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日本がイギリスに宣戦布告した日時と手続きについて
1941年(昭和16年)12月8日【日本時間】に、日本はアメリカに宣戦布告しました。宣戦布告は、ワシントンに駐在する野村吉三郎大使と、来栖三郎補助大使が国務省のコーデル・ハル国務長官に日本政府の最後通牒を手渡すという手続きを踏んで実施されました。 それでは、日本がイギリスに宣戦布告したのは何時(いつ)、どのような手続きだったのでしょうか?
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>1941年(昭和16年)12月8日【日本時間】に、日本はアメリカに宣戦布告しました。宣戦布告は、ワシントンに駐在する野村吉三郎大使と、来栖三郎補助大使が国務省のコーデル・ハル国務長官に日本政府の最後通牒を手渡すという手続きを踏んで実施されました。 これは(帝国政府ノ対米通牒覚書)、宣戦布告でなく交渉打ち切り通告です。詳しくは、以前私が書いた別の質問の回答をご覧下さい。(日本は最初から攻撃する前に、武力行使を連合国側に伝える意図は無かった。) http://okwave.jp/qa/q5525271.html なお、厳密な宣戦布告は、開戦の詔書(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)が公式に発表された時点です。 基本的に宣戦布告は、交戦国に確実に伝わる状況(大使館等が機能していれば)であればプレス発表だけで十分です。 (まあ、ソ連が終戦直前に日本に攻め込んだ時は、大使館等の電話線等を切断後に発表すると言う、えげつない事をしましたが…。) まあ、一応第二次大戦時の日本の対応としては、宣戦を布告後に連合国の外交官を皇居に招集し、彼等の外交官特権を剥奪し、速やかに国外に退去することを通告し、また彼等の身柄の安全等は条約や慣例に基づいて保障する事を伝えています。 海外では同様に日本大使館などが、現地でプレス発表し、当該連合国は日本に対して同様に宣戦布告を行い、外交官の国外退去を通告してきます。 根本的に、何日の何時何分に宣戦布告の文章を渡しに行きますから、予定明けておいてください何て言えませんから、基本的に自国発表だけで宣戦布告は効力を発揮します。 (宣戦布告されたくない側が、何らかの理由を付けて面会を遮断したら何時まで経っても宣戦布告が出来なくなってしまいます…。) 外交官云々の取り扱いは、まあ事務的儀礼です。
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そういえばどうだったんでしょうね。マレー作戦の前は? と思ってググってみました。 対米英宣戦布告演説 1941年12月8日 というのがありました。 これは相手に対してでなくて国内向けなんですが、米と英とひっくるめてます。 http://rasiel.web.infoseek.co.jp/voice/tojo.htm ついでに見つけたのがこちら。 「太平洋戦争開戦時のイギリスへの宣戦布告について」 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4231765.html ドイツとイギリスが交戦中だったので、ドイツと同盟関係にあった日本も英国と既に戦争中と言えたとか、英国に対しては特に布告はしていない、など。
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ご回答、ありがとうございました。
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ありがとうございました。私の従来の考えは、日本は対英開戦に先立って宣戦布告しなかった。なぜなら、イギリスは中国に武器の援助をしており中立国ではなかったからです。しかし、にも拘らず日本はイギリスに宣戦布告したのではないかと考えるようになりました。
お礼
ご回答、ありがとうございました。
補足
ご回答ありがとうございます。 開戦の詔書(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)は読んだことがあります。 「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス。朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宜ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ・・」と始まります。天皇が戦場の皇軍兵士と銃後の国民に対して力を合わせて戦争を遂行しようと呼びかける内容です。 ここには、相手国に対して開戦を通告する意味もなければ、第三国に対して日本の開戦を広報する意味もありません。