• ベストアンサー

水による洗礼は要らないのではないか? ――サクラメントについて――

 すでに一度わたしは 水による洗礼の必要か否かについて問うています。  【Q:水による洗礼は必要不可欠なことですか】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3013375.html  今回は それ(水の洗礼)が秘蹟(サクラメント)であるから欠かすべからざるものだという場合のその根拠について問います。  秘蹟とは何か?  ▲ (ヰキぺ:サクラメント) ~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88  サクラメント(英: sacrament、羅: sacramentum)は、キリスト教において神の見えない恩寵を具体的に見える形で表すことである。それはキリスト教における様々な儀式の形で表されている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり水による洗礼を受けるときに このサクラメント(秘蹟)が現われるという意味だと思います。これについて つぎのように問います。  【Q1】 洗礼などの儀式をいま離れて一般的に言って 《神の見えない恩寵が具体的に見える形に表わされた》とひとりの人がその内面において――信教・良心の自由において―― 捉えることは自由である。しかも このことは その内面を出るものではない。信教・良心の自由ゆえ。ではないだろうか?  【Q2】 その受け身の場合を超えて そもそも人間が《神の見えない恩寵を具体的に見える形で表わす》ことが出来るのか? したがって儀式などにおいて それとしての秘蹟が成り立つものなのか?  【Q3】 秘蹟は おそらく【Q1】に戻って ひとりの人間の内面においては成立すると言うひとがあれば 認めねばならないであろうけれど では 組織においてそのことが成立すると言えるか?  * 組織とは 権限関係を規定して活動をおこなう集団とします。  【Q4】 一般に秘蹟は 組織において規定しても 個々の人間にとってその内面を外に出たところでは判断のつかないことであり 無効であるのではないか?   【Q5】 なぜならひとりの人にとって 《神の見えない恩寵が具体的に見える形で表わされた》と受けとめることは 自由であろうし そのことをほかの人に言葉で伝えてもまだよいであろうが その人間としての表現行為の有効性はそこまでであると考えなければならないのではないか?  【Q6】 五十歩ゆづって その秘蹟は 無効だと言えないとしても 有効だとも言い張ることは出来ない。こうではないか? けれども組織としては 有効だという前提に立つはずであるから やはりその前提が無効だと言わなければならないのではないか?  ☆ 洗礼・秘蹟は 特殊な主題ですが 問題は 人間の自由について問うものであり 一般性があると考えます。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#135843
noname#135843
回答No.15

 こんばんは、失礼致します。Hidocchiです。  今回は、以前のご質問と重複するところもございましたので、簡潔に述べさせていただいております。 > 【Q1】   意見を等しく致します。 > 【Q2】   現実的には、成立不可能かと考えております。  > 【Q3】 組織においてそのことが成立すると言えるか?   [定義]  組織(社会上のです):個人では成し遂げられない目標を達成するための、複数の人々による恊働・手段・システム(体系)。(Wikipedia 組織(社会科学)からです。)  元来、”組織”といった場合には、何らかの強い志等を持った目的があろうかと 考えられます。しかし、現時点では、宗教において、かような強い目的があるとは考えにくいと思われます。  仮に、目的が信者にとりまして、不確定なまま、儀式(システム体系)が一人歩きしますと、“組織”が生き残ることはあっても、むしろ、“わたくし”としての信仰は死んでいくものと解しております。  ですが、それ以外の場合、例えば”考古学的 or 神学研究”等におきましては、「学問の自由」も保障されていることから、許容されると解しております。  また、初期キリスト教のような状況下、つまり圧倒的に虐げられる側の立場(信教の自由が認められていない状況下です)では、その当時の信者たちには、”秘蹟”により、ある種の”救い”が得られた可能性はあろうかとも考えておりまし(教義自体の存亡すら関わっている状況ですから)、また強い”恊働”をもたらした結果、想像以上の”信仰心”もしくは”行動力の発揮”をもたらしか可能性もあろうかと思われます。ですが、「信教の自由」が与えられた今日では、形式のみの”秘蹟”は、かえって信仰心の”形骸化”をもたらす可能性が高いと考えております。信仰とは、そのひとの内面の問題だからでございます。しかも、その内面情報は容易に、他のひととは情報交換可能なものではないと考えられるからです(そのひと固有の体験、経験に基づくものだからでございます)。 > 【Q4】   上記理由により、現在では、意味をなさないと考えております。  > 【Q5】and【Q6】  表現行為の有効性は、通常、理性的認識が可能な範囲内に限られるかと思われます。  ご参考になるところがございましたら、幸いでございます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん すごい。すごいです。われながら読んでいて こんなにも同感していただけるとはとの思いです。  共同主観ということばがありますが この主観の共同性は 成り立つものなんですね。このことばは わたしとしては コモンセンスの訳語として使っていますから 常識のことなんですけれど この常識は特に日本では一般に 共通の知識として捉えられているきらいがあります。判断もしくは判断力のことを言わずしては その《主観》であるとかその《共同性》であるとかの意味が あまり用を成さないと考えられます。  ここでも ――象徴的に言うのですが――免罪符を売ったから宗教組織はいけないですとか あるいは 組織と一口に言っても 中にはまともな人たちがまともに運営していている場合もあるから 一概に断定するのはいけないですとか そういう知識項目にもとづいて 判断をみちびく場合があります。これはこれも世間の知恵なのかも知れませんが やはり自由論あるいは民主主義論などなどとして みなさんも大いに考えを進めて行って欲しいところですよね。  Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。わたしの勇み足は どうしても必然的に人びとが力を出し合って助けあわずにはいられないときのことを忘れてはいませんかとなりましょうか。  社会的に弱い立ち場の人びとが迫害を受けたりして苦しめられるなら 協力する道がありこれを閉ざす謂われはないと。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  初期キリスト教のような状況下、つまり圧倒的に虐げられる側の立場(信教の自由が認められていない状況下です)では、その当時の信者たちには、”秘蹟”により、ある種の”救い”が得られた可能性はあろうかとも考えておりまして(教義自体の存亡すら関わっている状況ですから)、また強い”恊働”をもたらした結果、想像以上の”信仰心”もしくは”行動力の発揮”をもたらしか可能性もあろうかと思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 存亡の危機においては 《個人の霊的自由》を集団によっても守る。  ★ ですが、「信教の自由」が与えられた今日では、形式のみの”秘蹟”は、かえって信仰心の”形骸化”をもたらす可能性が高いと考えております。  ★ 信仰とは、そのひとの内面の問題だからでございます。しかも、その内面情報は容易に、他のひととは情報交換可能なものではないと考えられるからです(そのひと固有の体験、経験に基づくものだからでございます)。  ★ ですが、それ以外の場合、例えば”考古学的 or 神学研究”等におきましては、「学問の自由」も保障されていることから、許容されると解しております。  ☆ ありがとうございます。わたくしもこのように考えます。  考えてみますと たとえばルーテルが《聖書のみ》あるいは《信仰のみ》と言ったときすでに《組織とそこにおける秘蹟ないし儀式》は必要ないと言ったも同然だったでしょうか。でも洗礼は残されたようです。絆が深まるくらいに思っているのでしょうか? でもたぶん 儀式や秘蹟をとおさない――そして身分関係をうんぬんしない また 相手の信仰の形態をふつうに超えたところの――はだかの存在どうしの自由な関係もしくは絆も いいものでしょうね。  いましばらくほかの投稿をも待つことにします。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (27)

