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人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)

 次の質問の続編です。  【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html  ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。  ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ  ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。  (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。  (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。  (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

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noname#135843
noname#135843
回答No.40

 いつもお世話になっております、Hidocchiです。 > (1)《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。 > (2)《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  意見を等しく致します。確かに、primeape様のように、全てを《赦す》と仰られるようなご立派な方もおられるかもしれません。ただ、罪を犯してしまった以上は、法治主義国家であるため、その刑に服する(もしくは、損害賠償をする)というのが原則かと思われます。もちろん、刑等を決めるのは(無罪有罪も含みます)公的な法的機関(裁判所)でございます。 > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。 > (4)言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  上述のとおり、「加害行為に対する処置」とは直接つながってはいないと考えています。むしろ、直結しない方が、法の安定上好ましいとも考えております(私法・リンチによる裁きを防ぐためでございます)。 > (4-b)ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。 (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。  「社会は その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ」には異論はございません。  そこで、加害者の“更生”につきまして、愚見を述べたいと思います。  まず、再犯率のデータでございますが、昨年は最悪だったようでございます。 ・ 安定した仕事がある人の再犯率は19.3% ・ アルバイトなど仕事が不安定な人では29.0% ・ 無職では34.4% ・ ただ、仕事が不安定でも、家族と同居の場合は再犯率は低かった。 (ソース:http://www.asahi.com/national/update/1113/TKY200911130221.html )  もちろん、保護観察官による観察は行われているかと思われます。また所内での職業訓練等、さらに“更生”に向けた種々の取り組みがこの国においても、実施されていると思っております。ですが、これらのみでは、“更生”は困難なようにも見受けられます。  一方、上記データからは、収入、家族との同居率とは、逆比例の関係があるようでございます。つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。“職の安定”は、その時折の経済状況に左右されますので、対策は立てづらいかと考えられます。“家族との同居”これも一見困難なように見受けられます。ですが、保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。因みに、以下のサイトは“修復的司法”のものでございます。実際の効果の程は調べられなかったのですが、“被害者”をも含め、そのコミュニティーが加害者の“更生”の一助になりうるとの考えによるものかと考えられます。  また、一方では、“被害者”側も、裁判では、かなりの疲労を強いられるようでございます(過失を問われる、または犯罪を誘発するきっかけを与えた等です)。従いまして、“被害者”を救う上でも地域コミュニティーによる“はたらきかけ”も重要かと考えております。元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。 “修復的司法” 「ある犯罪について、その加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場を設けて、それぞれの関係を改善する事によって、加害者の更生などを実現しようとする司法のこと。加害者の反省感情・謝罪感情を育み、被害者感情を軽減することなどを目的としている。欧米ではこれを行う数多くの団体が存在。一定の成果を認める立場がある一方、これに反対する立場も存在する。近年、国内でも、一部で同様の試みが始まっている。」 http://www.kw-guide.jp/newwords/post_278/ からでございます。  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 補足欄についておぎないます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。   各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このこころの領域について さらに問い求めてまいりたいと思います。  おそらく 《私的報復ないし自力救済》の否定という原則を その成り立ちについて明らかにしておきたい。こういう課題であるかと考えております。どうでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。  そうですか。理論的な検討は成されていると考えていいようですね。  まづ さらに記事の中から 数字として08年は  ▲ 再犯者率最悪、41%   ☆ だったのですね。  そこで 更生のための考え方ですが。  ★ つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。  ★ 保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。  ☆ ほかにも触れていただいており それらの点を踏まえて  ★ “修復的司法 restorative justice ”:加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  →刑事司法・応報的司法・懲罰的司法に比して言う語。  →司法における主体性を、国家からコミュニティーに移行させている点において、これまでの司法とは大きく異なる概念となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という思潮がすでに起こっているということなのですね。ヰキぺも調べてみました。  ▲ (ヰキぺ:修復的司法) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E7%9A%84%E5%8F%B8%E6%B3%95  修復的司法とは、当該犯罪に関係する全ての当事者が一堂に会し、犯罪の影響とその将来へのかかわりをいかに取り扱うかを集団的に解決するプロセス、又は犯罪によって生じた害を修復することによって司法の実現を指向する一切の活動を言う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まさに(4‐b)の目指すところですね。  いくらかの事例の紹介もありましたが 課題になるかと思われることは 国家ないし公権力が この和解会議にどの程度参加するか。でしょうか。  コミュニティ主導であることは 言うまでもないと思いますが 市町村当局との連携は あったほうがよいでしょうか。それに裁判を経た場合には たしかに司法権力との連携も 有益であるでしょうから。  だけれど どうですかねぇ。町や村で すでにその生活共同としての日常にそういう対話の態勢ですとか 協力の体制が出来ているということが 重要であるようにも思います。司法ひとりの問題と見るよりは 社会生活の全般にわたって 共同体が共同体として動いており その中に 更生の課題も組み込まれるかたちで 取り組まれていく。  ううーん。ちょっと高ぶった見方・言い方になったでしょうか。  ★ 元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。  ☆ この風潮を翻したならば あとは みんなでうまくやって行けるように単純に思うのですが どうなんでしょう。  素人として 加害者や被害者に接したほうがいいと思える側面もあるように思います。  この具体的な施策は いくらかあと回しにするとすれば あとは どうでしょう。公共の法治制度にゆだねたあと なおも個人の《赦せない》という憤りをどうあつかうか。自己内面の領域についてきちんと位置づけたり また実際にその気持ちやこころをどうおさめるかに思惟をめぐらしたりして 《ゆるし》の問題をもうしばらく問い求めておきましょうか。

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noname#100121
noname#100121
回答No.62

bragelonne様、おはようございます。 たくさんお返事を下さって、本当に嬉しく思います。 全て、何度も拝読させていただきました。どうもありがとうございます^ その上で、考えたことを正直に申し上げますね。 >寄添うべき、それを必要としている人に対しては そうしなさい。ということだと思うのです。 >どこまでより添えるのか、 どこまで人間を信じて寄添い続け、 赦しそして助けてあげることが出きるのか? >私はそれを「それは、できるか?」「それは、可能か?」ではなくて、 それこそそれを信じて歩き続けるかどうか? がどこまでも問われている問題と思います。 これは「信仰」の問題ではありません。 ≪蚊が刺した≫を礎とするお考えをどのように第三者に伝えるかという非常に大切な姿勢を示している思います。 私はこの≪蚊が刺した≫を高く評価させていただいております。 bragelonne様の場合は理屈の上でご満足ご納得なさったのでしょう。 私の場合は、自らの軽微な性犯罪被害の実体験を通じ「なるほどこれなら克服できるかも!」と考えた末によるものです。 しかしそれ以上のケース、たとえば大切な人が傷害、誘拐、殺人の被害に遭った場合に関しましては未経験ですから「大丈夫かも」などと、とても公言できませんでした。 ≪理論≫だけ幾ら思索に耽っても、どこか絵空事のようにしか私には思えません。 今回のご質問に関して言えば、それが当面現実社会にそぐわなくても構わないから、まずは論証を重ねていきたがっていらっしゃるようで、それに対し若干の不協和音を感じるのです。 実際bragelonne様は現実問題から一歩後ろに引いていらっしゃるし、あまりかかわり合いたくないご様子。 むしろ、bragelonne様は≪理論≫を「実践する人間以上に完璧なもの」になさりたがっていらっしゃるのご様子。 あたかも自発的に皆が支持し実践したいと心から願うような、そんな究極の理論に一歩でも近づきたいとでもいうような。 でもそれだと逆に、bragelonne様が皆に間接的に信仰を促しているようなものだとは思われませんか。 だから「学習が足りない」という言い回しになってしまったのではないでしょうか。 結局≪理論≫は≪理論≫にしか過ぎません。 そして今回のように第三者の人間の生き方にかかわる問題の場合にはなおのこと。 ≪理論≫の積み重ねもさることながら、a...様の仰るような「いかに人に寄り添い根気強く謙虚に伝えていくか」という「姿勢」も問われてしかるべきだと思うのですが。 ≪理論≫ばかり優れていても、それを人が用いて幸せにならなければ、何の足しにもならないと思うのはましゅまろだけでしょうか? また、先の謝罪は、今まで何もbragelonne様のお考えを攻撃も掠りも出来ていなかったことに対してのものでした。 私は現実社会に用いて幸せに一歩でも近づけてこそ、哲学はナンボ、のスタンスです。 ですから≪究極の理論理屈≫そのものを思考していたのではなく、どう現実社会に適用し得るか、リアリティを持たせて応用出来るか、ばかりを考えてまいりました。 「この≪理論≫一つで人間が幸せになれる」なんてナンセンスであり、いかにそれを用いるかが肝心なのであって、結果として無数に未来が拡がるものと考えております。 そして現実的にどんどん実践していきたいのです。 そしてたとえばそうですね、≪蚊が刺した≫を性犯罪に適用するなら、≪80%≫として、残りの20%を「長期カウンセリング」「性犯罪者の再犯防止対策の強化」など、具体的な事例を挙げて、約100%になるだろう、と考えてます。 フランスで買い物した際、おつりを渡されていって最後は購入代金にしてオワリ、といった感覚に近いです。 一方、自ら経験したことのない大切な者が傷害、誘拐、殺人の被害に遭ったケースに関しては、経験上「大丈夫ですよ。」とはとても言えないので、「当事者になってみないとわかりません」とお断りしつつも、いかに100%に近づけるよう残りの%を「被害者家族救済費用の見直し」を始め諸々の施策を列挙することで模索させていただきました。 このように私はあくまでもベースをbragelonne様の≪蚊が刺した≫という極めてシンプルな≪理論≫をそのまま素直に受け入れておりまして、社会政策推進を主眼には全く置いておりませんでした。 bragelonne様には本当に申し訳ないことを致しましたが、少なくとも私にとりましては、Hidocci様をはじめ皆様方から多くをご教授頂きましたので、結果的には大変得難い財産ととなりました。 また冗長な拙文をお読み下さって本当に感謝申し上げております。 そして更に一つ厚かましいお願いがあるのですが…。 こちらのサイトでセクハラなどの被害にあった女性の質問に際しましたら、実際にその理念を拝借させていただきたく、その方の辛い現状を克服できる有力な考えとして伝えますけれど、bragelonne様的にはよろしいでしょうか。 もしご了承いただけましたら、あまり事例は多くないとは思われますが、是非とも回答させていただきたいと強く思っているのです。 よろしいでしょうか?^^お返事をお待ち致しております。 ps: α「理想主義者」は撤回します。 βダルタニャンは共通感覚がありますが、「眠狂四郎」は共通感覚がありません。ごめんなさい。「桃太郎侍」なら知ってる(気がする)。 あとはですね、NHKの「腕におぼえあり」は観てました。ご存じですか。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  でもそれだと逆に、bragelonne様が皆に間接的に信仰を促しているようなものだとは思われませんか。  だから「学習が足りない」という言い回しになってしまったのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というのは われわれ人間の誰もがおこなっているそのすがただと考えますよ。  ですから――もしそうだとすると―― 誰もが 現実と理想 実践と理論 そして時に超現実の物語(つまり 信仰関連)に多かれ少なかれたずさわっている。こうお思いになりませんか?  そして この質問でわたしは 実践ということに関して言えば 《長期の視点》を持つということだけが ひとと違う点だと思います。でも短期や中期の見方を排除しているわけではありませんから 受け留めとしてはだいじょうぶです。  だいたい申し述べることができたでしょうか。どうでしょう。と自問しつつ。  * 誰もが 直接にせよ間接にせよ おのれの主観を述べているのですから 間接的に特にはその信仰を 相手に促そうとしているのは否めない現実なのではないでしょうか?  mashumaro2 さんがわたしに《長期から短期の現実に迫って来い》とおっしゃるのは 信仰と特に関係ありません。《長期の視点に立った理論は いま実践しがたいから うっちゃっておきなさい》というなら 或る種の仕方で 信仰をうながしているということになると思いますが いかがでしょう? というところまで述べてわたしはつつしもうと思います。

