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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?)

慈悲は人間にとって行為しうる経験現実か?

このQ&Aのポイント
  • 慈悲(じひ)とは、人々に平等の友情をもつことを指す。
  • 悲(ひ)とは、人間の苦しみに対する共感から生じる思いである。
  • 仏教では慈悲心を衆生縁、法縁、無縁の三縁に分けて説く。無縁の慈悲は仏にしかない心であるとされる。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#135843
noname#135843
回答No.8

 こんばんは、勝ってながら「もののあはれ」から、こちらの方に移ってきました。Hidocchiです。  まず、余談ではございますが、この「慈悲」という言葉なのですが、当初は、釈尊の発せられた言葉と理解しておりました。ですが、スッタニパータを見ましても、“無慈悲”という言葉が見られるぐらいで、この「慈悲」ということばは見当たりませんでした(訳者は中村元氏です)。そこで、由来を調べていきますと、世親(vasubandhu)ぐらいからだと判明致しました。つまり、世親の「浄土論」に、曇鸞大師(どんらんだいし)が注釈をつけ、「浄土論註(じょうどろんちゅう)」を著し[参考1]、その中で、かような小悲(しょうひ)、中悲(ちゅうひ)、大悲(だいひ)と位置付けをしているようでございます[参考2]。 参考1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C%E5%84%AA%E5%A9%86%E6%8F%90%E8%88%8E%E9%A1%98%E7%94%9F%E5%81%88%E8%A8%BB 参考2 http://www.hongwan.net/index.php/%E4%BB%8F%E5%BF%83%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%AF%E3%80%81%E5%A4%A7%E6%85%88%E6%82%B2%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%82%8A  そこで、ご質問なのですが、3つに分けて愚見を述べてみたいと思います。 Question 【S 語】or【A 語】?  小悲:一般的には【S 語】と解します。ですが、例えば、アメリカの共和党(小さな政府;必然的に貧富の差が生じます)と民主党(大きな政府;民主社会主義的な面を持ち、貧富の差が小さくなります)、さらに英国の保守党と労働党も同じ関係にあろうと考えられます。つまり、国民に選ばれた為政者(A側かと察せらます)も、国民の意思(例えば、貧富の差の縮小・白人以外の他民族の意思の尊重)に沿った形で政策を進めるからでございます。  従いまして、基本的には【S 語】、しかし、【A 語】ともなりうると解しております。 中悲:契機・予定論的な要素も含んでいるかと考えられます。つまり、かような(“空”観思想に触れるという)偶然性のようなものがあると思うからでございます。一方、仏性を持った人が、他の人を教えることもあろうかと考えらます。従いまして、これも、原則は【S 語】と解しております。 大悲:相依・相待という関係(縁起)により、ひとがありうる ということかと愚生は解しております(上記 参考2からでございます)。これも偶然性も絡んではきますが、「それ(縁起・空)を理解できる人が存在する」 ということを鑑みますと、中悲と同じ結論になろうかと考えております。  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。  ★ この「慈悲」という言葉なのですが、・・・由来を調べていきますと、世親(vasubandhu)ぐらいからだと判明致しました。  ☆ そうでしたか。《仏性》と同じような位置づけになるでしょうか。ブッダの直説ではないという点で。  整理します。  1. 『無量寿経』:浄土三部経の一つ。ブッダの直説ではない。  2. 『浄土論』:上の経典の世親による注釈書。  3. 『浄土論註』:世親注釈書の曇鸞による注釈書。  4. 『仏説無量寿経』:(1)の康僧鎧による漢訳書。法然や親鸞らはこれを読んだ。  5. 三縁(衆生縁・法縁・無縁)の慈悲:『涅槃経』に説かれる。  6. 小悲・中悲・大悲:このように三縁をそれぞれ位置づけたのは 『浄土論註』。  7. [参考2] 《仏心というは、大慈悲これなり》 ~~~~~~  衆生縁の慈悲(小悲)というのは、病などで苦しんでいる人に出会ったときに、助けたいと思う心、人情としての慈悲と言ってよいでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ スサノヲ人間語ですね たしかに。人情と言ってもよいようです。  8. [参考2] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  法縁の慈悲(中悲)というのは、仏教に出遇ったところにはたらく慈悲です。諸行無常とわかりながら、どこまでも、執着を離れ得ない、そういう自分の身が明らかにされ、はずかしく思う心を起こさせるのが法縁の慈悲です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ スサノヲ人間語が 磨かれ始めるといった感じでしょうか。  9. [参考2] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  対象のない慈悲が無縁の慈悲(大悲)です。  対象がないということはどういうことでしょうか。私たちは全てのことがらの出発点に自分があります。そして、私の存在こそが中心であると思っています。けれども私と思っているだけで、何の根拠もありません。仏教はそのことを「縁起(えんぎ)」と教え、「空(くう)」と教えています。  私はここに生きていると言いますが、実はあるものに依ってあるものがあるという相依相待(そうえそうたい)において、あり得ているだけであり、他には何もありません。生きているのではなくて、むしろ生かされているのです。  このように自己の存在を明らかにしてくれるはたらきが無縁の慈悲です。仏教における本当の慈悲とはこの無縁の慈悲のことです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。深いんですね。――ただ こうだとしますと もはやひとは何もしないといったことにもなるやに思われます。人とのまじわり(交通)におけるアマテラス人格語であるのかどうかが 問われませんか?  ▲ (ヰキぺ:成仏) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E4%BB%8F  さらに後期大乗仏教になると、・・・    《一切衆生は本来成仏している》  と考える思想(如来蔵・本覚)や、    《信によって本尊に加持することで煩悩に結縛された状態から、ただ    ちに涅槃に到達できる》  とする密教の即身成仏などの思想も生まれた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これら《本覚思想》あるいは《即身成仏》――要するに 《〈われはブッダなり〉と誰もがそれぞれ宣言する》方向――と軌を一にすると言ってよいでしょうか? いかがでしょうか? そしてそのときの対人関係における実践はいかに? という問いをなお持つのですが?