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.7

もうぶっちゃけた 話はその人と神様との信仰契約です。 どっちが正しいのか?なんて論争してたら話にならない。 一応形だけの洗礼は受けた。しかし教会に行く前からキリストの愛 と御言葉の重要さ 人生新しく生きる事が出来る教えを知っているなら ほかのクリスチャンがどういおうと、何を言うと気にしない。 枝は牧師じゃなくキリストですよね、そこを間違いなく、批判する言葉を取り消す御言葉はたくさんあります。 洗礼を受けたかどうかじゃなく 「すべてが新しくなった」と言える事が大切です。救世軍は洗礼がありません。異端と言えるの? 個人的に必要なし悔い改めて生きる事が洗礼の意味でしょう。 あなたがたに聖霊と火とのバブテスマをお授けになります。 つまり必ず必要があるのか?というならわかならい。 もう一度ヨハネ3:16を見てください 洗礼を受けたものがとかいてますか?救い主はキリストであると告白するものに洗礼を施される権利があるんだよね。

bragelonne
質問者

補足

 katyan1234 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もう一度ヨハネ3:16を見てください 洗礼を受けたものがとかいてますか?救い主はキリストであると告白するものに洗礼を施される権利があるんだよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 聖書を交えての議論は 前回の質問においても出ましたが なかなか決着のつかないものがあると思います。  ご指摘の聖句や同じヨハネでは   ▲ (ヨハネ1:13) 血筋によらず 肉の意志によらず 人間の意志にもよらず 神によって生まれた。  ☆ とあります。もし光の子らに生まれるのに《水に浸ける》という行為が必要であるとすれば それは《人間の意志による》という部分も欠かすべからざる要素としてという意味で《人間の意志によって生まれた》と言わざるを得なくなります。つまり《神によって生まれた》のみではないとなります。  とは言うものの確かに イエス自身がやはり同じヨハネ福音において  ▲ (ヨハネ3:5)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエスは答えた。《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない。》  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ともあります。字面ではなかなか正解を求めるにはむつかしく  ★ どっちが正しいのか?なんて論争してたら話にならない。  ☆ とわたくしも考えます。  したがってやはりおっしゃるように  ★ 「すべてが新しくなった」と言える事が大切です。  ☆ このことに わざわざ水の洗礼というしるしをつけることは 必要ないでしょうし もし必要不可欠だと言うならそれは まちがいだと言っていく必要があると考えたのです。  ☆☆ 【Q2】 ・・・そもそも人間が《神の見えない恩寵を具体的に見える形で表わす》ことが出来るのか?  ☆ たぶん――考えるのですが―― 教会側はこう答えると思います。  ○ (教会側の答え・1) むろんそれは《秘蹟》というからには――《水に浸ける》のは人間がおこなうのですが―― 《そのとき神の聖霊をくだるようにさせる》のは 神の側である。サクラメントは ギリシャ語原語でミステリというゆえんである。  ☆ と。つまりむろん《個人の霊的自由》は あくまで《なぞ》であり《非思考》です。あとは おそらく次のような答えになるかと推し測ります。  ○ (教会側の答え・2) イエスも洗礼者ヨハネから洗礼を受けたし パウロも受けた。みなイエスの指示に従うペテロら弟子たちの直伝でほどこされた洗礼が継承されている。ここにミステリつまり秘蹟の秘蹟たるゆえんがある。  ☆ と。これに対しては でも問題は 聖霊のくだること つまり聖霊による洗礼が いちばんであることでしょう?という問い返しを持ちます。  ところで プロテスタンティズムでは この系譜の洗礼を直接に受け継いでいるのでしょうか? 断絶ができているのでしょうか?  そうして今はやはり なぜ水によって区別するのか? この問いが けっこう重要であるように考えています。目に見えるかたちあるものによって 《霊的自由・なぞ・非思考の信仰》が決まってしまうのか? これです。どうでしょう?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

bragelonneさんmmkyです。 どう答えたらいいのかはわかりませんが、私の認識ではあの世にイエス系霊団があることは確かですね。この世にいながらあの世のイエス系霊団に帰属するためにはどのような方法があるかに関することでしょうか。 イエス系霊団に帰属する手っ取り早い方法はご本人に直接帰依しご本人の了解を得ることですね。それが出来ないのならイエスが指名の代理人を通じて帰依するという方法ですね。代理人は代理人なりの好みがありますから、代理人を頼む場合はそれに準じるということでしょう。言葉でもよいし、洗礼でもよいし、まあなんでもいいわけですね。 これが 【Q:水による洗礼は必要不可欠なことですか】に対する答えになりますかね。 信じるかどうかは別にしてあの世にはイエス系霊団のほかにたくさんの霊団があり霊団への帰属方法は皆違うようですね。仏教系霊団では言葉による「三宝帰依」ですしね。 【Q3】 秘蹟は おそらく【Q1】に戻って ひとりの人間の内面においては成立すると言うひとがあれば 認めねばならないであろうけれど では 組織においてそのことが成立すると言えるか? この世の組織とあの世の組織とは同じではありませんが、霊団という組織はあるのですね。それをどう体現するかということですね。 これは「個人の自由」と「個人の霊的自由」の差異と同じですが、教会で洗礼などしなくとも所属しなくともいいのですが、イエス系霊団に帰属しているのかどうかははなはだ不透明ですよね。 ご本人が私はそうだと信じていても死んでみないとわかりませんしね。死んでみて初めてまったく違う霊団だと気付く人多いみたいですけどね。 私が言いたいことはどこに何を書いているということではありませんが、イエス系霊団に帰属するに方法は問わないが、イエスの現在の御心に沿う必要はあるよといいたいだけなんですね。 それが何かということだけですね。まあ「教会での洗礼じゃないかもですね。」

