• 締切済み

努力の方向が違っていると言う人

こんばんは。17歳の高校生です。答えがはっきり出るものではないとわかってはいるのですが、皆さんのご意見をお聞きしようと思います。 血の滲むような努力を積んでも結果が実らない人に対して、 「才能がないからだなんて言い訳だ。貴方は努力したつもりかもしれないが、結果が出なかったなら、それは努力の方向が違ったのだ。」 と反駁する人がよくいますね。私にはあの心理が理解できません。(単なる叱咤激励の場合もあるでしょうが) 私の母もそういうタイプなのですが、彼らは決まって 「結果の出ない努力に価値はない。私は結果至上主義だ。」 などと言うのですが、それって間違っていると思います。彼らは、一見いわゆる「厳しい」人に見えたりもしますが、結局のところ、あれは相手の努力・修行のプロセスを評価する手間を怠っているだけでしょう。一番観測が簡単で単純な「結果」だけを見、 「評価されたくば結果を出してみよ。」 と、自分の評価能力の欠如から目を背けているだけです。 考えてみて下さい。フィギュアスケートの1つの部門で金メダルを獲得できるのは、必ず1人です。それなら、30人の参加者がいた大会において、29人は「努力の方向」が間違っていたのでしょうか? いいえ、そんなことはないでしょう。本来努力と結果というのは、「努力の方向」などという精神論だけでなく、環境や緊張感などさらには時期などのあらゆるエレメントによって複雑に結ばれているものだと思います。 それをたまたま(勿論これも努力の賜物なので、語弊はあるが)、勝者となった者が自分の努力を語りたいがために 「私のように勝てない奴らは、才能の問題ではない。努力の方向が違ったに過ぎない」 というのは、ナンセンス極まりないと思います。 彼らの気持ちもわからないではないですが、どうにも彼らは「結果重視」を「過程軽視」と履き違えているように見えてならないのです。結果を重視するなら、それと同等の丁寧さで過程を検証する必要があるということを理解してもらうには彼らに何と言えばいいのでしょうか?

noname#106569
noname#106569

みんなの回答

回答No.7

こんにちは。 >私にはあの心理が理解できません。 「評価対象が第三者であるから」でしょうかね。 自分のこととして捉える必要性を感じていないのかもしれません。 いわゆる「所詮、他人ごと」というヤツです。 >「結果の出ない努力に価値はない。私は結果至上主義だ。」 >などと言うのですが、それって間違っていると思います。 まぁ100%間違っているとも言えないのが、今の世の中でして。 特に年配の方は、努力をして、結果を出して、成功した方がいたりするものなんですよ。 一言で言うと、とても良い時代だったんですね。 corbiculaさんがどういう状況でそんな言葉にぶつかったのかがわかりませんので 深く書くこともできないのですが(理由はおわかりでしょう) >結局のところ、あれは相手の努力・修行のプロセスを評価する手間を怠っているだけでしょう。 「処世術」という言葉をご存知でしょうか? 評価能力に左右されずとも他人より上に立つ術のひとつとして 利用されてきたのかもしれないテクニックです。 それが良いのか悪いのか、評価する術をわたしはもっていませんが 「ズルいやり方だ」とは思います。 手間を怠るというよりも、頭から手間をかけない効率的な手法です。 ズルいですね。(笑) >自分の評価能力の欠如から目を背けているだけです。 と断言できる根拠についても、わたしはもちあわせていません。 言いきるためには根拠が必要です。 その理由はcorbiculaさんがお書きになった通りですネ。 極論に対して極論で返すような状況を作ると、見落とすことが多くなります。 >フィギュアスケートの1つの部門で金メダルを獲得できるのは、必ず1人です。 >それなら、30人の参加者がいた大会において、 >29人は「努力の方向」が間違っていたのでしょうか? とつぜん極論が登場しましたが、フィギュアスケート競技の模様を 見ていたときに出てきたお話でしょうか? >いいえ、そんなことはないでしょう。 >本来努力と結果というのは、「努力の方向」などという精神論だけでなく、 >環境や緊張感などさらには時期などのあらゆるエレメントによって >複雑に結ばれているものだと思います。 大局的には、そうかもしれませんね。 ですが、局所的には「努力の方向」というものが間違いなく存在しています。 大きな要素と小さな要素をまとめて話そうとすると、無理が出ます。 その無理な部分にcorbiculaさんが理不尽さを感じているのではないかな、と思います。 >結果を重視するなら、それと同等の丁寧さで過程を検証する必要があるということを >理解してもらうには彼らに何と言えばいいのでしょうか? わたしは「理解させる必要がない」というオプションをとります。 絶対的な評価と、相対的な評価が存在する世の中です。 理解させようと思ったら、どれだけ理解しているかを探らなければ空振りです。 それこそ努力の方向が違うかもしれないのです。 あるいは、理解していて目と耳を塞いでいるかもしれないでしょう? また、努力を続ける人にとって、第三者の評価は本人の努力を左右するものではないと信じています。 なかなかそういった境地にたどり着くのは難しく、わたしなどは到底届きません。 でも、おそらく、例に出されたフィギュアスケートの選手は 「それでも努力するんだよ」とおっしゃるのではないでしょうか。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.6