bragelonne
質問者

補足

 そろそろ昼飯だと言ってPCから立ち去ろうと思ったところ ご投稿をいただいていました。  mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。  ひとの犯す取り返しのつかないあやまち これを人はどうこなしていけばよいか。しかもこのご回答については その態度や姿勢の問題に絞られます。  ★ ps: α「理想主義者」は撤回します。  ☆ くどくなりますがつまり 《こちらのサイトでセクハラなどの被害にあった女性の質問に際しましたら、うんぬん》と考えて行動しようとしていらっしゃる mashumaro2 さんは 逆に言えば《現実に対して理想をも見ようとしているし その隔たりを埋めようともしている》という意味で理想主義ですね。  問題は   ★ ≪理論≫ばかり優れていても、それを人が用いて幸せにならなければ、何の足しにもならないと思うのはましゅまろだけでしょうか?  ☆ について考えれば まづふたつあると思います。  (1) 理論が優れているかどうか。優れているのならば いくら長期の視点に立つとしても《実践しうる》と考えられます。  (2) ところが たとえ優れた理論であっても 応用してみて その理論内容どおりに行くとは限らない。見落としもあれば 見落としがなくても限界があります。  ☆ こういう前提に立ってわたしのいまの姿勢は ぶっちゃけて言えば すべていまの現実のままで 人がそのこころにおいて《よっしゃ。光が見えた。決まった。これだ》と言える考え方を得ようとすることにあります。  眠狂四郎のように 虚無(諸行無常)を通過したかたちです。そして狂四郎のように虚無主義のまま生きるものではない。そしてとうぜんのごとく 政策・施策にまでゆくゆくはたどり着くつもりです。  そのような考え方 つまり広く言って知的財産は わたしもぱくりという変な言い方をしていますが 考え方としては原則すべて自由だということではないでしょうか。フェアユース( fair use )の考え方もあるようです。引用・援用とひとこと言っておけば 大丈夫なのだと考えます。  細かい点で物言いをつけます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そしてたとえばそうですね、≪蚊が刺した≫を性犯罪に適用するなら、≪80%≫として、残りの20%を「長期カウンセリング」「性犯罪者の再犯防止対策の強化」など、具体的な事例を挙げて、約100%になるだろう、と考えてます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの場合は 理論も十割 政策実践も十割 どちらも全力投球です。そして実践は 試行錯誤です。  arayata333 さんのご見解について  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これは「信仰」の問題ではありません。  ≪蚊が刺した≫を礎とするお考えをどのように第三者に伝えるかという非常に大切な姿勢を示している思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と批評しておられます。もしそれでしたら 《それこそそれを ≫信じて≪ 歩き続けるかどうか?》というときの《信じる》を言わなければよいと考えます。この結論をみちびくのにかれは キリスト・イエスの言葉を持ち出していますが それを別としても ここは 経験的な思考と努力を超えて《信じる》の領域を言おうとしていると思いますよ。  以前のかれのくせ(エートス)からまづ推し測るのですが そうでなくとも ここはもし《信じる》を除くなら 企業戦士よろしくいわゆる精神主義で乗り切るというような努力のあり方を言っていることになりませんか?   しかも問題は かれの言う《信じる》は 今日から明日へ明日から明後日へと 一つひとつ梯子を登ってたどり着くものとして思い描かれています。(いました)。これは 非思考・非経験の信仰ではなく 実際は無限に思考と努力を尽くそうという経験行為の問題だと言わざるを得なかったのでした。――これは 追ってかれから説明があると考えます。  従って今は保留としますが このつてで わたしの言いたいことは ことほど左様に ひとは おのれの主観をこそ自己表現しようとしている。そして主観には おどろくなかれ無宗教と名乗る人であっても 誰もがじつは 《信じる》が入っており この《信じる》問題をこそ人に伝えたがっている。のではないでしょうか? すなわち

noname#117439
noname#117439
回答No.61

オコリザルです。 今回は姿勢についての話です。 姿勢ですのである種のたとえです。 愛に基づき「赦さない」を表明する姿勢。 善性の発露として「赦さない」を表明する姿勢。 この違いで考えるところを述べてください。 感想で表現するのが理想ですが、事例から発展させても結構です。

bragelonne
質問者

お礼

 これはですね。一般化して述べることは むつかしいと思います。  その相手またどういう行動が振る舞われたのかなどなどの情況 これによって違ってくると考えます。  ただし 《善性〔の発露〕》という概念は あいまいだと考えます。  いえ それ自体は 明確です。そもそも存在のあり方としての自然本性そのものを言うと捉えますが そうだとすると 基本的には へそ曲がりでない限り すべての意志行為は 善性の発露であるとなります。そういう定義を用いています。  ★ 愛に基づき「赦さない」を表明する姿勢。  ☆ これはあくまで その相手のそのときの状態と情況に応じて そういう表現を用いてそういう姿勢に出るというものだと考えます。  《赦す》と表明するより よい結果が得られると確信したとき そういう姿勢に出るというものであり 一般化し得ないという考えです。

bragelonne
質問者

補足

 お借りします。  ▲ (ヘーゲル:精神現象学) ~~~~~~~~~~~~~~~~  或る哲学的著作が 同じ対象についての 他のちがった研究に対してもっていると思われる関係を規定するときにも 的はずれな関心が引きいれられて 真理の認識の根本となっているものがぼかされてしまうことがある。  想念(思いこみ)というものが 真と偽の対立を固定させるものである。が そうなればなるほど想念(思いこみ)は現存の哲学体系に対し賛成か反対かの何れかを期待し この体系について説明するときには賛否の何れかだけを見るのが普通である。想念(思いこみ)は諸々の哲学体系のちがいを 真理が前進するときの展開とはみないで このちがいの中に矛盾だけをみている。  つぼみは 花が咲くと消えてしまう。そこで つぼみは花によって否定されると言ってもよい。同じように 果実によって花は植物の偽なる定在と宣告され 植物の真として果実が花の代わりとなる。  これらの形式は互いに異なっているだけでなく 互いに相容れないものとして斥け合う。しかし これらの形式は 流動的な性質をもっているため 同時に有機的統一の契機となり この統一にあっては形式は互いに対抗しないばかりか 一方は他方と同じように必然的である。  けれども或る哲学体系に自分の体系が矛盾する場合 一方では今言った仕方で矛盾を理解しないのが普通である。また他方では捕捉的意識は 普通この矛盾を一面的な姿から解放してやり それを自由にしておくことを心得ていないし また争い対抗し合うように見える形態の中に 互いに必然的な契機があると認めることを 心得ていないのが普通である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

