• 締切済み

観念の放射線について

 あるいは 意識の排泄について 問います。  煮詰めたところ いまの究極の問いはこうです。  (α) こののっぺらぼうの涎(よだれ)の如き垂れ流しに対して われわれは あたかも(つまりただの文学的な表現ですが)悪魔と手を組んだかたちででも 対処すべきなのでしょうか?  理性的なひとつの対処法としては  (β) わたしたちの発言について――たとえばここでの投稿について―― 索引をきちんとつくり つくるだけではなく ちゃんと活用する。そうすれば 自己矛盾を明らかにし得て その乗り越えを提案していける。  たぶん この合理的な方策は  どうも日本人には通用しないでしょう。のっぺらぼうだからです。何でもありだからです。  先の非合理的な方策(α)というのはさらに具体的には――なおも文学的な比喩の表現ですが―― その意識の排泄者に対してとことん相手になってやるという意味です。去る者も追うという意味です。ともに地獄に到ろうとも その相手が 自己矛盾の乗り越えを果たすまで同道するということになります。  いわば放射されてくる観念の政治学に対して こちらはそのデーモン作用をも飲み込んだかたちで悪魔と手をたづさえてでも そのような精神の政治学においてどこまでも相手になってつきあうという行き方です。  この日本のブラックホールは どうにかならないでしょうかねぇ。

みんなの回答

noname#117439
noname#117439
回答No.40

オコリザルです。 火に油を注ぐようですが、高次元の霊体様を露骨に茶化させてもらいます。 9次元におわす故、見渡せるのはせいぜい8次元でそれ以下はゴキブリとの事ですが、、地べたに這いつくばる私の立場では、それこそが噂の「解脱」ではないかと考えてしまいます。9次元の光は六次元を照らすことは無いのでしょうか。 是非その光で我を照らしてください。 私はしょせんゴキブリですから、ウンチのにおいをかぎに来てもらう程度の歓迎しかできません。 それで尚照らす、9次元の光とはまさに「愛」なのでしょうか? そのような夢を見ます。 「とりすがり」を文学にするとこんなもんです。

bragelonne
質問者

お礼

 (4) 言いかえると 《欲望の成就の手助けをする》のでもなく 《欲望の内容について批判する》のでも必ずしもなく そして ただちに《欲望をやめさせようとする》のでも必ずしもなく まづは 相手との関係ないしその場を引き受けること ここから 出発すると考えます。  ☆ 具体的には いくつかの課題がともなわれているかとも思われます。基本的に このように考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  高次元の霊体とは欲望の権化でなく、人間性に備わった善そのものです。人間を神と比べるのでなく普遍的な善性に基づく知性の選択肢です。悪を取り押さえようとする姿勢です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一たんこのように得た或る種の言い方で《観想(瞑想)》について わたしたちは その実践においては・またその現場においては 忘れてしまうということではないでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 ☆☆ 【Q:ひとは だれから おそわるか】 そのNo.50~~~~~~  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4974759.html  primeape さん ご回答をありがとうございます。  今回はですね さすがに《高次元の霊体》という表現をお使いになるだけあって わたしが考え捉えたと思う限りでは どうも primeape さんは 人間の思考の次元を超えたところに身を置いて もしそこで考えるとするなら どういうことが言えるか これに取り組んでおられる。そしてそのまま 言葉にしておられる。  ★ 他者の欲望を成就する手助けをするのは善である  ☆ 《善》とは 人間にとって その自然本性のまたその自由の自由な享受を言います。うそがあれば ほんとうには 享受することが出来ません。そのように善を損ねる・また阻む嘘〔という意志決定〕は 善の損傷という意味での《悪》です。  ところで 《欲望》は ただちにそれが善であるか悪であるか決められませんが 善を損傷させる可能性が――けっきょく すべての意志決定にはありますから―― やはりあります。しかも その悪をおこなうというあやまちに気づくとき わたしはわたしであることに還ります。つまり 元の自然本性を回復します。つまり 善を回復し あらためて 自由の享受へと踏み出します。  たとえ悪をおこなったとしても それに気づき善を回復するという道筋 このことを指して  ★ 欲望を成就する手助けをする  ☆ と表現しているはづです。そこに悪があれば そしてあやまつとすれば それに気づくという事態をこそ 取り上げ また 取り立てて言っているはづです。それは 善です。ただし   ★ 他者の〔欲望を・・・〕  ☆ と規定されています。これは どういうことを意味するかと言えば この今の《善》が おそらく 人間の能力や努力の及ばないところのことをも言っておられる。つまり 次元が違うところの善である。つまり われわれ人間は ほんとうには このことに  ★ 手助けする  ☆ かたちでは 関与していない。のではないでしょうか? 事後において振り返って 関与していたみたいだと思ったとしても 事前に意識的にそうするとは 思えないのです。  悪をおこなう可能性をもった決断をおこなって それを実行したあと あやまちに気づき 我れに還り善を回復するという筋道は 自分ひとりによっては 実現し切ることはかなわないと考えます。もしくは その筋道を 事前に たくらむことは 人間にとって 無理であり むしろ 善ではなくなるでしょう。自由の享受は ひとが自由におこなうのですが そうであるにもかかわらず これを成就しうるとは限らない。それゆえにも  ★ 自らの欲望の成就を求めるのは悪である。  ☆ すなわち 《他者の欲望の成就を手助けするという〔回り回っての〕善》を欲することも 《自らの欲望》であると考えられます。  善の損傷→あやまちの気づき→我れに還る=善の回復という筋道は 善です。しかも この方程式を みづからが みづからのはからいによって 実践するというふうには 自然本性が成り立ちが出来ていない。したがって これをわざわざみづから欲するのは 悪である。自然本性にさからうことが 善の損傷であり 悪である。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  欲望の哲学は取り合わないのが正気の考えを保つコツですから、絶対間違っているんですが、そのように拒否するのではなく、善を欲望から解放するためのとっかかりになるようなお考えはないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ それには 上に取り上げた命題は 次元の違ったところから言っているということを知る必要があるのではないでしょうか? つまり  ★ 他者の欲望を成就する手助けをするのは善である  ☆ という見方は出来るけれども それは ひとがみづからの意志のもとに はからうことではないと考えます。微妙な違いをもって ひとは 実際に対処するはづです。  ○ 他者が欲望を成就させようとするとき その《手助けをする》というのではなく そうではなく  (1) まづ その欲望とそれにまつわる他者の意志(あるいは意図なり それを表明しているその表現なり)を こちらは 受け取る。  (2) 受け取ったなら その場を――つまり その相手との交通関係じたいを――引き受ける。  (3) あとは 相手なりその情況の進み具合いなりに応じて こちらの感想を述べたり意見を伝えたりする。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.39

