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水による洗礼は要らないのではないか? ――サクラメントについて――

 すでに一度わたしは 水による洗礼の必要か否かについて問うています。  【Q:水による洗礼は必要不可欠なことですか】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3013375.html  今回は それ(水の洗礼)が秘蹟(サクラメント)であるから欠かすべからざるものだという場合のその根拠について問います。  秘蹟とは何か?  ▲ (ヰキぺ:サクラメント) ~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88  サクラメント(英: sacrament、羅: sacramentum)は、キリスト教において神の見えない恩寵を具体的に見える形で表すことである。それはキリスト教における様々な儀式の形で表されている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり水による洗礼を受けるときに このサクラメント(秘蹟)が現われるという意味だと思います。これについて つぎのように問います。  【Q1】 洗礼などの儀式をいま離れて一般的に言って 《神の見えない恩寵が具体的に見える形に表わされた》とひとりの人がその内面において――信教・良心の自由において―― 捉えることは自由である。しかも このことは その内面を出るものではない。信教・良心の自由ゆえ。ではないだろうか?  【Q2】 その受け身の場合を超えて そもそも人間が《神の見えない恩寵を具体的に見える形で表わす》ことが出来るのか? したがって儀式などにおいて それとしての秘蹟が成り立つものなのか?  【Q3】 秘蹟は おそらく【Q1】に戻って ひとりの人間の内面においては成立すると言うひとがあれば 認めねばならないであろうけれど では 組織においてそのことが成立すると言えるか?  * 組織とは 権限関係を規定して活動をおこなう集団とします。  【Q4】 一般に秘蹟は 組織において規定しても 個々の人間にとってその内面を外に出たところでは判断のつかないことであり 無効であるのではないか?   【Q5】 なぜならひとりの人にとって 《神の見えない恩寵が具体的に見える形で表わされた》と受けとめることは 自由であろうし そのことをほかの人に言葉で伝えてもまだよいであろうが その人間としての表現行為の有効性はそこまでであると考えなければならないのではないか?  【Q6】 五十歩ゆづって その秘蹟は 無効だと言えないとしても 有効だとも言い張ることは出来ない。こうではないか? けれども組織としては 有効だという前提に立つはずであるから やはりその前提が無効だと言わなければならないのではないか?  ☆ 洗礼・秘蹟は 特殊な主題ですが 問題は 人間の自由について問うものであり 一般性があると考えます。

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noname#135843
noname#135843
回答No.15

 こんばんは、失礼致します。Hidocchiです。  今回は、以前のご質問と重複するところもございましたので、簡潔に述べさせていただいております。 > 【Q1】   意見を等しく致します。 > 【Q2】   現実的には、成立不可能かと考えております。  > 【Q3】 組織においてそのことが成立すると言えるか?   [定義]  組織(社会上のです):個人では成し遂げられない目標を達成するための、複数の人々による恊働・手段・システム(体系)。(Wikipedia 組織(社会科学)からです。)  元来、”組織”といった場合には、何らかの強い志等を持った目的があろうかと 考えられます。しかし、現時点では、宗教において、かような強い目的があるとは考えにくいと思われます。  仮に、目的が信者にとりまして、不確定なまま、儀式(システム体系)が一人歩きしますと、“組織”が生き残ることはあっても、むしろ、“わたくし”としての信仰は死んでいくものと解しております。  ですが、それ以外の場合、例えば”考古学的 or 神学研究”等におきましては、「学問の自由」も保障されていることから、許容されると解しております。  また、初期キリスト教のような状況下、つまり圧倒的に虐げられる側の立場(信教の自由が認められていない状況下です)では、その当時の信者たちには、”秘蹟”により、ある種の”救い”が得られた可能性はあろうかとも考えておりまし(教義自体の存亡すら関わっている状況ですから)、また強い”恊働”をもたらした結果、想像以上の”信仰心”もしくは”行動力の発揮”をもたらしか可能性もあろうかと思われます。ですが、「信教の自由」が与えられた今日では、形式のみの”秘蹟”は、かえって信仰心の”形骸化”をもたらす可能性が高いと考えております。信仰とは、そのひとの内面の問題だからでございます。しかも、その内面情報は容易に、他のひととは情報交換可能なものではないと考えられるからです(そのひと固有の体験、経験に基づくものだからでございます)。 > 【Q4】   上記理由により、現在では、意味をなさないと考えております。  > 【Q5】and【Q6】  表現行為の有効性は、通常、理性的認識が可能な範囲内に限られるかと思われます。  ご参考になるところがございましたら、幸いでございます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん すごい。すごいです。われながら読んでいて こんなにも同感していただけるとはとの思いです。  共同主観ということばがありますが この主観の共同性は 成り立つものなんですね。このことばは わたしとしては コモンセンスの訳語として使っていますから 常識のことなんですけれど この常識は特に日本では一般に 共通の知識として捉えられているきらいがあります。判断もしくは判断力のことを言わずしては その《主観》であるとかその《共同性》であるとかの意味が あまり用を成さないと考えられます。  ここでも ――象徴的に言うのですが――免罪符を売ったから宗教組織はいけないですとか あるいは 組織と一口に言っても 中にはまともな人たちがまともに運営していている場合もあるから 一概に断定するのはいけないですとか そういう知識項目にもとづいて 判断をみちびく場合があります。これはこれも世間の知恵なのかも知れませんが やはり自由論あるいは民主主義論などなどとして みなさんも大いに考えを進めて行って欲しいところですよね。  Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。わたしの勇み足は どうしても必然的に人びとが力を出し合って助けあわずにはいられないときのことを忘れてはいませんかとなりましょうか。  社会的に弱い立ち場の人びとが迫害を受けたりして苦しめられるなら 協力する道がありこれを閉ざす謂われはないと。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  初期キリスト教のような状況下、つまり圧倒的に虐げられる側の立場(信教の自由が認められていない状況下です)では、その当時の信者たちには、”秘蹟”により、ある種の”救い”が得られた可能性はあろうかとも考えておりまして(教義自体の存亡すら関わっている状況ですから)、また強い”恊働”をもたらした結果、想像以上の”信仰心”もしくは”行動力の発揮”をもたらしか可能性もあろうかと思われます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 存亡の危機においては 《個人の霊的自由》を集団によっても守る。  ★ ですが、「信教の自由」が与えられた今日では、形式のみの”秘蹟”は、かえって信仰心の”形骸化”をもたらす可能性が高いと考えております。  ★ 信仰とは、そのひとの内面の問題だからでございます。しかも、その内面情報は容易に、他のひととは情報交換可能なものではないと考えられるからです(そのひと固有の体験、経験に基づくものだからでございます)。  ★ ですが、それ以外の場合、例えば”考古学的 or 神学研究”等におきましては、「学問の自由」も保障されていることから、許容されると解しております。  ☆ ありがとうございます。わたくしもこのように考えます。  考えてみますと たとえばルーテルが《聖書のみ》あるいは《信仰のみ》と言ったときすでに《組織とそこにおける秘蹟ないし儀式》は必要ないと言ったも同然だったでしょうか。でも洗礼は残されたようです。絆が深まるくらいに思っているのでしょうか? でもたぶん 儀式や秘蹟をとおさない――そして身分関係をうんぬんしない また 相手の信仰の形態をふつうに超えたところの――はだかの存在どうしの自由な関係もしくは絆も いいものでしょうね。  いましばらくほかの投稿をも待つことにします。

