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日露戦争 旅順包囲戦

 二百三高地奪取後、旅順艦隊の殲滅という目標はとりあえず達成されました。その後、東鶏冠山や二竜山等の東正面を攻撃し、多大な犠牲を払いました。  これにはどのような意味があったのでしょうか?降伏していないとはいえ、相手は動くことが出来ない要塞、遠巻きに包囲しておくだけではまずかったのでしょうか。旅順からの物資輸送の実現等、何かしらの目的があったのでしょうか。

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  • ithi
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回答No.1

takepan_toki さん、おはようございます。 確かに陸軍案では田村次長の竹矢来で旅順を囲む案が児玉次長になっても、踏襲されていました。本当は攻める気は陸軍にはなかったんです。だけど、海軍に旅順艦隊の寄港地として逃げ込まれたため、海軍が陸軍に泣きついたというのが本当です。急きょ第三軍が編成され、乃木大将が司令官になります。大本営から与えられた任務は旅順要塞を早く陥落させて、他の野戦軍と合流することでした。もちろん、ヨーロッパ式の要塞を陥落させるには不十分な準備でした。沿岸砲として有名な28センチ榴弾砲が配置されることになったのも、そのためです。 大本営も危惧していたのでしょう。あのままで旅順要塞が敵の要塞であると、敵地に残った要塞のせいで外交交渉の時完全占領がなされていない。と問い詰められ、賠償金や領土の割譲に大きな影響を与えるかもしれないからです。 旅順要塞 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6

takepan_toki
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ロシア占領のまま残置されていたら、確かに終戦時の交渉に影響する可能性はありますね。 唯でさえ曰くつきの遼東半島ですし。

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  • pri_tama
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回答No.7

>二百三高地奪取後、旅順艦隊の殲滅という目標はとりあえず達成されました。  まあ、本当は第1次総攻撃の前の前哨戦で確保した大孤山から黒井悌次郎海軍中佐率いる海軍陸戦重砲隊が観測射撃を敢行、耐え切れなくなった旅順艦隊が出撃し、黄海海戦が発生してこの時の被害で旅順艦隊は実質的には戦力を喪失しています。  黒井中佐は、当時はまだかなり危険だった気球(ただ砲兵が気球で敵地を観測・砲撃するのは、ナポレオンの時代から行われる基本戦術)に自ら乗った事も有るなど積極的に攻撃を行っております。 (なお気球は条件が良ければ、地上300mまで上がれます。⇒ 二百三高地(海抜203m)の存在意義って…。)  あと海面が浅い旅順港内では、爆散でもしない限り大破着底しても遠目にはその事が判別できないので、砲撃のみで殲滅出来たと言う判断は当時の日本軍には出来ないと思います。  そして旅順艦隊の艦艇の多くは、要塞の東方正面が持ち応えるのが困難となり、陥落が避けられないと成った時点で日本軍に鹵獲・即時流用される事を避ける為に、自沈したと言うのが最近の主流です。  また大型艦で唯一外洋航行能力を残していた戦艦セヴァストポリに到っては旅順港外に脱出、鹵獲されるのを避けるために旅順開城当日の1905年1月2日に沖合まで進み自沈しています。(日本軍は浮揚を断念します。)  なお要塞陥落後、沈没した艦船を引き上げ砲撃の威力を調査していますが、火災で前部弾薬庫が爆発し艦底浸水で沈んだ戦艦ポルタヴァ以外の戦艦に対しては艦上構造物への被害は甚大なるものの、艦を撃沈する為の船底・船殻への被害は軽微(お陰で1905年に次々浮揚に成功して日本海軍に編入出来た…。)だったと報告しています。 (当時の28cm砲弾は、戦艦の装甲に対して不発・早発、または弾体破壊による装甲貫通能力損失などが多発した様です。)  戦艦三笠が日本海海戦で100発以上の敵弾を受けても沈まなかった様に、日露戦争の時点では、戦艦の装甲は砲の威力に勝っていた様です。 (この教訓を元に、欧州では第1次大戦までに被帽付徹甲弾という別次元の威力の砲弾を開発し、巡洋戦艦を次々に撃沈すると言う悪夢が発生する訳ですが…。)

takepan_toki
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。当時の陸砲は対艦能力はあまりなかったようですね。 そんな砲(二八センチ榴弾砲)が元々は沿岸警備のために据え付けられていたというのも、何だかなぁな感じですね。

