- ベストアンサー
日露戦争でなぜウラジオストクを残したのか
日露戦争では、バルチック艦隊は当初旅順に向かう予定で、 旅順が落ちたからウラジオストクに向かうことになりましたが、日本側はウラジオストクを占領、というのは念頭に無かったのでしょうか?それともウラジオストクを占領したらバルチック艦隊に打撃を与えられないので戦争が長引く、として占領しなかったのか、もしくはそもそもウラジオストクを攻撃するだけの戦力がなかったのか、それが知りたいです。 なにか本やサイトなども挙げていただけると幸いです。よろしくお願いします。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
北韓方面作戦計画では 鏡城付近まで軍を進め、その後は陸海軍の協議で前進を決定するはずでした。 http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai2/kindai-nitiro7.html 陸軍では準備は整っていましたが、 海軍はバルチック艦隊の迎撃で手一杯でした。 ただでさえウラジオストック艦隊の通商破壊に悩まされ、 ようやくウラジオストック艦隊主力を補足。撃破出来た状態です。 日本海海戦後のウラジオストック攻略は、 敵水雷艇攻撃によりこれ以上の艦隊消耗が予想されました。 実質、 水雷艇はこちらが近付かなければ脅威でない。 艦隊の居ない港湾は脅威でない。 と言う、安易な方向へ走ったと見て良いです。 また、 植民地ではないロシア帝国本土に侵攻する危険性は、 戦争の長期化と陸軍の大移動の可能性も考えられました。 その占領地の確保の可能性や 戦後処理の難しさなども十分に考慮したと思われます。 最終的に、海軍の反対で実行に移されませんでした。
その他の回答 (2)
- at9_am
- ベストアンサー率40% (1540/3760)
旅順攻略戦は1905年1月までかかりました。 その後、3月には奉天で開戦していることからもわかるようにそれほど大きく進むことはできず、またこのときの損害から終戦まで両軍とも奉天の付近でにらみ合うことを余儀なくされます。 また、もし戦力が十分あったとしても、日本海海戦は奉天会戦の約 3ヶ月後、旅順攻略から6か月弱なので、物理的・時間的な余裕もありませんでした。 要するに、沿海州まで出るだけの戦力が奉天会戦後は残されていなかったことが主な原因でしょう。 因みに、一応ウラジオストク攻略も念頭にありました。旅順攻略後、沿海州へ出てウラジオストクを目指す、というのが当初の戦略でしたからね。
日本側は始めから東北地区(満州)だけの戦場を考えていました。 それ以外の地区のことは、念頭にありませんでした。と言うより、バルチック艦隊が日本へ向けて出航したときは、日本には殆ど戦力が尽きていました。 ロシア国内の政情不安と、艦隊乗り組みの水兵たちの厭戦気分に助けられ、米国の仲介が入らなければ、間違いなく日本は負けて、ロシア帝国の中に組み入れられたでしょう。 ロシアは一度手にした領土は、絶対に手離ししません。歴史を読むとそれが判ります。現在の北辺四島だけではありません。 また、米国の仲介も、それなりの魂胆があったのです。親切そうな仮面でした。