• ベストアンサー

平安時代の家集「忠見集」に「うちの仰言にて父忠岑が歌奉れと召しあるに書

平安時代の家集「忠見集」に「うちの仰言にて父忠岑が歌奉れと召しあるに書き集めて奉る」という記述があるそうですが、この意味を教えてください。 まず「うちの仰言」とは誰が誰に言った言葉ですか? 忠見は忠岑の子ですが、忠岑が「和歌を奉納せよ」と誰かに言われたので、子である自分がかき集めたという意味でしょうか。それとも、父忠岑に言われて集めたという意味でしょうか。 よろしくお願いします。

  • Wendy
  • お礼率92% (545/587)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • 0w0g
  • ベストアンサー率62% (10/16)
回答No.2

うちとは「内」で「上」と同じで天皇の事を指します。忠見は村上天皇の御代に活躍した歌人ですのでこの場合は 「村上天皇が父の忠岑の詠んだ歌を提出するようにと私に御命じになったので父の歌をまとめて献上した」という様な意味になります。村上天皇は他にも中務に母・伊勢の歌集を奉れと命じて歌を献上させています。

Wendy
質問者

お礼

「忠岑の詠んだ歌を提出するように」と言う意味なんですね! ありがとうございました。

その他の回答 (1)

回答No.1

 歌集ですね。  うちは=内裏でしょうかね。  大君(その言葉を伝える方が介在したかも知れませんね)の仰せの言葉のお召しを父忠岑にあった。  ご質問者同様に、それで子忠見が「忠見集」をなした、というふうに思います。

Wendy
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 平安時代の風俗について

    みなさん、はじめまして。 今、平安時代の風俗について調べております。具体的には、「平安貴族と馬」についてです。平安時代の貴族が身につけるものとして和歌・管弦・漢詩があったと思うのですが、「乗馬」についてはどうだったのでしょうか? 清少納言の父が落馬して笑われるという話があり、当時貴族にとって「馬」はどういう存在・位置にあったのか気になっているのです。 もし、何かエピソードや本(←特にお願いします!)がありましたら、情報を下さい。その他、鎌倉時代でも構いません!よろしくお願いします。

  • 平安時代、桔梗は何故、朝顔と呼ばれてたのですか?

    平安時代、桔梗は朝顔と呼ばれてたそうですが、朝顔は、その時は何と呼ばれてたのですか?桔梗はなぜ、朝顔と呼ばれてたのですか?知り合いのお子さんに自由研究のことで聞かれて、答えられずにいます。宜しくお願いします。

  • 平安時代の美人の条件は教養だけって本当?

    よく平安時代の美人の条件は、顔や体型などの外見とは関係なく、和歌など教養の高さが第一だと聞きます。 顔も見た事のない女性の歌のうまさに惚れ込んで、強引にプロポーズ、という話も聞いたような気がします。 たしかに、「美」 という観念は時代とともに変化するとは思いますが、教養が高いので美人だと信じて会った女性がどんな外見であっても、やはり美人と評価されたのでしょうか? 平安時代より古い飛鳥時代には、高松塚古墳の壁画に代表されるような、ふくよかな面立ちの女性が美人の条件だったと説明を受けました。  この時代では、やはり外見が重視されたのでしょうねえ。  でも、その後の平安時代にはこの条件が全く変わってしまったのでしょうか? 時代はずっと下りますが、江戸時代には浮世絵の題材に美人画が多くありますので、やはりこの時代でも外見が重視されていたように思います。 これらを考えると、美人の条件というのは、教養や品格などの内面性も大事ですが、まずは顔・形、というのが時代を超えた真理のように思えてしょうがないのですが ・・・

  • 平安時代の舞について参考資料を教えてください

    源平合戦の頃(平安時代後期)、戦の前に舞を舞うといったイメージがあるのですが、その舞について、もしくはその舞に関する資料(サイト、書籍、映像など)がありましたら、教えて頂けないでしょうか? 戦の前に舞う舞には、どんな種類があるのか、主にどういった地位にある人が舞ったのか、どういった歌にあわせて舞われたのか、どんな意味合いがあったのか、などを調べています。 ※自分なりに図書館、サイトなどを調べてみたのですが、うまく見つけることができませんでした。。。。 よろしくお願い致します。

  • 平安時代の女官~江戸時代の貴族

    平安時代は女官でなくても女性の名前は、本人と親と夫くらいしか知らなかったそうで、 宮中の女官の呼び名は、何とか式部とかになっています。 これはどういう風につけられていますか? 清少納言は、親の地位と苗字の一字から取られたそうですが、他にはどういう物があるのか教えてください。 また、江戸時代に貴族や皇族の女性が徳川家の男性に嫁ぐことが多かったようですが、 今に名前が知られていても、当時はやはり本名(○○子のような)は一般には知られていませんでしたか?

