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江戸時代の屋号と出自のについて
自分の先祖は、商いを江戸時代に滋賀県でやっていたと聞いています。屋号は、阿波屋です。 ということは、元は大昔、私の一族は徳島出身の可能性が極めて高いのでしょうか。もし仮に、元が滋賀県の人やったら阿波屋と名前を付ける意味がないですから。先祖の出身地の国の名前を屋号とすることが多いと聞いたことがあります。 そのほか、このことについて知っていることがあれば、なんでもお教えください。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>そのほか、このことについて知っていることがあれば、なんでもお教えください。 紀伊国屋文左衛門(通称・紀文)なども出身地を屋号にしていますね。 前出の方が三井越後屋(現:三越)のことを書かれていますので、三越について、もう少々付け加えさせていただきます。 (1)江戸時代、衣類や酒などにしても、江戸よりも関西方面の品物の品位が優れていました。こうした品々を江戸で販売するために「支店」を作りました。 そして、関西方面からの品々は「下り物(くだりもの)」と呼ばれ大変高価な値段で取引されました。 (2)江戸に支店を出すと、丁稚にしても、全て「単身赴任」でした。 まず、本国の本店で採用され3年位勤めて、ノウハウを修得した者が、江戸の支店に配属されました。 江戸に店を出しているから、と言って、江戸での採用は一切ありませんでした。 従って、江戸でも「お国なまり」が平然と通用しました。 (3)手代や番頭なども、全て、本国からの「単身赴任」でした。 しかし、手代や番頭になると、結婚が許されましたが、相手の女性も国元の女性、と、限られていました。 (4)妻は、江戸へは同行せず、本国で暮らし、番頭くらいになると、年に約1ケ月の休みがもらえて、本国に帰り、妻とひと時を過ごしました。手代では約20日間くらいの休みがもらえました。 丁稚は、まだ妻帯することも許されず、休暇もありませんでした。 (5)こうして、30年間位勤めると、「暖簾分け」や多額の「退職金」がらえましたので、余生を国元に帰って過ごしたり、「暖簾分け」であれば、商家の主人として、店を任されました。 ですから、江戸に出てきた者は、(国元でもそうですが)、とにかく、一生懸命に働きました。休みは盆と正月だけでした。 紀文の場合は、事情が少々違っていて、「紀伊国屋」とは名乗っていますが、江戸で成功しましたので、使用人も江戸で暮らす人たちが多かった。 (1)紀伊国屋文左衛門は紀州湯浅(現:和歌山県有田郡湯浅町)の貧農の家に生まれました。やがて、18~19歳頃、そんな貧しさに見切りをつけて江戸へ出てきた紀文は、職を転々とするうちに、商人の娘「綾野」と知り合い、綾野の紹介で綾野の家の「松木屋」で働くようになりました。 (2)やがて、二人は恋に落ちましたが、使用人と商家の娘。主人が許すはずもなかったのですが、可愛い綾野の説得で、主人は紀文に、 「1,000両貸してやる。1年間で倍の2,000両にできたら、娘をくれてやる。もし、それができないなら、一生涯この店でただ働きをしてもらう」 と、条件を出しました。 (3)そこで、紀文は、江戸の庶民に何が欠けているかを真剣に情報収集をし、紀州では「二束三文」の「密柑(=みかん)」が江戸では結構な値段で売られていることに目をつけ、紀州で密柑を買い付け船で江戸へ運び、みごと、1年後には2,000両にを手にしました。そして、紀文が困った時、側面からアイディアを出して「賢妻」と呼ばれた綾野とめでたく夫婦になりました。 (4)その後は、紀州からは密柑を運ばせ、帰りの船には、紀州では中々手に入らない「塩鮭」を積み込んで、江戸でも儲け、紀州でも儲けるようになり、「富」を築きました。 (5)やがて、江戸の八丁堀に邸宅を構え、当時権勢を欲しいがままにしていた側用人の柳沢吉保や勘定奉行萩原重秀、老中の阿部正武らに「賄賂」を贈り、密柑で得た富で、今度は、材木商にも手を出し、上野寛永寺根本中堂の造営工事を一手に引き受け莫大な巨利を得て、幕府御用達商人の「鑑札(許可書)」も手にいれました。 (6)こうして得た「銭」で、船頭や水主(かこ=船の乗組員)たちをねぎらうため、10,000両を持って吉原へ行き、実に20日余りも「豪遊」し、船頭や水主から逆に、 「早く紀州へ帰りたい」 と、言い出す者さえいた、と、言われています。 (7)従って、紀文でさえ「賄賂攻勢」で、さらに「富」を手に入れようとしています。 (8)しかし、「悪」の部分だけではなく、紀文は、吉原の水利の悪さを知ると、自らの銭で「井戸」を掘らせて吉原の人々に喜ばれました。また、永代橋も元禄11年(1698)に私財を投じて架けています。
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- tadagenji
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既に近江屋が使われていたから嫁さんの出かなにかで付けたのでしょう。 三井の越後屋の三井高利新潟県出身ではなく伊勢松阪ですから三重県です。 近江地方は、室町時代から行商が盛んで地方へ下る時は、京・大坂のモノを持っていって売り、帰りはその地方のモノを担いで途中で売ってしまうという今の総合商社の原型があります。 総合商社は、日本にしかないビジネスモデルで財閥系以外近江地方出身が多い。