bragelonne
質問者

お礼

 信仰を人間のことばで仮りに表現することはありますし 自由です。この仮りの表現を教義とするならすでに非思考の信仰を 思考としての教義の下に置いたことになる。のではないでしょうか?  よくキリスト教を信じるという言い方を聞きますが これは すでに矛盾です。《信じる》のは 思考を超えた領域です。《教》は思考の対象です。仮りに人間のことばで表現したしるし(または覚え書き)のようなものです。  ただしまた 経験思考に限定するという意味で哲学思想という前提を置くならば それはそれで独自の視点から さまざまに思惟を及ぼし その成果を発表します。学問にもなれば生活態度にもなります。  一般には 《信じる》も《考える》も一緒にして自己表現をするでしょう。そして哲学の立ち場は 一方で《信じる》にかんしてそれは 大きく広く自己表現の一環であるという大前提(つまり《霊的自由》)に立ちつつ 他方でその問い求めの姿勢は 経験合理性を判断の基準として思惟し推論し結論をみちびくにとどめるというものです。  ★ 私の認識ではあの世にイエス系霊団があることは確かですね。  ☆ これは口はばったい言い草ですが 哲学の姿勢を逸脱しているおそれがあるでしょうね。( mmky さんとは やり取りが長いので ほかのみなさんは こういうわたしのストレートな言い方に驚かないでください)。  ★ まあ「教会での洗礼じゃないかもですね。」  ☆ エリートたるキリスト者つまり神に選ばれたというその信仰を どうしてわざわざ《水による洗礼という儀式》に表わさなければならないのか? どうしてまだ選ばれていない人びとと区別するかのように そのバプテスマというしるしを着けなければならないのか?  それは 自由ではないのではないか? 霊的自由をむしろ傷つけているのではないか? 狭めているのではないか? 聖霊の受領(つまり恩寵)を《水に浸ける》というかたちになぜ閉じ込めなければいけないのか?  mmky さん ありがとう。  ドンキホーテのような内容を質問していると見られるかも知れませんが そうではないということを もっと伝える必要がありそうです。手を貸してください。きわめて大事な哲学の主題であるのではないですか?  わたしの見方に行きすぎがあるなら みんなの知恵によって正されていくでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 mmky さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ まあ「教会での洗礼じゃないかもですね。」  ☆ ううん。やはり出ました。どちらかと言えば賛成のご見解をいただいた。こう受け取ります。それと  ★ 「個人の自由」と「個人の霊的自由」の差異  ☆ これはいい表現(見方・捉え方)をおそわりました。  信教・良心の自由は 《個人の霊的な自由》です。つまりここで《霊的》というのは 《なぞ》のことですから むしろ無条件で認められるという人間の自由であると言えばよいと思います。  そしてこの霊的な自由としての《信教の自由》で得られた信仰を ことばで自己に向かって言い表わすこと 或いは 一対一の対話において人に向かっても表現すること これらも自由です。  社会における経験行為としての《個人の自由》になるわけですが そこまではなお《霊的自由》に付属しています。――なぜなら表現が間違っていたなら直せばよいのですし 相手もいやなら拒めばよいわけですから。  ところがです。ところが この《個人の自由》は 《個人の霊的自由》を侵してはならない。とうぜんですね。《おまえの信じている神(あるいは仏)は 邪悪である。棄てろ》というのは―― 一対一の自由な対話における自由な発言である限りで あたかも文学作品で交わされる会話としてのように 自由ですが―― 組織における身分関係を背景にして(あるいは 社会の政治権力によって)迫るなら 反人間的行為です。個人の――霊的自由でないことはもとより――社会的な表現行為としても自由ではありません。  組織において権限のある者が《この壺は あなたの信仰の鍵であり 信仰向上の鍵である》と決めつけて迫ることは 自由ではありません。人間の自由を侵す〔あたかも〕自由も 人間にはあるというのみです。  ところで mmky さんは 中庸と言いますかかなり寛大な答えを出しておられます。わたしから見ればそう映ります。その点についても触れます。  ☆☆ 【Q3】 秘蹟は おそらく【Q1】に戻って ひとりの人間の内面においては成立すると言うひとがあれば 認めねばならないであろうけれど では 組織においてそのことが成立すると言えるか?  ☆ これについて まづ《秘蹟》は その《神の見えない恩寵》の部分はもちろん《霊的自由》の問題です。〔その恩寵つまりは聖霊の現われですね これが あったというその人の主観内面のことまでも自由です〕。  それに対してその秘蹟が 人のからだを水に浸けるというかたちある行為によって現われるようにさせるということ これは自由かが問題です。  むろんからだを水に浸けること自体は 問題ないでしょうが そのかたちある行為に《〈霊的自由〉にかんすることがら つまり 信仰》をつなげる自由は どこまでゆるされるか?    ☆☆ 【Q6】 五十歩ゆづって その秘蹟は 無効だと言えないとしても 有効だとも言い張ることは出来ない。こうではないか? けれども組織としては 有効だという前提に立つはずであるから やはりその前提が無効だと言わなければならないのではないか?  ☆ すなわち《教会での洗礼》(=《組織における秘蹟の儀式》)は 初めに二人の人間のあいだに《有効》だという取り決めが成り立ったとするなら その時点で個人の霊的自由を侵すという判定になります。  《有効であるかも知れず 無効かも知れないもの》(これは 譲歩して言っているのですが)を 二人以上の人間が《有効である》と取り決め合うことは 霊的自由を侵すおそれがあります。《無効であるはずがない》と決めつけているからです。  非思考の領域を経験的な思考もしくは目に見えるかたちに表わす ここに問題が初めから起きかけています。はっきりと問題であるかどうかその限界は その表現行為がひとりの人間の内面にとどまるかどうかだと考えます。  人に向かって言葉に出しても・つまり外に出して表現してみても 相手の主観が諾否を決める自由を持つかぎり ゆるされると思います。それなら 内面における霊的自由は保たれますから。一対一の自由な対話という場合です。  人に向かって外において表現するとき これを組織において組織の人間がおこなう場合というのはどうか? ふつうは《決めるのはあなたの自由です》とか《すべてはあなたの判断に任せられます》と言いながらでしょうが どうなのでしょう?  わたしの見るところは 非思考なる信仰が 思考としての教義になった時点で しかもそれが組織の活動の基軸とされた時点でならなおさら 個人の霊的自由はすでに侵されている。というものです。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#117439
noname#117439
回答No.5