その他の回答 (27)

noname#131234
noname#131234
回答No.18

他人お考えを盗み、自分で仕掛けたその罠にはまる。 あわれなひと。 自分の間違いを認めることが秘蹟です。 一度でいいのでざんげしなさい。 自分の誤謬を認めなさい。 それがない限り、この「最も簡単なこと」が出来ない限り、 貴方は宗教者として失格です。 なぜそれができないのか、こんな簡単なことが出来ないのか? 素直ではないのか? なぜ、ねじれているのか? 必死で言い訳をするのではなく 一生懸命考えるべきです。悔い改めるべきです。 聖書のそういう文章は読み飛ばさないでくださいね。 書いてあることです。 貴方が本気で謝れば、 みんな許してくれると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 おぢぢです。  どうも夜明けは近いようですね。  わたしは何もしていないのに――これまでどおり 質問と投稿をしているだけなのに―― 周りが変わってきたようですね。  ぶくぶく泡をふき出してもいます。  あるいはあたらしい芽を吹き出すひともいるのではないでしょうか。  いつまで規約違反の投稿をくりかえしているんだい。小学生ぢゃありるまいに しゃきっとしなさい。そんなにさびしいのか。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 他人お考えを盗み、自分で仕掛けたその罠にはまる。 / あわれなひと。  ☆ あいつのことを言ったんだな。いま分かった。ならお門違いだよ。それとも あわれみ深いから当人には知らせず その当人がおのれのあわれさを知るようにさせたわたしに向けて 間接的に述べたのか。邪魔だ。

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.17

あんまり洗礼にこだわらないほうがいいよ。 洗礼云々じゃなくて信じて新しくなったか? 生まれ変わったのかのか。 深くなると解釈は色々 定義理論付けしてる暇あるなら 賛美祈りしてるほうがいい。 どっちが正しいと決めたとたん裁く状態はよくないから このへんで終わりましょう。神学者ならいいけど 私たちはそうではないから無駄な議論に力を入れないでね~

bragelonne
質問者

お礼

 katyan1234 さん どうかしましたか?  これはしたり。  ★ 無駄な議論に力を入れないでね~  ☆ そうさなぁ。  ★ どっちが正しいと決めたとたん裁く状態はよくないから  ☆ 教会側が 水による洗礼は 秘蹟として正しいと決めているという事実が先にあるのですよ。そこから出発してください。どうよ?

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.16

使途業伝に話をしてふさわしいから施したと書いてるし ヨハネ3:16を見れば洗礼を施された救われるなんて書いてなしし 信じるものは救われる あなたの口でイエスを主(しゅ)と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる 日本がまだ教会権威主義から完全に抜け出していない 牧師神父に頼り目覚めていない。 カトリックを批判しながらまだカトリック的と言う事かな~ 洗礼を受けるとすべてがそこの教会員になると言う事自体おかしい。 すべての方が奉仕できればいいけど使途業伝見ても世話される人がいるから奉仕しなければならないということもないし、本来その地域の教会で洗礼を受けたらそこの教会員になり奉仕することが必要なの? 洗礼を受けたら地元の教会で奉仕しても問題はないし、すべてが教会員になり弟子になる必要もない。なんか人が制度を作ってしまってる。 そんなような感じだね~ 韓国から賛美チームや福音を伝える人が来るけど日本人にいるかどうか知らないけどあまり見ないでしょう。 何故いないの?それも不思議 外であった多くはキリスト教と言われる方でないからね~ クリスチャンが出て行けばその関係ない人の伝える場所も少なくなってくるはずだし入る人も少なくなる。 僕より聖書を良く知っている人が多いはずだけど誰も書き込み教えない と言うのもなんかおかしいよね。 知識的な事は良く書ける人が多いけどね。 なんか主との関係が薄い 教会に行けば 牧師に相談すればと言う方は多いけど神様に相談してくださいと言う方はあまりいないね~教会に行っても牧師とお話しませんか? ですよね。このあたりが・・・・・ 本当は1日の間の数時間クリスチャン全体が静かに祈る必要があるけど 祈り聞くというのはあまり教えてない・・と言うより知らないのか御心じゃないのか知らないけど その辺も問題あるんだよね~ いつも海外から博士を呼んでさ~まだ成熟していない日本の教会なんでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 《論点》のつづきですが。  言いかえると 人は キリスト・イエスの十字架上の死とその後の復活のあとでは まず潜在的にすべての者がその罪(原罪)を赦され この条件の下で聖句( A-1)や( A-2)にあるように 聖霊のはたらきによって 信仰を与えられる。  このクリスチャンは そこで 《真理はきみたちを自由にする》というように自由にされます。霊的自由。  次に 社会的な経験的なそれゆえ相対的な自由が来ます。  そこでは わずかに霊的自由を制約するものとして(――もしくは むしろこの社会的な自由のもとで 霊的自由を現実に活かすためにその能力を与えられてのように) うえの掟が来ます。むろんこの《神の愛および人間の愛》という掟には 根源的な霊的自由が含まれますが その具体的な実践としては 社会的自由の問題になります。どちらかと言えば 《人間の愛》がつまり現実生活です。  すなわち《おきて》とは 《心を尽くし 精神を尽くし 思いを尽くして かれの神である主を愛し かつ 隣人を自分のように愛す》ことであり これへと生活の中で促されるものと思われる。  補遺です。  ( A‐5) (使徒行伝1:5)~~~~~~~~~~~~~~~~  〔復活のイエスの語るには〕《・・・ヨハネは水で洗礼を授けたが あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。》  ( A‐6) (ルカ23:43)~~~~~~~~~~~~~~~~~  磔にかかった犯罪人のひとりも 隣の十字架上のイエスから《あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる》と言われている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( A‐6)のほうで そのかれが 水による洗礼を受けることが出来たかどうか。

bragelonne
質問者

補足

 katyan1234 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。わたしは教会とのつながりがないので実情をよく知りません。いろんな現実があると思われますね。いま問い求める理論につながるお話あるいは理論の隙間を埋めてくれるお話としてうかがいました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  なんか主との関係が薄い  教会に行けば 牧師に相談すればと言う方は多いけど神様に相談してくださいと言う方はあまりいないね~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この際 水による洗礼が必要だという聖句( B群)そしてぎゃくに要らないという聖句( A群)を取り出しておきましょう。  ( A‐1) (ヨハネによる福音1:13)~~~~~~~~~~~~  この人びと(《ことばを受け入れた人・その名を信じる人びと(1:12)》)は 血によってではなく 肉の欲(もしくは《肉の意志》)によってではなく 人の欲(あるいは《人間の意志》)によってでもなく 神によって生まれたのである。  ( A‐2) (ローマ書10:9-10)~~~~~~~~~~~~~  口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これら二例に表わされたキリスト者は 霊による洗礼を受けたものであり その状態においてすでに 水による〔および霊による〕洗礼を受けたクリスチャンと同じ 神の子らであると考えられます。  ( B‐1) (ヨハネ3:5)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  イエスは答えた。《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない。》  ( B‐2) (マタイ28:19)~~~~~~~~~~~~~~~~  《・・・ あなたがたは行って すべての民をわたしの弟子にしなさい。かれらに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。・・・》  ( B‐3) (使徒行伝2:38-39)~~~~~~~~~~~~~  すると ペトロはかれらに言った。《悔い改めなさい。めいめい イエス・キリストの名によって洗礼を受け 罪を赦していただきなさい。そうすれば 賜物として聖霊を受けます。・・・》  ( B‐4) (使徒行伝22:16)~~~~~~~~~~~~~~~  〔アナニアからサウロ=パウロへ〕《・・・今 何をためらっているのです。立ち上がりなさい。そのかたの名を唱え 洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。》  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ( B‐5 / A‐3) (使徒行伝8:16)~~~~~~~~~~~~  〔サマリアの〕人びとは主イエスの名によって洗礼を受けていただけで 聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。  ( A‐4) (コリント前書1:17)~~~~~~~~~~   なぜなら キリストがわたしを遣わされたのは 洗礼を授けるためではなく 福音を告げ知らせるためであり しかも キリストの十字架がむなしいものになってしまわないように 言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《論点》を確認するかたちで述べます。  キリスト者に対して課された《命令》は 《神を愛するおよび人を愛する》という二つにして一つのことがらである。これのみである。――ファリサイ派の律法の専門家に尋ねられたイエスがこれら二つの事柄が最も重要な掟であると語っている。マタイ22:34-40。あるいは  ▲ (ヨハネ13:34) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  《・・・あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように あなたがたも互いに愛し合いなさい。・・・》  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 従って 水による洗礼が この《掟》のほかに絶対条件に加えられるとは 人間の理性の問題に限るならば 考えられない。  そこで なぞとしての秘蹟の問題が現われる。のですが これについては これまでのやり取りで述べてきたところを批評・批判の対象としていただきたいと思います。