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noname#135843
noname#135843
回答No.17

 こんばんは、ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。Hidocchiです。  愚生の今までの意見は確かに抽象的すぎたかと反省しております。以下、具体的に述べてみたいと思います。 > そうしますとですね――つまりもはやこれまでのやり取りを互いに了解したとしますと―― 考えたのですが こうなりませんか?  1.ブディズムは 仏性と言うだけではなく 慈悲心と言う場合にも 基本的には 存在論として成り立っている。こうでしょうか?  “無縁”のところで顕著に現れますが、“縁起”説からも、(相対的要素を含んだ)存在論と解しております。 2.すなわち 《本来は「友情」「同志」の意味である「ミトラ」(mitra)》(= S 語)から作られた《マイトリー(maitrii)=慈》は 抽象概念として・理念として《いっさいの人々に対する平等の友情》という A 語を持ったと言うとき それはあくまで ひとりの人間の境地を言うというその意味での存在論である。こうでしょうか?  上述の通り、存在論かと考えてはおります。ただ、特殊な“境地”なるものはないものと考えております。《いっさいの人々に対する平等の友情》とは、その周囲の紡ぎあいのようなもの(“縁起”)から自然と(本人の意思とは関係せずに)導かれるものと考えております。 3.縁起共生と言いますが 《共生》のほうよりも基本としては個人におけるその空観の目覚めということに重きが置かれているのでしょうか?  “空観の目覚め” → “縁起による(偶発的)関係性” → 《共生》の意義の把握  という経路で営まれるものと考えてございます。従いまして、どちらが重いか? というよりも、(ほぼ)同時なるものかと考えております。 4.アン・アートマン(無我)と言いますが この無我を ブッダとして体得した《わたし》は いるのではないでしょうか? それともニルワ゛-ナというように 《わたし》は文字通り消えてしまうのでしょうか?  ブッダとして体得した《わたし》も存在していると思われます。確かに、“諸法無我”とは申しますが、現在のこの現実世界を生きている限りにおきましては、《わたし》の存在(自覚)は認めざるをえないと考えております。ただ、それ(我)に執着しすぎてしまいますと、“苦”が生じてくるとの“戒め”の意味を兼ねているものかと推察しております。釈尊ご自信が、出家した理由は(少なくともその一つは)、“苦からの開放・解脱”だったかと記憶しております。つまり、“諸法無我”を通して、この《わたし》に執着しすぎるところから生じる“苦”、これからの開放・解脱を説きたかったのではないか とそう推察しております。 5. まとめて ブディズムは 《社会性》についてどう捉えているのか?  繰り返しとなってしまいますが、《共生》を通して、ひとは、自分に可能な(偶発的要素も多少はあろうかと存じますが)“慈悲”(=”衆生縁“)も、重要視しているかと考えております。従いまして、”慈悲“を通した、共存関係を主張していると考えております。 ☆考えてみますと 《四方サンガ》ということをおそわったことがあります。世界(=四方八方)が共和国(サンガ)であるというひとつの社会観であるかと考えます。ただ これも ブディストにとっての共生の大地ということなのでしょうか? しかもひょっとしたら それは 出家者だけの世界であるのでしょうか?  出家者のみならず、在家者も含まれると解しております。“空観”が謳われたのも、大乗仏教からだったかと記憶しております。従いまして、出家・在家は関係ないものと考えております。  王法――仏法に対して 王法―― これも社会観につながる思想の一端だと考えますが 基本は 個人としての《目覚め》 というブッダの境地 これになりましょうか? ひとことで言って 友がらへのこころとしての慈悲も おのれひとりの成仏ということにすべて帰着するという思想なのでしょうか?  釈尊も一人で《目覚め》たかと思われます。そして、秘密にはせず(出し惜しみをせず)、旧友や、弟子たちに説いていったとされております。これは愚見でございますが、“おのれひとりの成仏”には否定は致しませんが、“すべて帰着する”という箇所には疑問を持っております(まずは、お手本となる釈尊を真似るというのが基本かと考えております)。  以降は次回に記載させていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。  ☆☆ ひとことで言って 友がらへのこころとしての慈悲も おのれひとりの成仏ということにすべて帰着するという思想なのでしょうか?  ★ ・・・“おのれひとりの成仏”には否定は致しませんが、“すべて帰着する”という箇所には疑問を持っております(まずは、お手本となる釈尊を真似るというのが基本かと考えております)。  ☆ ここら辺に 核心があるように思うのですが どうなんでしょう。  復唱・整理も端折らせてもらって このあたりに対して反応を持つのですが まづは 屁理屈ないし揚げ足取りとしまして  (1) 《おのれひとりの成仏にすべて帰着する》ゆえにこそ その《わたし》に関係性や――ヘンな日本語ですが――ともがら性やあるいは共生の素(もと)のような力も香りも出てくるのではないでしょうか? どうでしょう?  ☆ たしかに 《言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある》(箴言 10・29)と聞きますが 《ときを得ても得なくても〔伝える〕》(これは テモテへの第二の手紙4:2でした。パウロ本人の文章ではないようですが)とも聞きます。  (2) 受け身でいるというのは ほんとうだと思いますが 受け身でいるかたちで積極的にまじわりを志向している――というような格好にはならないでしょうか?  ★ “無縁”のところで顕著に現れますが、“縁起”説からも、(相対的要素を含んだ)存在論と解しております。  ☆ (3) 《無縁》つまり赤の他人ですよね? 赤の他人であるゆえに まじわりに関して積極的に 受け身の姿勢でいる。こうなりませんか?  ★ 確かに、“諸法無我”とは申しますが、現在のこの現実世界を生きている限りにおきましては、《わたし》の存在(自覚)は認めざるをえないと考えております。ただ、それ(我)に執着しすぎてしまいますと、“苦”が生じてくるとの“戒め”の意味を兼ねているものかと推察しております。  ☆ (4) 《われはブッダなり》と宣言する場合には 潜在力としてであっても あらゆる《戒め》から自由であるという存在が想定されていませんか?  (5) 悩みや苦しみもあるのですが・つまり 永遠の現在なる過程にも つねにというほどに起こるわけですが その苦悩をも含めてそれぞれの人生としての縁起の過程があたかも空観においてつつまれている。つまりは この空観が《戒め》――あるいは何なら 《律法》――に取って代わったのではないでしょうか?  ☆ つぎのご指摘について了解しました。ありがとうございます。  ★ “空観”が謳われたのも、大乗仏教からだったかと記憶しております。従いまして、出家・在家は関係ないものと考えております。  ☆ 乱雑になりましたが 考えをぶつけさせていただきました。偽らぬ問いになりました。いかがでしょう?