回答No.60

私の考えには、 《未来に可能性があり そちらの方向に進む意志があるのであれば》過去は忘れるほうがいい。 という考えがあります。 お久しぶりです。 詳しくはともかく、その気持でここに戻ってきましたので、過去は私の方からは 忘れる立場をとらせていただきたいと思います。 ここは 私の体験をまず、少し書かせてください。 私自身の想像力は貧しい方なので、だからといって 被害者や加害者への感情移入が深いとか言えるものではなくて、 あくまでみなさんが言われているのと同じぎりぎりの気持でもあるのですが、 子どもの頃、 あぶなく私がそのために廃人となるところだったほどのいじめをある学校の先生から受けた時の、 ある時の友達との対話をここに思い出します。 私は その先生が憎いと その友達に必死に訴えるのですが、その友達も必死に「どんな時にも人を憎んではいけないよ」と訴えてきました。 が 私には  まったくの??? しか、   どういったらいいのか   完全なまでにその友だちの言ってることが解からなかったことを憶えています。 で、わたしは、 そのあたりから、    両親に言っても信じてもらうことも出来ない孤独が さらに孤独となり狂気の世界へと進みはじめていったのです。 通学の途上で 壁にうつる自分の影だけが揺れているのです。 まるで映画での描写かなにかのようですが、現実です。 子どもながらも なんども、他の人の影が揺れていないのを確かめつつ、 その傾向を心に察知していました。 とうとう、それからたぶん数ヶ月後だったと思いますが、 わたしは二度ほど あちらの世界にいってしまったことがあります。 それは はっきり憶えてはいる事なのです。  その間は苦しいわけではありません。 でもその間は、 まったく普段の意識状態ではありません。 見えてはいます。 ですから、むしろ そこで見た世界は、むしろ忘れようにも忘れられません。 一部始終、62歳の今でも思い出せます。 いまでははっきりとではないですが、 その電車の中で人の足をポンポンふんずけながら走りまわっている私を誰もが 見てみぬふりをしていた様子と、たった一人だけ年配の女性の方(かた)が わたしの目を覗き込むようにして笑いかけようとしたそのひきつった顔まで思い出せるのです。 それが最初の体験です。  そしてそれは 乗り換えの駅で自然に体がおぼえていたのでしょうが、 降りたった時がみじめな体験でした。 その時に、子ども心にも 自分が今どうなっていたのかを知ったわけです。 詳しくは長くなりますので 二度目の時のまた別な様子は略します。 が二度目の時は、さらに惨めでした。 もう、おしまいだ!と、 おもったのです。 廃人という言葉は知らなかったと思います。 でも それは察していました。 ごめんなさい。 話が脱線したと思います。 でも すこしでもリアルに書きたかったのです。 肉親の命を奪われたような体験を持つ加害者のことを 他の人がその心の奥まで察知したり想像したりすることは難しいと思います。 が、 その後 親がやっと気づいてくれたことをきっかけに つまり《ぎりぎり》で助かったのち、  わたしは海辺の虚弱児施設にて、 その頃のおおらかな先生方や素朴な子ども達の友達たちに囲まれ、 そこに真逆に天国をも体験することで   たったそこにいた4ヶ月の間に 別に恨む必要は消えていました。 その天国の楽しさの深さもほんとうはリアルに それが何を意味するのか、その豊かさはどういうものか について、できれば詳しく書きたくなります。 が、ここで言いたいのは 教育とは、偉ぶって上の立場から教えるとか言う世界のことではなくて、 ほんとうに友だちとなってよりそってくれる人たちがまわりにまずいることだと思っているということです。 この《結論》を持ってしまう時には、 私は そのへん政治家的であり医者的な 切羽詰ったような感じで理想を追い求めることになります。 死自体 あるいは自殺でもいいですが、それ自体最大の不幸とも思えないでいる私には 死刑制度の意味はよく解かりませんが、 被害者が加害者に同じ苦しみを望むなら、それは確かに「憎しみの連鎖は、そのままでは永久に人間の力では断ち切れない」ということを意味しますし、  わたしには、そういう心も人間にはあるとリアルに思えますが、同時に、その心もまた変わりえるともリアルに思えるのです。 二度目に気が狂った時の私の状態は おびえた動物の意識そのものでした。 ふーーー、と睨む子どもを守る時の猫のような状態と言ってもいいかもしれません。  子どもではなく自分を守る本能そのものとなった状態です。 その時、私は確かに 人間ではなかったのです。 だから 解かります。 人間なら 変われる。 人間なら 人間になれる。  その可能性は かならずある。 それは 加害者が 反省の色も見せないような 冷たい冷たい心の殻の意識のすべてが押し込められているような場合、被害者にとって鬼の中の鬼でしかないような場合ですら、 それは同じ事が言える と  わたしは信じています。 死刑制度うんぬんは、また別の問題として、ただの島流しは意味無いです。 そう信じれる サリバンがヘレンケラーに言葉を教えた時のように、その真っ黒な何もない意識(何も比較するものがほとんどない意識?)の中に、言葉の光をとどかせた奇跡を起こした時と同じような、 そう、人間を信じることのできる 教師達のもとにのみ そういう加害者たちを送り込むべきであり、  それはこの社会にもどるもどなないとかいうのではなくて、 いかにそういう人にも 人間の可能性の世界 その世界がどんなにすばらしいかを教えることができるか どうか それを私は問います。 わたしは、 被害者と加害者の鉢合わせを なぜ理想の1つとするのかわかりません。 もし、被害者が 赦せない状態が長く長くつづき その心が変わらないままであるならば そのまま無理は無理のままと思います。 が、 ここに1つの答えが、なんとかぎりぎりかもしれませんが あると思うのです。 被害者もまた、 人間の可能性を信じれる時がきたなら、絶対変わる。 ぜったいどんな人も赦せるようになる。 ぜったい 悪魔の親分ベルゼベブですら赦せるようになり、悪魔幻想もこの世から消えてゆく。  そう私は 私の体験の中からは信じているのですが、…。 答えは1つだと思います。 どれだけ 人の心に寄添える教育が この世に発展するか? ここにすべてがかかっているのではないでしょうか。 キリストの言われる「右の頬を打たれたら」というのにつづいて「千歩歩く事を強要されたら」という二重のたたみかけるような例えは、 その前に「悪人には」という言葉がついている点があまり語られていません。 それはキリストにとって おそらくとても象徴的な大事な例え話だったと思います。 寄添うべき、それを必要としている人に対しては そうしなさい。ということだと思うのです。 どこまでより添えるのか、 どこまで人間を信じて寄添い続け、 赦しそして助けてあげることが出きるのか? 私はそれを「それは、できるか?」「それは、可能か?」ではなくて、 それこそそれを信じて歩き続けるかどうか? がどこまでも問われている問題と思います。

