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ADHDって病気?
- ADHDについてのTV番組を見て、自身の症状と一致することに気づいた。
- ADHD診断ツールを試した結果、自分がADHDに該当することがわかった。
- しかし、自分が病気であると思うことに抵抗がある。病気として認めることが負けだと感じる。
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>ADHDは病気なんかではない。 その通り、病気ではありません。病気ではなく障害の一種です。病気は治療が可能ですが、障害はそれと上手に付き合い、必要な支援を受けることで社会生活を円滑に営む性格のものです。 例えば、私は最近、老眼がひどくなってきました。これは病気ではありません。受け入れるしかありません。しかし、必要な機器(老眼鏡、拡大鏡)を使えば従前通り、社会生活を営むことができます。 しかし、それだけでは足りないでしょう。「私のような老眼の人間は文字が見えにくいから、駅やバス停の時刻表表示を大きな文字にしてくれ」と頼むことは、何も恥ずかしいことではないし、みんなが生活する世の中で必要なことだと思いませんか? 努力は大事ですが、老眼の人間がいくら努力しても、見えないものは見えません。私の友人に赤緑色弱の人間がいます。彼がいくら努力しても、これは治らないし、読みにくい表示は読みにくい。「改善」はできないのです。だったら、周りの環境を改善すべきでしょう。 あなたは、下半身麻痺で車いすの人に向かって、立って歩く「努力」を要求しますか? 車いすを使えば移動ができる。そして、社会の環境を改善すれば(例えば階段の代わりにスロープをつける、エレベータを設置するなど)社会生活が営めるようになりますよね。それを求めることは「甘え」でも「負け」でもありませんよ。 ADHDも同じ事だと思いますよ。 ADHDは、様々な現象が個別に現れます。あなたのように耳から入る情報が理解しにくい人もいますし、計算能力が極端に低い人もいます。また、文字情報が理解しにくい人もいます。その上、最近一般に知られるようになってきた障害ですから、まだまだ周囲の理解は乏しいのも事実です。 だとすれば、ADHDの人が自ら「こういう支援が必要なんだ」と訴えることは、意味があることだと思います。ですから、私はその人がやっていることは大変立派なことだ思います。
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- acorn_001
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ADHD(+その他の発達障害)の診断を受けている者です。 私にとってのADHDは間違いなく『障害』です。 ですが、airi_keiicさんの意見を否定する気はありません。 どうやらairi_keiicさんにとっての『障害』は”能力の欠如”を指すように読み取れましたが、私にとっては『障害=少数派のやり方故に起こる困難』を指します。 つまり、私にとっては障害と書きましたが、同じADHDでも『障害』になっている人と『特性』に過ぎない人に分かれると思います。 ADHDと同じ診断名が付いていても人によって症状の現れ方は違いますが、例え全く同じ症状を持つ人が複数いたとしても、所属する環境が違えば『障害』『困難』と分かれてきます。 発達障害(ADHDもコレに含まれます)は絶対的な障害とは違い、環境次第では『特性』になり得るものです。 その”環境次第”ですが、自分の特性を十分に把握し、自分に合ったそのやり方を認めてもらえる環境の事だと思います。 世間一般で”健常者”と呼ばれる人達がADHD者に合ったやり方しか認めてもらえなければ、それは限りなく非効率な方法ではないでしょうか? それと反対の事、 つまり、ADHD者に非ADHD者向けのやり方を強要されるから『障害』になっているのだと思います。 私にとって 「ADHDです」と公言する事は結果を出せない事への言い訳ではなく、私に合った(大多数の人とは違う)やり方を認めてもらう為の説明です。 