noname#112269
noname#112269
回答No.16

文章の訂正です。 もし浅い迷妄であるならば、正法のみがあればよいのであって、諸仏の説く理法の言葉は、もし仮に説く時があったとしても、ちょっとした躾としてということの効能になるでしょう。 あるいは、よく気をつけている人々が集まって、法について語るのも、また迷妄の呪縛を解くことを直に為す働きと+α、つまり解脱が期待できます。 それは喩えば、林の中でめいめい迷子になっている人同士が再会するのも喜ばしいですが、それは一人で歩く人同士が、不意に再会するようなものです。再会したならそれは、林から出る縁起を得たのであるとも言ってよいし、あるいはもう法を得たとも言えるのです。  ↓ もし迷妄が無いのであるならば、人は正法あるいは理法を語る存在であるということになります。 よく気をつけている人々が法について言葉を交わす事は、即ち観です。 観は思索を超えた思索であり、気をつけて歩いていることその人の有り様でもあるとも言い得ます。 観は静けさと明るさをともなっていて、たとえるならば月のようであるというのもOKですし、仏のそれは太陽のようであるとも聞きます。 とまれ、観を完成させて、人は真実を見知るのだといっても過言ではないでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 直前のお礼欄にて 述べております。

noname#112269
noname#112269
回答No.15

おそらく仏道の起源は、人は皆独りであるというところから来ているのではないかと思います。 いつかは一人発ちせねばならぬ、それも本当なのですが、いやおうなく独りになってしまう、そういう境遇で生きてきた我々であるから、故に、今ここでは、仏国土が完成するのであるということが、永遠の真理なのではないかと思うのです。 ところで、人は時に迷妄の林に絡め摂られてしまうことがあります。それはくもの巣のようでもあります。 迷妄とは、言葉によって生じた恐ろしい林の名前であり、ここに落ちると、夢を見たまま死に至るという恐怖の林です。このために、仏になった人は、理法を説いてその呪縛を解くのであるとも言えるのです。 もし浅い迷妄であるならば、正法のみがあればよいのであって、諸仏の説く理法の言葉は、もし仮に説く時があったとしても、ちょっとした躾としてということの効能になるでしょう。 あるいは、よく気をつけている人々が集まって、法について語るのも、また迷妄の呪縛を解くことを直に為す働きと+α、つまり解脱が期待できます。 それは喩えば、林の中でめいめい迷子になっている人同士が再会するのも喜ばしいですが、それは一人で歩く人同士が、不意に再会するようなものです。再会したならそれは、林から出る縁起を得たのであるとも言ってよいし、あるいはもう法を得たとも言えるのです。 林には、毒の実もあれば爽やかな実もあります。爽やかな実を食べて、力をつけることはよいことです。ですから、人は口にしてさとしい言葉を語るべきです。 林には、ぬかるんだ沼地もあれば、清涼な泉やせせらぎも存在します。清涼な飲料水を得て、元気を取り戻すのはよいことです。ですから人は、やさしい言葉を語るべきです。   しんがりになろうという心構えは、まったく仏になる人(何びとであっても)に相応しい心構えであり、そうであってこそ、その人は智慧豊かな人になりえるのです。迷いにあって覚悟の決まる人、かれこそ大乗の人であると言われるでしょう。見る人は、彼を先であると見るからです。仏弟子が仏弟子を教化するということの真実は、こういうことなのです。しんがりから見れば他のしんがりは先であり、先を行く人から見てもしんがりは先であり、ひとりも置いていかないということが仏乗に他なりません。そしてこのような法縁こそが、一人残らず解脱せしめるダルマの普遍的真実であるといってもよいのです。 この世はすべてが妄執です。しかし心構え正しく、真実に浄らかなるものを求めて精進し、人々にはやさしさと智慧を施して、自らもまたそのよう(=無住心)であるならば、それが即ち直き道に他なりません。 無住心のその人が、自ら弁え自ら知って自ら行い自ら覚る、自ら行うその道によって自らの歩んだ目前のその道を浄めつくして、不滅の安らぎを体解する。 地球に端っこがないように、この道は円なる道であるというのです。 合掌

bragelonne
質問者

お礼

 てるてるさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。  次のご投稿での訂正を合わせて――そう言えば 書き直された文章は すっきりしたというふうに感じました―― 今回のご文章は この質問を訪れる人たちが読んでひとつのおみやげにするものと思います。  わたしの考えをも採り入れてくださって ありがたいと思います。  今回の文章は ここをこう捉え そこをどう捉えるという性格のものではないようです。    そこで なお残る違いについて取り上げます。  推測で述べますので 間違いについてははっきり指摘してください。とおことわりしてですが これは ひどっちさんとのやり取りでも出ましたが   ○ 即身成仏について どうお考えになるか?  ☆ お訊きしたいと考えます。わたしの言葉では 《いま・ここ》が《永遠の現在》だという命題です。あるいは別様に言いかえれば 《ひとは 終わりから始める》という立ち場です。  ★ 無住心のその人が、自ら弁え自ら知って自ら行い自ら覚る、自ら行うその道によって自らの歩んだ目前のその道を浄めつくして、不滅の安らぎを体解する。  ☆ すでに《わたしは ブッダである》から始める――となります。《潜在性として 清浄心はすでにめぐみとして与えられた》ところから始めるです。《その道を浄めつくして》からにするとは思わないわけです。あとで《不滅の安らぎを体解する》のではなく 想定として・自然本性として すでに得ている――ここから始めるとなります。  どうでしょう?