おおー、17歳とは思えない文章ですよ。しっかりしているなあ。もちろん、内容にはまだ隙がありすぎるのですが、それはまだ十代だから仕方がない。でも大学生でもこういった文章や思考プロセスが持てない人は大勢いますよ。 そういう意味で、文章の内容ウンヌンより自分の意見に至った思考プロセスを私は高く評価します。高校生と大人が議論して勝てるわけがない。 ただ、大人になって色々見えてくると分かるのですが、実は努力の方向性が間違っている人ってものすごーーーーーく多いんです。 例えば、今30代以上の世代の人に「婚活」というのが流行っていますね。テレビなんかでそういう人たちを追いかけているものをよくやっていますけど、そういうので登場した男性がよくデートの練習とかいってレディファーストの練習とかやっていますよね。「ドアを開けて、女性を先に通しましょう」なんてね。でも、これが典型的な「間違った努力」なんです。実際のデートで評価されるのは女性と会話がはずんだかとか、どういう話をしたかとかそういうことなんですね。ドアを開けてエスコートしてくれたかどうかなんてまあほとんど得点にならない。というか、そういうことをきちんとやれたとしても緊張のあまり会話が進まなかったら結局その先はないわけです。でも、婚活でモテない男性たちが結構真剣にそういうことをやっている。そういうことがよくあるんです。 だから、確かに努力することは大切だけれども、その方向性が間違っていると結果には結ばないわけですからそれって意味ないですよね、となるわけです。 他の方も指摘しているトヨタのプリウスのブレーキですが、ハイブリッド車のブレーキのフィーリングが既存の車とは違うことは実は以前から知られていたことなんだそうです。というのも、ハイブリッド車はブレーキをかけたときに発生するエネルギーを発電に回しています。だから構造が既存の車と違う。構造が違えばフィーリングが違うのは当然です。だから「車の欠陥じゃなくてドライバーの感覚の問題」と説明していたトヨタの見解は間違いじゃないし、技術屋さんからすれば「当たり前だろ」で終わるだけの話です。 でも世の中理系に疎い人も多いので、そういう人たちは「フィーリングの問題とかそういうんじゃねーだろ」と言い出すわけです。そっちの意見が多数派になれば、そちらが「正しい」というのが大人の世界です。 「結果の出ない努力に価値はない」という人をやり込めたかったら、お母さんが珍しく作った料理に対してまずいとでもいえばいいんじゃないかな・笑。お母さんが分量間違えたとか火加減が違ったとかいうでしょうから、そしたら「結果が出てないんだから意味ないよね。普段から自分でいってるでしょ」とでも言ってやりましょう。可愛くない息子だけどね・笑。 あとね、こういうのはどうでしょう。「知ってる?ニュートンは錬金術に夢中になっていて、本当は金を作るために物理を研究していてその過程で様々な発見をしたんだって。でも本人はそういった発見より金を作るほうを望んでいたそうだよ。ニュートンの努力は自分が望んだような結果を出せなかったけど、本人の思いも寄らなかったところで結果を出したんだよね。一見ムダに見えることって、本当にムダなのかなあ」 (蛇足・付箋に使われている何度も剥がせる糊は強力な糊を作ろうとして失敗してたまたまできたものだというのは有名な話です。科学の世界にゃこんな話がゴマンとあるよ。結果だけでしか判断できない人ってのはたぶん考え方が基本的に理系ではないということなんじゃないかと思います、個人的には)