オコリザルです。 明白な挑発の意図を持って補足です。 何者でもないと言う性質をもつ、神恥と言う神は唯一神です。

bragelonne
質問者

お礼

 ★★ 人恥(人知?)は唯一神です。  ★ 神恥と言う神は唯一神です。  ☆ そしてしかも  ★ 神恥とは 何者でもないと言う性質をもつ  ☆ ということですか。    非思考としての聖霊(つまり 神のことです)が 人間に知あるいは恥として――そのようなかたちをもって――現われるということでしょうか?     もしそうだとして。けっきょく――文学的な表現としてなら つねに自由なのですが―― ひとりの人の内面ないし主観のうちにおさまるものなら これも自由であるわけです。  けれどもこのような《秘蹟》――つまり 聖霊なる神が 経験上の事象として現われたという命題――は 二人以上の人びとのあいだで 一瞬の表現行為を超えて成り立つとするのは 哲学から見て おかしい。それは 成り立つとも成り立たないとも分からないし 分かるか分からないかが分からないとしなければならない性質の問題である。  のではないでしょうか?  ★☆ 〔非思考であるゆえ むしろ無根拠であると言うべき聖霊なる神が 人間の身体=精神に宿って〕 何者でもないと言う性質をもつ神恥〔となったとする場合 それはその人の主観内面の問題としては 神恥〕と言う神〔であるけれども これをほかの人との間で 経験事象であると取り決めることは 人間の意志行為として定まらない行為である。定められない性質のものである〕。〔たしかにその元は 主観においては〕唯一神〔であるの〕です〔が〕。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#117439
noname#117439
回答No.4

オコリザルです。 ギャグ又は挑発です。 人恥は唯一神です。

bragelonne
質問者

お礼

 繰り返しになりますが 重要だと思いますので 重ねて掲げます。  ☆☆ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   あらためて趣旨説明します。クリスチアニスムの内容に入り込んでの説明です。  1. そもそもキリスト者であることに なぜ水による洗礼が欠かせないのか?  2. つまり神の子となったことについて――と言っても 神の子であり神であるキリスト・イエスのことではなく その名をこころに受け容れて かつては闇の世界にさまよっていたのを光に照らされ光の子らになるという意味で神の子となったことについて―― まだそうでない人びととの区別をするかたちで どうして 水の洗礼を受けなければならないのか?  3. アブラハムは 水による洗礼を受けていません。信仰のしるしは 割礼でした。これも要らなくなりました。  4. 洗礼はたしかにイエスも受けましたが それは この世界へのかれの現われを告げる洗礼者ヨハネに敬意を表してその儀式に従った。こういうことであるのではないですか?  5. 信仰はむろんキリスト・イエスが十字架に去って行ったあとみづからが送ると言ったところの聖霊を受けて 始まります。(つまり 経験的な思考にとっては 無根拠です)。それで光の子であるキリスト者の誕生です。なぜ水による洗礼というしるしが必要なのでしょうか? まだ光の子らになっていない人びとと なぜそのしるしによって区別する必要があるのでしょうか?  6. そうして【Q2】です。そういうしるし自体を 人間が儀式において作りだすことは出来るのでしょうか? 水による洗礼をとおして 聖霊がくだることをどうして人間が演出することができるのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
noname#117439
noname#117439
回答No.3

オコリザルです。 bragelonneさんは自らの信仰または信教が、特定の他者または集団により、曲げようとされた事がおありでしょうか。 良く考えてみれば、このところの御質問は、特定の他者による冒涜には「へのかっぱ」として受け答えている半面、姿の無い集団に対してはあくまでもあがらっています。 私の場合はこのような場合、姿の無い集団は、人恥として(人知?)宗教とも切り離しています。 引き合いに出した高次元の霊体の例え話でもあります。 権現様のご活躍で、高次元の霊体とは、姿の無い集団ではなく、特定の誰かさんただ一人による嫌がらせと、具体的な検証の下地が出来あがっています。 後半の説明はギャグです。

bragelonne
質問者

補足

 オコリザルさん ご回答をありがとうございます。  この質問は 決して特殊なものではないと考えていますが 問い方は特殊です。そう映ります。  洗礼とその根拠としての(つまりその実質は 無根拠を根拠とすることになる)秘蹟 これは問うには特殊です。  でもその向こうに見えているものは 自由――ふつうに人間の自由―― これです。つまり 一般的な哲学の主題です。  まづ 信仰としては非思考であるのに それが教義としてつくられるなら 経験思考になる。この問題があります。  それに加えるに 信仰からみちびいたとされるその教義にもとづき 信仰を持つ者と称する人びとが集まって組織をつくる。そこでは権限関係がつくられるので それは一種の身分関係と成り この権限と身分の関係が――そこで基軸となっているのは信仰なのですから―― 信仰つまり内面ないし人格に対しても規定するという結果を招きます。ほかの人の指示や命令が与えられるとき ひとの内面にまで入って来て影響するという現実が出来てしまう。  以上が 信仰の教義化と宗教組織化をめぐる問題でした。  ここでは クリスチアニズムにかんして具体的に問題点をさぐります。  非思考の信仰から 経験思考としての教義がみちびかれるという問題点にかかわって つぎです。  【Q2】 ・・・そもそも人間が《神の見えない恩寵を具体的に見える形で表わす》ことが出来るのか? したがって儀式などにおいて それとしての秘蹟が成り立つものなのか?  ☆ これがひとりの個人において・つまり主観において成立するとその個人が言い張るなら まだそれは そこまでの表現の自由として認めざるを得ません。けれども このことを二人以上の人間が集まって 取り決めているとなれば どうでしょう? ―― 一たん取り決めたなら ただちにその取り決めを撤回する。というその作業を何度も繰り返していなけれならないのではないでしょうか? そうでないと 非思考であるものが 経験思考であるものによって浸食されるという自由の侵犯が起きると考えます。  もっと簡単に むしろキリスト者の信仰のほうから捉えるなら つぎのような議論ができるかと思います。No.2のお礼欄を見ていただきたいのですが たとえばその中でもつぎのことが重要だと考えます。  ☆☆ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  2. つまり神の子となったことについて――と言っても 神の子であり神であるキリスト・イエスのことではなく その名をこころに受け容れて かつては闇の世界にさまよっていたのを光に照らされ光の子らになるという意味で神の子となったことについて―― まだそうでない人びととの区別をするかたちで どうして 水の洗礼を受けなければならないのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ キリスト者となったなら もうそれでいいはずです。なぜほかの人びととの区別をするという結果になる水の洗礼を受けるのか? この問いです。  ★ ・・・姿の無い集団に対してはあくまでもあらがっています。  ☆ これは 理論の問題だと考えます。しかも生活また社会的な共生の問題に直にかかわっていると思います。  もしひとが信仰を持ったというとき その信仰〔の保持〕ということを そうでない人びとと区別するために 何らかのしるしをつける(そのための儀式をおこなう)とすれば それはその信仰が 普遍的な内容を持つものではないということを自白していることになりませんか?  そういう問題でもあると考えます。  水による洗礼は どう考えても要りません。(非思考にかかわる秘蹟の問題ではなく ただ趣味の問題としてやりたい者はおこなっていると言うなら まだ話が分かります)。  どうでしょう?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.2