noname#135843
noname#135843
回答No.14

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > その後の持続において むしろなぞとして・めぐみとして与えられる。こうでしょうか? つまり キリスト信仰とまったく齟齬はないと見ていらっしゃるのですね。  たぶんそうだと思うのですが その点など言葉に出してはっきりさせておきたかったのです。また 専門のと言いますかブッディストの側からもそのへんの事情をお聞きしたかったのです。  実を申しまして、愚生は、少なくとも敬虔なブッディストという訳ではないのですが(自称、仏教研究家です(笑))、どうしても、仏教におきましても、“なぞ”の部分が内包されているように思われるのです。従いまして、キリスト教信仰とは、全く別物とは考えてはいない次第でございます。 > ☆ この《S or A語のどちらに相当するか》ですが これもそうしますと 特にこだわらなくてもよいというようなのですね。すでに初めから ひどっちさんは見通しておられたのでしょうか。つまり 基礎は スサノヲ人間語である。存在は 自然本性にもとづくほかにない。むろんその スサノヲ語の中から 普遍概念としての言葉――いかんせん 言葉なのでしょうね アマテラス語は のその言葉――を磨き上げるしかないのだと。  《S or A語のどちらに相当するか》につきましては、自らquestionを挙げてはいたのですが、これまでの種々の資料から、答えを出すのにとても悩んだというのが実情でございます。愚生のとりあえずのご返答と致しましては、仰られますように、場合によっては、どちらにもとりうることができ、また活用・発展も可能ではないかと思った次第でございます。明確なご返答をできずに、申し訳ない限りでございます。  そうしますと 実際の人間的交通においては どうも ひとつには ケースバイケースだという見方が或る程度で基本になるということなのでしょうか? 対機説法などと聞きますが。  はい。仰られますように、ケースバイケースにより、考えをめぐらし、ときには“対話”を通しながら、交通整理をしていくものかと考えております。 > ▲ (大悲:仏心というは、大慈悲これなり) ~~~~~~~~~? 『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に?    「仏心というは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を    摂(せつ)す」  と説かれています。無縁の慈悲が大慈悲なのです。そしてそれが仏心なのです。  鈴木大拙師は    「慈悲の究極は存在にあり」  と言われました。仏は仏として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが仏の慈悲ではありません。澄んだ夜空に在って、衆生の闇を静かに包み、その闇の衆生といのちを共にしているお月様に譬(たと)えられています。このように「大慈悲」とは仏法のただ中に身を置いているところにはたらく慈悲であります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この説明には 慈悲にかんする交通における側面が述べられていない(もしくは 受け身の交通のみである)と思うのですが むしろこの種の説明で理解する道を求めるのがよいのでしょうか?  以下に、愚見を述べさせていただきます。  “仏”を彼岸から、此岸に持ってきたいと考えております。元来、初期仏教でもそうであったように“仏(ブッダ)”を“仏性を持つひと”と解したいと思います。従いまして、 「仏は仏として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが仏の慈悲ではありません。」 → 「“ひと”は“ひと”として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが“ひと”の慈悲ではありません。」    と訳したいと考えております。  つきましては、“縁起”=人々の中での関係性=「なぞ」ではありますが、何らかの契機により、結ばれた関係 とでございます。  お役に立つことがございましたら、幸甚でございます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうしますとですね――つまりもはやこれまでのやり取りを互いに了解したとしますと―― 考えたのですが こうなりませんか?   (極論しています。そのほうが 問答として話がすすむでしょう)。  1. ブディズムは 仏性と言うだけではなく 慈悲心と言う場合にも 基本的には 存在論として成り立っている。こうでしょうか?  2. すなわち 《本来は「友情」「同志」の意味である「ミトラ」(mitra)》(= S 語)から作られた《マイトリー(maitrii)=慈》は 抽象概念として・理念として《いっさいの人々に対する平等の友情》という A 語を持ったと言うとき それはあくまで ひとりの人間の境地を言うというその意味での存在論である。こうでしょうか?  3. 縁起共生と言いますが 《共生》のほうよりも基本としては個人におけるその空観の目覚めということに重きが置かれているのでしょうか?  4. アン・アートマン(無我)と言いますが この無我を ブッダとして体得した《わたし》は いるのではないでしょうか? それともニルワ゛-ナというように 《わたし》は文字通り消えてしまうのでしょうか?  5. まとめて ブディズムは 《社会性》についてどう捉えているのか?  ☆ 考えてみますと 《四方サンガ》ということをおそわったことがあります。世界(=四方八方)が共和国(サンガ)であるというひとつの社会観であるかと考えます。ただ これも ブディストにとっての共生の大地ということなのでしょうか? しかもひょっとしたら それは 出家者だけの世界であるのでしょうか?  王法――仏法に対して 王法―― これも社会観につながる思想の一端だと考えますが 基本は 個人としての《目覚め》 というブッダの境地 これになりましょうか? ひとことで言って 友がらへのこころとしての慈悲も おのれひとりの成仏ということにすべて帰着するという思想なのでしょうか?  ▲▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   鈴木大拙師は    「慈悲の究極は存在にあり」  と言われました。仏は仏として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが仏の慈悲ではありません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  “仏”を彼岸から、此岸に持ってきたいと考えております。元来、初期仏教でもそうであったように“仏(ブッダ)”を“仏性を持つひと”と解したいと思います。従いまして、    「“ひと”は“ひと”として存在すること自体が慈悲であって、    衆生の勝手な要求に応ずるのが“ひと”の慈悲ではありません。」    と訳したいと考えております。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 普天間基地は 町の真ん中にあるから 引っ越せというのは 衆生の勝手な要求です。県内に基地は置きたいというのも 勝手な要求です。他国だが他国でも条約として守ってくれというのも しかりです。外国よ 攻めてくるなも そうです。攻めるのも ミサイルを作るのも しかり・しかりです。  ▲ 勝手な要求  ☆ とは いったい誰が判断するのか? その判断の妥当性は どのように誰が判断するのか? どこかに勝手な判断は入って来ていないか? うんぬんうんぬん。しかじかかくかく。  ブディズムとは いったいどういう人間のいとなみとして成ったものなのでしょうか?