例えば、かばんを持つ手を左手に強要されたとします。 その状況で、何か書類に記入する事になりました。 多くの人は右利きなので、かばんを持たない手を十分活用できます。 ところが、左利きの人にとってはどうでしょう? 字を書く手がかばんでふさがっているのですから、利き手でない手で苦労して汚い字で記入しないといけません。 でももし「私は左利きなのでかばんは右手に持たせてください」と要求でき、それを認めてもらえたら?? 『書類を書く』と言う目的は達成できますよね? 発達障害の場合は日常的にこのような事が起こっているのです。 「障害だから出来ません」 だけでは自分の能力に限界を設けてしまうだけかも知れませんが、目に見えない障害だけに、違うやり方を要求する根拠として「障害」の言葉を口に出す事は悪いことではないと思います。
お礼
返信が遅れてしまいもうしわけありません。 「ADHDです」と公言する事は結果を出せない事への言い訳ではなく、私に合った(大多数の人とは違う)やり方を認めてもらう為の説明です> なるほど自分も左利きで、部活入りたてのバスケのレイアップ練習の時に皆と同じように右側から並ばされてプレイさせられたときに「左からいってもいいですか。左利きなので」といったことがあったのを思い出しました。 「ADHDです」と公言することはこれと同じだという見解があるのですね。貴重な見解をありがとうございます。とても参考になりました。
- reup_001
- ベストアンサー率16% (8/50)
質問者様 No.2回答者様 NO.1です。 感想になりますが、「障害者の自己定義」ですね。 「障害をもつ」ということをフラットに捉えていない自分に気づかせてもらいました。 未熟な私には、精神を理由にさまざまな差別を受けるのはしょうがないとしても、 大事な場面で軽視されるのはやはり耐え難いんですね。これが現実に見えます。 ですが、精神障害の場合は「自分への逃げ」、に繋がりやすいので、 気合いでなんとかいける間は「気合い」と「慣れ」でがんばるぞ!と思ってしまいます。 自分のハンデを人に認識してもらうのは勇気と覚悟が必要です。 ハンデではなく、特性と捉えてもらうには、努力が必要かも知れませんが、 個性として自信をもてば、変わっている人のほうが、希少価値? があります。 「個性ではなく、障害」と言われれば、本当にそうです。 で、このへんは社会的な正論ではなく、本人の意志を尊重すべき、 デリケートな問題であるということを前提にさせてもらうと。 白髪で体が言うこと聞かなくなれば、又違う見方ができるかなと思います。老化と障害は別だと思います。病気と障害はより近い感じです。 すでに、中年ですが、私がご質問者の頃から、こう思っておりまして、 失敗は数多くありますが、経験もその数だけさせてもらいましたし。 若い人の話を聞くといろいろと心配になりますが、心配をぶつけて見つける結論には、満足したことがありません。 おまえは、間違っていない。がんばれ。 をどう伝えるかを考えているつもりです。 ご要望の反対意見も出せずに、しゃしゃり出て、申し訳ありません。 長文失礼しました。多謝。
お礼
返信が遅れてしまい申し訳ありません。 いえいえ、賛成、反対意見共にたくさんの意見が聞きたかったものですから大変参考にさせていただいております。 馬鹿と天才は紙一重みたいなところがあると思うんです。 もちろん自分が天才だとかいう意味ではなく、そういうことって世の中にたくさんありますよね。 反則ギリギリのプレーも、評価する人間によって「巧い」と評されたりするみたいに。 なのでこの回答を参考に、結局のところ「個性」か「障害」かは各々の判断によるものが大きいということがわかりました。 僕は自分で自分を「個性」と強く判断していた。 ただ自分のことを「障害」と判断する人もいるし、他人が僕を見て「障害」と判断することもある。 そんな結論にたどり着きました。
- reup_001
- ベストアンサー率16% (8/50)