  • KLeezon
  • ベストアンサー率21% (51/235)
回答No.5

努力を評価してもらえるのは社会に出るまで(出た後は当然のこと)なので 一概にあなたの親の教育方針が間違っているとは言えません 例えばあなたがお小遣いを貯めて買ったテレビが壊れていたとして、 店側に文句を言ったら「頑張ったんですけどね」といわれて納得が出来るかという話です 取替えを要求してもなかなか届かない。「頑張ってるんですよ」 正直なところ、私なら店が頑張ってようがいまいが ちゃんと写るテレビさえ手に入ればそれでいいわけで それが出来ない店で買い物なんかしようと思いません 今日の晩御飯はありません。「私は頑張ったのよ」 今月の給料はありません。「俺は頑張ったんだけどな」 相手を許す許さない以前に、それでは生活が成り立たなくなります ところで、あなたの親は「オリンピックの金メダル」のような 個人の努力ではどうしようもないものを要求されているのでしょうか? 頭のいいのはゴロゴロいるけど「クラスでトップの成績を取れ」とか? フィギュアの選手がジャンプして三回転できることはみんなが求めますが、 あなたに今それを求める人はどこにもいないんじゃないでしょうか 明らかに不可能なことを要求することは良識ある人間はしません この人物なら出来るだろうと思っていることを望むだけです それが出来なかったと言うなら何か齟齬がある 怠けているわけでなく無意味な行動に時間をとられていたというなら それを伝える必要があるでしょう お使いを頼んだときに、 二駅離れたデパートまで血の滲むような努力で晩のおかずを買いに行って 力尽きてもう歩けないと泣いているのを見かけたら 家の隣にコンビニがあると教えてあげるのが親切だと思いますよ そんなことを続けさせるのは、実に不毛です ま、私なら「無駄なことをしてたね」と言うのは あまりにも残酷で気の毒なので 一応「頑張ったね」とは言ってあげますけども

  • kazu9981
  • ベストアンサー率24% (73/301)
回答No.4

最終的には結果が全てなんですよ。 それが、大人の世界です。 無論、ハチャメチャな過程は論外ですけれど。 例えば、1000円でご飯食べに行ったとします。 A店の1000円ランチは、皆が「美味しい」って言うランチ。 B点の1000円ランチは、店主は一生懸命やっているけれど味がいまいちのランチ。 貴方ならどっち食べに行きますか? 「一生懸命やってるのだしB店で食べよう」って考えますか? 多くの人は、A店へ行くと思いますが。 一生懸命やってる、ってのは何をもとに言っていますか? 「本当に」一生懸命やっているのですか? >フィギュアスケートの1つの部門で金メダルを獲得できるのは、必ず1人です。それなら、30人の参加者がいた大会において、29人は「努力の方向」が間違っていたのでしょうか? 皆「オリンピックに出る」っていう結果を出したと思いますけれど。 その中での順番ってのは、無論運・才能もあるでしょう。 今貴方が悩んでいる問題が何か知りませんが、「才能」のレベルの問題にすら届かない程度の問題では? 私の偏見もあるかもしれませんが、こういうこという人って 『何もやっていないのにやったつもりでいる人』 に思えます。

  • doorakanai
  • ベストアンサー率27% (758/2747)
回答No.3

反論です。 努力の方向については、結果が有形である場合 私もよくそんな事を思ったり言ったりします。 例えば、今トヨタ車のリコールが問題になっていますが あの車を作った人達は一所懸命だったと思います。 でも、結果はあんな事になった。「俺達は必死で作った、努力した」 といくら言っても、まず誰も聞かないでしょう。 ブレーキがききにくいなんて、危険極まりない車 「努力した」で許されるものではない。 この場合、もちろん過程は検証しますが評価はしない。結果が悪いから 車に限らず、建築物も食べ物も皆同じ。 どんなに努力しても、出来あがったモノが駄目なら駄目。 モノを作る場合は結果だけが全てです。 私は建築系の仕事をしていますが、一歩間違うと人が死にます。 それこそ努力の過程はどうでもよく 結果が悪けりゃ問答無用でおしまいです。 こういう業界は結果主義で、世の中こういうのが大半です。 あなたのお母様などがおっしゃるのは この有形の場合ではないでしょうか? フィギュアは結果が無形です。 物体を作り出していない。別に誰も死なない。 カナダでメダルが獲れなくても、次はいけるかも知れない。 と考える余地が充分にある(そうじゃない時もありますが)。 フィギュアの世界が甘いと言ってるわけではありません。 これも突き詰めれば、どんなに正方向の努力をしても 一瞬の気の迷いで全てが終わる、 結果のみの恐ろしい世界だとは思いますが。 質問からは 結果が全てを語るものと、そうでないものとの違いを 見分けないまま、論じているような印象を受けましたが いかがでしょうか?

