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なぜキリスト教の神というのは尊大なのか

entahu2の回答

  • entahu2
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回答No.9

「心貧しいものは幸いである」というキリストの言葉についての、bakaentahuな^^解釈については、前回のそちらの質問への回答に書きましたが、 ともかく キリスト自身がいかにも権威的に語ったかのような記述が新約聖書にあっても、私の印象や解釈からは、キリストが言ってること自体は 同じ人間へのメッセとしての友だちへの会話だったのだ、としか思えません。 弟子たちがその迫力に押されて またあまりにも旧信仰の世界が身にしみこんでいたため、かってに原罪をつぐのうために十字架にかかったとかいう解釈の物語を作ってしまったのだと思いますよ。 孔子の論語もまた 孔子自身が書いたものではないわけですが、 これは宗教ではないぶん弟子たちの解釈による記述という部分が明白なところもあって対比すると面白いですね。 キリストは 強大な道徳権力(自然な感性の教育による自律的自発的な道徳ではなくて、上からの軌範が必要だった社会における時代的背景からのそれ)の必要と 個人の中の権力欲の集合とによって、おそらく利用されてしまった 本来はそういう権力への反逆者だったという印象です。 そのへんの史実とかは、無学なのでよく知りませんが。 おそらく、その後の学者達の 権力擁護か、あるいは 浅知恵か、 その学者達のエゴとか何かの勘違いとかで 強い権力をいよいよ持ってしまうことになったのだろうと思います。 よく考えてみてください。 たとえ 宇宙よりも大きな存在?とかをあえて創造された存在?(皮肉っぽい言い方ですが)が神であったとしても、 神なんて虫よりも偉くなんて無いじゃないですか。 なんの努力もしないでも そんなこと朝飯前というのが絶対とかいうことでしょ。 いや朝飯前かどうかもわからない存在だといったとしてもそこに意味なんてないです。 神学者達は何を言ってるんだろう?と思ってしまいますね。 ちゃんとした知恵のある庶民達は、同じおもいだったのではないでしょうか。 ここに存在が在るのなら 時空もなにも、最初からそれは在るに決まってるじゃないですか? 神の存在の否定などではないですよ。 「わたし」は私の力で 今ここにいて、これを書いたり今これを読んだりしてるのでしょうか?  ならば 存在のその性格の不思議さとかありがたさ自体は別に否定する必要がないだけのことでしょ。    それを神への感謝なんて言葉や礼拝をしたりするより、 こうして「わたしたち」として生きているこの事実を いかに生きるかが私たちの生きてるってことへの感謝の哲学なのではないですか?  でなくて何を口先で感謝して満足していられるのでしょうね。 キリストは 十字架上でとなりの受刑者とかに「あなたの罪は赦された あなたは自分のしてることを知らないからだ」とか 息絶え絶えに言ったらしいですが、 たぶん、そんな上から目線の言葉じゃなかったと思いますよ。 「神は私の罪を赦してくれるんでしょうか?」「何いってんの、神のような存在が赦さないなんてことありえないでしょ。あなたはそれを知らないかもしれなくても、神がそれを知らないわけないでしょ、 すべての原因を神が知らないわけないんだから」とかいっしょうけんめい説明しようとしたのだと私は思います。   でもそれをなんとか聞き取った弟子たちが その意味合いを簡単に解釈して記述してしまったのだろうと思うのです。 キリスト教だけでなく、全宗教において、この権力の問題は道徳の問題とからむので難しい問題だと思いますが、 今こそこのへんをさらなるおおきな人類史から見つめ直して、もっと自然な道徳と人間的心の世界を説いてくれる学者が出てきて欲しいなと思います。 あなたこそ、そういう本物の学者をめざしてください。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私も同感です。神などに責任の所在をかぶせる、それとともに崇め奉るのは違うのじゃないか?もっと主体的になれ!と言う思いを強くしています。すくなくとも、もっと現実を自身の感覚で100パーセント受け止めそこから自身の信仰を編み出せと。 所詮神頼みっていうのは、なにか不遜な感じがあります。

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