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五木寛之さん、仏教哲学がわからない

otherwindの回答

  • otherwind
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回答No.6

私は五木寛之さんではないので五木寛之さんのお考えは知りません。 知りませんが、五木寛之さんに限らず人間は誰もが全ての著作で一貫して整合性のあることは言ったりはしないと思います。全ては文脈次第でしょう。 ですから文脈が分からないとなんとも言いにくいと思います。 たとえば、親が先ず子供に法律違反なことはしないようにしなさいと言ったとします。その文脈では、そのときにには、誰が聞いても特におかしくない発言であるとします。その後、その子供が何らかの理由で犯罪をおかしてしまい刑務所に入っているときに、同じ親が面会に行ったとして、同じ人間なのだから終始一貫、整合性をもって、犯罪を犯したことを非難せよ、叱責せよ…とは、なりません。整合性は全くありませんが、「いやあお前のおかげで刑務所の中が見学できたよぉ、まあ、哲学書でも読んで勉強したら良いよ」くらいのことを言っても、決しておかしくないと思いますね。 同様に、五木寛之さんが、努力一般を、抽象的、普遍的に一貫して否定して、戦後、満州から引き上げてくるときもその後も、努力しないで来ているとは、思えません。働かない(小説とか本を書かない)とか、していないと思います。 そのことは、五木寛之さんがうそつきだということにもならないでしょう。 たとえば、人間には、努力ではなんともしがたいこともある、そういう自分の限界を知るということも大事だったりするかもしれない…というだけのことではないでしょうか?だけと言いますが、人間には我執があるわけで、自分の限界を知るというのは理屈では言えても、実行は難しい、もしかすると不可能かも知れませんね。でも不可能と知っても、人間には、努力ではなんともしがたいこともある、そういう自分の限界を知るということも大事と言ってはいけないとか、間違いとか、うそにはならないですよね。 たとえば、自分の親が寿命を全うして、老衰で亡くなったというときでも、子供は皆、ちょっと鬱になるのが普通でしょう。それは、人の死を自分のせいだ、つまり、自分は他人の死を支配できると無意識に信じているからと考えられますから、考えようによっては傲慢なことです。しかし、人は皆そのような幻想、自分の思うとおりになるという幻想、全能感を多かれ少なかれ持っているものでしょう(健康な自己愛)。 何か思うような結果が得られないとき、人間は自分の能力に限界があることは認めずに、周囲が悪い、環境が悪い、あれこれ別のことで忙しかったからだ…という屁理屈をつけて自我を防衛するのが普通です。それは悪くありませんというか業というか、もう人が人である病で、治りません。(程度問題で完全治癒は無理)。 けれども、自分の親が死んでしまったのは、自分が子供のときに親なんていなければ良いのだと思った念力で死んだというような幻想を持っていしまうのは自分にとってとても辛いことです。自我の防衛機制がバックファイアしてしまっています。ですから、そういう文脈では、必ずしもなんでも思うようにならない、努力が報われるとは限らないと思ったほうが苦は減少するとは言えないでしょうか? 最後に仏教哲学と言ってしまうとあまりに広くなりすぎ、話が発散しすぎになると思いましたので、その点には触れないことにします。そもそも仏教哲学って何?という定義があいまいすぎると思います。

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