  • dinggong
  • ベストアンサー率26% (59/226)
回答No.2

結果のでない努力に価値はない と言った時に見ている結果と、 フィギュアスケートの金メダルは等価ですか? 金メダルは非常に高度なものです。言うなれば、全ての中のトップを決めるようなもの。 そういう時には、運の要素もあります。 結果が出なければ意味がないという思想はその時間違ったものとなりますが、ただ間違っていることは第三者が言うべきことじゃないです。 つまり、2位になった人物が、結果が出なかったからこの努力はムダだったと落胆するのは違います。 ただ、第三者は言いたい放題です。それを止めることは出来ません。 だって、それは遠吠えなんだから。 しかし、こういう高度なレベルじゃないとき、結果主義はある程度の合理性を持ちます。 第三者は結果しかみない。見られないんです。 何故かというと、結果が出なければ、現実問題評価されないからです。感情移入できる当事者以外には、結果しか見えないんですよ。 皆が結果しか見ない中で、結果が全てじゃないよと言ったところで、それは遠吠えです。 ただ、これは成し遂げたことの種類による話でもあって、一概に言うことは出来ません。 人間は一歩一歩歩んで行く生き物だと言うのは確かで、段々ステップアップして行きます。 そのステップであったとすればまぁいいかなと言う感じですが、でも「まぁいいかな」というレベルであることを自覚しないのは甘えかな、と思います。

  • toresanta
  • ベストアンサー率16% (67/409)
回答No.1

過程はあなたの実力の 蓄積です。 ボーダーライン以下の モノに見向きもしないのは 当たり前だと思うのですが。 あなただって モノを鑑賞するとき 高い評価を基準にしませんか?

関連するQ&A

  • 才能が無くて努力している人と、才能があって努力してない人はどちらが

    才能が無くて努力している人と、才能が有って努力してない人はどちらが評価出来ますか?

  • 努力や苦労の方向性を間違えないようにするには、どうすれば良いのでしょうか?

    夢を実現させるためには、その為の苦労や努力をすることが必要なのだと思いますが 「苦労や努力の方向性を間違えてしまうと、逆に夢の実現から遠ざかってしまうこともあるのではないか・・」 と考えてしまうことがあります。 もちろん、全ての人に当てはまる正しい方向性の見つけ方というようなものは無いと思いますが 「何も考えず、ただやみ雲に努力をしているよりも、夢の実現までにかかる時間は多少なりとも短くなるのではないか・・」 と考えてしまうこともあります。 そこでお聞きしたいのですが、皆さんがご自分の夢を実現させていく過程で その方向性を間違えないようにするために、何か実践したり、工夫したりしたことはありますか? 分かりにくい文章で申し訳ありません・・。 決して「これが正解だ」というものがあるテーマではないと思いますので 皆さんそれぞれの経験からアドバイスいただけると大変うれしく思います。

  • 努力できないのは当たり前

    努力が足りないとか当たり前のように言うけど、 僕は死ぬほど努力できるのも生まれ持った才能だと思ってます。ギフト イチローとかそのたぐい。 できる人は、どうして出来ないの!って理解できない 間違ってますか?

  • 努力は才能に勝てないですよね?

    自慢から始まって申し訳ないですが、あるスポーツでは小さいころからたくさん優勝をしてきました。 補欠ですが、ジュニアの日本代表に選ばれたこともあります。 高校で怪我をしてから勉強を始めました。 死ぬほど勉強して、もしかしたらスポーツより努力したかもしれません。 結果は志望校は落ちて、広島大学へ。 こんなに努力したのに広島大学しか受かりませんでした。 東大でも3000人は受かります。旧帝大、早慶にも受からないということは全国ランキング2万位には余裕で入ってないでしょう。 私の夢は理化学研究所の研究員になることでしたが、もうかなり厳しいことは承知しています。 私はスポーツの才能はあったけど、勉強の才能は無いのでしょうか? 努力しても才能には勝てない。3年生から勉強して東大に受かる人もいるのですから、その人たちは勉強の才能があるということですよね? 努力は才能に勝てないですよね? 研究は才能ではなく努力でカバーできると信じたいです。。。

  • なぜ努力不足と言い切れる?

