そのこころ)は、出現すべきそのときに、無類の高貴さをそなえて世に出ると言われています。それはたとえば、子供があるときに、びっくりするような大人びたことを言うのに似ているらしいです。衆生(と言っても善き人)の口を借りて時として世に出るそれは、そのようにふとしたときの事ではあるが、その時たしかに法が世に現れたのだというそうです。 そして、それを聞いて覚った人が、大人になる、つまり仏になるわけです。   甘えについてのコメントは熟慮させてください。ひとごとじゃないんで。。

bragelonne
質問者

補足

 てるてるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうなりますと――そうなるとですね―― 希望には形のあるものと無いものとがあると言っていた二つの場合を 《きわめて現実的に》 ひとりの人間としての《わたし》にとって 総合するという見方かつ実際の立ち場を想定するとよいと思いました。  どういうことかと言いますと。まづ 球児の希望に関しては 形あるものとしてさらに二つがあります。試合に関するかぎり負けを目指すわけではないので 勝つという望みがひとつ。そうして全体として 人生としてゆたかさを得ること・または人格としておおきくなること これもあるということでしょう。――形の無い望みは 非思考のなぞの力のもとにあるということ でしょうか。  つまりすなわち これらの希望がすべて総合されて ひとりの人間ごとに持たれるし かなえられるという主題に収れんします。《僕らがこけたり起きたり》する場合も 基本的に同じ主題として捉えられるはずです。  つまり――何を隠そう いま考えたのですが。ただし《われはブッダなり》宣言は 前からあたためていましたが―― 《非思考》としての《慈悲》も そういう想定としては《いま・ここなる〈わたし〉にとって現実である》と見ることです。《わたしはブッダである。ゆえに 慈悲心が与えられている》 これです。  それは まぼろしである。けれども まぼろしとして現実である。《わたし》の主観においてはであり けれども世界のすべては主観の問題なのであると。  それなら 世尊や尊と呼ばれてもよいでしょうし それは 誰もがそう呼ばれるということであり 《未来の世尊》ではなく 現在の過程としての世尊であるとなります。また 誰もがそうであるので いちいちそう呼ぶこともなくなるとも思います。  もしこの考え方の線では 次の見方を引っ込めてもらわねばなりませんが その点は どうですか?  ★ ところで、世尊は、めったにあらわれることはありません。人生に、二度、あっても三度と聞きます。私も、それはすごい稀有なんだなということは朧に分かります。  ☆ 時間(時空間)は 《いま(いま・ここ)》なのです。ズレはありません。ここがロードスですから。  tansll さんは すでに慈悲心はさづかっていると見ておられます。  Hidocchi さんは 関係論ないし人間的交通論においてよりは存在論において すでにひとは慈悲心ないし仏性の当体としてあるという空観=縁起共生論として 答えを見出しておられます。  (ひどっちさんの場合 実践よりは理解・認識として現実なのだという条件がついているかどうか。また つまり実践ないし理解ということが 社会的な交通の場でどういうかたちになるか。こういった点についてさらに尋ねてみているところです)。( tansll さんの場合 非思考=信仰として捉えたあとは もう細かいことは言わないという立ち場でもあるようです)。  ブッダを珍しいものと見るのは この中では てるてるさんお一人のようですよ。愛(め)づらしきものであることは 四人とも見方が一致していると思いますが。つまり それは ひどっちさんの提起しておられる《偶然性》の問題だと思います。あるいは 潜在性とその顕在化と言ったほうが早いかと思います。潜在性としては ひどっちさんとのやり取りで出てきた《本覚思想》や《即身成仏説》におおいにかかわると考えます。  あるいは ここに《もののあはれを知る》説をもわたしとしては からませたいと思っております。  よろしくお願いいたしたいと思います。(ちょっと かたいかなあ)。