誤字訂正:  あ、これはもちろん、皮肉ではありませんW ⇒あ、これはもちろん、皮肉ではありませんw

bragelonne
質問者

お礼

 ところで この  ★ ・・・w  ☆ は和平のしるしですか? なぜ  ★ ・・・W  ☆ という大文字ではいけないのですか?  そのつど尋ねておかないと 何度でも知らないままに また出会ってしまう。でも いいです。ほかのひとに尋ねます。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.38

 あー、良かった、少し言い過ぎたかな、間違ったこと書いたかな、間違ったこと書いてなくても「ここが違うんじゃないの」と誤解されるようなこと書いたかな、と思ったのですが、へのかっぱ とのことで、まあ良かったです。  しかし、かっぱはテッペンハゲですね、もしかして質問者もそうですか?そうであるとすれば、何が原因でしょう、非常に興味あります。何が原因がわかれば、自分がそうなる可能性をなくすことが出来ますからね、ハゲについての考察を、是非偉大な哲学者様に聴いてみたいですね。あ、これはもちろん、皮肉ではありませんW

bragelonne
質問者

お礼

 最後っ屁ぢゃなかったようですね。  けれども 表現がすなおではありません。  悪口を交じえなければ 相手の境地のすばらしさを褒め讃えられませんか?  議論(回答)としては  ★ 少し言い過ぎたかな  ☆ ではなく 言い無さ過ぎていると言うべきです。定義の問題から始めて。  ○ おまえのかあちゃんでべそ!  ☆ と言い合うガキのけんかを引きずっておられます。それは おまけとして添えるのならおもしろいけれども それがメインディッシュになってしまっております。またいつでも訪ねて来なさい。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.37