noname#112269
noname#112269
回答No.13

そうですよね、大人になったら悪い道に入ってええんかってことになったら、それは言うまでもないことですからね。日々これ清浄ってことかもしれないですね。 修行が終わってたら、清浄といわなくてもそうあれるのでしょうね。 最近爽やかな話が多いんです。 実は最近キャッチボールをおぼえたんですよ。リラックススルー(^^) ここらで初心にかえります。 一つ質問を良いですか? ・清浄心の人、本来清浄心の人、そのような人々は、どのような道に住み どのように歩いて どのような場所に到達するのでしょうか

bragelonne
質問者

お礼

 てるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 実は最近キャッチボールをおぼえたんですよ。リラックススルー(^^)  ☆ とびきり若いということではないでしょうのに なんで今頃? と思ってしまいましたが こだわることもないですよね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  一つ質問を良いですか?  ・清浄心の人、本来清浄心の人、そのような人々は、どのような道に住み どのように歩いて どのような場所に到達するのでしょうか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《本来清浄心の人》と言えば みなそうですよ。  ま 屁理屈はやめにしまして わたしに答えられるかぎりでですが。  ★ どのような場所に到達するのでしょうか  ☆ これは はっきりしています。と言っても キリスト信仰者としてのわたしの考えです。(その立ち場で 親鸞とは相い通じるものを感じますので ブディズムにも関心があります。ブディストか? と訊かれれば 積極的にそうだとは言えません)。  清浄心を与えられたと確信したそのとき・その場で《わたしがわたしである》存在を――潜在的にせよ――確立したと捉えます。  すでにそのとき 《永遠の現在》という過程にあります。永遠の現在がそのまま過程して行くかたちです。(海面上にさまざまな心理的な悩みなどの風雨が起こることも 実際です)。  つまり 《わたし》に到来します。到来し続けます。    そして 《わたしがわたしする》過程をあゆみます。わたしの自己表現の道です。表現はあらゆるかたちにおいてありうるでしょう。  たぶんすべてと言っていいほど その時には受け身ですすむというふうにも言えるかと思います。あるいは つねに後ろ向きに前へすすむというかたち。これは 《九十九匹よりも一匹を〔大事にしよう〕》という考え方です。先頭のほうに身をおいている場合もあるのですが 気持ちはしんがりで進むということになるかも知れません。  そんなふうに思います。  

noname#112269
noname#112269
回答No.12

ずばり行きますよ。OKすか? 三縁の慈悲とはつまり、 第一 大投手スサノオことノビノビタが、投げます。直球ね。MAX大リーグボールって感じで。 第二 偉大なる捕手アマテラスこと源しづか 受けます。ずどんと。ど真ん中でね。これはすげぇー球だあ。 第三 これがほんとの仏縁 大打者 それも超A超高校級、デキスギタケシ ね、この人が、しゃばぁっと一振りで、バッテリーの夢は砕け散るわけですよ。ボールは野を超え山超え谷越えて、海を越えてホームランですよ。これが、出世間法です。あぁ 無常 。 ずばり行きますよ。OKすか? 三縁の慈悲とはつまり、 第一 大投手スサノオことノビノビタが、投げます。直球ね。MAX大リーグボールって感じで。 第二 偉大なる捕手アマテラスこと源しづか 受けます。ずどんと。ど真ん中でね。これはすげぇー球だあ。 第三 これがほんとの仏縁 大打者 それも超A超高校級、デキスギタケシ ね、この人が、しゃばぁっと一振りで、バッテリーの夢は砕け散るわけですよ。ボールは野を超え山超え谷越えて、海を越えてホームランですよ。これが、出世間法です。あぁ 無常 。 別のパターンもありますよ。大打者デキスギスネオを打ち取るパターンです。 こっちはねぇ、やる気がない。勝負するんだったら、超高校級と勝負したい。だろ? もう一つたとえ話をしましょう。縁起についてです。なぜ見えないように見えるのか? 高校球児の話です。 さて、熱闘甲子園といわれるように、高校野球の頂点ではあつい試合が繰り広げられます。 互いに健闘をたたえる高校球児の姿には、誰もが爽やかな余韻を授かることでしょう。 そのような闘いの中では、一生に一度の悔し涙や、その時にしか現れ得ないファインプレーというものが存在しますでしょう。いわばそれが縁起なのです。 高校球児たちは、どのチームも、日夜練習に励み、寒い日も暑い日も雨の日も晴れの日も、修練を積んできているわけです。 そのような球児たちが、マウンドに立つ、グラウンドに出る、BOXにはいる、するとね、わかるわけじゃないですか。お互いが、お互いに、どんな高校生活を送ってきたのかが。 だから、一投一投が、一振り一振りが、一球一球が、彼らの青春のすべてなんですよ。わかりますか。 勝ちへの途中、それは事実、しかし真実は、勝ちへは途中、中身が本当なんですよ。 だから高校球児は、常に敗者と勝者が存在する世界においてもさえも、いやだからこそというべきか、希望を持って精進できるんです。 このような勝負には、敵味方というものを超えた、真剣勝負が現れます。それが、いわば道場です。 そしてそのような場においては、これはっという瞬間が時として現れる。これこそが、縁起なのです。 縁起は、互いが全力を出し切るという直ぐなる心の持ち主であって、しかも互いに譲らず、対等でね、只、一献一献に力をこめて投打に没頭する故に、決定的な瞬間、ね、勝負どころが存在するわけですよ。勝敗を決するときが来たと。皆、後悔はないかと、あるわけねぇよと。やるぜと、ね、そんな世界に、どこのだれがうらみなんか持ち込むの、慌しさなんか持ち込むの、ありえないでしょ、だってそこは、球児の聖地、甲子園のマウンドなんだぜ。