noname#112847
noname#112847
回答No.7

私が了解した範囲を述べれば(2)です。 慈悲とは常に現実に対しての非経験なるものからの新鮮で力強い働きかけです。 新鮮と受け止めるところに、感情が動かされ、身体を含めた現実への対処が自然と生じてきます。 私にとっては、未だ非経験という形でしか知り得ないものに、常に動かされている事になりますが その事は、私の通常の意識に全く逆らう事はなく、包みこんでしまう作用さえ持つものです。 空海の言葉は 如来の大慈悲心が衆生の信心を通して強く働きかける事を示しています。 これは、他力の世界です。 空海の継承者である、故織田隆弘師は絶対他力の真言易行道を提唱されましたが、ここに加持というものに対する確かな正解があるように思えます。 詳しくはそちらの著書を拝読なさって下さい。 私ごときにそれらの事を説く資格はありません。 私に分かっているのは、小さな信心であっても仏の確かな慈悲心を頂けるという事だけです。 慈悲というものに対する深い哲学的解釈は、ご質問者様や宗教哲学者の皆様にお任せしたく存じます。 体験の世界のみに入ってしまう事も慎むべきなのかもしれませんが 浅学の身で、頂いているものに対して無用な戯論は避けたいと思います。 悪しからずご了承下さい。 それでは失礼いたしました。

bragelonne
質問者

お礼

 tansll さん ご回答をありがとうございます。  なるほど。  ★ 絶対他力の真言易行道  ☆ ですね。わたしは 親鸞をとおして分かるように思います。そして 《絶対他力》ないし従ってその力のはたらきとしての慈悲について《受け身でいる》ということだと受け取ります。  ありがとうございました。明確なお答えをいただいたと存じます。そしてその内容にわたし自身は賛同いたします。  ★ 私ごときにそれらの事を説く資格はありません。  ★ 頂いているものに対して無用な戯論は避けたいと思います。  ☆ これは 残念ですし 慈悲の問題としてはむしろどこか慈悲の世界に逆らっておられるような感覚を持ちますが それはそういうご決意であるのでしたら 仕方ないと思います。  修行の問題 あるいは 聖道門の行き方などの問題がありますが と言うよりは これらの立ち場の方がたからもご見解を寄せていただきたいと思うわけですが わたしも自己表現が――過程として・過程において―― 大事であると思っています。  それでは。  