 実際、ここではほとんどの人が見ておらず、相手にもしていないでしょう、そういったやり方、生き方で今まで来た人が、実社会でも相手にされないようになり、最終的にここで、クモのように相手を待ち構え、欺瞞と誤謬、幻で以って相手を絡めとり、自らの虚しさ、寂しさを紛らわせているのは無視しましょうか、相手にすれば腹が立ちますから。相手が、その確信的な幻に対して腹を立てていることさえ察することも出来ず、それこそよだれを垂らしたのっぺらぼうが何を言ってきても、無視したほうが良いのか...  私は、いい加減、誰にも相手にされなくなったロートルの相手をするのは止めて、外で私を待っている美しい女性に会いに行くことにします。悪しからず。  結論から言ってしまえば、社会の排泄物は質問者であり、その排泄物を撒き散らしているのも質問者だと思われます。「どうにかならないでしょうかねぇ。」等とさも自分がどうにか成っている人間だと言わんばかりの質問ですが、まず自分が汚物であり、排泄物であり、ブラックホールであるかもしれないと言う可能性も、少しは考えてください。  ◇それから、「参考になったボタン」を押し捲るのは、それ以外になにか理由がありそうですね。  ともかく、いい年こいて親と同居し、母親の作ったマンマを食べていないで、外で働いてひとり立ちすればいかがでしょうか、そのほうがよっぽど社会のためになると思います。著しく全体のレベルを下げているのは、「日本は~云々」などと言っている、質問者かもしれませんね。  あ、これは「参考になった」ですかね?なったのなら、ポチッと、どうぞ。

bragelonne
質問者

お礼

 へのかっぱ。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.36

誤字訂正: >先輩面ですか、汚師匠さんに学ぶ気はありません。 ⇒先輩面ですか、汚弟子さんから学ぶことは事実上、不可能です。  他者、もしくは自分が目撃した事象が、邪、悪 に見えたとしても、自分が実はそうであるかもしれないですね。そうであるかもしれないのに、「邪、悪」に対しては幻を見せ付けて対応する などと言ってそのように対応したとして、その、他者が「邪、悪」であるという確信よりつよい、確証は、どうやって取るのでしょう?結局、どこまで行っても後ろめたさが生じることになり、自分を苦しめ、結果として社会を悪しきものにするでしょう。  とにかく、見分ける、見極めればよいのです。そうすれば、相手が虚であれば、自然消滅するか、でなくても、自分が「相手は虚、邪である」と認定、判断していれば、その作用が自然と発揮されるでしょう、時期を待たずに。  結論として、何かを見たときは、先ずそれが何かを見分ける、見極める。これがまず採るべき態度であり、このためには普段から中正の姿勢を保っていなければなりません。しかし、結局は今そのときの自分の感情に従うしかないでしょう。それに従って自分の心の豊かさ、充足具合として結果が出れば、それでよいし、間違っていればそれなりの結果が出るだろうから、やはり自分で こう と決めたのなら、なんやかんや言わず、実行すればよいのではないですか。やらなければ、結果は出ません、良し悪しはともかくとして。  実行して、結果が出続けているのであれば、やり続ければよいではないですか。でも、そのやり方で、質問者にとっての良い結果が出ているとは、到底思えないんですけどねぇ...  で、☆や★などを使って文章を書くのは、やはり幻を見せ付けるという意図によるものでしょうか?

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.35

>★★ バランス  ☆ をとうとび推奨していたのではなかったですか? とにかく、幻に、幻で対応したらそれらを増長させます。対応することで、それに対してのバランスをとってしまうことになります。  悪に対しての需要が在ることに対して、供給することでのバランスを取れば、それは悪いバランスを取ってしまうことになりますね。 > ☆ ここでひとつ先輩面を見せますが こういうことです。つまり  ★ 虚か実かを見分ける。その姿勢自体が最も重要  ☆ であるゆえ その姿勢に立って 上に述べたように《あたかも極端を突き抜ける超極端なまぼろしの姿をみせてやる》と言ったのです。  違いをはっきりさせるなら  ○ あなたは 認識論として述べています。わたしはすでにその認識内容を実践しようとしています。これが 普段から哲学しているという意味です。  これは、「結果」重視ですね。結果と過程の、どちらが重要だと思いますか?  先輩面ですか、汚師匠さんに学ぶ気はありません。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.34

誤字訂正: 自分のことを哲学者だ と言うという人は、「ボクはバカなんです」と言っていることに他ならないと思いますが。 ⇒自分のことを哲学者だ と言う人は、「ボクはバカなんです」と言っていることに他ならないと思いますが。  従って、それらが何か、正かはずれた不正度合いがどれ程のものか、虚か実かを見分ける、その姿勢自体が最も重要なのではないでしょうか。 ⇒従って、それらが何なのか。つまり正からはずれた不正度合いがどれ程のものか。虚か実かを見分ける。その姿勢自体が最も重要なのではないでしょうか。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.33