    一年くらい前の話ですが、お笑い芸人のドランクドラゴン鈴木さんが下のような発言をし、記事になっていました。 「僕は『才能がない』のがトラウマです。中高時代6年間ずっとサッカー部で誰よりも練習し努力していましたが公式戦に一度も出れず最後まで補欠で終わりました。才能のないことは努力しても時間の無駄だと感じて、サッカーボールはもちろん、柄が似ているシマウマも見たくないぐらいになりました(笑) それ以来、才能がないものはやっても意味がないと決め、努力するのをやめたんです!」 これに対してネット上でのコメントに「努力不足の言い訳だ」「誰より練習したなら試合に出してもらえるはず」「ライバルはもっと練習しているのを隠していただけだ」「努力の仕方が悪かったんだ」…等のものがけっこうあり、また、同意されてもいました。 私としては、鈴木さんの才能と努力の程度、学校のレベルを含めた環境がわからない中、自己評価を終えた人に対して「努力不足」とコメントをする人達が、どういう考えに基づいてコメントしているのかがわかりません。 努力すれば何でもできると思っている人なのか?努力の限界を見たことがない人なのか?とりあえず否定して優越感を感じたいのか? どう思われますか?

  • 世の中って「結果がすべて」なのですかね。

    中学とかは努力することが美しいみたいなことを言われてましたが、高校に上がってから、結局努力したかしてないかは関係ないのかなって。いくら勉強したとしても、成績が悪ければそれはダメ「努力の仕方間違えてないwww」て笑われる。反面、楽して山アテしていい成績をとった時「よくがんばったね」と。 まえより、楽したのに、まえより頑張ってないのに。 所詮結果がすべてなんだなってなんとなく思ってます。 なんだか、それって悲しいなって。努力する姿は素晴らしいものだと教えられ、そう信じてきたけれど、そうじゃないのか、努力したとかしてないとかは自己満足。他人に評価されようと思えば結果さえ出せばいい。そうかんがえると、この世の中が嫌になるというか。 努力至上主義者なのかも知れませんが、それは改めないといけないのか。 ぼくは、頑張ってるなって人を見たら応援したくなる。失敗したらかわいそうだなってなく、成功したら自分も嬉しい。 でもそうじゃないのかな、どんな過程であれ結果を出す人こそ自分が尊敬するべき人、応援すべき人? 甲子園目指してる人たちを見て、応援するよりは「そんな実現可能性の低いことを目指してもバカにされるだけのくだらない努力になる可能性が高い」と見るほうがいいのか ぎゃくに、単に努力してるだけの人なんて、付き合う価値はないのかなとか... こんご、どうやって生きていくべきなのか。 結果の絶対になる努力がしたい。結果が出るのかがわからない努力はむしろ馬鹿にされる骨折り損、と考えると怖くなる。 ようするには、人からバカにされる可能性を考えると怖くなる臆病者。自分は才能なんてないから努力しないとダメなのに。 自分を変えたいのです。人からどう評価される、どう思われる、バカにされる、そんなこと気にせずにやりたいように頑張りたい。けれども、臆病な自分がかわれない。どうすれば、助けてください

  • どんな他人を見たら努力不足だなと思う?

    どんな人を見たら努力不足だと思いますか? ここ数年のネット界隈でのトレンドは「自己責任」と「努力不足」ですね。 非正規雇用とかニートになってるのはお前が悪いという自己責任、まともに生活できてないのはお前の努力不足 というのが今の流行りですね。 この前首相を撃った山上容疑者の生い立ちについてのニュースへのコメントもこの二つで埋めつくされてました。 さっさと母親と縁を切らなかったこいつが悪い。自己責任だ。 貧乏でも奨学金で大学はいけるし、資格も宅建とかじゃなくて公認会計士を取っていれば就職できた。勉強してないんだから努力不足だ。 という感じでした。 私は努力ってそんな何でも解決してくれる魔法ではないと思うので、どんな他人に対してもその人が努力不足だとかはあまり思わないですね。 それに努力ってあくまで過程の問題ですから、結果との相関関係って完全一致はしないはずです 努力は足りてたけど才能が不足してた、みたいな場合もありますので 質問ですが、あなたはどんな人を見たら努力不足だと思いますか? あなた自身や身内などではなく、赤の他人について努力不足だと感じる時について教えてください。 できればより具体的な例をあげてくれると面白いんでありがたいです。 「生活保護を受けてるやつは全員努力不足!」とかではなくて 「会社で向かいの席の嶋田っておばさん。何回Excelのこと教えても一向に理解できない。あれは理解しようという努力が不足してるわ」 みたいなのが良いです。 よろしくお願いします

  • 努力という言葉

    世の中、努力しない人には厳しいです。それは理解できます。 努力しても結果が出ない人にも厳しいです。 僕は努力が報われず、最後の最後で駄目になったことがありました。 報われない努力。 世間は結果が出なければどんなに努力をしていても認めない。 それがわかっているからこそ、僕は自分が情けないと思ってしまいます。 結果が出ない努力など無意味…という。 でも、僕自身はダメでも、誰かが努力していて、それでも結果が出ていないことを情けないとは思えないんです。 なんというか、ミスっても、空回ってても、一生懸命やってる人は僕は認めてあげたい。 こんな考え、甘いですか?

