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日露戦争の旅順要塞攻略

?橋 昌也(@fudousin)の回答

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回答No.7

もしかすると、質問者さまの記憶はこれでしょうか? (大意のみ、適度に略しています。) 第一回のあのばかばかいい総攻撃を立案しいたのは、乃木・伊地知のもとで参謀副長をつとめた大庭二郎であった。 しかしながらこの大庭案による奇襲・強襲の銃剣突撃法は、こまかく見ていくとまるっきり無意味な作戦だったとも思えない。 かれらの先頭の一部は、すさまじい損害ののち、なんと望台(旅順市街地を見下ろす大地)までたどりついているのである。驚嘆すべき勇敢さというほかない。無数の保塁群をすりぬけ、ともかくも望台までたどりついたという事実は、事実として存在している。市街地は無防備であり、ステッセルの司令部を占領できたかもしれない。大庭案がこれを目的としたものである以上、この「事実」を得たという点ではまるっきりの荒唐無稽な案であるともいえない。 この部隊は、金沢の第六旅団を引きいる少将一戸兵衛の兵であった。かれらは、八月二十四日の午前三時過ぎに望台に達したのである。 かれ(一戸)は新鋭の兵力の応援があれば望台はとれるとみた。すでに第十一師団がそばに来ている。夜があけ、彼は午後二時を期し、第十一師団の突撃隊とともに望台の西北高地に突撃するつもりであった。これは可能であった。 ところが、乃木司令部は、退却を命じてきたのである。一戸は「いまにして攻撃を中止すればこれだけの死傷をだしたことがすべてむだになる。望台はとれる。わが旅団独力をもっても攻撃を続行したい」と悲痛な意見具申をしたが、ついに容れられず、占領した望台をすてて退却した。 一戸は謙虚で無口な男だが、このときばかりは「乃木軍司令官の気持がわからない。なぜ状況に一致しない命令をだすのだろうか」と声をはなったというが、ともかくも乃木軍司令部がやった最大の愚行は、この第一回総攻撃において強襲策をとったということよりも、前線がどうなっているかも知らずに、そのあまりにも大きな損害におどろいていっせいに退却せしめたことであった。 この時期の満州軍総司令部の参謀たちの一致した意見では、 「第一回で獲れていたのだ」ということであり、   (以下略) 以上は「坂の上の雲」の『あとがき四』よりの抜粋です。

tai-gasa
質問者

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それかもしれません! 小学校高学年の頃の記憶であいまいでしたが、貴殿の回答を読み、そんな内容だったような気がします。ということは、私は「坂の上の雲」を読んだのだと思われます。小学生にはちょっと難しい記述や専門用語が多くて、読み進むのに難儀した記憶があります。 しかし、最強の主要堡塁群を突破して肉弾突撃だけで望台にたどり着いたとは人間業とは思えません。 望台は、盤龍山や東鶏冠山堡塁の背後に当たりますね。二百三高地も同様ですが、当時の要塞にとって背後を取られるのは死活問題です。 ところで、望台山上や望台堡塁を占領したとして、近隣からの集中砲火の中、そこに砲や弾薬を運ぶことは可能だったのでしょうか?敵は撤退する際には、常識として、砲の閉鎖器を外して使い物にならなくするはずです。ですから、望台にある敵の砲や弾薬を奪って~は通用しないと思います。 それとも、市街に突入してステッセル以下を捕虜にして、捕虜と引き替えにして要塞を開城させようとでも考えたのでしょうか? いずれにせよ、敵の中核堡塁を一つでもいいから奪取していれば、その後の展開は史実よりもかなり楽であったと思います。

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