noname#99048
noname#99048
回答No.14

No.8です。 > 《神の見えない恩寵を具体的に見える形で表わす》ことが出来るのか? > 《人間が 秘蹟を 儀式において成り立たせることは できないし あり得ない》 > 〔あるいは精確に申せば 《秘蹟を人間が成り立たせる――つまり水による洗礼をとおして 聖霊のくだり現われることを成り立たせる――ことは できるかどうかわからない》 読んでて思いましたが、いかにも、やぼなモノ言いです。なんでヤボだと思うかは、ご自身おっしゃった > 洗礼はたしかにイエスも受けましたが それは この世界へのかれの現われを告げる洗礼者ヨハネに敬意を表してその儀式に従った。 ↑この発言とあわせて、そちらで考えてみてください。 > 個人で一方だけの見解に固まっても その問題の指摘はむつかしくないかも知れません。でも組織で固まってしまったなら その間違いの修正は 容易ではないと思われます。 「組織」の性質というものは、<一方だけの見解に固まっても その問題の指摘>を困難にするものです。まさに、そのためにあるようなものですから、組織というものは。 だから、「いじめっ子」というものも、徒党を組み、数を頼もうとするんです。「組織」の性質というものが大いに利用できると踏んでいるからです。 ところで、ここが肝心 > > エリートたるキリスト者つまり神に選ばれたというその信仰を どうしてわざわざ《水による洗礼という儀式》に表わさなければならないのか? どうしてまだ選ばれていない人びとと区別するかのように そのバプテスマというしるしを着けなければならないのか?  それは 自由ではないのではないか? 霊的自由をむしろ傷つけているのではないか?  ↑この考えの方が、いやな感じがします。むしろ個人の自由を侵しているように思える。 上記の部分について ★ 自由を侵す ☆ というよりは 信仰によって得られる境地をもっと自由に開いて――という意味は 水による洗礼にこだわらずにということですが そのように開いて―― 自由を拡げてください。と言っているのですが。それが 大きなお世話である・・・のかも知れないですね。 と返していただきましたが、より正確には、↓この部分の方が、いやな感じがするのです。 > つまり神の子となったことについて――と言っても 神の子であり神であるキリスト・イエスのことではなく その名をこころに受け容れて かつては闇の世界にさまよっていたのを光に照らされ光の子らになるという意味で神の子となったことについて―― まだそうでない人びととの区別をするかたちで どうして 水の洗礼を受けなければならないのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ キリスト者となったなら もうそれでいいはずです。なぜほかの人びととの区別をするという結果になる水の洗礼を受けるのか? 区別をしない、という一番効果的で手っ取り早い手段は、「組織」化することでしょう。 ご自身が批判しておられる「組織」というものと、他ならぬご自身の提唱するお考えと、底通したものを感じさせられるのです。それが、こちらが受けた「いやな感じ」の原因かもしれません。 宗教の(目には見えなくとも)致命的暴力性に関わることでもあります。 よく考えてみてください。

bragelonne
質問者

補足

 ★ よく考えてみてください。  ☆ と言われてもねぇ。  ★ ご自身が批判しておられる「組織」というものと、他ならぬご自身の提唱するお考えと、底通したものを感じさせられるのです。それが、こちらが受けた「いやな感じ」の原因かもしれません。  ☆ わたしの批判しているのは  ○ 宗教組織  ☆ に対してです。ふつうの団体が組織的な活動をすることについては 結社の自由がなじむと考えています。重ねて述べるなら  ○ 宗教組織とは 《個人の非思考という内面にかかわる(=霊的自由にかかわる)信仰内容を言葉にしたものを わざわざ教義としこれを基にして組織をつくり 信仰を興すことを活動の内容とする集団》です。  ☆ ということは 宗教以外の組織は 結社の自由が当てはまると言っていることが 変なのでしょうか?――つまりは言いかえると 宗教組織について批判しつつ そのほかの組織については認めているというとき そもそも《組織》としては同じであるのだから その  ★ 「組織」というものと、他ならぬご自身の提唱するお考えと、底通したものを感じさせられるのです。  ☆ ということでしょうか? もしそうでしたら こんどは  ★ 他ならぬご自身の提唱するお考え  ☆ と言われるその内容はいったいどういうふうに理解しておっしゃっているのでしょう? これについては 当のわたしは理解に苦しみますので ぜひ明らかにしていただきたいところです。  ○ 人間の――個人としての――内面における信教・良心の自由と その霊的自由をあくまで重んじた人間の社会的自由 この自由を実現させよう。  ☆ これですよ。このように提唱する考えが 組織の弊害を持つというのは 解せないですね。組織のソの字も入っていないのですが?  ★ 宗教の(目には見えなくとも)致命的暴力性に関わることでもあります。  ☆ これは わたしの批判するところでも触れていると思うのですが どうも慎重に考えなければならないかも知れません。つまり その《宗教の(目には見えなくとも)致命的暴力性》をどう捉えているのか 明らかになっていないようですから。  わたしの場合は こうです。  ○ 非思考・非経験の信仰が 思考としての教義や経験行為としての組織活動に翻訳されるなら その翻訳の時点で 自殺行為となる。  ☆ というものです。どうでしょう?  前半の   ★ いかにも、やぼなモノ言いです。  ☆ これも 考えてみてくださいと言われても 何とも どこがどうなのか 残念ながら一向に分かりません。申し訳ないですが あしからずお受け取りいただかなくては どうしようもありません。  * ひょっとしてと思って書きますが イエスはあくまでいわゆる旧約の世界からの継承ということを ひとつにこの洗礼者ヨハネのおこなった洗礼を受け継ぐことで 示したという意味でわたしは言ったのですが? その継承が成れば もう要らないわけです。