bragelonne
質問者

補足

 arayata333 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。すでに投稿内容の話に入りますが いくつかの主題や論点を挙げておられる中で わたしの読んだ限りでは 最後のあたりが際立って ご主張の中身であるだろうと受け取ります。  ただしそれは 信仰の問題 その境地の問題を持ち出したかたちのようです。  ということで 扱いにくいご見解であるかと まづ思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) 寄添うべき、それを必要としている人に対しては そうしなさい。ということだと思うのです。  どこまでより添えるのか、 どこまで人間を信じて寄添い続け、 赦しそして助けてあげることが出きるのか?  私はそれを「それは、できるか?」「それは、可能か?」ではなくて、 それこそそれを信じて歩き続けるかどうか? がどこまでも問われている問題と思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ せっかくの久しぶりのご訪問にその初めから わたしは対立する意見になるのですが 考えを述べます。  ★ どこまでより添えるのか  ☆ これは 《信じる》の対象ではないと考えます。というのが わたしの考えであり 基本になると思いますので いのいちばんにしっかりとお応えしてまいります。  ○ 《寄り添ってやる》ことが 自分のすべきことだと確信したなら(これは 直感としてでも理詰めの結論としてでもです。確信というように《信》が入っていますが 単に強めるためだと見ます) その確信が間違っていたと分かるのでない限り そうする。  ☆ ただ こういう経験的な行動であり 意志行為であるのだと考えます。言いかえると 《赦しや助けにつながるかどうか それが出来るかどうか》 これは 分かっていないのです。ただし《寄り添ってやる》ことは 必要だという確信があるのみなのです。  というふつうの経験的な行動として捉えます。  その第二の説明として 聖書じたいの解釈についても考えておきます。先の(α)のお考えは 次のように聖書の推し出しているものだという解釈です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  キリストの言われる「右の頬を打たれたら」というのにつづいて「千歩歩く事を強要されたら」という二重のたたみかけるような例えは、その前に「悪人には」という言葉がついている点があまり語られていません。  それはキリストにとって おそらくとても象徴的な大事な例え話だったと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《左の頬をも向けてやる / いっしょに二千歩行く》と表現されたことを 《寄り添ってやる》ことと解釈されていると思うのですが もしそうだとしますと これは 《右の頬を打つ / 千歩行くように強要する》という行動から始まって 《人間に戻る。戻って心を回復する》という最終の状態を得るまで《寄り添う》ということだと採りますが それでよいでしょうか?  問題は 《最終の状態に到るまで もしくはその到ることを 信じる》というときの《信じる》とは何を言うかです。  わたしの場合は それは 先に述べたように《最終の状態に到ること》をではないわけです。《赦しそして助けてあげる》ことの実現 これを信じるのではないと考えます。  なぜなら そのような境地としての状態は 経験事象でありその以前には想像でありその観念です。だから それは《考える》の問題であり 《信じる》ものではないと思うからです。  たぶん以前から こういう点で あなたとわたしとは考えが違っていたように思います。やはりそういうふうであるのではないかと思います。その点 しっかりと対話をさらに続けてまいりましょうか。  《信じる》という要素を入れると この質問への回答にはならない。こう考えています。そのあたりを説明願えればありがたいと思いますが いかがでしょう?

noname#117439
noname#117439
回答No.59

オコリザルです。 正誤 >個人に働きかける霊視としての >故人に働きかける霊視としての 過ちを赦すために(受け入れるために)被害者加害者共に癒される必要があります。 野次馬がギャースカ言うのは耳障りです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 野次馬がギャースカ言うのは耳障りです。  ☆ これは言うまでもないでしょうね。  ★ 過ちを赦すために(受け入れるために)被害者加害者共に癒される必要があります。  ☆ こういうふうに《癒される》を用いるとすれば わたしには 《ひとが癒やされる》のには ふたつの場合があるように思いました。  ひとつは このように事件に即してその影響をもう受けないような元の状態を回復するという場合です。  もうひとつは そもそもこの個人としてこの世界に孤独でもある人間そのものが癒やされるという場合です。  そして同じくわたしには思われるのですが どちらの癒やしを得ても ひとはひとのあやまちを赦すことはなかなか出来ることではない。というように感じています。(いつまでも 衝突します)。  しかも ただ 人間存在として癒やされているならば いくら赦せないという感情から憎しみを持ち恨んだとしても そのときにも 意志行為が誰のものであり 誰のものではないかということをしっかりと把握しており それに従って 自分の意志行為でないものごとについては まったく影響をうけることがない状態でいられる。こう思います。  ――論証はし得ていないということでもあります。

noname#117439
noname#117439
回答No.58

オコリザルです。 レッサーパンダ帽男の話で考えました。 私は田舎住まいなのにどうも事件事故に詳しいのですが、中学生時代仲の良かったクラスメイトの母親が近所の知的障害者に普段から親切にしていたところ、その知的障害者から刺殺されると言う殺人事件に発展しました。今回の事例では「もしも」ではありません。本当に殺されました。この事例では遺族が顔見知りですが、個人に働きかける霊視としての伝心でその故人となった母親は「愛の成就を確かめて昇天した」という直感が働きました。遺族の役目を担うクラスメイトに確かめるまでもありません。犯人を赦している筈です。 そのクラスメイトとは同窓会で会っていますが、殺人を十分共通の話題にできる私から、特に話しかける必要はありませんでした。予感として霊視や伝心が働きます。語ることで過ちを犯すまでも無く彼は赦しています。 レッサーパンダ帽男については殺人を計画できる時点で責任能力ありです。情動的だったとしても殺人を犯せばどうなるかに考えが及ぶ限り計画的犯行です。その点に社会や法が異論を唱えれば、遺族は慰霊のために抵抗するでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ふうむ。  ★ 殺された被害者としての母親とその遺族であるかのじょの息子(あなたのクラスメイト)は 加害者を赦している。  ☆ というのですね。  こういう場合 もし取り上げるとすれば あなたがそのクラスメイトに問い質したりしなくてもいいと思うのですが そのかれの表情や状態・情況の何らかの報告をつけ加えてもらえるなら また どうなんだろうと関心をもって考えようとすると思ったのですが どうでしょう?  ★ 予感として霊視や伝心  ☆ これらについて 一般的には ほとんど信用しないと思いますが その内容と照らし合わせるための 当人の情況が分かると わたしなどは いいがなぁと思ったりします。  文学の問題としてになるとは思いますが。  自閉症男については 対話能力の問題であるように思うのですが むつかしいのでしょうか。

noname#135843
noname#135843
回答No.57

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。Hidocchiです。 「人間が歴史を学んで分かることは人間は歴史から何も学ばないということだけだ」 が事実のようでございます。 (ヘーゲル『歴史哲学講義』岩波書店からです)  この間違い訂正は、愚生に「もっとしっかりしろ!」とのご意見を賜ったと理解いたしました。  さて、以下に愚見を申し上げます。 佐藤幹夫著「自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」 (http://www.amazon.co.jp/  で“レッサーパンダ帽男”で検索をかけていただき、商品の説明と各レヴューアーの記述から、事件内容の概略はつかめるかと思います。)  とても後味の悪い事件なのですが、この著作に、以下の記載がございました。  以下は、被害者の叔父が著者に話した言葉です。 「私もジャーナリズムというのは、すごくそういう役割(世の中をよくしようという役割)があると思う。しかし、大半は、世の中をよくしようなんて考えてねえ、ただの野次馬だろ。姉の家も、マスコミに囲まれて、出入りができないほどやられた。Mちゃん(被害者)はほんとうに気の毒だった。どんな思いをして亡くなっていったか、考えて余りある。けれどもマスコミに対する腹立たしさ、これもまた同じくらい強いんだ。マスコミ不信どころの話ではない。だからあなたの取材も、できれば避けたかった」 私は一言もなかった。 「こういう事件があって、誰が自分たちのことを本当に考えていてくれるか、改めてよく分かった。野次馬は、電話をかけてくる。今度の事件のあの子、あんたのところのなんとかだろう、そう電話で確かめてる人間もいる。私らのことを考えてくれている人は、なにも言わない。黙って、そっとしておいてくれる。いまだから笑い話になるけれど、事件のあと、店がしばらく暇だった。いつも来てくれていたお客さんも、ばったりと来なくなった。後で聞いたら、かける言葉はないし、とてもじゃないが足を運ぶことができなかった、そう言う。そうした人はほんとうにあるがたかった。」  (p.306から307)  なお、損害賠償請求は、被害者の父君が辞退したそうでございます。  ただ、残念ながら、マスコミ批判をすれば、以下のbananasand様の意見を超えることができないので はないか、もしくはそのまま引っ張っていくだけではないのか との自問自答(自省)がございました。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html No. 42 and 48 >☆ のお話を聞いて その被害者の遺族である父・母・妹でしょうか この人たちは そんな加害者の 闖入によって何も生活が乱されることはない。こう思われてしかたがないのです。人生が乱されても仕 方がないのは 加害者のほうです。  そこで、担当直入に申し上げます。 意見を等しく致します。その事件(惨事)を耳にした第三者(コミュニティーの方たちは除きます)は、メディアのフィルターを通して、その犯行の残虐性、悲しむ遺族の方たちを目の辺りにして、怒り等の感情を煽られているだけなのかもしれません。なにしろこの閉塞感に満ちた社会にあっては、ルサンチマンの大きなはけ口を要求している観がございます。  また、人生が乱されたのは、この事件においては、おそらく、被告人であったかと考えております。因みに、被告人の家族は以後、以下のような道をたどりました。被告人の刑と引き換えに、社会からの救いが得られました。 ・被告人の父:父にも、知的障害があることが判明し、障害者手帳を支給されました。 ・被告人の妹:父と兄の2人の生活費および自分の病気の入院費を得るため、働きずくめだったそうですが、兄の逮捕後、ボランティアの人達により、すぐに手厚い入院・治療が施され、ほんの僅かだったでしょうが人生の楽しみを覚えたそうです(享年25歳)。 > ただ 被害者やその遺族が なぜ つらい思いをしなければならないのでしょう。悲しみの極みというのなら 分かりますが うちひしがれるかのようにその後の生活を生きなければならないとしたらこれも 学習が足りない――あぁ 言ってしまいました――という側面を見ようとせざるを得ないのではないでしょうか。それとも わたしたち周りの者の支援が足りないということなのでしょうか。  「うちひしがれるかのようにその後の生活を生きなければならない」と仮定しますと、それは、むしろ第三者(メディア、野次馬含めてでございます)の無神経さ等に起因するものかと考えております(上記の事件からの憶測でございますが)。  一方、わたしたち周りの“支援”の方は、どちらかと申しますと、司法と行政の管轄かと考えられます。もちろん、コミュニティの方たちの配慮も必要かもしれません(“静かにしてあげておく”等の気配りでございます)。ここでの第三者(野次馬を含みます)はあまり余計なことはむしろ避けるべきかと存じます。 > ジャイアンがいじめられていない頃は、ジャイアンに対するルサンチマンを原っぱで隠れて皆で晴らしていたはず。  はい、そのとおりだったかと存じます。またいじめられるのを防ぐには、ジャイアンの家来になる 等の方法があったかと思うのですが、これらの手段が講じられなくなったのでは、かつてはいじめ、もしくはその家来であった自分が、今度はいついじめられる側になるのかは予想のつかない状況でございます。これは、“KY(空気を読めない)といった風潮”がその原因の一つとなっているようでございます(その場の空気のみによる支配があるのかもしれません。参考:土井隆義著「友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル」; 小室直樹著「日本国民に告ぐ」からです)。ただ、心理的圧迫感を若者にまで、及んでいるのには、少し酷なところがあるかと感じております。 > もうこれで全面的に ワルモノになった思いです。  いえいえ。論理的にかつ淡々と話しを、お進めになるため、日本人的な(もしくは日本人が好みます)“情緒性”が感じられにくい という唯その一点のみかと存じます。  それでは皆様、どうも駄文をご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  今回も 反応は 言葉としては少なめです。  まづ 歴史哲学と歴史哲学講義との違いがあるということですね。  ★ 佐藤幹夫著「自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」  ☆ まづ残念ながら レヰ゛ューを読んでも 《自閉症》の具体的な状態が分からず 従って その《罪と罰》のあり方もよく分かりませんでした。さまざまな視点からよく捉えて考えていこうということなのでしょうか。無期懲役だそうですね。量刑の量は もう技術的なことも加味しなければならないでしょうから これも分かりませんが あやまちの中身からして そうかなという感じを持ちます。でも障害の内容の問題があるのですね。  わたしは マスコミがどうの世間がこうのという問題には まったくと言っていいほど かかわりません。うわさという事態には けっこう免疫になっているのです。事実無根が 高校時代に飛びまわったという経験をしています。それをわたしは 卒業後に知ったという何とも浮世離れした能天気だったのも 事実です。  みづからの意志行為にかかわらないものごとからは わたしはまったく自由であるという原則を確立させたいです。  主題や論点を全部はまだ取り上げておりませんが 受けとめたかたちとさせていただきます。議論のゆくえに従って 復活してくるかも知れないですし。今夜は 訪問者が多いです。