> あなたはどう考えるかをお尋ねしています。 個々の信者の考え方を尊重します。 >哲学の問題なのです。 哲学を一般化することにはムリがあります。 考え方は、個々に異なりますから、その人がそう思ったのであれば、その人にとってそれが正しく、そう思わない人にとっては、無意味なものでしょう。 それが信仰だと思います。 >信仰の教義化および組織化 つまり宗教は 信教・良心の自由を逸脱しているのではないかとおそれます。 そう思うのは質問者の勝手ですが、そう思わない人にとっては、信仰の証となるのです。 >その信仰は 組織の内にいなければ成り立たないのでしょうか? 組織の中にいなければ信仰が成り立たないということはありませんが、組織の規定を信仰の証とすることに問題があるとは思えません。 >アブラハム(そのときアブラム)は 組織にいて水による洗礼を受けて 信仰を得ることができたのでしょうか? 他人のことは関知しません。 本人の考え方しだいです。 【Q9】質問の意味が理解できません。 >水による洗礼の秘蹟としての有効性を これら宗派の分立の問題の前に 問い求めようとすることは考えられませんか? 水による洗礼に一番こだわっているのは、バブテストです。 当人たちが、それを信じているのに、他人がそれを検証する必要性がみあたりません。 >組織への入会が即 信仰の成立であるとお考えになっておられるのではないでしょうね?  これは逆です。 信仰的に共感するものであれば、組織に加わる事も是とするというのが、私の考え方です。

bragelonne
質問者

お礼

 この欄にておぎないます。  【Q:水による洗礼は要らないのではないか? ――サクラメントについて――】  に関して 次の問いが ここでは基軸になります。それを確認します。  【Q2】 ・・・そもそも人間が《神の見えない恩寵を具体的に見える形で表わす》ことが出来るのか? したがって儀式などにおいて それとしての秘蹟が成り立つものなのか?  あらためて趣旨説明します。クリスチアニスムの内容に入り込んでの説明です。  1. そもそもキリスト者であることに なぜ水による洗礼が欠かせないのか?  2. つまり神の子となったことについて――と言っても 神の子であり神であるキリスト・イエスのことではなく その名をこころに受け容れて かつては闇の世界にさまよっていたのを光に照らされ光の子らになるという意味で神の子となったことについて―― まだそうでない人びととの区別をするかたちで どうして 水の洗礼を受けなければならないのか?  3. アブラハムは 水による洗礼を受けていません。信仰のしるしは 割礼でした。これも要らなくなりました。  4. 洗礼はたしかにイエスも受けましたが それは この世界へのかれの現われを告げる洗礼者ヨハネに敬意を表してその儀式に従った。こういうことであるのではないですか?  5. 信仰はむろんキリスト・イエスが十字架に去って行ったあとみづからが送ると言ったところの聖霊を受けて 始まります。(つまり 経験的な思考にとっては 無根拠です)。それで光の子であるキリスト者の誕生です。なぜ水による洗礼というしるしが必要なのでしょうか? まだ光の子らになっていない人びとと なぜそのしるしによって区別する必要があるのでしょうか?  6. そうして【Q2】です。そういうしるし自体を 人間が儀式において作りだすことは出来るのでしょうか? 水による洗礼をとおして 聖霊がくだることをどうして人間が演出することができるのでしょうか?  nacam さんのご見解に賛成なさる方がた そしてそうでない方がた みなさんにおたずねしたいと考えます。どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 nacam さん 補足要求に答えてくださってありがとうございます。  だいたいお考えになっていることが了解できました。ありがとうございます。  まとめてみます。  (1) 個人における信教・良心の自由 これは 例外なく 大前提です。確認しておきます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    > あなたはどう考えるかをお尋ねしています。  個々の信者の考え方を尊重します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (2) そしてむろん問題は 団体になったときはどうかです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     >その信仰は 組織の内にいなければ成り立たないのでしょうか?  組織の中にいなければ信仰が成り立たないということはありませんが、組織の規定を信仰の証とすることに問題があるとは思えません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ほぼ無条件に結社の自由を 宗教団体にも当てはめてよいということがすでに前提として語られていると思います。そういうご見解だと思います。  ひとこと 異見を申し述べるなら  ★ 組織の規定を信仰の証とすること  ☆ というとき その規定の内容を 組織の権限関係――としての身分的な人間関係――によって伝えられることから 切り離して捉えておられる。そのように切り離して扱った場合には 別に個人の信教・良心の自由のおよぶ範囲を超えていないと言えるでしょうから 問題はないと見ておられるのだと思います。  (3) やや投げやりに映ったご発言。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >アブラハム(そのときアブラム)は 組織にいて水による洗礼を受けて 信仰を得ることができたのでしょうか?  他人のことは関知しません。  本人の考え方しだいです。  ・ 当人たちが、それを信じているのに、他人がそれを検証する必要性がみあたりません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは そういう一面もおありのようだと確認するのみです。ただし これは(1)の場合ではなく(2)の組織における場合ですから わたしは問題としたいですし 次の問題点とかかわりを持つかとは思います。  (4) 《サクラメント》のうち カトリックの《秘蹟》を取り上げ そのうちの《水による洗礼》を問うとき 以上の(2)と(3)を総合して受けとめるなら 次の問題点にかんして 《然り》というご見解であると受け取りました。もしくは 組織内の本人たちが《然り》と思うのなら そうなのであろうと認めるというご見解であるという見立てです。すなわち  【Q2】 ・・・そもそも人間が《神の見えない恩寵を具体的に見える形で表わす》ことが出来るのか? したがって儀式などにおいて それとしての秘蹟が成り立つものなのか?  ☆ これに対して 《出来る / 成り立つ》というお答えであると受け取りました。つまりなるべく信徒の方々の意向を尊重するというご発言の含みとして そういうお答えであろうと思います。  わたしは 《人間が 秘蹟を 儀式において成り立たせることは できないし あり得ない》という立ち場ですが これはこのまま 見解を並列させておくほかにないのかも知れません。〔あるいは精確に申せば 《秘蹟を人間が成り立たせる――つまり水による洗礼をとおして 聖霊のくだり現われることを成り立たせる――ことは できるかどうかわからない》です〕。  〔そして これは 哲学の問題としてひとは考えることが できるとはいまも思っております。組織としては 《聖霊を人間がくだらせ得る》という前提を持っていますね。それは 哲学から見て 人間と社会の常識や条理に違反すると考えるものです〕。  ありがとうございました。  また関連の質問などもうけるかと思いますので よろしかったらご投稿くださるようお願いしておきたいと思います。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.1