回答No.6

No.3.5です。 お礼を頂戴しました。 お礼に 「無力化」のかかる言葉は「旅順港」になります。旅順港に敵艦が入港しても、二百三高地越しに砲撃できる陣地が生存しているのであれば、東鶏冠山や二竜山をわざわざ落とさなくても良かったのかな? とありますが、 朝鮮半島及びその周辺にロシア軍が進出してくることを阻止するためには大量の兵員と物資を揚陸する必要があります。 輸送船団のの航行を阻害していたのが旅順港にいたロシア艦隊です。 ロシアが東鶏冠山や二竜山に砲台を設けたのは港湾に出入りする敵艦や市街地に接近する敵軍を砲撃することが目的です。 二百三高地から港内のロシア艦船を撃沈できても、東鶏冠山や二竜山の砲台が健在であれば日本の艦船が近づけません。 陸軍としては兵員や物資(武器弾薬、食料etc)を揚陸するのに港湾としての設備が整った旅順港が必要です。 兵站線を確保するには東鶏冠山や二竜山の砲台を無力化する必要がありました。 使い物にならない港湾を占有していても何の意味もありません。 旅順港攻略には、軍事的には東シナ海からロシア海軍を駆逐することと港湾を確保することの二つの目的があったということです。 旅順港が降伏した後もウラジオストク所属の艦隊は日本海に出没して日本軍との戦闘を繰り返していました。 バルチック艦隊や旅順の艦隊を殲滅しても日本海からロシアの海軍を完全に駆逐していた訳ではありません。 東鶏冠山や二竜山の砲台を放置していたのでは何が起きるのか予断を許さない状況だったことをご理解ください。 旅順港を占拠する日本軍が陸海から挟撃される恐れもあったということです。 蛇足 ロシアにはソ連時代を含めて今日まで冬季に凍結しない不凍港を確保するという願望(国策)があります。 東アジアだけではなくヨーロッパの北海沿岸でも頻りに南下政策を進めています。 先般、突然クリミア半島を併合したのもこの国策に基づいたものです。 日本の北方四島を手放さないのもこの国策の一環です。 日ロ戦争に先立つ日清戦争も元はと言えばロシアが朝鮮半島に進出してくることを阻止することが目的でした。 朝鮮半島という領土が欲しくて開戦した訳ではありません。 満州に傀儡政権を樹立したのも満州鉄道の権益を守るだけではなくロシア軍の南下を阻止する目的もありました。

takepan_toki
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 旅順もウラジオストクも、港湾で待ち構えていれば良いと思っちゃいましたが、そこに割ける艦艇なんて無かったですからね。

回答No.5

No.3です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 お礼に追加のご質問がありましたので説明させて下さい。 >二八センチ榴弾砲の射程内となった時点で無力化されたということにはならなかったのでしょうか? なりませんでした。 東鶏冠山や二竜山等の砲台が健在であれば包囲しただけでは砲撃の脅威は除去されません。 要塞内のロシア軍の考え方一つで砲弾が発射されてしまいます。 脅威を除去するにはロシア軍を降伏させるか物理的に砲台を破壊する必要があります。 要塞への補給を遮断してロシア軍を降伏させるだけの時間的な余裕がありませんでした。 砲台を完全に破壊できないまでもロシア軍を疲弊させて降伏させる方策がとられました。 準備が整わなかったこともあり歩兵戦に頼っていた結果大量の犠牲者が生じてしまいました。 二八センチ砲を追加配備しましたが体制が整う前に犠牲者を出してしまいました。 状況は異なりますがアメリカ軍の能力からすれば北朝鮮を何時でも攻撃できます。 言い換えればアメリカ軍の射程内にあるということです。 このような状態でも北朝鮮の脅威は除去されていません。 軍事的には北朝鮮が保有する攻撃力(施設)を破壊できますが、影響が大きいことから経済封鎖をして北朝鮮政府を降伏させようとしています。 旅順包囲戦に例えれば北朝鮮への補給を遮断して降伏させようとしていることです。 この補給を続けている中国やロシアを盛んに牽制しています。

takepan_toki
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 すみません、「無力化」のかかる言葉は「旅順港」になります。旅順港に敵艦が入港しても、二百三高地越しに砲撃できる陣地が生存しているのであれば、東鶏冠山や二竜山をわざわざ落とさなくても良かったのかな?と。勿論、両山陣地からの砲撃が二八センチ砲の陣地に届くのであれば話は別ですが。後は砲の射程外の遠巻きから囲っておけば、と。