bragelonne
質問者

お礼

 てるてるさん お早うございます。(遅くなりましたが)。ご回答をありがとうございます。    そうですね。《稀有》説を或る意味で貫かれた――こういう受け取りですけれど まづは 見解の相違は何ら問題にはなりません。  問題は 慈悲心もしくは縁起共生の実現する現場ということについて 《稀有》というよりは《日常から離れた特殊な場合》について捉えようとしておられるのではないか。ここにとりあえず 注意が向かいました。  たしかに ふつうの人間が 仏性と言えば 清浄心ということでもあるでしょうから これをみづからの――もう一度使いますが――現場において発揮するということ。あるいは そこでの振る舞いの数々をとおして 慈悲心を見通せるようになるということ。これを扱っておられます。苦心の論文であろうと存じます。    でもここでは わたしはスネオに徹しましょうか。  ★(α) 高校球児たちは、どのチームも、日夜練習に励み、寒い日も暑い日も雨の日も晴れの日も、修練を積んできているわけです。  ☆ たしかにこのように 生活日常が大事であることにも触れておられます。だからこそ 卑近なことでは タバコを吸ったとか不祥事が出た場合には 大きく問題にされます。ですが だったら 高校を卒業したなら もう何でも大人の裏表の世界に染まって行ってもいいのかともなります。江川も桑田も その点では 時効無しです。ではないですか?  つまり 慈悲心の問題を 晴れの舞台といった特殊な場において発揮されるか もしくは そこでこそ見通されるというふうに 絞って行くのはなぜか?  ★(β) これはっという瞬間 / 投打に没頭する故に、決定的な瞬間  ☆ この(β)の特殊性は (α)の日常性を凌駕しない――こう言いたいのではないでしょうか? 慈悲心というのであれば。つまり わたしとしては (β)を特別視するところに 江川と桑田が現われた――こう考えます。  でも試合なんだから勝負は勝負ですよ。勝負を決めるというのは 普段からの練習と同じ次元です。日常性の延長です。それを 晴れの舞台なのだから 特別の縁起の瞬間なのだというのは どうも感覚としてピンと来ませんね。どうでしょう?  * BIGLOBE何でも相談室は 今朝から模様替えです。OKウェーヴに合わせてシステムが変わりました。ところが 原稿を確認して 投稿するに到ると 《アクセスが集中している》が出て 仕上がりません。でした。あぁ 苦労した。  補足欄も お礼欄と同じく 制限が2000字となったのですね。

noname#112269
noname#112269
回答No.11

仏が稀有であると言うのは、ある意味で私の手抜きかもしれない。「仏が珍しいと思っているのは私だけ」たしかにその指摘には注目したくおもいます。 だけれど、皆が既に仏なのであれば、人は既にこの世に一人も存在していないことになってしまわないのか。 うーん。。どういうことなんでしょうね。 居る居ない、あるなしにこだわりすぎたかも。。 これもちょいとゆっくり考えさせてもらいます。

bragelonne
質問者

お礼

 今晩は てるてるさん。ご回答をありがとうございます。  ひどっちさんとのやり取りで   ★ だけれど、皆が既に仏なのであれば、人は既にこの世に一人も存在していないことになってしまわないのか。 / うーん。。どういうことなんでしょうね。  ☆ このあたりのところについて 間接的に触れているかと思っていますが いまは静かに見守らせていただきましょう。  どうぞ時間をじゅうぶん費やしてくださいませ。(ちょっと 冷たく)。