全ての質問は、教派ごとに考え方が異なります。 個々の教派ごとに論ずれば、別の回答ができますが、全てのキリスト教をまとめてしまうと、意味のある質問にはなりえません。 洗礼の考え方も、カトリックとアナバブテストやバブテストでは、大きく考え方が異なります。 サクラメントにしても、教派ごとに考え方が異なります。 特に2~5の質問は、信徒に とって意味をなさない質問です。 部外者が、単にいちゃもんをつけているにすぎません。 信仰とは、信じる事であり、その人が信じることが信仰です。 それを部外者が、ああだ こうだ言っても、何もなりません。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。伝わりませんかねぇ。  nacam さん ご回答をありがとうございます。  ★ 信仰とは、信じる事であり、その人が信じることが信仰です。  ☆ おっしゃるとおりだと考えます。ではお訊きしますが  【Q7】 その信仰は 組織の内にいなければ成り立たないのでしょうか?  【Q8】 アブラハム(そのときアブラム)は 組織にいて水による洗礼を受けて 信仰を得ることができたのでしょうか?  【Q9】 《部外者》というのは アブラハムの信仰につらなる者であれば――むろんキリスト・イエスを通じてですが―― ありえないのではないでしょうか? ローマ教会〔をいま例に挙げて考えていますが〕こそが キリスト者たちの《部外者》となる可能性が大きいのではないでしょうか?  ☆ そういったまさに教会組織の問題がからんできますが ここでは むしろ《秘蹟》とは 信仰の成立にとって どういうことか。これが主題です。【Q1】から【Q9】まですべての問い求めにかかわっていると考えられませんか?  ★ 洗礼の考え方も、カトリックとアナバブテストやバブテストでは、大きく考え方が異なります。  【Q10】 水による洗礼の秘蹟としての有効性を これら宗派の分立の問題の前に 問い求めようとすることは考えられませんか?  ★ サクラメントにしても、教派ごとに考え方が異なります。  【Q11】 でしたら 教派に分かれる前に バプテスマ(特に聖霊によるそれです)とサクラメントの成立の問題が 個人の信仰にとって・個人の信仰において どういうことになっているか?   ☆ と当然問い求められねばならないでしょう。  残念ながら nacam さんのご見解は すでに成っているものはもう決まっていることだから あらたに考えなおすことはできないと決めつけておられます。  考えなおそうと言っているのですから それこそ  ★ それを部外者が、ああだ こうだ言っても、何もなりません。  ☆ ではないでしょうか?  というよりも   ○ そもそも信仰はいかに成り立つか。  ☆ これについて ご見解が聞かれていません。まさか 組織への入会が即 信仰の成立であるとお考えになっておられるのではないでしょうね? どうでしょうか。

bragelonne
質問者

補足

 おぎないます。  一種の勘違いをしていました。読み落としをしていました。  ★ 全ての質問は、教派ごとに考え方が異なります。  ☆ 《教派》がどういう考え方をしているかも重要ですが あなたはどう考えるかをお尋ねしています。その上で  ★ 個々の教派ごとに論ずれば、別の回答ができますが、全てのキリスト教をまとめてしまうと、意味のある質問にはなりえません。  ☆ かどうかを いま一度見直してみてもらえませんか?   つまり 哲学の問題なのです。  【Q2】 ・・・そもそも人間が《神の見えない恩寵を具体的に見える形で表わす》ことが出来るのか?   ☆ これです。【Q1】つまり受け身として《神の見えない恩寵が具体的に見える形に表わされた》と誰かが思ったとしても・また言ったとしても そこまでは良心の自由と表現の自由の範囲におさまりましょう。けれども  【Q2】 ・・・そもそも人間が《神の見えない恩寵を具体的に見える形で表わす》ことが出来るのか?   ☆ こういう哲学の問題です。信仰を哲学してください。そうお尋ねしています。これについて教派ごとに考え方がたとえ違っていたとしても あなたご自身はどうお考えになるのか これをお聞かせください。という質問になっています。よろしくどうぞ。  ★ 特に2~5の質問は、信徒に / とって意味をなさない質問です。  ☆ あなたご自身にとっては どうなのでしょう? 哲学は 認識のみの問題ではなく おのれの意志行為です。哲学は 解説の問題だけではなく 自身の意志行為です。その意志行為について述べておしえてください。お願いします。  信仰の教義化および組織化 つまり宗教は 信教・良心の自由を逸脱しているのではないかとおそれます。  【Q: 信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか 】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html  ☆ そういう人間の自由についての哲学問題です。これについて  ★ 部外者  ☆ は誰もいません。  ・

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 水による洗礼は 要らないのではないか

      1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  2. 《要る》の根拠は 《すくいは水と霊による》などの記述とそして神秘的なものであって おそらくはサクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  3. ユダヤ民族の初めには 基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとっての規範である律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  4. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらそれぞれの信仰の中の神にもどった。  5. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  6. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  7. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  8. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 宗教に関係なく 同じである。と成ったのではないだろうか?  9. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学についてそれらは有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  10. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるかも知れない。  11. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  12. もしどうしても水による洗礼も必要だというのなら たとえば産湯に浸かること これが その洗礼だと受け留めればよい。  自由なスサノヲ人間語によるスサノヲ世界市民のまったき自由にもとづく見解を 思う存分あきらかにして ご教授ください。  なぜ 水によるバプテスマが まだなくならないのか? どうして必要か?