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.13

もうぶっちゃけいいますね。洗礼の施す基準は牧師の信仰の基準なんです。ある教会の牧師は信仰があるといいいある教会の牧師は信仰がない ある人は信仰がなくても教会に行くだけで信仰あると認めれ ある人はその反対で行いがあっても教会 牧師が認めないケースもあるの たとえば求道中に事故があって死んだら天国にいけないのか?なんてそんな馬鹿な話はないでしょう。 もっと言うなら救われて洗礼を受けた方が福音を伝えていないというのはクリスチャンなの~これは命令だよね。 まあクリスチャン教会を非難しても意味がないからやめますが mmkyと同じ考えですね 洗礼はあってもなくても言いと思う。問題は救われたと告白できる事ですね。だからある人は洗礼によって救われたというならそれでいいし まあ救われたというなら洗礼を施してあげるこれが本来のあり方 使途業伝にも話を聞いてふさわしいから施したとかいてますよね。 正餐式も本来聞く人全員に与えてもいいと思うけどね~

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。事件は現場で起こっているのでしょうね。  その原因はどこにあるか?  牧師や神父の人格や性格によってではないでしょうね。つまりそういう場合は いま別として考えるということになるのだと思います。  それでは どこから来るか?   たとえばパウロが――サウロからこのパウロに名を変えるときかれは―― たしかに水による洗礼をただちに受けなさいと言われました。ダマスコでしたかのどこの誰だれからと指定されていたと思います。  これは とうぜんイエスの系譜からですね。そのイエスが洗礼を受けたのは かれ自身つまりキリスト・イエスの出現を先触れした洗礼者ヨハネに従ったからでしょうし そのかれに敬意を表して弟子たちにもそうするように言ったのだと思います。  ところが この水の洗礼が このように一人ひとりとして伝えられていくぶんにはまだいいのだと思います。一たん組織立ってくると 《おしえ》も取り決められていくでしょうし 運営の規則さえ作られて行きます。洗礼も その組織の活動として行われるようになり 規則にのっとる儀式とされて行きます。  聖霊がくだることが そもそも洗礼です。空からくだってくる様子が鳩のように見えたとしても 聖霊じたいは見えません。この《聖霊によるバプテスマ》つまり《回心=信仰の始め》に 《水による洗礼》がつなげられたのだと考えます。  《回心》が成って信仰が与えられたゆえ その当時は 水によっても洗礼を受けたということではないでしょうか? ちょうどアブラハムが信仰のしるしに割礼をほどこしなさいと言われたようにです。儀式が先にあるわけではないはずです。また儀式によって 《回心=信仰》が得られるわけのものではないと考えます。  どうでしょう?

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.12

 ○ これら《古い宗教や儀式など》でその頃の人びとは 《すくわれていた》のでしょうか? マルチンルターが、「免罪符で人は救われない。」と吼えたときの情熱は感じますね。 日蓮は法華経こそが日本を救うと吼えました。その情熱ですね。 その情熱は高く評価できるものです。 然るに、彼らは長い歴史の中でどれだけの人々を救い得ただろうか。 彼らが戦った相手は決して悪魔ではなかった。より高みを求めて挑戦した相手もまた方法は違えど同じ側にいたものであった。これが歴史の皮肉といわれていることですね。 「救われる。」「救われない。」は完全な2分法ですが実際も完全な2分法なのですね。グレーな領域はありません。完全な白か黒の世界ですね。この白か黒を決める答えは非常に簡単で『あの世がありその世界に神仏がいる。』と信じているかその反対に『あの世などない故に神仏などいない。』と信じているかで白・黒が決まるだけなのですね。つまり高尚な知識など必要がないのです。信じる神仏が正当な神仏であればよいだけですね。 《古い宗教や儀式など》でもそれを通じて『あの世がありその世界に神仏がいる。』と信じるようになればいいだけだったのでしょう。 ただ、簡単な事をさておき儀式だけに成り下がりわけのわからない教義解釈を宗教の名の下に押し付け寄付を集めるだけの間違った方向に持っていくようになれば、それは当然,害でしかないですからね。そのような団体が目に付くようになれば吼えてもいいんですね。ただ真っ当な者もいるということは考慮しないといけないということだけということだと思ってます。

bragelonne
質問者

補足

 mmky さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ちょうどオコリザルさんから 追及の手が甘いとお叱りを受けたところです。mmky さんはそれをも見越して 今回あらためて投稿をなさったかに感じますが ま それはどうでもよいことです。  (この或る種の三つ巴の関係は それじたいは そういうものとして事実であり 一般にひとりの人の推論の過程においてすら起こりうる選択肢の洗い出しとその判定の問題だと考えます。  つまり誰がこうで彼がああだとどうしても規定しなければならないような問題ではないという意味です)。  今回のご回答内容では つぎの点に注意が止まりました。わたしの側からの反論も添えます。  ★ マルチンルターが、「免罪符で人は救われない。」と吼えたときの情熱は感じますね。  ☆ つまりここでは 《情熱》の問題ではないはずです。ルーテルは《水の洗礼は秘蹟として継承する》という立ち場だと思うからです。  わたしが疑問を持ってから考えて得ている理論によれば ルーテルの立ち場も 根拠を失うというものです。  ★ 然るに、彼らは長い歴史の中でどれだけの人々を救い得ただろうか。  ☆ いまわたしがここで問うていることは この質問とそれに対して得られるご回答の蓄積によってひとをすくうということが目的ではありません。哲学の問いであり 人間の自由の問題なのです。  (詭弁だとおっしゃるかも知れませんが それは 《信仰=回心》という立ち場からのご議論です。そうではなくここでは 少なくとも《信仰=回心》の論議なのです。哲学的解明なのです。  (つまり 誤解を生むのを承知で言えば この哲学的解明によって ひとがすくわれようが救われまいが どうでもいいという人間存在にかんする部分的な立ち場にあります)。  (もっと言えば 部分が全体を見通すのです。しっぽが犬をみちびくのです)。  ★ 彼らが戦った相手は決して悪魔ではなかった。・・・  ☆ という人格全体の立ち場の一歩手前で問うています。ですから  ★ ただ真っ当な者もいるということは考慮しないといけないということだけということだと思ってます。  ☆ という問題の配慮はしていないのです。しないという前提で問うています。それが 理論だと考えます。  つまりぎゃくに言えば ものごとは理論どおりに行くとは限らない。こういう注意を mmky さんは発しておられるのかと思います。微妙に食い違っているのではないでしょうか? おそらくわたしのこの種の問いは成立すると思いますし その言ってみれば卑しい哲学の立ち場から対話をすすめていこうということになってよいと思います。  そうすることによって おおきな・しかも深い神学的かつ人格的そして現実共生的な問いかけが為し得ることになります。  ★ 簡単な事をさておき儀式だけに成り下がりわけのわからない教義解釈を宗教の名の下に押し付け寄付を集めるだけの間違った方向に持っていくようになれば、それは当然,害でしかないですからね。  ☆ といった実際の不祥事の問題は論外とすることができていると考えるからです。  免罪符を売ったから間違いだという論理ではありません。インチキ宗教だからその組織化は悪だという問題ではありません。そうではなく 人間の霊的な自由と社会的な自由の問題です。  言ってみれば 宗教関係の側から《すくい》がどうだ《さとり》はこうだと勝手にかまびすしく吼えつづけていますから こちらはいちど立ち止まり冷静になって それぞれのわが信仰のことを思ってくださいと申し上げていることになるだけだと思いますよ。どうでしょう?