  • 努力は尊いですか?

    大人が子どもを生んで、「この子が努力をしない子になってしまうのは嫌だ」って感じになるじゃん。でも、努力って尊いですか? 尊いのは、努力じゃなくて結果なのでは?ChatGPTを作った、鬼滅の刃の映画で動員数記録を塗り替えた、東京スカイツリーを建てた、心臓病を完治させた、馬車を自動車に置き換えた、徳川財宝を発見したみたいな。こういうのは、結果でしょ。 結果は、余裕でチョロくて良いんですよ。世の中には自動プログラミングソフトがありまして、それでコピペを駆使して、マウス操作をチョロっとやるくらいのことで、ゆるくChatGPTを作りゃ、それで何の問題も無い。 それに、鬼滅の刃の映画が大ヒットしたのは、努力と言うよりは偶然でしょ。株価が上がったり、宝くじが当たったのと似てる感じ。そりゃ、全く努力しなけりゃ映画は作れず、最低限の努力は必要かもしれない。でも、努力して運が悪ければ、全く同じ映画なのに売れないシナリオはあるさ。自信のある映画を作って、それが売れるか売れないかは蓋を開けて見なきゃ分からないことです。 努力って、ウサギ跳びとか、神頼みみたいな。それで体力が付くとか、願いが叶うみたいな結果が伴えば良いけど、努力そのものは無意味で全く尊くないのかなと、私は思います。ドーかしら? 何だろう、大谷翔平は遺伝子の異常で身体が大きく育ったんだと思いますよ。ウサギ跳びみたいな努力したって、身体は大きくならないですよ。そして、大谷は大した努力はしてないって言うと語弊があるけど、大谷よりも厳しい練習を行ってるのに報われず結果が付いて来ない野球選手は数多く居るかと。大谷は、まー、恵まれた体格と先天的な才能があって、人並みに練習して2刀流なんて余裕ッスって感じでしょ。 藤井聡太とか羽生善治もそうだよ。彼らは大脳皮質の構造が一般人とは違うんですよ。将棋も楽しんでるみたいだし、彼らからしたら、将棋で遊んでるだけで結構な額の金もらえて、人生チョロいでしょ。絶対に居るよ、彼らよりも努力して将棋の研究をしてるのに勝てない棋士が。しかも、数多く。 あと、日本人って、マラソンとか箱根駅伝とかが好きですよね。私にゃ、何が良いのか全くワカラン。あんなの、自動車使えば良いと思う。自動車は免許が必要だけど、自転車でも良いよ。マラソンだと努力して走ってるけど、結果は自転車よりも自動車の方が絶対に速いよ。 努力してない人を見ると、「努力しない者に富は配分されない」とか「働かざる者食うべからず」って言いたくなりますか? 私の家の隣に鈴木さんが住んでて、猫を飼っているのですが、その猫は全く努力していないですね。寝たいときに寝て、喉が乾けば水飲んで、おなかが空けばキャットフードを食べてますよ。そんな感じで、結構長生きしてるようなと。 猫は努力しなくても良いけど、人間は努力しなきゃいけないの?

  • 努力しても結果を出さないと意味がないでしょうか?

    努力しても、その結果として評価され、成功した事を証明するまでは努力したとは認められず、「努力」という行為だけを切り取って見たら無意味でしょうか? 結果が全て。評価が全て。努力せずに結果が出せた人と、努力しても結果が出せなかった人がいます。努力したかどうかなんてどうでもいいではありませんか? 努力もなにもかも全て、人間の世に存在するありとあらゆる全てのことは自己満足の世界でしょうか? よく知りもしない他人に向って「あなたは努力していない」と言う人は何様のつもりなんでしょうか? ある一人の人物が努力したのか・しなかったのか、一体誰が判断する(できる)んでしょうか? 「努力」とは自己満足以外の何物でもありませんね?