noname#100121
noname#100121
回答No.56

bragelonne様、こんばんは。 いつも懇切丁寧なお礼をくださりまして、本当にありがとうございます。 >☆ 理想の社会というものを《想定している》のではなく 《希求している》。《めっちゃ欲している》です。 >ほとんどすべての出発点として 違いを生じさせているのではないでしょうか? 出発点というか向いている方向が正反対なだけだと思います。 私は常に現実社会に向かってただひたすら目を見開いています。 理想と現実のギャップは非常に大きく、私は理想主義者からは程遠いスタンスですので、今までかなり的外れな事例を挙げてしまっていたようですね。 本当にご迷惑をおかけしたと思っております。 大変申し訳ございませんでした。 なお、この期に及んで申し上げますと、いかなる理論理屈をもってしても、当事者になって見ないことには、何もわかり得ないし確かなことは何一つ言えない、ということに尽きるかと思います。すみません。 >女性の理論哲学者はいないのではないでしょうか? 出ないと言おうとするのではなく 少ないのは何故かと考える方向に行ってしまいます。 え、bragelonne様もあのご質問にご興味を抱かれていたのですか。 私は全く興味がありませんで、こちらの絡みで拙文を寄稿しただけで、むしろ何故あのような質問をあの質問者が問いかけたのだろうと考えておりました。 >《 Un pour tous, tous pour un. 》の精神に反すると見られることを こころの問題で言ったかも知れません。 なるほど、そうお考えになられたのですね。 とても参考になります。 私は、Edmond Dantesが神父に出会う不思議な投獄生活が一番の醍醐味だと思い、そこばかり繰り返し読みました。 で、復讐をするたびに、内心ではますます虚しさを募らせていったのだと独善的に思い、一連の復讐劇を切なく感じた記憶があります。 また、Jean Valjeanなどの別作品キャストにも通ずるような一連の社会道徳的な大衆小説があの時代に花開いたのが面白いとも思いました。 現代と文学が果たす役割が異なっているのでしょうか。 >いじめ役さえいじめられるようになったというのは 時代がいい方に変わるしるしとして前向きに受け取れることではないでしょうか? そうでしょうか? 私はちょっと不気味だと思いました。 いじめは決して褒められたものではありません。 ですがドラえもんに夢中になるような小学生の時代には、子どもは本来無邪気でストレートですから、いじめの類があってまあ自然だと思っております。 行き過ぎたいじめなどは論外ですが、子どもはリーダーやその他の役割を流動的にこなしながら、大人社会への適応力と免疫力を高めていくのではないでしょうか。 そして、多少の肉弾戦も交えるうちに「手加減の見極め」を会得していくのだと思います。 でないと「それを言っては(やっては)おしまいでしょう!」と大人になってから後ろ指を指されかねないはずです。 とは言うものの、私は今までロクないじめに逢ったことも加担したこともないお調子者でとても楽しい子ども時代でしたから、それこそ理想を追い求めてしまうのかもしれません。 マズイですかね、過去を振り返るのは老化の証拠?! >そのあと 犯罪心理学だか何だかいろんな研究成果にもとづいて 具体的な政策を敷くのは いまは別の段階だと思っているという意味です。 はい、仰る通りでして、具体的な事例や経験ばかりをやたらひっぱる私の回答は、今までbragelonne様のご質問に対し、本当に的外れのものばかりだったと思います。 ここにあらためてお詫び申し上げます。 ri_rong様、ご教授下さって、本当にありがとうございます。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆ いじめ役さえいじめられるようになった  ☆ なら 第三項排除の論理が破たんするという意味で そのぶん 自由度が増す。こう感じます。  これまで偉い人が ひとに向かってやたら当たり散らすというかたちで意識の排泄を行なって来ました。偉くない人は それをアース役となって受けとめごみ処理をして来ました。もしここで 偉い人もアース役を引き受けなければならなくなったとすれば 感染列島の様相が変わると思います。こころが内面に向いて 自己到来しうるようになります。  女性哲学者論への投稿は 例の a さんが投稿していたので こころみました。(すでに かれは このわたしの質問に投稿して来ました。いま 見つけました)。  巌窟王の話に花を咲かせうべかりせばたのしきものを。  がらっぱちだとすでにお伝えしていますが わたしがダルタニャンが好きだという意味は ちゃんちゃんばらばらが好きだという意味に等しいです。眠狂四郎も好きですから。あぁ 単細胞!  * ri_rong さんのご投稿内容とどういうふうにつながるのか いまひとつ分かりませんが ともかく共通感覚については自信を持ってください。それからわたしをあまり理想主義者呼ばわりしないで欲しいですが というよりは ここがこうだ そこがああだと どんどん突っ込んでいただくとたいへんありがたいと思います。謝謝。