  • jkpawapuro
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回答No.4

海軍としては旅順港の機能と旅順艦隊さえ壊滅してくれればよかったんです。 でも陸軍としてはそれだけじゃだめなんです。 まず旅順港を大陸への補給拠点として利用できるようにしたいんです。 満州の主戦線でロシアと対峙するには大量の物資弾薬が必要です。 そしてなにより旅順を攻める兵力です。 実戦では約6万4千人の兵力を動員したわけですが、要塞に5万の兵力が居るとなると、閉塞だけとなると3万くらいでしょうか? 奉天開戦では日本軍24万、ロシア軍36万で実際に戦ったわけですが、ここから3万の兵力を旅順に奪われていたら大きな痛手でしょう。 実際には旅順で戦死15000、戦傷44000ですので算盤が合ったかどうかとなると微妙です。ですがそれも結果論、当時としては一刻も早く旅順を落として旅順に奪われてる兵力を主戦線に回すんだと考えるのは当然かと思います。

takepan_toki
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに包囲しただけでは旅順港は使えなかったでしょう。ですが、旅順のお隣の大連にも良港があり、ここは日本の占領下でした。輸送はこちらからしても良かったわけですし、何故そこまで旅順に拘ったかのかがよく判りません。

回答No.3

>相手は動くことが出来ない要塞、遠巻きに包囲しておくだけではまずかったのでしょうか。 当時の要塞は砲台です。 戦国時代の城郭とは違います。 砲が健在であれば砲弾が有る限り機能(旅順港及び周辺への砲撃による防御)が達成できます。 旅順の港だけ確保しても大陸(満州)への侵攻する兵員を輸送する船団が近づけません。 旅順港内のロシア艦隊を殲滅しても、ロシアはバルチック艦隊を保有していて、これが旅順を目指して出港することが決定されていました。 この決定の情報を得て急遽始められたのが包囲戦です。 要塞を包囲して補給を絶ち食料が尽きるのを待つ戦法もありますが、日数がかかります。 要塞のロシア軍がバルチック艦隊が到着する前に降伏するという確証はどこにもありません。 日本海海戦でバルチック艦隊を殲滅していますが、当時は殲滅できりかどうか全く分かっていませんでした。 バルチック艦隊の一部でも旅順に入港させてしまえば、旅順港攻略を再度行う必要があります。 遠巻きに包囲しておくだけの作戦も検討されましたが時間的な余裕がなく、短期決戦に踏み切らざる得なかったということです。 >東鶏冠山や二竜山等の東正面を攻撃し、多大な犠牲を払いました。 当時の日本陸軍は近代的な要塞を陥落させた経験がありませんでした。 砲撃で要塞を破壊する戦法ではなく旧来の歩兵戦に頼っていた結果多大な犠牲がでてしまいました。 近代的に構築された要塞を破壊できるだけの砲も砲弾も用意されていませんでした。 手持ちの小口径の砲の弾丸も枯渇していました。 大口径の二八センチ榴弾砲を投入したのも歩兵戦で犠牲者が出たあとでした。 結果が分かっている現在、後日談はいくらでもありすが当時の日本軍としては精一杯の包囲戦でした。

takepan_toki
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 旅順港ですが、二八センチ榴弾砲の射程内となった時点で無力化されたということにはならなかったのでしょうか?

  • meido2010
  • ベストアンサー率15% (68/448)
回答No.2

日本海海戦の予備段階のため。でしょうね。 旅順艦隊を残していては、バルチック艦隊を迎え撃つ際に後ろから 旅順艦隊にやられかねない。海軍としてはそれはまずいと思ったの でしょう。その為には旅順艦隊を封鎖している間に旅順要塞を 陸軍が攻め落として、旅順の軍港としての機能低下そして艦隊の 崩壊を狙ったのでしょう。 ロシアはまだ極東に艦隊を編成できる軍艦を擁していました。 旅順から逃走した軍艦もいましたからね。 そうなると旅順港と旅順要塞をそのままにしていては、いつ反撃 されるか分からない状態が続くと踏んだのでしょう。 しかし、ロシア側もかなり疲弊していて食料、弾薬も底を尽き兵士 も疲労が目立った状態になっていました。 また、日本の第三軍の28cm砲の間断ない砲撃で要塞が一部崩落して きた箇所もあったようです。 ロシアとしてはバルチック艦隊の到着まで旅順要塞を守り抜き、そこ から反撃に出るチャンスを伺っていたのでしょう。 ですから、旅順を落とすか否かは日本の命運を左右する一大拠点で あったわけで、大事な作戦でもあったのです。

takepan_toki
質問者

お礼

ご回答有難うございます。 成る程、海軍としては旅順港そのものの存在を問題視していたということなんですね。 (あまり効果は無かったようですが)二百三高地越しの砲撃だけでは不十分、というか安心できなかった、と。

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