私も賛成です。集中力がありすぎる。他人との距離間が違う。 才能といえば才能だし、自分に与えられた個性といえば個性。 個性を活かして幸福になる権利は誰にでもあります。 精神病はほとんどの場合に社会的なバランスにより評価されているような気がします。縄文人は、現代から観たら全員精神病だろうし、都会人は、田舎ものの私から観れば、ほとんど人間不信社会の行動様式をとりいれてしまった病気だと判断も可能です。もちろん自分の世界へ適合する方が近道だとは思いますが、自分を精神病と断定すれば、その瞬間から精神病です。 私も片づけはできません。ADHDどころか、分裂症のほとんどの症例に一致します。ですが、世間的にはアイディアマンとして通用していると思います。 他人や社会の評価は間接的に参考にはしますが、直接受け止めるのは善し悪しだと思います。専門家の意見ほど慎重に聞くようにしています。専門家ほど世間が狭い傾向にあります。お医者さんの診断は社会的な信用をえてはいますが、自分のことを本質的に理解できるのは身近な人なのではないでしょうか? 一人で生きているわけではないので、自分を理解してもらうようにつとめることで、落ち着きはでるでしょうし、余計な心配はしなくなると思いますよ。 思いつくままに失礼しました。
お礼
早速のご回答ありがとうございます。 精神病はほとんどの場合に社会的なバランスにより評価されている>自分も同じ考えです。同じ人間であっても住む場所やタイミングで周りからの評価が変わり「病気」と判断されているように思います。 ADHDどころか、分裂症のほとんどの症例に一致します>精神病の診断を受けると、やはりみんなそれぞれ何かの症状に一致してしまうと思うんです(定義があまい、又は曖昧)。 自分のことを本質的に理解できるのは身近な人>とても参考になります。やはりお医者さんだけでなく自分や周りの人の判断が重要だという解釈に自信がもてました。 また、ADHDに詳しい方、又は自分はADHDで僕の考えとは反対意見の方などの意見も聞いてみたいです。
お礼
その通り、病気ではありません。病気ではなく障害の一種です。>なるほどやはりそうでしたか。TVでは病気とは一言も言ってなかったのかも分かりません。僕が勝手に脳内変換して解釈してしまっていたのかもしれないです。 あなたは、下半身麻痺で車いすの人に向かって、立って歩く「努力」を要求しますか?>本人にやる気がなければ、僕から要求することはないです。ただ自分がなって、医者に「回復の見込みは0です」と言われても僕は立って歩く努力をします。 ただ勘違いしてほしくないのは、これはもしこの例だったらこうするというだけで、 インフルエンザを気合で治せとは言いませんし、自分がなってもお医者さんの言うとおりにするでしょう。 ADHDは、様々な現象が個別に現れます。>この個別の現象なるものが、誰にでもあるものなのではないかというのが最大の疑問です。これですと僕が思うに、世の中の人のほとんどがADHDです。 耳から入る情報が理解しにくい人もいますし、計算能力が極端に低い人もいます。>みんなそれぞれに自分の不得手な部分と共に生きていると思います。ですが自分たちだけこれらを総称してADHDという名前をつけた上で自らを弱い立場におき、周りからそのことで批難されることを回避しようとしている。そういう風に映ってしまうんです。 そもそも世の中、「出来ないこと」自体に批難する人は少ないのではないかと思います。 TVの人は「綺麗に書類をまとめられない」ようでしたが、問題は「綺麗に書類をまとめられない」事ではなく「それなのにオフィスワークの仕事に就いたこと」ですよね? 今は自分の出来る仕事に就くことで改善したようです。 これってみんながやってることですよね?みんなそうやって仕事を選ぶものだと思うんです。 「こういう支援が必要なんだ」と訴えることは、意味があることだと思います。>その通りだと思います。ですから、自分だけ特別ADHDと名前をつけることはないと思うんです。 「目が悪いので眼鏡が必要です」 「私だらしないもんで片付けだけは出来ないのでやってもらってもいいですか」 「車椅子なのでスロープをつけてください」 「僕は馬鹿だから説明されてもわからないんで実際見せてもらってもいいですか」 ですが、 「ADHDだから片付けられません、でもこれは仕方ないんです」 これはどうしてもひっかかるんです。