bragelonne
質問者

補足

 ううーん 今回のご回答はよく分からないですね。ううーん。  mashumaro2 さん 秀吉の朝鮮侵略のテレビ番組を録画で見ていて 夜おそくなりました。ご回答をありがとうございます。  ★ 今までかなり的外れな事例を挙げてしまっていたようですね。  ★ 本当に的外れのものばかりだったと思います。  ☆ もっと自信を持ってください。共通感覚からのご発言であると思っております。ただしわたしは そしていまは さらにもっと周り道をしてみておこうとも思っております。ご発言を受け取りご指摘を受け留め いづれ政策を考えるときには参考にしようという意味です。  北朝鮮の問題がいちばん この場合 はっきりした例だと思います。とにもかくにもわれわれ一般市民が知らない交渉の歴史と資料があるのだと思います。いまわれわれが得ることのできる資料や判断材料で どういう対策を打ち出すか とても最終的な結論として考え得ようとは思えません。  程度問題として 大きな事件などの現実に密着した問題点は いまのわたしには 同じような社会事実であるように思えます。少しづつ知って経験知をひろげていくしかないと思っています。  mashumaro2 さんがもし そのような問題点を指摘されて いますぐにも具体的な政策をまとめようということであれば たしかにいまのわたしには手の届かないところでの作業であるように思います。  あるいはぎゃくに これこれこういう政策が考えられるがどうか?というご提案であれば それはそれとして受け留め考えたいとは思います。  被害者を支援する予算が加害者向けと同じほどには 増やすべきだとか 訴因の書き込み方をもっと現実に合ったかたちにしようとか これらは そのとおりに受け留めております。(ていねいにはお応えしておりませんが)。われながらわたしの質問での質疑応答は かなり自信を持っております。参考資料になると思います。いまはそういうかたちで 受け留めております。  さて  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  出発点というか向いている方向が正反対なだけだと思います。  私は常に現実社会に向かってただひたすら目を見開いています。  理想と現実のギャップは非常に大きく、私は理想主義者からは程遠いスタンスですので  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしだって現実に立脚していますよ。ただ資料と知識がとぼしいだけです。《理想主義》だとか《理念だけではだめだ》とか そうではないと反論してきているはずですが だめでしょうか。  理想という言葉でつっこまれれば その同じ言葉で返しますが わたしは理想主義とは違っていると思いますよ。たとえば インタムライスム これは これまでの歴史としていまある現実を分析すると そういう新たな方向が得られたというだけの話で はじめに理想だとか目的因があって その考え方を出して来ているのではないですし そもそもそういう発想はありません。いまの現実を引き継ぐのであることは 当然です。  ただし たしかに現実離れをした話を出すこともあります。やがて病人の半分はからだが丈夫になるとか いまはもっぱら悪に従事する人びともやがて みづからの衣替えをするだろうとか のんきなことを言います。ひとの寿命は 二百歳になるだろうとか。二百年も生きれば もうそれは永遠であるとか。  そしてともかく この質問としましては 《ひとのあやまちを赦すことはむつかしい。けれども 被害者も加害者も関係者も誰でも その心がすっかりとげを抜かれてのように癒やされること これはありだ》という命題をいろんな参考意見を得て考えていきたい。こう思っております。その点 具体的な政策論に対しては 腰が引けていると思います。

  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.55

 オコリザルさんの投稿――赦す、赦さないは、交流とかかわりの中から生まれる情動で、神のかかわらない、人間だからこそできる行為ではないか?(No.9)――に発想を得て書きますが、  つまり、制裁か赦しかという問いはどうもその表現に物騒なところがあるし、無警戒に文字にされる事で、質問という役割に紛れ込んだ問うてはならない問題に対して、実に無邪気な答えを誘引される恐れがあるからですが、恐らく質問主旨は変わらないと見て、このように問いの表現を変えてみたいと考えました。つまり、「人は、『何を学ぶべきか』という問いに対する回答は、常に事後的にしか手に入れることができないもの――なのではないか?」 というふうな感じです。  これはつまり、「人は何を学ぶべきか」という当為に対する古典的な問いの焼き直しですが、  ここではむしろ文章の後者に意味があって、人は数学を学ぶ、英語を学ぶ、というふうに、人は目的語を補う可能体としては定義できないというものです。  どうしてこのように書くかというと、――おそらく、質問者の根っこには「学び」に対する何らかの意図が見え隠れしているからで、率直に書くならば、「お前らもっと、勉強せえよ」という、どうもその下世話な声が聞こえてくるからなのですが、どうでしょうか。  プラトンの受け売りですが、少し、綴ります。  自分の知らない「何か」を知ろうと学ぶとき、人はそれが何かを「知らない」にも係わらず、それを知っているだろう人物を、師と仰いで教えを乞うことが「できる」(ソクラテスの場合はアポロンでした)。そしてプラトン曰く、学びは「それについて知らないはずの」自分が「それについて知っているだろう」師を選ぶという――極めて不条理なプロセスが発端となるそうです。  この不条理さが可能体の正体なのですが、第一に自分の無知を悟り、第二に満足のいく師を見つけたとしても、この時点では実はまだ十分ではない。師を見つけたソクラテスが、対話を通じてそうしたように、「学び」には常に、師をその気にさせるという技術が必要になる。  その気になった師から、自分はいったい何を「知らされるか」――こういうのは、日常的にもそうなのですが、実のところ「学んだ自分」に聞いてみる以外、わからないことなのだと思います。それが赦しだったのか、いや制裁だったのか。それはあくまで小説の結末でしかありません。  ところでこの可能体に対する答えがあるとすれば、  やはり第三のプロセスである、(自分の学びに対して)相手をその気にさせることができるかどうかという力(あるいは技術)になるでしょう。世間ではこれを「学力」と呼ぶように思いますが、個人の《赦す・赦さない》という行為は、この力の使い道を尋ねていると思いました。  近代においてここに問うべき師は、社会という場の存在が相応だろうと言われます(制度はその社会の要請によって生じる)。けれどももし、それが個人となったならば、師は、小さな神である自分という事になるでしょう。  しかしここではそうでもなく、質問者は、理想の社会というものを想定している。思うところ、その社会には制度がなく、先に書いた三つのプロセスによって、常に結果が導き出されるような、言わば幻想の社会です。どうでしょう? ブラジュロンヌさん。  残念ながら、近頃は学力が低下しているんですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 12月1日の朝に補足欄をおぎないます。  どうも ご回答の構えと趣旨とその流れに乗ってしまったようです。  非思考にかかわる《癒されること》と経験思考としての《学ぶ・勉強する》とを――きちんとわたしは 《次元をたがえる》と書いてはいますが―― けっきょく同じ次元で読まれてしまうような表現のままにしておいたようです。  ですがそれはそれですから ここで補おうと思ったのは そうではなく ご回答の最後の一文つまり  ★ 残念ながら、近頃は学力が低下しているんですよ。  ☆ についてです。見落としたのではないですが 応答していなかったようです。  つまり 上の問題を超えて《同じ次元》において応じるとすれば 《「お前らもっと、勉強せえよ」と言ったって そんなことは知ったこっちゃねぇよ》というご趣旨なのでしょうか? それなら 見落としていてはいけなかった。  わたしのこころは  ☆☆ (うえの補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   質問を立てているからには 《この力の使い道を尋ねている》のですが それは上の結論に従うなら 《一人ひとりが おのれに尋ねているだろうから その成果を出し合おう》と言っています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ にありますが それをもやはり超えて《知ったこっちゃねぇよ》というのでしたら わたしが介入するすべもなければ つもりもない。というお答えをしておかねばならなかったでしょうね。  つまり 《ゲリラ回答》の問題どころではなかった。のに わたしは のんきだったというものです。  これでぜんぶを吐きだしていると考えます。

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  いくつかの主題で ご推察が部分的にわたしを射ぬいている。まづは こう思います。部分的にという意味は わるく言えば かすっているというかたちです。  ★ しかしここではそうでもなく、質問者は、理想の社会というものを想定している。思うところ、その社会には制度がなく、先に書いた三つのプロセスによって、常に結果が導き出されるような、言わば幻想の社会です。どうでしょう? ブラジュロンヌさん。  ☆ 理想の社会というものを《想定している》のではなく 《希求している》。《めっちゃ欲している》です。  その社会には《制度がなく》ではなく 《既成の制度を受け継ぐ》です。《予見としての制度がない》は そのとおりです。  先に書いた三つのプロセスによって、常に結果が導き出されるような、《言わば幻想の社会です》ではなく 《一歩一歩あゆむ社会 そして どこかで――現在の歴史の段階としては――コギトの優位を感性と同じ位に置くようにどんでん返しが起こる社会である》と考えています。  《三つのプロセス》については  ★ 第一に自分の無知を悟り、第二に満足のいく師を見つけたとしても、この時点では実はまだ十分ではない。師を見つけたソクラテスが、対話を通じてそうしたように、「学び」には常に、師をその気にさせるという技術が必要になる。  ☆ と規定されるとき 《師》については 次のご見解のほうに傾きます。  ★ 近代においてここに問うべき師は、社会という場の存在が相応だろうと言われます(制度はその社会の要請によって生じる)。けれどももし、それが個人となったならば、師は、小さな神である自分という事になるでしょう。  ☆ 【Q:ひとは だれから おそわるか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4974759.html  で問い求めたようにそしておっしゃるように 《師は おのれです》。《ひとは 自分で自分からおそわる》です。ですから このときこの三つ目のプロセスがわたしの場合 先頭に来ますから あとの二つは 順序もそしておそらく内容も どうでもよい(どうでもあり)と考えます。どのようにでも ひとによって場合があり そういうプロセスを採る場合もあるという意味です。  従って  ★ やはり第三のプロセスである、(自分の学びに対して)相手をその気にさせることができるかどうかという力(あるいは技術)になるでしょう。世間ではこれを「学力」と呼ぶように思いますが、個人の《赦す・赦さない》という行為は、この力の使い道を尋ねていると思いました。  ☆ 質問を立てているからには 《この力の使い道を尋ねている》のですが それは上の結論に従うなら 《一人ひとりが おのれに尋ねているだろうから その成果を出し合おう》と言っています。    ★ ・・・率直に書くならば、「お前らもっと、勉強せえよ」という、どうもその下世話な声が聞こえてくるからなのですが、どうでしょうか。  ☆ もしこの趣旨にのっとってお応えするなら ひとつ前までのこれまでの議論とは少し次元をたがえていて 《わたしは どういうわけか 人間の存在として 癒やされている。この問題・この現実を 知って欲しい》と腹の底あたりで言っているでしょうね。ま 下世話と言いますか そういうわたしの煩悩ですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そしてプラトン曰く、学びは「それについて知らないはずの」自分が「それについて知っているだろう」師を選ぶという――極めて不条理なプロセスが発端となるそうです。  この不条理さが可能体の正体なのですが、  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについては――つまり特に 《この不条理》というところですが―― 保留とさせてください。パウロは 有史以来 神の霊はいたるところで見られる(感得しうる)という意味のことを言っています。そのことと この《この不条理》とが絡み合っているように感じていますが はっきりしません。いつお応えできるかも分かりません。  《〈赦す・赦さない〉は われわれ人間の能力にはかかわらない》という或る種の理想を たしかにすでに掲げていると思います。論証したいということのようです。たぶん。(ちょっと たとえは悪いですが 山の向こうかどっかから襲ってくるゲリラのような回答に出遭って その流れに乗ってしまったかも分からないので)。