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     《無縁社会》は あたらしい造語だそうです。  そういう社会のあり方にすすんで行っているのでしょうか?  地縁血縁のきづなが ほころびて来ているのでしょうか?    農村にしろそうでないにしろ地方から都会に出て働きそこに住むようになったばあい 田舎とのつながりは断たれたのでしょうか?  そういう場合は あらたな地縁とそして社(会社)縁のつながりができて来るとも言います。  少子高齢化などにより単身者として生活する場合が増える。  就職の形態が正規でない場合が増える。  となると あたらしく出来たと思った地縁社縁もほころびて来るのでしょうか?  昔から無縁仏になるという情況もあったようですが 社会的孤立の量も質も変わって来ていましょうか?  ヰキぺの無縁社会には 《個人主義》という主題も関連項目として挙げられています。  経済や社会の仕組みの変化以上に そういったあらたな思想の台頭も影響していましょうか?  ○ ヰキぺ:無縁社会:  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%B8%81%E7%A4%BE%E4%BC%9A  ○ ヰキぺ:個人主義:  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9  ここでは 次の二点を問います。  A. 無縁社会なら 単純に言って もはや人と人とのつながりは 無縁からの――ゼロからの空からの――出発であり そこに色をつけるなら 無縁慈悲としての人間関係論が展開されるであろう。  としか考えられないのですが どうでしょうか?  B. ヰキぺの《個人主義》には その対義語として 《全体主義・集団主義》とあります。ただちにキレて そんなばかなという反応を持ちましたので その反論をのべて問います。   1. たとえば《無縁慈悲》なる行為をおこなうには――それが 人間のおこないうる経験事象であるとして―― 自分もひとり 相手もひとり それぞれが《ひとり》なる人間であるのでなければ成り立たない。互いに対等な存在であって初めて その愛は成り立つ。    《主人と奴隷》なる A‐S連関制では 何も人間的なことは成し得ません。ほどこしと物もらいの関係では 動物以下の《縁》でつながっているに過ぎません。  ゆえに 《主義》かどうかを別としても 《個人=ひとり》は 大切なことであり 欠かすことは出来ません。  2. 全体主義がたしかに対義語であるのかも分かりませんが それはしかしながら先ほどの《A(主人)‐S(奴隷)》の連関制――つまり その主人にしたところでその奴隷がいなくなれば 主人ですらなくなりその限りで人間でもなくなります――が内容だとすれば それはむしろ論外とすべきことがらです。  ということではないでしょうか?  (哲学以前という論外だとまづ見なして それとして哲学は扱わねばならない)。  3. けれども それでは《集団主義》が 《ひとりなる実存としての個人》の対義語になるでしょうか?  これも《主義》と言うと一般に極論を指し示そうとする傾向がありますので そのあたりのことは別としますが それでもたとえば《集団志向》 これは 単純に人びとが互いに協力するということであり チームワークの問題であって そのときには《個人》をも互いに活かすという前提に立っているのではないでしょうか?    おそらく家族や身内としての集団による拘束から始まって組織集団の内外における人縁は シガラミにまで成り得るので 《個人 vs. 集団》という図式が描かれるのかも分かりませんが 家族にしろ経済活動の組織にしろ 基本的な前提としてじゅうぶんに個人を活かしそれぞれの自由を発揮しまもろうとする志はある。と言わねばなりません。  自律・他律の問題ではなく それぞれの個人の《ひとり》としての自立において自分も活きるし他人(ひと)も活きるそういう共同・協働の体制であるはずです。  すなわち 集団志向は個人志向と相容れないものではない。集団主義の対義語が 隠遁だとか言うのもおかしい話でしょう。  C. あらためて われわれ現代人のあいだに 《無縁慈悲》は成るか? こう問います。

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに価値判断すると アマテラス人格語として――ということは 倫理学として・また倫理規範として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. そこでは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語》のしかるべき有効な二層構造化 これを果たそうとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において人間である。自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家の人間化 ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語を回復させるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちは その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっているのではないか? あやまちをまぬかれる人間はいないのに。  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここからアマアガリして 抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?

  • 《人間を国家(公)的に》から《国家を人間的に》へ

     姉妹質問です。互いが互いにとって分かりやすくなれば さいわいです。  ここの主題は 《人間化》です。  1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。  13-1. インタムライズム。公(A語)は 私(S語)の内に自然なかたちでおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S圏)が 主権をすでに理論的に持つのだからこれを実践して行くこと。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。インタムライズム。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 仏教の『慈悲』をほかの言語・宗教・表現に置き換えて下さい

    私は、聖書をよく読みます。 また、日本の親鸞が説いた教えも大好きです。 これらは、弱者や文盲の人や罪人でも、信仰を受け入れることによってもたらされる普遍的な救いであると説いており、マクロな視点でみれば共通する教えではないか。と考えていました。 *1キリスト教世界では、死後救われるかは最後の審判までわからない…うんぬんかんぬん・・・というのはとりあえずおいといて、イエスをキリストと信じ、主を崇拝することによって得られる『現世での罪からの解放と救い』とさせてください。 *2親鸞の教えは阿弥陀様の慈悲にすがることによって、死後での救いが…うんぬん・・・ですが、これも、信仰することによって得られる現世での充足感のようなモノで捉えています。 かなり乱暴ですが、私の『慈悲』への認識は以上です。 で、質問です。 (1)慈悲を別の言葉に置き換えるとどんな単語、もしくは表現が相応しいのでしょうか。(日本語でも良いです。) 参考ウエブhttp://shinran-bc.tomo-net.or.jp/report/report03_bn06.html (2)キリスト教世界との愛の4形態と比較して説明すればどうでしょう? a.エロス 情愛にもとづく情熱的な愛(条件付かつ情熱的な愛) b.フィリア    理性的な人間の間に成立する友情としての愛(友愛)   c.ストルゲー  肉親への愛情(親子の愛)、 d.アガペー   キリスト教的な愛、神への崇拝 (3)質問自体が間違っている。慈悲とキリスト教世界のイエスの教えに共通点はない!!という意見をお持ちの方は、できればわかりやすい言葉で教えてください。 (1)・(2)・(3) どれかにお答えいただければ嬉しいです。 *編集部さまへ、内容が重複する点があり、本質的には一つの質問です。 削除する前にその辺に留意していただければ幸いです。