  • 水による洗礼は必要不可欠なことですか

    特殊な議論になるかも知れませんが おしえてください。わたしは この水の洗礼を受けていない自称のキリスト者です。 ヨハネ福音は《血によらず 肉の意志によらず 人間の意志によらず 神によって生まれる》(1:13)と説きます。水の洗礼は 人間の意志によっているのではないでしょうか。(儀式としては 別の問題です。) むろん 同じヨハネにイエスの言葉として《水と霊とによらなければ》(3:5)という明らかな文句があり イエスも洗礼を受けたし パウロも受けました。旧約からの継続として そういうかたちを採ったと考えられませんか。割礼も 必要なくなったのだと思います。 解釈だけではいけないとすれば エレミヤ書31:31以下に 《そのとき 人びとは隣人どうし ・・・〈主を知れ〉と言って教えることはない》とあります。うんぬんですが。

  • 水による洗礼は 何故なくならないのか

     ◆ 1. 《水による洗礼は 要らない》という命題を問うものです。  1-1. すでに二三度質問しています。このところ質問にあげてやり取りの中から答えが得られるという二度の事例に遭い この問いについてもこころみたいと思いました。  ◆ 2. これまでの経過としましては こうです。  2-1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  2-2. 《要る》の根拠は 《水と霊による》などの記述とそして神秘的なもので おそらくは サクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  ◆ 3. ユダヤ民族の 初めには基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとってもの規範としての律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  3-1. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらの信仰の中の神にもどった。  3-2. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  3-3. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  ◆ 4. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  4-1. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 同じである。と成ったのではないだろうか?  4-2. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学が有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  4-3. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるだろうか。  4-4. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  スサノヲ市民の自由のまったき自由にもとづくご見解を思う存分あきらかにして ご教授ください。

  • どうも宗教は サクラメントにのがれるみたいだ。

     信仰なら 個人としてのわれと神との関係としての めぐみ である。  宗教となると めぐみ でありつつも 秘蹟ないしその儀式になる。  ただし ブディズムでは これが 《秘義・奥義・門外不出の師弟直伝に成る秘密》として扱われる。  つまり一般にナゾのことなのであるが 集団となると・つまり宗教にあっては 《永遠のナゾ》として脈々と伝えられる。何でもないことが なのである。  《かたちから入る》わけである。  ――集団における宗教の 何とくだらないことか! と言い得まいか?  ▼ (ヰキぺ:サクラメント) ~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88  サクラメント(英: sacrament、羅: sacramentum)は、キリスト教において神の見えない恩寵を具体的に見える形で表すことである。それはキリスト教における様々な儀式の形で表されている。  ただし現在のキリスト教においては教派によってその指し示す内容、さらには日本語訳として用いられる表現も異なっている。例えば、カトリック教会では秘跡、聖公会では聖奠、プロテスタント教会では礼典、正教会では機密と呼ばれる。  ラテン語に由来する"Sacrament"(サクラメント)は、西方教会では一般的な用語であるが、正教会ではギリシャ語の"μυστήριον"(ミスティリオン)や、これを語源とする英語の"Mystery"(ミステリー)などが用いられる。日本の正教会でももっぱらギリシャ語からの直訳的な機密との呼称を用い、これを「サクラメント」と呼ぶ事はない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • キリスト教の洗礼を受けたいのですが問題があります

    キリスト教の洗礼を受けたい軽度の境界性人格障害者(20代後半、女)です。 長く、また苦労自慢で恐縮ですが、私の背景をお話させてください。 幼少時は両親のネグレクトに耐え、ずっといい子 で成績もよく生徒会長もやり難関校への中学受験も余裕の判定を得ていましたが、両親の離婚からそれは叶わず、離婚直後精神の限界で3年間引きこもりになったものの、そこから死に物狂いで勉強し社会復帰をして、ある医療系の国家資格の全国模試の日本一位をとったり、自分の人生の苦労談の作文で県の文化勲章を貰ったり、勉強会で知り合った教授の紹介で東大大学院で私の選考分野の最先端を学び、現在は一流企業の研究者になりました。この春最年少の昇進も果たしました。 上記のように自分の人生を振り返ると人にはとても褒めて貰えます。 人格障害者ですが、被る仮面は完璧らしいです、人間性も良く褒められます。そのため、普段人には障害が気付かれません。(身体的な自傷行為はないからというのもありますが。)また、容姿は良いほうらしく人によく告白されます、けれどいつも私はすぐに別れてしまいます。婚約破棄も3回しました。 人に完璧と言われます。けれど私の心はとても空虚です。学問は奥深く私の苦しみを紛らわせる為にし続けますが、知識をつければつけるほど周りの全てがくだらなく思え、余計孤独になります。 前置きが長くなって申し訳ありません。 様々な宗教を哲学の延長線として勉強しました。 私はキリスト教がとても好きだと思いました。 私は、神様の愛が欲しいのです。 けれど地元のカトリック教会の神父様には人格障害者でとても苦しいから病の秘匿で洗礼を受けさせてくださいと言ったら、あなたは神を信じていない、教徒として生きるということは周りの教徒と共に生きることなのに人を見下している。洗礼を与えることは出来ないと言われました。私にも非はありますが、とても傷つきました。 神様を愛しています、完璧だからです。そんな神様を愛する資格が形として欲しいのです。 体が弱く、人格障害を隠して働いているので土日は衰弱して点滴を打ったりしています、ミサも必ずしも行けるわけではありません。 やはり、洗礼を受けることは無理でしょうか。1人、孤独に祈ることしか許されないのでしょうか。私は一日でも早く、洗礼名を頂き、神様に使える者として生きたいです。 酷い告白で大変恐縮ですが、ご指導ご鞭撻をどうか宜しくお願い致します。

  • 神の言葉なる聖典も 言葉として 偶像ではないのか?