noname#100121
noname#100121
回答No.54

bragelonne様、こんにちは。 遅くなりまして大変申し訳ございません。 そしてHidocci様、あたたかいお言葉を頂戴したばかりか拙文におつきあいくださることに心より嬉しく思っております。 皆様のこのたびのご厚意に感謝申し上げます。 >その被害者の遺族である父・母・妹でしょうか この人たちは そんな加害者の闖入によって何も生活が乱されることはない。こう思われてしかたがないのです。人生が乱されても仕方がないのは 加害者のほうです。 はい、理屈の上では加害者のほうが人生を乱されても仕方がないのでしょうが、現実は加害者のみならず被害者も人生を乱され、被害者意識の分だけ一層辛く苦しい人生を送ることになるのかもしれません。 加害者は「更生」というリセットがあるのに対し、被害者には何の罪も無いのに「ヤラレ損」ですから。 >何か ほとけごころがあり過ぎるからなのか。感情移入がゆたかすぎるのか。度を過ごしているような感じなんですが みなさんはいかがお考えになるでしょう? >全体の見方を少し外しても 何かそういう感じを持つのですが どうでしょう? なるほど、そうなのですね。 私は逆にあの書を読んでも、被害者の壮絶な苦しみや辛さを真に推し測れていないのだろうと思うと無力感を感じましたし、仮にいかなる思想や思考にふれたとしても、あの被害者ご家族には何の気休めにもならないのではないかというのが正直なところです。 気休めになるというなら、やはり加害者からの相応の謝罪と賠償(就労や精神的ダメージに対する)が実現して、はじめて耳を傾けることが出来るのかもしれません。 ちなみに私の上の子がちょうど加害者、被害者双方と同年齢ですから、bragelonne様よりは感情移入しやすいケースだと思っております。 加害者の親も殺人犯にするべく育てたわけではなく、「俊雄は父親を反面教師に、子どもは理想的な環境に育てるべきだと考えた。そのために<育児書を読み、真綿でくるむように>して育てた。もちろん<物質的には、子どもの要求を先廻りして満たしてやる>ような、何不自由のない生活を与えた。(p27)」のでした。 良かれと思って子にしてやったことがいつしか度が過ぎたり親のエゴの押しつけでしかないことは私自身が大いに認めるところです。 しかもその加害者の親の親がまた私生活で自堕落だったことを鑑みれば、その親もまた謹厳実直な生活を貫くようになったのも無理からぬことで、どこまで遡れば良いのか…ということになってしまいます。  >これだけの予算額の違いを突きつけられますと、被害者には非常に酷な社会になっていると考えさせられました。 はい、仰る通りでして、予算額のみならず法制度においても被害者には不利なこともまだ少なくありません。 たとえば「訴因の設定」についても、日本ではまだ被害者には権限がないため関与が一切できませんから、検察官の決定次第というのが現状です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B4%E5%9B%A0 端的に言えば集団リンチの暴行の末被害者が殺害された場合、 被害者家族は殺人での起訴を願っても、検察官の起訴に一任されるために、例えば傷害致死で起訴した際にはどうする手段もありません。 せめて審理の申し出でも出来たなら…でもそうすると、被害者家族の大半が殺人罪で起訴を願うこともあり得ます。 このような法整備はなかなか難しいところで素人が談義するもの限界がありますので、その面からも予算額の大幅是正は求められてしかるべきと考えております。 >その後アメリカは「厳罰主義」に転換したそうでございますが。 日本が方針転換しないのは何故なのでしょう。 >犯罪者が社会的存在(定義が曖昧でございますが、自分で生活が可能という程度でございます)にもなりえること、また現在少年院にいる人にも幾ばくかの希望は与えられるとも思うのです。と申しますのも、この加害者も、弁護士になり、幾人かの無実のひとを救ったかもしれません。そう考えますと、社会的に認められるうるものに、自分もなり得るのだという希望を与えられるとも考えられるからでございます。 はい、そうですね。 彼等の「更生」の芽と希望をつむことはあってはならないとも思います。 被害者に深く謝罪する加害者も相応にいるからこそ、ご教授下さった「修復的司法」のような試みも始動し始めているのですね。 >これらの「関係の絶対性」というものから逃れる方法を考えてしまいます。ですが、この逃避が可能とするのは、逆に社会なるものに全く関与していない“孤立”した場合、もしくは、各自が置かれた状況に全く無関心の場合のみであるかと考えられます。 はい、今私は傍観者の立場ですが、いつ加害者の親、被害者の親になるとも限りませんし、または加害者本人になり得るかもしれません。 結局は事件を経験しないことにはどうにもならないことなのだと思うとやはり虚無感に襲われます。 >一昔前ならば、ジャイアン役がイジメをし、スネ夫役がコバンザメと化し、ノビタをイジメるという構造だったのですが、学級崩壊が進んでしまったのでしょうか。現在では、ジャイアン役もイジメの対象にもなりうるのだそうです。すみません。話が飛んでしまったようです。 「ドラえもん」のお話ですね。 中国では評判がすこぶる良く、フランスあたりでは他力本願だとアジアほど人気がないと小耳にはさんだことがありますけど、どうなのでしょうね。 たしかに親として「ドラえもん」は「クレヨンしんちゃん」ほどには抵抗がないです。 後者はたしかスペインあたりで放送禁止になったとか? そうですか、現在ではジャイアン役もイジメの対象になってしまうのですか。 作中ではのび太をいじめることによってジャイアン&スネ夫がやっつけられ、でも結局姑息な手段で?復讐を果たしたのび太も結局は因果の報いを受けるというワン・パターンですよね。 「喧嘩両成敗」的なところが長寿の秘訣なのでしょうか。 bragelonne様の「倫理的な意味での因果応報説は まちがいである。または 応報であるかどうかは 人間には分からないと言わなければならない」がいかにも抵触しそうな漫画(番組)ですね。 そうすると不思議と「クレヨンしんちゃん」が妙に「健全」に思えてくるから不思議です?! 誰でもイジメの対象になるというのはある意味恐ろしい話だと思います。 ジャイアンがいじめられていない頃は、ジャイアンに対するルサンチマンを原っぱで隠れて皆で晴らしていたはず。 それが、ジャイアンも一様にいじめられるようになったということは、皆全員に対して人間不信に陥りかねない、もしくは人間関係がとても希薄になってしまっているということでしょうか。 良くわかりません、すみません。 >☆ ベルギーの被害者少女が 事件は関係ないんだと宣言して ボーイフレンドと会見したとか。そうすすんで行って欲しいです。 >★ 北朝鮮 >☆ を同列に語れるのか?! とお叱りを受けるのも覚悟の上で 《ゆるす・ゆるさない》の能力は どうも 人間にはないように思われます。抵抗・批判・損害賠償そして罪の償いとしての制裁・更生 これらはすべて 当然のこととしてです。 このbragelonne様の≪ゆるす・ゆるさない≫の論理の前には「痴漢、レイプ」「北朝鮮」も同列に語れるのだと思いますし、被害者の心の拠り所の考えとしてお示し下さるのは掛け値なしに得難いことだと私は思うのです。 但し、当の被害者がどう捉えるのかといった点については決して第三者は言及し得ないし、当事者になってみないことには真の気持ちなど理解しようがないと思います。 ですから「学習が足りない」「周囲の支援が足りない」ということにはなり得ないと拝察致しておりますが。 >――あぁ 言ってしまいました―― では、ましゅまろも~。 もしも、我が子が殺人を犯し加害者の親になったとしたら、死ぬまで被害者家族に謝罪し続けるのは当然ですが、その一方で秘かに我が子の味方というか、精神的な盾となります。 頼ってくるかはわかりませんが。 で、逆に被害者の親になったとしたら。 そうですね、先の事件の被害者少年は包帯をグルグル巻きの全身ミイラ状態で自宅に戻ってきた惨状だったそのような場合。 主人が絶対相手を殺しに行くはずですから、当然殺人ほう助をすることでしょう。 とは言うものの、当事者になってみないことには全くわかりません。 これまたbragelonn様から「学習が足りない」と仰られそうですね。 >ここなんですよね。もしわたしが 《 sans coeur 》と呼ばれるとしたら ここなんです。親の死に悲しくはなりましたが 泣きはしなかったです。 「母のcoeur」を別質問「女性の哲学者が少ないのはなぜ?」にこのあと殴り書きしますから、気が向いたらお目通しをお願い申し上げます。こちらへのこじつけ拙文ですので不自然で恐縮なのですが。 >☆ これは 《広義の生理現象であること》が 経験現実であるということです。理念も この経験現象に基礎をおいていると言えると思います。《良心の呵責》というのは 観念の想像〔だけ〕ではなく 胸の生物物理的な現象だと思います。極悪人にも同じように起こるだろうと。だったら理念は 空想ではないのではないか。 ≪良心の呵責≫は人の感情と意思であり、それがもとで胸がドキドキする生物物理的な現象を引き起こすということですか。 嘘発見機もそのような用いられ方でしょうか。 結局のところ信憑性は定かなのかどうか。 ≪理念≫が空想でないというのは、≪理念≫を現実に体現し成し遂げた時ではないのでしょうか。 例えばフランス革命時の時のような。 >☆ ほんとは 英雄にあやかってダルタニャンと言いたいところでしたが  >モンテクリスト伯は ドラマで見たのですが なんと重い復讐劇でしょうか。生涯をかけてですか。 bragelonne様も英雄がお好きなのですか。ダルタニャンになさればよろしかったのに。 もしNHK衛星で放送された仏ドラマでしたら、Edmond Dantes役のGerard Depardieuのブサのせいです。 原作(和訳)を中学生の頃読んで以来、思い入れ激しく凄い美青年をイメージしていただけに、あの彼には全く萌えませんでした。 ドラマのハッピーエンドも違和感ありました。 しかしこの作家は力量もさることながら、人生も小説を地でいくような破天荒ぶりだったのですね。 >もっとも そもそもにおいて自由を見ていたように その自由への変身をも説いています。それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。 >また 模倣欲望を実行している最終の過程で 《流行》現象の反面には起こると思われるように 《みんなと違いたい願望》が 同時にこれも はたらいてくれるとよいとも考えられています。 これは「臭い物に蓋をする」ということは、ひいては社会全体に動脈硬化をもたらすことになるので、時には≪異者≫≪影≫とのコミュニケ―ションが豊かな文化を生み出すということでしょうか。 >第三項は それがいわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくにそれを《聖化》すると言います。呪われて去った除け者を 生け贄と見なし それに聖性を付与する。 >したがって今度は この《聖なる第三項》を みなであがめる。このことを通して あらためて秩序と安寧をたしかなものにする。 何だか閉塞感に満ちた社会全体をリセットかけるような印象を受けました。 ギリギリ午前中でしょうか?!