  • 春日若宮おん祭の神楽

    現在の春日若宮おん祭における神楽の奉納の様子はインターネットで見られたのですが、その「神楽の源は平安時代初期までさかのぼる」とありましたが、当時の神楽の記述がある資料を探しております。 古代から中世の鎮魂のための神楽(巫女の行うもの)について調べています。範囲が広すぎたので、現在でも古代からの形の残る若宮おん祭の神楽について調べています。 大学の図書館で検索したのですが、春日大社についての記述の書籍が見つからず、インターネットでも記述は参考程度にしかならず・・・・・・・・・平安時代から中世時代にかかれたもので、若宮おん祭についての記述、ソレにおける神楽の記述のあるものがあったらなにとぞご教授くださいませ。

  • 平安時代の古記録中の『度者を賜う(給う)』とは?

    こんにちは、いつも回答者の皆様にお世話になっております。 平安時代の漢文の古記録(『御堂関白記』『小右記』『貞信公記』など)を読んでいて、どういう事なのか意味がまったくわからないのが『賜度者(給度者)』というフレーズです。 文面から想像するに、天皇・東宮・中宮などやんごとなき辺りの御悩の際や、朝廷主催の公の法会の為などに修法・読経などを行うとその担当の僧侶に『度者を賜う(給う)』らしいのですが・・・。 『度者』=得度者で、近日中に出家した新米僧侶を朝廷のお墨付きで弟子にさせて頂く、というご褒美なのでしょうか? 自分の持っている古語辞典にも『度者』という単語は載っていないため、正式な仏教用語ではないのかもしれません。 『摂関期貴族社会の研究』・告井幸男著の<度者使考>も読みましたが、度者そのものの意味については説明してありませんでした・・・。(史学の専門家の方にとっては知っていて当然の言葉なのでしょうか?) ふとした拍子にこの単語が目に付いてしまい、どこを調べても(正確にはどこを調べたらよいか)わからないので、気になってしかたがありません。 上記の件、ご存知の方、または専門家の方、よろしければどうかご教授くださいますようお願い致します。

  • 平安~鎌倉時代の女性気質

     源義経の死に関して、「吾妻鏡」に「予州持仏堂に入り、まず妻(22歳)、子(女児4歳)を害し、次に自殺する」とあるそうです。……義経のことだと思うのですが……(*^_^*)  義経には、有名な愛妾「静御前」がいるし、確か、「正妻」もいたはずだと思い、義経には、どんな女性が、何人くらい……静御前と、正妻と、平泉で亡くなった女性と、少なくとも、3人は……関係していたのだろうかと、調べてみて驚いたのですが、平泉で死んだ母娘というのは、もともとの正妻で、河越重頼女だということでした。しかも、この女性とは、離縁し、故郷に帰したとのことでした。  このとき、ふと想い出したのが、「北条政子」でした。当時はとらわれの身とはいいながら、敵方の頭領である頼朝のもとへ「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」という、鎌倉時代?の女性の気持ちと、離縁されたにもかかわらず、東北・平泉……当時は、気が遠くなるほど、遠かったのではないか?と想像するのですが……まで、追いかけていった「河越重頼女」とに、女性としての生き方に何か共通点があるのではないか?と思い質問しました。  「平安~鎌倉」という時代背景があるのでしょうか?あるとすれば、女性の生き方にどんな影響を与えていますか?  あるいは、そもそも女性の生き方というのは、時代を問わず、こんなにも激しいものなのでしょうか?  私の場合は、優劣付けがたいと自分で思うご回答が2つ以上あると、BAを選ばないで締め切る場合があります。それでもよろしければ、お考えを教えて下さい。

  • 万葉集の歌の集め方を教えてください

    中学生のころから半世紀に及ぼうかという疑問です: 万葉集のなかの庶民の歌は,どうやって集めたのでしょうか? (「誰が編纂したか」を質問しているのではありません) 考えられるのは, ・取材班が各地をめぐり,現地の庶民が何気なくつぶやいた言葉を聞き,(庶民には書けないはずの)万葉仮名を使って,五・七の音数もあわせて,(庶民が知らないはずの)枕詞などの技法も組み込んで,きちんとした作品にした。 ・庶民が自作を紙に書きとめ,「和歌を集めているそうだ」という噂のある和歌の大家の家に自分の足で持ち込んで,秀作であれば多額の報奨金をもらった。 ・庶民が神社の「絵馬」のようなものに書いて奉納した歌を,全国的に取り寄せて秀作を選んだ。 ・当時から飛脚制度を使った「短歌投稿誌」があり,和歌の大家が選者となって秀作を編纂した(笑)。 ・和歌の大家が本名を隠して勝手にでっちあげた(笑)。 できれば,「自分はこう推定する」や「ある国文学者がこう推定している」ではなく,「なんとかという当時の文献にこう書いてある」という形式で教えてください。

  • 枕詞について

    枕詞は万葉集に多く出てきますが、初めは意味のある言葉だったといいます。では、平安時代と違って万葉集の現代語訳では常に枕詞の意味も訳出する必要があるでしょうか。  それとも、万葉集に収められた歌は広い時代にわたっているので、前期と後期では、枕詞の実態性も変化しているでしょうか。家持の歌などは殆んど平安貴族というよりは現代詩人の繊細さなので、そんな変化を予感させます。