 汚師匠さんの汚弟子さん。ゴキブリ的振る舞いにはゴキブリ的振る舞いで対応すると言うのですか、それは自由ですが、そのうち本当にゴキブリになってしまいますよ。ミイラ取りはいつからミイラになったんでしょう。  なんでもあり は、区別、分別をつけないことから始まるのではないですか。糞味噌一緒にしてはいけません。  自分の振る舞いや、文章の書き方にも分別をつけたほうが良いですよ。  汚師匠さんと汚弟子さんは普通に考えることすら出来ていないですよ。  結論を言えば、汚弟子さんは どうでもいい、どーしょーもない、くだらない、端にも棒にも引っかからない 未だ人になれていない人だと思われます。  自分が哲学者であり、「哲学者」という言葉が何か上等なものを示していると考えているとしたら、それは勘違いだと言っておきます。  自分のことを哲学者だ と言うという人は、「ボクはバカなんです」と言っていることに他ならないと思いますが。  何か質問したり提示したりしたことに対して、反論したり攻撃したりするのはかまいませんが、それは 嘘偽り、理不尽、非合理的な意味のないことで応じるのではなく、あくまで「正(の姿勢!)」で以って対応すべきだと思いますが。それが出来ず、幻には幻で対応するなどと思うのは、自分の無智、無能、どうでもいいくだらない存在であることを無意識で感じているからでしょう(それも善、愛の名の元にめちゃくちゃやってきたからであろうが)、つまり自分をも騙すいいわけ、カムフラージュではないでしょうか。  とにかく、幻に、幻で対応したらそれらを増長させます。対応することで、それに対してのバランスをとってしまうことになります。相手にしないか、あくまで正(の姿勢!) で以って対応するなら、幻を増大させずに済み、自然消滅していくでしょう。  つまり、結局は汚弟子さんが 悪、デーモン、ブラックホール を作り出している、といっても過言ではありません。  基本的に、日常生活において、自分の目の前に提示される 顕される事象は「自分がどのようにみるかで、その意味が決まる」といったようなものではなく、ある程度 質 が決まっている(何らかの意図思惑、性質を伴っている)はずです。従って、それらが何か、正かはずれた不正度合いがどれ程のものか、虚か実かを見分ける、その姿勢自体が最も重要なのではないでしょうか。  従って、汚弟子さんはやっぱり 虚 であり、邪であります。  ◇この質問におけるさらなる邪の拡大が終わることを望みます。

bragelonne
質問者

お礼

 わたしの認識している課題としては  ○ 《去る者は追わず》について 《追うべきところまでは追うべきか?》という問いを発している。  ○ そのような問題が現われるのは どうも社会全体の《意識の排泄》=《デーモン電磁波の輻射》といった情況とつながっているのではないか。これをどう分析しどう対処するか。  ☆ こういったことです。  ★ それは 嘘偽り、理不尽、非合理的な意味のないことで応じるのではなく、あくまで「正(の姿勢!)」で以って対応すべきだと思いますが。  ☆ もしこの文章を その多義的な表現のまま こちらにおいても使うならば 次のような問題です。  ○ すでに《「正(の姿勢!)」で以って対応》しているのに らちが開かない。相手は 対話に応じない。対話を放棄する。そのとき どういう対処の仕方があるのか。  ☆ これです。どうでしょう?  言ってみれば 日本社会の構造のどんでん返しになるのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 owlsjp さん 言葉を継いで来ましたね。ご回答をありがとうございます。  ただし  ★ ◇この質問におけるさらなる邪の拡大が終わることを望みます。  ☆ とのこと。  たしかにこの質問は 抽象的な表現で 現実の事態を分析していこうというむつかしさを持っています。けれども その  ☆☆ 観念の放射線 / 意識の排泄 / デーモン電磁波作用 / / それらをアースする人びとがいることなどなど  ☆ はたぶん どうでしょう 過半数の人が理解できることがらではないでしょうか。ところが  ★ 邪・汚 / 「正(の姿勢!)」 / 不正度合い  ☆ これらは 意味あいの幅が広すぎます。あいまいと言いましたが 両義性・多義性を持つということです。受け取るひとによって それぞれ違って来ます。だから 言い出したひとが 定義をしておかねばなりません。  ★ 自分のことを哲学者だ と言う人は、「ボクはバカなんです」と言っていることに他ならないと思いますが。  ☆ これは ふつうはそうですね。特にその伝統がない日本ではそうですね。ただ すでに哲学することを生活日常としている者にとっては なんでもないことです。特別のことではありません。こうやって書いてやり取りしているその文章をみればわかるでしょう。  その内容について一つひとつ批評し批判すればいいのです。  こうやって批判のかたちをとって投稿されているわけですが 最初に述べたように 多義的な言葉を使っているので どうにも応えようが定まらないのです。言いかえると  ○ わたしは 邪ではありません。汚でもありません。うんぬん。  ☆ と答え返せば済むという性質のご議論なのです。あいまいというのは そういう意味です。つまり ふだんから哲学していれば それは常識です。と心得置きくださるよう願っておきます。  ★  とにかく、幻に、幻で対応したらそれらを増長させます。対応することで、それに対してのバランスをとってしまうことになります。  ☆ 前のご回答では  ★★ バランス  ☆ をとうとび推奨していたのではなかったですか?  もっともわたしの言う  ☆☆ まぼろし  ☆ はあたかもまぼろしのごとく こちらの姿を見せると言っているのであって この《あたかも》というところが大事です。  ○ 極端な考えや振る舞いを相手が見せてきたなら その極端をあたかもさらに突き抜けたすがたを まぼろしとしてでも 見せて応じる。  ☆ こういう意味です。これは 表現の問題として 可能です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  従って、それらが何なのか。つまり正からはずれた不正度合いがどれ程のものか。虚か実かを見分ける。その姿勢自体が最も重要なのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここでひとつ先輩面を見せますが こういうことです。つまり  ★ 虚か実かを見分ける。その姿勢自体が最も重要  ☆ であるゆえ その姿勢に立って 上に述べたように《あたかも極端を突き抜ける超極端なまぼろしの姿をみせてやる》と言ったのです。  違いをはっきりさせるなら  ○ あなたは 認識論として述べています。わたしはすでにその認識内容を実践しようとしています。これが 普段から哲学しているという意味です。  ○ もうこの段階では 乱暴に言ってしまえば道理はどうでもいいのです。それをも突き抜けて まぼろしや或いはいろんな物語を示して 相手が《善を倒したところの悪を倒すようになること――自己還帰すること――》を少しでも援助する。  ☆ いまこの質問では こういう問題をあつかっています。またこういう扱い方において 日本のブラックホール論を問うています。  ちなみに言っときますが いま述べているわたしのやり方が万全であるかと言えば そこまでは言っていません。間違ったなら間違ったということで 改めます。むろん試行錯誤です。ですが   ★(意訳) 邪悪を溶かそう。虚偽を癒していこう。  ☆  という標語を並べる段階ではなく その具体的な実践のあり方を問うています。

