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明石藩主・松平斉宣が行列を横切った幼児を殺害?

isaa535の回答

  • isaa535
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回答No.6

回答4の補足です。 やはり猟師の子供と佐吾平と言う暴れ馬を取り押さえようとして無礼打ちにあった2つの話があるようです。 はっきりとした文献は見つかりませんでした。 また、下記の明石藩の領地の半分を没収は明石藩の全領地を指すのか 尾張内の飛び地を指すのかわかりませんが下総綜合ken究所さんのホームページ上http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kinki/akasi.html は松平家が藩主の時に領地は没収されていないようです。 http://eachweb.org/aticles/068/imamukashi.html 孝行息子殺害で異例の処分? それは天保年間(1830~44)、播州明石藩の藩主・松平斉宣(なりのぶ)が参勤交代で 江戸へ向かう途中での出来事だった。 萩原宿の馬方だった佐吾平が暴れ馬を取り押さえようとして、この大名行列の前を 横切ってしまう。このため佐吾平は、「無礼打ち」として切り殺されてしまった。  佐吾平は盲目の母の面倒をよく見ていて、孝行息子として知られていた。 そのため周辺の人々はこの死をいたみ、街道わきに小さなほこらを建てたという。  さらにこの話には後日談がある。事件が徳川御三家の尾張藩内で起きたため、 尾張藩が明石藩に強く抗議したのである。藩の面目や「一方的な無礼打ちは 許し難い」との判断によるものだという。  その結果、明石藩は領地の半分を没収。さらに尾張藩領内を通行する明石藩 の大名行列は、夜間のみ、しかも葬式の服装でしか認められず、名古屋城下では 、船で堀川を上下させられた。その後、昼間の通行が許可されたものの、 昼間でも提灯をつけ、夜装でのみ認められたという。 強者への怒りが生んだ伝説?  上が「佐吾平」にまつわる言い伝えだが、実はこの話を裏付けるような資料は存在しない。 しかし完全なフィクションとも言えないようだ。この話は尾張一帯に伝わっており、 浪曲や芝居にもなっているからである。   明石藩の行列が葬式の服装でというのも、天保15年の行列が藩主の 「御遺骸上り」だったことからのようだ。これらのことから、まったくの 作り話ではなく、何らかの事件が土台にあったものと思われる。 大名行列での横暴など、強者・武士に対する弱者・庶民の怒りが、 何らかの事件をきっかけに話を増幅させたというのが真相かもしれない。  なお、当初木製だった「孝子佐吾平」の碑は、地元住民によって 「孝子佐吾平遭難遺跡」として昭和30年に建て替えられた。 戦後の新憲法制定時の国務大臣・金森徳次郎が碑の文字を書いたという。

goo-par1732
質問者

お礼

こんな例もあるのですか。 尾張藩が明石藩を嘲った内容ですね。 「大名行列での横暴など、強者・武士に対する弱者・庶民の怒りが、何らかの事件をきっかけに話を増幅させたというのが真相かもしれない。」ということでしょうね。 「御遺骸上り」の行列であったとの記事はたいへん参考になりました。 度々のご教示、ありがとうございます。

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