noname#117439
noname#117439
回答No.11

オコリザルです。 自らの課題なんですが、お弁当の持ちよりです。 「許し」とは悪の論理である。 許すなら悪の表明である。 どうでしょうか。 奇麗事を述べると見誤りますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます オコリザルさん。ご回答をありがとうございます。  mmky さんとのやり取りをめぐってのご見解でしょうか?  いまのわたしの見解は 《水の洗礼という儀式は 組織の行動として一方的に勝手にその目に見える行為に〈神の聖霊のくだること〉をつなげているから間違いである》というものです。  したがってこのとき mmky さんは 《そうかも知れないが 部分的に段階ごとの信仰のあり方として救われることがあるかも知れない。よって洗礼も 認める。つまり不要論を一義的に推し出して主張することはない》というご見解のようです。  したがって もしこの内容をわたしが認めてしまったなら それは――わたしの理論に関する限り―― 悪である。  ということですよね? 理論を徹底させず 途中で部分的にしろ間違いだと思う部分を《ゆるす》なら それは 悪であると。すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「許し」とは悪の論理である。  許すなら悪の表明である。  どうでしょうか。  奇麗事を述べると見誤りますよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 同意します。屈服します。  その上でわたしが注意したことがらを添えます。  かれはいつも 対話の途中で 議論がだいたい熟したと思ったなら もう投稿はして来ません。ところが 今回は (1) 哲学を逸脱していると思うところについては ご自分でそう事割っている。(2)それと 上に要約した見解つまり《洗礼不要論を深追いはしない》という内容を出すと わたしが不承知だと分かっていると述べています。  ここでわたしは 追及になるかのごとき議論をやめると判断しました。   もっとも 先に同意した《ゆるしは 悪の論理だ》に従えば 追及になるのではなく 理論の探究には欠かせない最後までの問い求めだとなります。  どうでしょう。わたしは 自分のこのあやまちを背負ってすすみますが さらにほかの方々から見れば どう映るでしょう?

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.10

☆そうですね。私は議論はあまり好きではないですね。主を通じて聞くだけですね.聞いた内容だけでお答えしているからですね。過去の著名な宗教家からお話を聞き,過去の著名な哲学者からお話を聞き、過去の科学者からお話を聞いているからですね。だから過去の教義・教え・主張には囚われないのです。ご本人の失敗もありますし今はこう考えているということもありますから。 ○ 個人の信仰と集団の宗教とをきびしく分けるべし。 ○ 宗教は要らない。など。 議論ではなく感想です。 ☆神仏と共に生き、日々神仏の御心をそんたくしていると神仏にも喜びも悲しみもあることがわかるのですね。「宗教戦争でつらい目をしているものにはイエスもムハムンドも仲良しなのですよ。人時所で教えが違っただけなんですよ。教えの違いで争ってはいけない。霊界の構造を秘儀として教えてこなかったからそうなったのであればそれを公にしよう。それを知った弟子はそれを伝えなさい。それで宗教戦争がなくなるのならそうしなさい。地に降ろした古い教義を妄信して争いが起きるなら新しい現代に沿った教えを降ろしましょう。それを知った弟子はそれを広めなさい。 ありとあらゆる苦しみに処方箋が必要ならありとあらゆる処方箋を降ろしましょう。それを知った弟子はそれを広めなさい。」 と来るわけです。また、「一人で伝えられなければたくさんの使命を持ったものが力をあわせて広めていきなさい。」と来るわけです。それが回心したものに迫り来る主の御心なのですね。 個人の信仰のままでいられるでしょうか? 回心するとありとあらゆるものが輝いて見えます。その輝きのなかに創造主の悲しみもあるということに気付くのですね。それが信仰の先にあるものなんです。 これは信仰者の誰しもがいつかは経験することです。 それを座して見過ごすわけにはいかないのですね。 それゆえ、必然的に個人の信仰と集団の宗教とをきびしく分けられないのです。仏教では個人の悟りから大衆救済へという小乗から大乗へという道が説かれますがそれが必然なのですね。これが今の私の考えですね。  だから古い宗教や儀式など不要といえば不要なのですが、それでも人が救われるのならよいではないかぐらいのことなのです。これはお叱りを受ける態度かもしれません。bragelonneさんのように洗礼など無用。宗教団体など無用。と切り込んだほうが喜ばれるかもしれませんね。しかし、私の主は『理性的な愛の神』ですから争いごとはあまりのぞまれないのです。というより弟子が不幸になることを望まれないということでしょう。イエスのほうがむしろこの世に不適合になるような争いごとはすきかもしれませんが。このあたりにイエス教(感性的)とイエスの主の教(理性的)の差異が出ているのかもしれません。 更に、宗教という名前が良くなければ哲学でも科学でもよいというお考えですね。こだわりはまったくないですね。個人の主張・教えが弟子を作り弟子が弟子を作り面々と続くだけのことですね。人も神も進化するので古くなれば全てを打ち壊し新しい主張・教えを出す。ということだと思います。 それ故、bragelonneさんの主張はイエス教に対しては大筋で合っているとは思いますがなにぶん哲学的な裏打ちはできないものでご勘弁をということです。科学がもっと進歩して霊界テレビでも出来、僧侶も宗教団体の長も過去の教祖の意見を直に聞くことができれば儀式や教義などの論争などはなくなるかもしれませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 mmky さん 分かりました。mmky さんのお立ち場を尊重することとします。  ご回答をありがとうございます。  たぶん いちばんの違いは つぎでしょうね。  ★ だから古い宗教や儀式など不要といえば不要なのですが、それでも人が救われるのならよいではないかぐらいのことなのです。  ☆ これに対してはわたしが承知しないとすでに読んでいらっしゃいますが その不承知の内容と理由は つぎのごとくです。これは 問いによって明らかにすることができます。  ○ これら《古い宗教や儀式など》でその頃の人びとは 《すくわれていた》のでしょうか?  ☆ 《然り》というお答えでしたら もうわたしは何も申しません。  そういう違いだと考えます。  といったところでしょうか。もうどうでしょう?とも申しませんが。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

宗教的回心をしたものにとっては『洗礼は不要』ともいえるものですが、 信仰にもいろんな段階があるのですね。 イエス教ではあまり詳しい教義はありませんが、仏教では「よる」、「いちげん」「ふげん」などいろんな信仰者の段階を表す教義があります。「よる」は字の通りあるレベルに寄ってきたという段階ですね。「いちげん」はあるレベルを維持するためにはもう一回生まれ変わらないとだめですねという程度ですし、「ふげん=不還」はそのレベルから落ちることはないという具合ですね。 イエス教もこれに似たところがあり、洗礼には、まずイエス教の玄関に入りなさい程度の意味しかないのでしょうね。組織としてはそれが囲い込みの一手段でもあるのですが、信仰の初歩としてはまずなんらかの縁をつけるという意味づけ程度はあるわけですね。普通の一般人はその程度で十分満足するのですから。 話は変わって、親鸞は宗教的回心をした者ですから自身の信仰には厳しかったですが、周りのものには極重悪人でも救われるといっていますので、他人にはあまりに寛容ですね。普通に考えても仏教信仰の本質から逸脱していることも平気でやっているのですね。 内村鑑三もそうでしたね、あまりに自身に厳しすぎて社会不適合を起こしましたがイエスには愛された人ですね。日本のイエス信者で内村鑑三ほどイエスに愛された人はいないのですね。その内村鑑三でさえ教会からは距離をおいてましたね。 イエスに愛される条件は宗教的回心ですね。イエスが父と呼んだ者に対する信仰も同じですね。私がイエス教をキリスト教と書かない理由はイエスは救世主(キリスト)ではあるがその一人でしかないことを知っているからなんです(哲学的ではありませんが)。 つまり、真の信仰とは、宗教的回心を誰に対してしたのかだけなのですね。そういう意味で『洗礼は不要』は正しいのですが、では宗教的回心をした信仰者が取るべき道は何かと問われるのですね。私は父(全知にして全能の主)に対して宗教的回心をしましたので知りえた宗教・哲学・世界のあらゆる真実で回答することにしたわけです(理解されようがされまいがはどうでもいいことなのです)。さて、bragelonneさんはどのようになさりますか。2000年前の苔むした教義ではなく現代のイエスの言葉において『洗礼は不要』と主張されるのであればそれもよしですが。 ちょっと余計ですが。 真のイエスの言葉を借りれば、「苔むした教義にしがみついて現代のパリサイ人、サドカイ人になるなかれ、我・言葉にて再誕せり。心の目を開け。」とおっしゃってますので、洗礼といわず、教会さえすでに無用の長物なんでしょうね。「新しいワインは新しい皮袋に」は今も同じだそうです。(これも哲学てきではないですが)

