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明石藩主・松平斉宣が行列を横切った幼児を殺害?

isaa535の回答

  • isaa535
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回答No.7

明石藩の無礼打ちの伝承は4件、天保年間の松平斉宣で2件あるようです。 1.回答4の1720年頃 明石藩初代松平(越前)直明 又は二代松平(越前)直常又は   三代松平(越前)直純 の行列 東海道にて子供が無礼打ち 2.回答6の天保年間 松平斉宣の行列  尾張荻原宿の暴れ馬を押さえようとした佐吾平が無礼打ち 3.天保年間  松平斉宣の行列 木曽で猟師の子が無礼打ち  4.松平斉宣の8代前の松平直明の行列 駿河三島で尾張藩浪士の娘を無礼打ち 4件すべて松平(越前)家で、松平斉宣の2件がいずれも尾張藩より抗議を受けいる様です。 山本博文著の参勤交代は甲子夜話を元に書かれたと思われますね。 http://hyakkaido.travel.coocan.jp/simodakaidou1misimaizunagaoka.htm http://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn000319.html 言成(いいなり)地蔵尊の祠がある。地蔵尊そのものは厨子の中で見えないが、写真によると穏やかなやさしい表情だ。案内板によると、貞享4年(1687)、三島二日町の尾州藩の浪士、尾張屋源内の娘小菊(当時6歳)が播州明石の城主松平若狭守直明の行列を、向こう側の母親の方へ行きたくて横切って大騒ぎになった。「無血」の大名は、周囲の有力者の人達の命乞いにも、泣いて詫びる幼女の悲鳴にも耳をかさず、幼女を斬り殺したという。父親の源内は元尾張藩の砲術の名手で、わが子の仇を討たんと、箱根山中塚原新田で大名の通るのを待ち伏せ、発砲したが、家臣の機転で空駕籠に当たって無念の涙をのんだ。哀れな幼女の死を悼んだ村人は、大名の言いなりに斬られたことから言成地蔵尊として祀ったという。涙なくして読めない内容だ。 山本博文著『参勤交代』(講談社現代新書)に似たような話が書かれていたのを思い出した。家に帰ってそのp104以下を読み直してみると、明石藩主の参勤交代は一緒だが、時期や場所が違う。場所は木曽路、行列を横切ったのは猟師源内(名前は同じ)の子で3歳ばかり、斬り捨てた藩主は11代将軍家斉の第53子で明石藩に養子に入った松平斉宣だった。山本著によると、御三家筆頭の尾張家は、領民を斬り捨てるとは許し難いとして、尾張家の領内の通行をご無用にしたので、以後明石家は、町人か農民の姿で通行したという。山本著にはさらに後日談が紹介されていて、切り捨てられた幼児の父親源内は、明石侯松平斉宣を木曽路で待ち伏せ、鉄砲で撃って仇討ちをし、「馬鹿殿」は、弘化元年(1844)20歳で木曽路の露と消えたという。

goo-par1732
質問者

お礼

度々のご教示、ありがとうございます。 言成地蔵尊の伝承によれば、事件は貞享4年(1,687年)とはっきりしていますね。 三島二日町の尾州藩の浪士、尾張屋源内の娘小菊(6歳)が明石の城主松平若狭守直明の行列を横切ったと、状況も具体的です。 どうやらこちらが元の話のようです。 「甲子夜話」の方は、事件の起きた年月を書いてないので不明ですが、巷間の噂話を書きとめたとすると、事件は天保11年(1840年)か12年のことと推定できます。 言成地蔵尊の話が連綿と150年あまり続いてきたということは、信憑性があると思いますね。 専門家ならどのように解釈するのか分かりませんが、私は素人なので、言成地蔵尊の話を信じたいと思います。 この話が元になって、天保年代の話が作られたと解釈します。 専門家は、「尾張藩の砲術の名手」の実在を調べるのでしょうね。 山本博文著『参勤交代』(講談社現代新書)は、私もずっと前に読みました。 回答していただいたお陰で深く掘り下げて事実を追究することができました。

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