noname#135843
noname#135843
回答No.10

 こんばんは、ご返答いただきまして、また、詳しいご説明をも添えていただきまして、厚くお礼申します。Hidocchiです。 > ☆ ううーん。深いんですね。――ただ こうだとしますと もはやひとは何もしないといったことにもなるやに思われます。人とのまじわり(交通)におけるアマテラス人格語であるのかどうかが 問われませんか?  仏教との出会い、縁起(空)の理解等につきましては、何かしらの契機のようなものが存在しているのかもしれません。  ご存知のことと思われますので、概略だけ説明させていただきますと、釈尊が悟りを得、その後、旧友5人のところに行き、そして、皆が全員ブッダとなったとされています。また、舎利子も元々は別の教え(懐疑論者サンジャヤ・ベーラッティプッタの教え)に従っていたのですが、ふと釈尊に出会い、「釈迦の教えの一部を聞いたとたんに悟りの最初の段階に達したと伝えられる。」とされています。これらを考えて見ますと、予定論的な要素も含んでいるかのように見受けられます(参考1)。 ですが、必ずしも、その教え(縁起・空観)を聞いたとしても、理解できるとは限らないとも考えられます。その契機の次の段階でございますが、これには、人の努力(周囲の人たちの援助も含まれるかと思われます)が必要とされるかと思われます。  実際、世親(vasubandhu)の兄にあたる無著(asaNga アサンガ)は、「「空」の教理が理解できないため自殺しようと悩んでいたとき、東方、ビデーハ国(現在のビハール州北部)のピンドーラ(piNDola、賓頭羅)阿羅漢に出会い、ようやく小乗の空観をも体得した。」とされています。これも、契機と努力の結果かと考えられます(参考2)。  従いまして、「ひとは何もしない」に加えて、さらに「人とのまじわり」も必要ではないかとも考えております(S or A語のどちらに相当するかは、残念ながら、わからないのですが)。 参考1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E5%88%A9%E5%BC%97 参考2 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E8%91%97 > ☆ これら《本覚思想》あるいは《即身成仏》――要するに 《〈われはブッダなり〉と誰もがそれぞれ宣言する》方向――と軌を一にすると言ってよいでしょうか? いかがでしょうか? そしてそのときの対人関係における実践はいかに?   愚生は、誰もがブッダであると考えております。以前には(初期仏教の頃)、ブッダは少なからずいたようでございますが、ここ2千年を振り替えりますと、即身成仏となられた数名以外は分からないという状況でございます。しかも、例えば、密教系の真言宗では、教祖の空海と比肩しうる密教思想家は今日まで現れてはいないという状況でございます。逆に申しますと、“ブッダ”という概念を彼岸のまたその彼岸まで、勝手に人たちが追いやってしまったと考えております。  そして、その際の対人関係は と申しますと、未だはっきりとした回答を持ち合わせてはいないのですが、お互いの“仏性”を尊重し合えるような関係になると考えております(かなり個人的希望も含まれており、お恥ずかしい限りでございますが)。  ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。補足欄にてお礼を書いています。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。  だいぶんすすんでまいったと思います。ありがとうございます。  なるほど ブッダあるいは弟子たち さらにその後のブディスト探究者ら その人びとの足跡をたどって さとりを得たかどうか・どの程度だったかをさぐるというのは そのまま実践の問題を問い求めることなのですね。  ★ 愚生は、誰もがブッダであると考えております。  ☆ 仏性の問題と言い ブッダの修行ないしさとりの度合いと言い お聞きしていた内容として もはや《人はブッダである》は大前提であったのですね。分かりました。非思考(信仰)の問題として捉えるならば 必然的に存在はそうであるとなるとは たしかに思います。  そしてまた 慈悲心となれば この信仰の――最初のさとりのあとの実践過程として――その後の持続において むしろなぞとして・めぐみとして与えられる。こうでしょうか? つまり キリスト信仰とまったく齟齬はないと見ていらっしゃるのですね。  たぶんそうだと思うのですが その点など言葉に出してはっきりさせておきたかったのです。また 専門のと言いますかブッディストの側からもそのへんの事情をお聞きしたかったのです。  そうしますと ブディズムの側からさらにさらにご投稿があるとよろしいかと考えますが それはいま措くとして あとは 《目覚め》にしたがって残りの人生をどう生きるか そこでの実践はどのように成るのか この課題と言えば課題が持たれるというところでしょうか。  ★ 従いまして、「ひとは何もしない」に加えて、さらに「人とのまじわり」も必要ではないかとも考えております(S or A語のどちらに相当するかは、残念ながら、わからないのですが)。  ☆ この《S or A語のどちらに相当するか》ですが これもそうしますと 特にこだわらなくてもよいというようなのですね。すでに初めから ひどっちさんは見通しておられたのでしょうか。つまり 基礎は スサノヲ人間語である。存在は 自然本性にもとづくほかにない。むろんその スサノヲ語の中から 普遍概念としての言葉――いかんせん 言葉なのでしょうね アマテラス語は のその言葉――を磨き上げるしかないのだと。  そうしますと 実際の人間的交通においては どうも ひとつには ケースバイケースだという見方が或る程度で基本になるということなのでしょうか? 対機説法などと聞きますが。  ★ お互いの“仏性”を尊重し合えるような関係になると考えております  ☆ ううーん。これは 無難なお答えと言いましょうか だと思うのですが どうなりましょうか? つまりこの問題は ここでは その実践にかんして 実践じたいが現実なのだと人びとが納得し得たなら よしとすることになるわけですが そのような説明は どうなるでしょうか。  ▲ (大悲:仏心というは、大慈悲これなり) ~~~~~~~~~  『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に    「仏心というは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を    摂(せつ)す」  と説かれています。無縁の慈悲が大慈悲なのです。そしてそれが仏心なのです。  鈴木大拙師は    「慈悲の究極は存在にあり」  と言われました。仏は仏として存在すること自体が慈悲であって、衆生の勝手な要求に応ずるのが仏の慈悲ではありません。澄んだ夜空に在って、衆生の闇を静かに包み、その闇の衆生といのちを共にしているお月様に譬(たと)えられています。このように「大慈悲」とは仏法のただ中に身を置いているところにはたらく慈悲であります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この説明には 慈悲にかんする交通における側面が述べられていない(もしくは 受け身の交通のみである)と思うのですが むしろこの種の説明で理解する道を求めるのがよいのでしょうか?  さらにわづらわせ申し上げますが よろしくお願いします。

noname#112269
noname#112269
回答No.9

喩えば、野球部員がいて、甲子園を目指しているとします。 でですね、部員Aが、「俺達って、甲子園行けんのかな・・・」 と言ったとします。 部員Bは当然、「ああ、きっといけるさ。」 と自他を励ますその言葉に、疑問の余地はありません。 ところで、高校球児は、克つことを目的に甲子園を目指すのではありません。勝ちは途中、その中にあるものが欲しくて、甲子園を目指しているわけです。 それと同じで、今、僕らがこけたり起きたりしていて、 あるひとが、「俺らって、起き上がれんのかな・・・」 と言ったとします。 そしたら当然他の人は、「当たり前じゃねぇか。気に止む無いっ。」つって、 自他を励ますでしょう。 その言葉に疑問を挟む余地など無いのです。それが信です。 ところで我々は、歩くことが目的ではありません。歩きは途中、その真髄(=ゴール)を目指して歩くわけです。であるから、克己は途中、その中にあるものを探して僕らは歩こうというわけです。 > どぢゃ?  世尊ったぁ いったいなんやねん? どないやねん? これはつまり、すし屋の職人に、大将って呼びかけたり、あるいは、バーの店主にマスター、なんて呼びかけたりするのと同じです。 仏弟子は仏、法の店の店主を世尊と呼ぶのです。 ここで、bragelonneさんが世尊と呼ばれるのは、 未来の世尊だからです。今日か明日か、あさってか、もっと先か、何時にせよ、誰もがしあわせな未来を願われるのに似ています。  たとえば子供同士で、「ケンちゃんはどんな大人になんの?」と言っているようなものです。 それは相手の面影の向こうに、わからないのであるが、大人というものを見ているのです。 そのように大人になることを自分自身の事として受け止めて、子供らは自分達なりの答えをいつか見つけて、次第次第に、ひとりひとり、大人になって行くのです。 ところで人名の後につく「さん」は、「尊」なのだと私は考えています。「君」というのもあります。 つまり人は日ごろから、相手の事を世尊だと思っているということになります。 どこかの国でも、ヘイ、ブラザーなんて言うし、日本でも男性は誰でもにいさん、女性はねえさんと呼んだりします。それくらい、人は仏になってしかるべしなんだということでは?「ちゃん」も、舌足らずなだけで意味は同じだと思います。「様」も、変遷していますが、sama=san=尊と思います。 まぁ、呼び方は良いんですよ。要はだれでもそういう気持ちがあるってことです。 ところで、世尊は、めったにあらわれることはありません。人生に、二度、あっても三度と聞きます。私も、それはすごい稀有なんだなということは朧に分かります。 諸仏世尊、善知識、法(=そのこころ)は、出現すべきそのときに、無類の高貴さをそなえて世に出ると言われています。それはたとえば、子供があるときに、びっくりするような大人びたことを言うのに似ているらしいです。衆生(と言っても善き人)の口を借りて時として世に出るそれは、そのようにふとしたときの事ではあるが、その時たしかに法が世に現れたのだというそうです。 そして、それを聞いて覚った人が、大人になる、つまり仏になるわけです。   甘えについてのコメントは熟慮させてください。ひとごとじゃないんで。。