bragelonne
質問者

補足

 mashumaro2 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  対話・鼎談が 相撲で言えばガップリ四つ 序盤から本論に入って来たと思いました。ただし 残念ながらまた或る意味で失礼ながら わたしの立ち位置はすでに申し上げたように腰が引けています。  今回は 主題の噛み合わせによりも この姿勢のほうについて説明してまいります。  総じて見た場合に わたしはまだ為政者の立ち場にそのまま立つものではありません。その意味は――なぜなら―― 共同自治の直接の責任者であれば 部分的には合理性のより少ない政策を採用しなければならない場合があり 時には悪との妥協を強いられることに甘んじなければならないと考えるからです。  言いかえると 哲学としては 理論的に思いっきり自由に考えておくべきという心構えでいます。  《第三項の排除》については 今頃言うのもいけませんが 《いけにえ=その聖なる第三項化=それの秩序のための〔宗教〕儀式化》を おおむね歴史事実として認めますが その理論を わたし自身が主張として打ち出しているというのではありません。  イエスがキリストとしてわざわざ生け贄となったのは 初めに《原罪》が設定されていたからです。マッチで火をつけておいて その罪のあがないを十字架上でおこなうことによってすべて消した。こういう物語の構造は 後ろ向きの対処法です。  問題は ウソという或る種の意味での原罪によって ひとは誰もが こころに棘が刺さってしまっている。つまり死んでいる。このとげは抜かれたという物語のほうが つまり生命のおとぎ話のほうが 大事です。つまり生け贄説は どうでもよいという意味です。  理念が 経験現実にもとづいているというのは ひとがこのウソについてウソはウソだと分かっているという経験のことです。やましさを感じるから 理念は実現しているというわけに行かないのは もちろんです。でも知っているのです。後ろめたさの感覚を捨てようとする自由意志も人間には起こります。そのときも その行為がうそ偽りであるのを知っていることまでは 現実だという意味で言っています。  そのあと 犯罪心理学だか何だかいろんな研究成果にもとづいて 具体的な政策を敷くのは いまは別の段階だと思っているという意味です。  ただしわたしも直観派でして 現実の思想を考える生活哲学と あらゆる可能性を捉えてすべての論理を観念的に導いておく理論哲学との二つがあるとすれば わたしはその中間でしかありません。  戦後という時間に限ってみて――なぜなら 一応平和の時代で民主主義になったという時代を言おうとするのですが―― 女性の理論哲学者はいないのではないでしょうか? 出ないと言おうとするのではなく 少ないのは何故かと考える方向に行ってしまいます。  ただし 人間交通の問題 他者とのまじわりの問題 ここにおける《こころ》は 上の哲学をめぐる分類や性差にはそのまま対応していないように感じます。理論哲学とて 生きた人間のこころとのつながりや整合性を結局は 基礎にしているはずです。  そのこころですが ゆるしの問題に入ります。基本的なこととしてお聞きしたいのですが 被害者側は 加害者による謝罪〔と相応のつぐない〕をむろん求めますが それが言い出されなければ 最終的に 事件は済むものではなく こころも癒やされない――というお考えでしょうか? 加害者の謝罪を聞かなければ 何も済むことはない――というお考えでしょうか?  罪の行為は どこまでも批判しますが――ということは そのあやまちをみづから認めるまで批判を続けますが―― 被害から癒やされるのは その加害者の謝罪を聞くかどうかとは別だとわたしは思っています。つまり 犯人の発言や状態とはまったくかかわりなく 被害者側の人たちも こころが《完全に》癒やされることはあり得る――こう思っています。  この姿勢で どうも見解が分かれて来ている。こう感じました。それと 具体的な政策・施策をどうするかをめぐっての問題もありますが それにはまだ入り口の段階にあると思いますから 上の《こころの癒やし》をどう捉えるかの問題が ほとんどすべての出発点として 違いを生じさせているのではないでしょうか?  たしか四回連続の仏ドラマだったでしょうか。たしかに原作とドラマ化とは違うということでしょうね。  《 Un pour tous, tous pour un. 》の精神に反すると見られることを こころの問題で言ったかも知れません。《ひとり》がその個人としてすでに完全に癒やされるという事情を言おうとしています。  いじめ役さえいじめられるようになったというのは 時代がいい方に変わるしるしとして前向きに受け取れることではないでしょうか?  補足欄いっぱいにて。

noname#131236
noname#131236
回答No.53

>確かヘーゲルだったでしょうか、「歴史が教えることは、 >為政者や民衆が歴史から何も学ばないことだ」という言葉 間違っています。

bragelonne
質問者

補足

 sanagi01 さん ご投稿をありがとうございます。  《いやいや 人びとは歴史からじゅうぶん学んでいる。それでこそ 曲りなりにも民主主義の世界が導き出されたのではないか》――こういう趣旨のご見解でしょうか?  そういうことでしたら わたしもそしておそらく Hidocchi さんも同意しますし 同意されると思います。  と同時に 《取り返しのつかないあやまちが起こってしまった。その加害者・被害者そして関係者さらに一般の人びとを含めわれわれは まだまだその歴史の経験から学んでいないようだ》の趣旨は それとして 言えると思います。どうでしょう?  なおヘーゲルの文章を探してみました。《時代によって違う。過去の時代から安易に学ぶということも出来るとは限らない》という意味合いもあるようですね。  ▲ (ヘーゲル:歴史哲学) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  人々は君主 政治家 民衆に向かって 歴史の経験から教訓を汲むべきだと説く。  けれども 経験と歴史の教えるところこそまさに 人民や政府がかつて歴史から何ものをも学ばなかったということであり また歴史からひっぱり出されるような教訓に従って行動したということもなかったということそのことなのである。  各時代はそれぞれ特有の境遇を有し それぞれ極めて個性的な状態にあるものであるから 各状態の中で各状態そのものによって決定されねばならないものであり またそうしてのみ決定され得るものである。・・・  (序論・第一篇[一般的序論]・一[歴史考察の種類] ( b )[反省的歴史] ( bb )[実用的歴史]   武市健人訳『歴史哲学』上 1971 岩波文庫版 pp.58-59)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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