     (1) 組織宗教の場合に 組織上の権限〔を持つ人間の意向〕が各人の信仰にまで及ぶという――それによって信教・良心の自由を侵すおそれがある――問題があります。具体的には オシエが――それはいかに神の言葉だと言っても 人間の言葉で自己表現された文章であるからには神ではなく信じるものでもなくただ考えるものであるのに――信じるように説かれたりするという問題です。  (2) ここでは 偶像崇拝を禁じるというオシエについて考え問います。  (3) 旧約聖書には こうあります。  ▲ (出エジプト記 20:4-5) ~~~~~~~~~~~  あなたはいかなる像も造ってはならない。  上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。  あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですけれども このオシエは 人間の言葉――声および文字――で発せられ書かれているからには ただの偶像ではないのか? 地上のものであり そうとすれば被造物なのではないか? そのような言葉という素材で表わされたオシエを神の言葉として守ることは 偶像崇拝になるのではないか? こういう問いです。  (2) 新約聖書にも 偶像崇拝を否定する記事が――パウロの書簡などに――ありますが 教会も カトリックもプロテスタントもすったもんだしながら 特に偶像が問題ではないというところに落ちついたと言ってよいのでしょうか。  (3) イスラームにおいては 読誦されるアラビア語によるクルアーンが 神の言葉そのものであると説かれます。その根拠についての説明があります。  ▼ (ヰキぺ:クルアーン) ~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B3  § 2 特徴  § 2.1 イスラーム教における位置付け  (3-1) クルアーンは、神がムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉そのものであるとされ、聖典としての内容、意味も、言葉そのものも全てが神に由来する。  (3-2) クルアーンが神の言葉そのものであることを信じることはイスラーム教の信仰の根幹である。  (3-3) イスラーム神学では、クルアーンは神の言葉そのものである以上、神に由来するもので、神の被造物には含まれない。  (3‐4) クルアーンを記した文字や本、クルアーンを人間が読誦したときにあらわれる音は、被造物である人間があらわしているので被造物の一部であるが、その本質である言葉そのものは、本来被造物の世界に存在しない神の言葉である。  (3‐5) 従って、神の言葉であるクルアーンが地上に伝えられていることそれ自体がムハンマドに対して神がもたらした奇跡であると主張される。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (4) さて どうでしょう?   (4‐1) すなわち いかにアラビア語と言えども言語として被造物の一部であってその限りで偶像をつくりうる素材なのであるが そのような偶像要素としての人間の言葉を用いて著わされたクルアーンは しかしながら 被造物ではなくなる。ということか?  (4‐2) 被造物ではない神の言葉が 被造物という素材によって現わされたのではある。  (4‐3) 被造物であるというのは 偶像もしくはその要素だということ。ということは クルアーンは 偶像であって偶像ではない。  (4‐4) さて どういうことでしょう?

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》

     まづこのイエスの言葉の出典は マタイ22:15-22 / マルコ2:13-17 / ルカ20:20-26です。  ただし 解釈を《ゆがめ》て 哲学の視点から問います。次のように解釈しますが それについて自由なご見解をおしえてください。  (ω) 《まつりごと(政治・宗教)》は社会の経験行為としてのまつりごとであり 《信仰》はあくまで内面の問題である。  (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  (ω‐2) ただしそのように言うときには 《まつり》が 個人と内と外との両面に分かれるかと思います。家族のにしろ社会全般のにしろ生活の奥や底に湧き起こったよろこびや祝いにかかわる個人の内面における《まつり》と ムラのまつりとです。  (初穂を神にまつる祭りは 共同体としての生活において 個人とムラとが一体であったでしょうか)。  (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。これも問いのひとつです。《まつりごと》から自由であるのは 当然とします。    (ω‐4) 《まつり》は 神〔ないしけっきょくは同じ意味で神々〕との共食だととると分かりやすいようです。《まつりごと》は そのムラムラのまつりを二階から知ろしめし 収穫のいくらかの部分を吸い上げる仕組みであったようです。  (ω‐5) 現代にあっては 社会が国家としてありその家の第二階も存続していますので その《カエサルのまつりごとのものはカエサルに納めるべし》という見解が残っていましょうか?  ☆ 信仰と宗教とのちがいが ここでいちばんの問題であり問いの発端です。おわかりのように次の質問を継いでいます。そこでの質疑応答をも承けて 問い求めを自由に発展させてください。  【Q:信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html    日本人の哲学はここにありという言論を魅せてください。

  • 池に落ちて水に濡れざる《触媒》人間!?

     この質問は 次のものを継ぎます。  【Q:池に落ちて水に濡れずに上がって来られるか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8929621.html  世の中にあって 違法行為にまでは到らない段階で それでもよき人間関係においてもシガラミの中でと同じように欺かれたり罠に落ち入ったりすることがままあるように そのような失敗体験を味わうことがあります。  具体的には 恋愛の失敗だとかあるいは何らかの軽いものですが不祥事であるとか これらを経て一たん水に濡れるのですが それでも元のわれに還って来る。あたかも触媒のごとく 相手との絡みでは化学反応を起こしたのだけれど みづからは元のままにとどまるという離れ業。  この触媒のごとき離れ業は どうすれば出来るか?    あるいは むしろ――わたしの感覚では《何もしないたたかい》と言葉では言っているのですが―― 何もしないで我れが我れである我れにとどまりつづけるのか?  元気なく沈んでしまっていたとしても いちど魂振り――みづからへのツッコミ――をやれば しゃきっとして 《触媒》人間になっているのか?  みなさんのお知恵を拝借します。思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • 「生贄」について

    「生贄」について 古来より、五穀豊穣や無病息災を願い、世界各地で生贄の儀式があったり、人間を山へ置き去りにし神様への贈り物としてきました。 なぜ、生きた人間が神様への捧げものとなったのでしょうか。 同じ社会生活を営む犬でさえ、死んだものを悼む気持ちで死骸をなめることはありますが、生きている仲間を懲罰以外では殺したりしません。 そんなことをしても何にもならないということを知っているからだと思います。 人間はどうして、生きた人間をささげることで五穀豊穣や無病息災がかなうと愚かしいことを考えたのでしょうか。 神道は八百万の神がいると聞きますが、生きた人間をささげたら必ず穀物は実り、水は湧き、人間は豊かになったわけでもあるまいし・・・。 神様への捧げものという名目で、生きた、しかも同じコミュニティの仲間を殺すのは人間だけだと思いますが違いますでしょうか。 もしかすると、食い扶持を減らすのが目的のひとつだったのでしょうか。