bragelonne
質問者

お礼

 どうも mmky さんは対話を最後までとことん しつっこくでしょうか 進めるのはお嫌なようで こちらとしては困りますが さてどうしましょう?  わたしは この点について特に策を考えているわけではありません。というよりは こう考えています。  ○ 個人の信仰と集団の宗教とをきびしく分けるべし。  ○ 宗教は要らない。それは 《こころの明けないし伸び》という非思考なる信仰の内容を仮りに言葉にして表わすまではよいが その文章内容を教義とすること および その教義にもとづいて組織を組むこと これとしての宗教は 信仰の自殺行為である。  ○ 非思考・非経験の信仰内容が 思考としての教義や経験行為としての組織活動に 道をゆづってしまうその瞬間に 自死となる。  ○ しかも生活日常では――それを井戸端会議とも言ったりしますが―― 信仰は一般に背景へしりぞく。たとえばキリストのキの字も出すことなく 対話や議論をおこなっていく。(専門的な研究などでは別)。  ○ 信仰(つまり 回心)のあとの実践は 一般に哲学思想でありもろもろの経験科学である。というよりも 現実の生活であり 共生である。  ○ (そこに倫理規範を敷いて道徳が大事だと称し ごっついビルディングを建てたりアスファルトを敷いたり何ごとをも四角四面の窓で区切ってやっとそこからのみ眺めることが出来たりするその意味での宗教は 要らない。百害あって一利無し)。  ☆ mmky さん バトンタッチです。

bragelonne
質問者

補足

 おおおおおおおーーーっ。来ましたね。  mmky さん ご回答をありがとうございます。  (α) 宗教的回心をしたか否かが問題だ。  (β) 洗礼といわず、教会さえすでに無用の長物なんでしょうね。  (γ) では宗教的回心をした信仰者が取るべき道は何か。  (δ) 2000年前の苔むした教義ではなく現代のイエスの言葉において『洗礼は不要』と主張されるのであればそれもよしですが。さて、bragelonneさんはどのようになさりますか。  (ε) 私は父(全知にして全能の主)に対して宗教的回心をしましたので知りえた宗教・哲学・世界のあらゆる真実で回答することにしたわけです(理解されようがされまいがはどうでもいいことなのです)。    * ただしに注釈として。ぜひ《理解されるように》しましょう。  mmky さんとはもっと早くこういう対話をしていたかったですね。わたしの突っ込みが弱かったでしょうか。  でも言っときますが わたしから見て弱点があります。のっけからですが 二点掲げます。   (1) 霊界をあまりに詳しく述べすぎです。  ★★ (No.6) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  信じるかどうかは別にしてあの世にはイエス系霊団のほかにたくさんの霊団があり霊団への帰属方法は皆違うようですね。仏教系霊団では言葉による「三宝帰依」ですしね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん霊界は たとえ区分けがされていたとしても けっきょくは同じひとつの《無根拠なる永遠の根拠》です。  参照されたし:【Q:現代日本に必要な哲学は?】回答No.9(=信仰類型論)  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html  (2) 輪廻転生は 哲学としては ありえないと言わなければなりません。同じDNAの人間が別にいることはありませんから。  ☆ もっとも 哲学を逸脱することがらを 哲学から外れますがとことわって述べるのは 哲学的です。今回はきちんと事割っていただきました。――それと文学における表現としては まったく自由です。無条件に自由です。輪廻転生は 文学です。文学を哲学が方便として使うと言うなら もう黙りますが でもその事割りもゼッタイに必要ですよ。  ☆ はじめにあらましを復唱しましたが これを細かく見ていきます。特に(α)についてわたしの見方を述べますので mmky さんも応答してください。ほかの訪問者のみなさんのためです。  (α) 宗教的回心  ☆ わたしとしましては 《宗教》という言葉がもはやそぐわないと考えますが 表現の問題だということで措いておきます。  《回心》は 《改心》ではないことについて みなさんに知っていただきたいですね。回心の結果 こころが改まることになりますが それは人間が自分の能力と努力だけでこころを改めるのではないという見方が前提になっています。《こころを入れ替える》ことは 日常のいろんな具体的な経験に触れておこなうことです。そういう意味での改心とは違うという意味になります。  それは ほとんど経験行為ではなくほとんど意志行為でもありません。  ○ 或る晴れた日わがこころにおとづれた何ものか その何ものかにふとさとることがあって なおなぞであるそのものの方へとわがこころを回(めぐ)らす。  ☆ こころを回らしたあと 《なぞを受けとめこころに受け容れた》という受領証を発行するのは わたしの経験的な意志行為ですが――     つまりその証書にわがこころのハンコを押すことが 《信じる》    という行為ですが。つまりなぜなら その署名捺印が こころの明け    もしくは伸びとして《信じる》という行為になります。要するに《そ    のなぞを受け容れる》ことです――  ほかの部分はすべて 向こうからやって来るのです。  次も参照されたし。   ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕 ~~~~~~~~~~~~  自然といふは 自はおのづからといふ 行者のはからひにあらず   然といふは しからしむといふことばなり。  しからしむといふは行者のはからひにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。  * 爾(に・じ):しかり。そうである。  ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自己を運びて万法を修証するを迷とす。  万法進みて自己を修証するは悟りなり。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ゆえに (β) 洗礼といわず、教会さえすでに無用の長物なんでしょうね。  ☆ それ (γ) では宗教的回心をした信仰者が取るべき道は何か。 (δ) および (ε) (省略)  ☆ それでは どうなりますか。どうしますか?

noname#99048
noname#99048
回答No.8

【Q1】:そうでしょうね。 【Q2】出来るのか?成り立つものなのか?:出来る、成り立つとして、そうしているんでしょうよ。 【Q3】:同上 【Q4】:無効であるなら無効でしょう。 【Q5】:「そこまでである」なら、そこまででしょう。 【Q6】「組織としては 有効だという前提に立つはずであるから やはりその前提が無効だと言わなければならないのではないか?」:結局、「組織だから」、ですか? 個人的には、質問者さんの↓ > エリートたるキリスト者つまり神に選ばれたというその信仰を どうしてわざわざ《水による洗礼という儀式》に表わさなければならないのか? どうしてまだ選ばれていない人びとと区別するかのように そのバプテスマというしるしを着けなければならないのか?  それは 自由ではないのではないか? 霊的自由をむしろ傷つけているのではないか?  ↑この考えの方が、いやな感じがします。むしろ個人の自由を侵しているように思える。 (なお、こちらは、クリスチャンではありません。)