bragelonne
質問者

補足

 てるてるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうなりますと――そうなるとですね―― 希望には形のあるものと無いものとがあると言っていた二つの場合を 《きわめて現実的に》 ひとりの人間としての《わたし》にとって 総合するという見方かつ実際の立ち場を想定するとよいと思いました。  どういうことかと言いますと。まづ 球児の希望に関しては 形あるものとしてさらに二つがあります。試合に関するかぎり負けを目指すわけではないので 勝つという望みがひとつ。そうして全体として 人生としてゆたかさを得ること・または人格としておおきくなること これもあるということでしょう。――形の無い望みは 非思考のなぞの力のもとにあるということ でしょうか。  つまりすなわち これらの希望がすべて総合されて ひとりの人間ごとに持たれるし かなえられるという主題に収れんします。《僕らがこけたり起きたり》する場合も 基本的に同じ主題として捉えられるはずです。  つまり――何を隠そう いま考えたのですが。ただし《われはブッダなり》宣言は 前からあたためていましたが―― 《非思考》としての《慈悲》も そういう想定としては《いま・ここなる〈わたし〉にとって現実である》と見ることです。《わたしはブッダである。ゆえに 慈悲心が与えられている》 これです。  それは まぼろしである。けれども まぼろしとして現実である。《わたし》の主観においてはであり けれども世界のすべては主観の問題なのであると。  それなら 世尊や尊と呼ばれてもよいでしょうし それは 誰もがそう呼ばれるということであり 《未来の世尊》ではなく 現在の過程としての世尊であるとなります。また 誰もがそうであるので いちいちそう呼ぶこともなくなるとも思います。  もしこの考え方の線では 次の見方を引っ込めてもらわねばなりませんが その点は どうですか?  ★ ところで、世尊は、めったにあらわれることはありません。人生に、二度、あっても三度と聞きます。私も、それはすごい稀有なんだなということは朧に分かります。  ☆ 時間(時空間)は 《いま(いま・ここ)》なのです。ズレはありません。ここがロードスですから。  tansll さんは すでに慈悲心はさづかっていると見ておられます。  Hidocchi さんは 関係論ないし人間的交通論においてよりは存在論において すでにひとは慈悲心ないし仏性の当体としてあるという空観=縁起共生論として 答えを見出しておられます。  (ひどっちさんの場合 実践よりは理解・認識として現実なのだという条件がついているかどうか。また つまり実践ないし理解ということが 社会的な交通の場でどういうかたちになるか。こういった点についてさらに尋ねてみているところです)。( tansll さんの場合 非思考=信仰として捉えたあとは もう細かいことは言わないという立ち場でもあるようです)。  ブッダを珍しいものと見るのは この中では てるてるさんお一人のようですよ。愛(め)づらしきものであることは 四人とも見方が一致していると思いますが。つまり それは ひどっちさんの提起しておられる《偶然性》の問題だと思います。あるいは 潜在性とその顕在化と言ったほうが早いかと思います。潜在性としては ひどっちさんとのやり取りで出てきた《本覚思想》や《即身成仏説》におおいにかかわると考えます。  あるいは ここに《もののあはれを知る》説をもわたしとしては からませたいと思っております。  よろしくお願いいたしたいと思います。(ちょっと かたいかなあ)。

noname#112847
noname#112847
回答No.7

私が了解した範囲を述べれば(2)です。 慈悲とは常に現実に対しての非経験なるものからの新鮮で力強い働きかけです。 新鮮と受け止めるところに、感情が動かされ、身体を含めた現実への対処が自然と生じてきます。 私にとっては、未だ非経験という形でしか知り得ないものに、常に動かされている事になりますが その事は、私の通常の意識に全く逆らう事はなく、包みこんでしまう作用さえ持つものです。 空海の言葉は 如来の大慈悲心が衆生の信心を通して強く働きかける事を示しています。 これは、他力の世界です。 空海の継承者である、故織田隆弘師は絶対他力の真言易行道を提唱されましたが、ここに加持というものに対する確かな正解があるように思えます。 詳しくはそちらの著書を拝読なさって下さい。 私ごときにそれらの事を説く資格はありません。 私に分かっているのは、小さな信心であっても仏の確かな慈悲心を頂けるという事だけです。 慈悲というものに対する深い哲学的解釈は、ご質問者様や宗教哲学者の皆様にお任せしたく存じます。 体験の世界のみに入ってしまう事も慎むべきなのかもしれませんが 浅学の身で、頂いているものに対して無用な戯論は避けたいと思います。 悪しからずご了承下さい。 それでは失礼いたしました。

bragelonne
質問者

お礼

 tansll さん ご回答をありがとうございます。  なるほど。  ★ 絶対他力の真言易行道  ☆ ですね。わたしは 親鸞をとおして分かるように思います。そして 《絶対他力》ないし従ってその力のはたらきとしての慈悲について《受け身でいる》ということだと受け取ります。  ありがとうございました。明確なお答えをいただいたと存じます。そしてその内容にわたし自身は賛同いたします。  ★ 私ごときにそれらの事を説く資格はありません。  ★ 頂いているものに対して無用な戯論は避けたいと思います。  ☆ これは 残念ですし 慈悲の問題としてはむしろどこか慈悲の世界に逆らっておられるような感覚を持ちますが それはそういうご決意であるのでしたら 仕方ないと思います。  修行の問題 あるいは 聖道門の行き方などの問題がありますが と言うよりは これらの立ち場の方がたからもご見解を寄せていただきたいと思うわけですが わたしも自己表現が――過程として・過程において―― 大事であると思っています。  それでは。