  • 《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

     《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。       *  さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。  1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。  11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。  13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。  16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。  17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。

  • 1.なぜ人間には慈悲があるのか?慈悲とはいったいな

    1.なぜ人間には慈悲があるのか?慈悲とはいったいなんなのだろうか? 2.皆さんにとって慈悲とは? 哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/慈悲 https://en.wikipedia.org/wiki/Loving-kindness https://en.wikipedia.org/wiki/Chesed https://en.wikipedia.org/wiki/Mettā

  • 人間と社会についての用語を新しいものへ

     §1  《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関  (1)  人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。  《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。  《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。  (2)  強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。身と心とは一体であると見ますが S者なるわたくしの運動は 一般に社会的な生活の中で自己のA者なる精神によって 記憶され知解(認識・意識)される。また 記憶にもとづき知解されたものごとを 人は身体のウゴキとともに意志する。  (3)  《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。  (4)  わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて公民の領域をも担い その共同自治のための――選挙等をつうじての――役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として存在します。政治家・官僚等いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。  (5)  これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。   (6)  次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特にはS者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味ではS者は 主観であり 人間語です。  あやまちうるスサノヲ人間語と あやまつべからざる〔と一応考えられている〕アマテラス科学語および人格語なる普遍語です。    §2 主観としての《S‐A連関》から出発する  (7)  主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。  (8)  すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。  (9)  このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 現実性あるいは特に知覚という事実性から離れた概念のことです。  (10)  主体的な生きたA語客観は おのおのの主観として殊に《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。  (11)  主観が 社会的に共同化されて共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が協働性を含むことは 言うまでもありません。    §3 共同主観と共同観念  (12)  さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけを取り出すときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように単なる観念であり あるいはそこから観念的な現実というまでのものになりえます。想像の領域です。  (13)  たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえうる・そして感性で理解しうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語ったり論じたりするからです。つまり 抽象的でもあります。  (14)  したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。  (15)  これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして論じられ 規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり共同観念をつくりあげることが 可能です。  (16)  この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。  (17)  共同主観は より一層S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。  (18)  しかも共同観念は 必ずしも感性的でないことによって観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。  (19)  もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。  (20)  つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一たん基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさって来るというようなしろものです。  (21)  また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま見出されるそれであるということになるでしょうか。    §4  記憶・知解・意志(愛)  (22)  身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。  (23)  同じく《知解行為》は 記憶の倉庫から概念をみちびき出すかのようにして ものごとを知解する。すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。  (24)  何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。  (25)  精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛(つまり愛とは 自治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。  (26)  記憶し知解し意志するワタシたる《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。  (27)  また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。  (28)  従って言いかえると 一般に新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤関係のなかで人は 生きることになります。  (29)  新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。  (30)  そこでこの区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。象徴はアマテラシテです。  全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。  (31)  以上のように人間と社会とをめぐって自己了解した図柄をえがきました。つまりこのような用語をつかって人間と社会とをあつかって行きたいと思いますが いかがでしょうか。