bragelonne
質問者

補足

 Baldur09 さん ご回答をありがとうございます。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    > エリートたるキリスト者つまり神に選ばれたというその信仰を どうしてわざわざ《水による洗礼という儀式》に表わさなければならないのか? ・・・  ↑この考えの方が、いやな感じがします。むしろ個人の自由を侵しているように思える。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですか。それは残念。これを積極的に推し出したいと思っていたものですから。  ★ むしろ個人の自由を侵しているように思える。  ☆ ですか。たしかにそうですね。つまり それでは《信仰》にもとづくこころや境涯が縮こまると 本気で 言っているわけですから。まぁ  ★ 自由を侵す  ☆ というよりは 信仰によって得られる境地をもっと自由に開いて――という意味は 水による洗礼にこだわらずにということですが そのように開いて―― 自由を拡げてください。と言っているのですが。それが 大きなお世話である・・・のかも知れないですね。  ★ 【Q1】:そうでしょうね。  ☆ ありがとうございます。ですが  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【Q2】出来るのか?成り立つものなのか?:出来る、成り立つとして、そうしているんでしょうよ。  【Q3】:同上  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 困りました。組織の当事者は 自分たちの取り決めたとおりに それが妥当だと思っているのでしょうねということですから それについて ご自身のお考えをおしえて欲しい。こういう問いにはなっています。あるいはそれでも  ★ 【Q4】:無効であるなら無効でしょう。  ☆ とも明らかにしてくださいました。これは 大きいと思います。《無効である》という明言にまで到れば 大きな発言だと思います。  ★ 【Q5】:「そこまでである」なら、そこまででしょう。  ☆ 必ずしも明快なご発言では まだ ないのですね。  ★ 【Q6】「組織としては 有効だという前提に立つはずであるから やはりその前提が無効だと言わなければならないのではないか?」:結局、「組織だから」、ですか?  ☆ これは こうです。すなわち その結果をまねくのは《結局、「組織だから」》だと思うのですが その結果の原因は はっきりしています。  ☆☆ 有効か無効か 人間には分からないことについて その一方の《有効である》という見解に固まるのは 人間の自由が軽く見られている。  ☆ これが間違いの原因だと思います。そして組織でなければ 個人で一方だけの見解に固まっても その問題の指摘はむつかしくないかも知れません。でも組織で固まってしまったなら その間違いの修正は 容易ではないと思われます。  こんなふうに受け取りました。

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    キリスト教の洗礼を受けたい軽度の境界性人格障害者(20代後半、女)です。 長く、また苦労自慢で恐縮ですが、私の背景をお話させてください。 幼少時は両親のネグレクトに耐え、ずっといい子 で成績もよく生徒会長もやり難関校への中学受験も余裕の判定を得ていましたが、両親の離婚からそれは叶わず、離婚直後精神の限界で3年間引きこもりになったものの、そこから死に物狂いで勉強し社会復帰をして、ある医療系の国家資格の全国模試の日本一位をとったり、自分の人生の苦労談の作文で県の文化勲章を貰ったり、勉強会で知り合った教授の紹介で東大大学院で私の選考分野の最先端を学び、現在は一流企業の研究者になりました。この春最年少の昇進も果たしました。 上記のように自分の人生を振り返ると人にはとても褒めて貰えます。 人格障害者ですが、被る仮面は完璧らしいです、人間性も良く褒められます。そのため、普段人には障害が気付かれません。(身体的な自傷行為はないからというのもありますが。)また、容姿は良いほうらしく人によく告白されます、けれどいつも私はすぐに別れてしまいます。婚約破棄も3回しました。 人に完璧と言われます。けれど私の心はとても空虚です。学問は奥深く私の苦しみを紛らわせる為にし続けますが、知識をつければつけるほど周りの全てがくだらなく思え、余計孤独になります。 前置きが長くなって申し訳ありません。 様々な宗教を哲学の延長線として勉強しました。 私はキリスト教がとても好きだと思いました。 私は、神様の愛が欲しいのです。 けれど地元のカトリック教会の神父様には人格障害者でとても苦しいから病の秘匿で洗礼を受けさせてくださいと言ったら、あなたは神を信じていない、教徒として生きるということは周りの教徒と共に生きることなのに人を見下している。洗礼を与えることは出来ないと言われました。私にも非はありますが、とても傷つきました。 神様を愛しています、完璧だからです。そんな神様を愛する資格が形として欲しいのです。 体が弱く、人格障害を隠して働いているので土日は衰弱して点滴を打ったりしています、ミサも必ずしも行けるわけではありません。 やはり、洗礼を受けることは無理でしょうか。1人、孤独に祈ることしか許されないのでしょうか。私は一日でも早く、洗礼名を頂き、神様に使える者として生きたいです。 酷い告白で大変恐縮ですが、ご指導ご鞭撻をどうか宜しくお願い致します。

  • 神の言葉なる聖典も 言葉として 偶像ではないのか?

     (1) 組織宗教の場合に 組織上の権限〔を持つ人間の意向〕が各人の信仰にまで及ぶという――それによって信教・良心の自由を侵すおそれがある――問題があります。具体的には オシエが――それはいかに神の言葉だと言っても 人間の言葉で自己表現された文章であるからには神ではなく信じるものでもなくただ考えるものであるのに――信じるように説かれたりするという問題です。  (2) ここでは 偶像崇拝を禁じるというオシエについて考え問います。  (3) 旧約聖書には こうあります。  ▲ (出エジプト記 20:4-5) ~~~~~~~~~~~  あなたはいかなる像も造ってはならない。  上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。  あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですけれども このオシエは 人間の言葉――声および文字――で発せられ書かれているからには ただの偶像ではないのか? 地上のものであり そうとすれば被造物なのではないか? そのような言葉という素材で表わされたオシエを神の言葉として守ることは 偶像崇拝になるのではないか? こういう問いです。  (2) 新約聖書にも 偶像崇拝を否定する記事が――パウロの書簡などに――ありますが 教会も カトリックもプロテスタントもすったもんだしながら 特に偶像が問題ではないというところに落ちついたと言ってよいのでしょうか。  (3) イスラームにおいては 読誦されるアラビア語によるクルアーンが 神の言葉そのものであると説かれます。その根拠についての説明があります。  ▼ (ヰキぺ:クルアーン) ~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B3  § 2 特徴  § 2.1 イスラーム教における位置付け  (3-1) クルアーンは、神がムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉そのものであるとされ、聖典としての内容、意味も、言葉そのものも全てが神に由来する。  (3-2) クルアーンが神の言葉そのものであることを信じることはイスラーム教の信仰の根幹である。  (3-3) イスラーム神学では、クルアーンは神の言葉そのものである以上、神に由来するもので、神の被造物には含まれない。  (3‐4) クルアーンを記した文字や本、クルアーンを人間が読誦したときにあらわれる音は、被造物である人間があらわしているので被造物の一部であるが、その本質である言葉そのものは、本来被造物の世界に存在しない神の言葉である。  (3‐5) 従って、神の言葉であるクルアーンが地上に伝えられていることそれ自体がムハンマドに対して神がもたらした奇跡であると主張される。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (4) さて どうでしょう?   (4‐1) すなわち いかにアラビア語と言えども言語として被造物の一部であってその限りで偶像をつくりうる素材なのであるが そのような偶像要素としての人間の言葉を用いて著わされたクルアーンは しかしながら 被造物ではなくなる。ということか?  (4‐2) 被造物ではない神の言葉が 被造物という素材によって現わされたのではある。  (4‐3) 被造物であるというのは 偶像もしくはその要素だということ。ということは クルアーンは 偶像であって偶像ではない。  (4‐4) さて どういうことでしょう?

  • 組織としての宗教は 違憲ではないか

     1. 宗教組織は 結社の自由になじまないのではないか? 信教の自由を侵しかねないかたちと内容をもって 憲法違反ではないか? 以下 これを問います。  2. 信仰は 《良心・信教の自由》がうたわれているとおりに 個人の内面主観において自由に成り立つと考えられる。  3. しかるに宗教とは この信仰から得られた生活態度ないし世界観をオシエとして表現したものである。  4. その宗教は しばしば教団とよばれる組織を持つ。一般には 結社の自由において 自由だと見なされている。  5. ところが 信仰の教義化かつ組織化は まづ教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている(註1)。しかもそのオシエを中心としオシエに従って 組織の権限関係が形成されることになる。  6. ならば 一方で主観内面としての信仰はすでに消えており(もしくは 蝉の抜け殻と見るべきオシエに変身しており) 他方でしかもその信仰が――という意味は オシエとその遵守というものに成り変わった信仰観念が―― 組織の運営や人間の関係にとって判断・評価の基準とされることになる。  7. つまり 信仰ではないものが信仰と見なされしかもその教義が組織〔としての人間関係〕の中心となる。教義が中心となるということは 組織の権限関係において最高の地位に立つものが解釈したその教義内容が中心となることを意味する。  8. もしこうであるならば 組織の長としての人間が ほかの人びとを・そしてしかも組織の外の人びとをも ほんとうは信仰ではなくなっている倫理規範としての《教義》とその知識および実践の度合いに応じて 評価しときには裁くというかたちになる。  9. これは 信仰の・または信徒のあつまりではありえない。言わば道徳ごっこである。道徳ごっこっとしての仮面をかぶったイジメ合いである。  10. 自分も他人もそして世の中が 自分の思うようにならないという《苦――生老病死だそうだ――》から逃れようとして いやそれなら自分以外の人間をみなおれの思うようにあやつればよいという支配欲にみづからが支配され この道徳ごっこ――つまり内面における信仰の外面化としての倫理規範のもてあそび――を考案し 結社の自由に乗じて組織化したものである。のではないか?  11. この組織宗教とは 良心・信教の自由を侵す犯罪行為ではないのか? 憲法違反ではないか?  12. 組織の権限関係にもとづき――ということは 権限ある地位についた人間がその人間としての判断にもとづき―― 他人の信仰の是非や度合いを規定するかのごとく言い渡すのは 人間の自由を侵す犯罪行為ではないか?  13. 結社の自由は 宗教にもとづく組織としては 個人における良心・信教の自由と両立しないのではないか?  個人の信仰は ヒエラルキアになじみ得ない。  14. 信仰の宗教化じたいがすでにその瞬間に 信仰の自殺行為となるのではないか?  15. 聖典等と呼ばれる文献等の研究のための組織のみが残るのではないか?   16. いわゆる宗教家は 個人としての表現の自由にもとづき個人として活動するのみとすべきではないか?  17. 宗教組織は すべからくすみやかに自己解体すべきではないか?  (註1) 《信仰はその教義化において主観内面のことが言葉による表現としてすでに外面に移されている》: たとえば信仰においては 《存在の奥底にそなわったと言うべき中核のチカラが 〈ひとは人をころさないものだ〉と語っているのを知っている》。しかるに 宗教においてその信仰内容が教義化されるということは 《なんぢ ころすなかれ》という言葉による表現となって持たれることを意味する。  片や 心の声を知っている信仰と 片や その声の内容を倫理規範として持ちそのことの習慣化によって或る種の観念を形成しこの観念が――法規範と成ることをとおしても――おのれの思惟や行動〔の自由〕を規制するようにはたらくこととがある。この両者の差は おおきいであろう。 

  • 《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい》

     まづこのイエスの言葉の出典は マタイ22:15-22 / マルコ2:13-17 / ルカ20:20-26です。  ただし 解釈を《ゆがめ》て 哲学の視点から問います。次のように解釈しますが それについて自由なご見解をおしえてください。  (ω) 《まつりごと(政治・宗教)》は社会の経験行為としてのまつりごとであり 《信仰》はあくまで内面の問題である。  (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  (ω‐2) ただしそのように言うときには 《まつり》が 個人と内と外との両面に分かれるかと思います。家族のにしろ社会全般のにしろ生活の奥や底に湧き起こったよろこびや祝いにかかわる個人の内面における《まつり》と ムラのまつりとです。  (初穂を神にまつる祭りは 共同体としての生活において 個人とムラとが一体であったでしょうか)。  (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。これも問いのひとつです。《まつりごと》から自由であるのは 当然とします。    (ω‐4) 《まつり》は 神〔ないしけっきょくは同じ意味で神々〕との共食だととると分かりやすいようです。《まつりごと》は そのムラムラのまつりを二階から知ろしめし 収穫のいくらかの部分を吸い上げる仕組みであったようです。  (ω‐5) 現代にあっては 社会が国家としてありその家の第二階も存続していますので その《カエサルのまつりごとのものはカエサルに納めるべし》という見解が残っていましょうか?  ☆ 信仰と宗教とのちがいが ここでいちばんの問題であり問いの発端です。おわかりのように次の質問を継いでいます。そこでの質疑応答をも承けて 問い求めを自由に発展させてください。  【Q:信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html    日本人の哲学はここにありという言論を魅せてください。

  • 池に落ちて水に濡れざる《触媒》人間!?

     この質問は 次のものを継ぎます。  【Q:池に落ちて水に濡れずに上がって来られるか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8929621.html  世の中にあって 違法行為にまでは到らない段階で それでもよき人間関係においてもシガラミの中でと同じように欺かれたり罠に落ち入ったりすることがままあるように そのような失敗体験を味わうことがあります。  具体的には 恋愛の失敗だとかあるいは何らかの軽いものですが不祥事であるとか これらを経て一たん水に濡れるのですが それでも元のわれに還って来る。あたかも触媒のごとく 相手との絡みでは化学反応を起こしたのだけれど みづからは元のままにとどまるという離れ業。  この触媒のごとき離れ業は どうすれば出来るか?    あるいは むしろ――わたしの感覚では《何もしないたたかい》と言葉では言っているのですが―― 何もしないで我れが我れである我れにとどまりつづけるのか?  元気なく沈んでしまっていたとしても いちど魂振り――みづからへのツッコミ――をやれば しゃきっとして 《触媒》人間になっているのか?  みなさんのお知恵を拝借します。思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • 「生贄」について

    「生贄」について 古来より、五穀豊穣や無病息災を願い、世界各地で生贄の儀式があったり、人間を山へ置き去りにし神様への贈り物としてきました。 なぜ、生きた人間が神様への捧げものとなったのでしょうか。 同じ社会生活を営む犬でさえ、死んだものを悼む気持ちで死骸をなめることはありますが、生きている仲間を懲罰以外では殺したりしません。 そんなことをしても何にもならないということを知っているからだと思います。 人間はどうして、生きた人間をささげることで五穀豊穣や無病息災がかなうと愚かしいことを考えたのでしょうか。 神道は八百万の神がいると聞きますが、生きた人間をささげたら必ず穀物は実り、水は湧き、人間は豊かになったわけでもあるまいし・・・。 神様への捧げものという名目で、生きた、しかも同じコミュニティの仲間を殺すのは人間だけだと思いますが違いますでしょうか。 もしかすると、食い扶持を減らすのが目的のひとつだったのでしょうか。