noname#117439
noname#117439
回答No.32

オコリザルです。 解釈してみました。 >☆ 自然本性として善である意志が意志(つまりおのれ)に背くから意志が反意志かつ反善たる悪の形をとる。 ☆ 自然本性として善である意志《過去の意思、ないし学んだ記憶》が意志(つまり《現在たる》おのれ)に背くから意志が《自然本性が》反意志かつ反善たる悪の形をとる。 いかがでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 No.27への応答で  ○ 定義の必ずしも定まらない言葉は不用意に使わないほうがよい。  ☆ と考えていることをお伝えしましたが これは 別の見方からすれば なるべく色のついていない中性の言葉を使って 定義や説明をしたほうがよい。という意味にもなります。それは  ○ 意志。そして広く捉えるなら 存在。あるいはつまり 身体と精神。そして 存在に備わる自然本性。その内訳として 記憶・知解・意志の三つの行為能力。  ☆ という言葉です。これなら  ★ 善 善性 愛 悪  ☆ のあいまいさ(両義性・多義性)を補ってくれると思います。  ○ わたしたちの生は すべて 意志行為です。知らずに振る舞ったとしても そのあとにしっかりと確認し自分の意志行為として引き受けることになります。  ○ 自由と責任。意志行為は自由であり 自由ゆえに説明責任を伴ないます。無意識におこなった行為でも そのあとで責任を引き受けるということになります。(無効の行為は この限りではありません。脅迫を受けておこなった行為などです。自白は それだけでは 有効ではありません)。  ○ この答責性(責任)をともなった意志行為は すべて有効です。無視されてはならない人間性に根差すものだと共通に理解されとうとばれることです。  ○ この意志行為は しかしながら おのれの意志(あるいはその意味で心)に背くという事態をも起こします。それは へそ曲がりということであり そのとき顔を赤らめたり 心にやましさを感じたりすることで認識されます。  ○ ふつうの意志行為とへそ曲がりの意志行為 これを仮りに 善と悪とそれぞれ呼ぶという寸法です。普通と特殊でもいいはずです。AとBでもいいはずです。  ○ 愛は 広い意味では これら全体つまり存在とその意志行為の全体を保つその持続行為を言います。狭くは 普通の意志行為を好むくせのことです。したがって 特殊な意志行為(つまりいわゆる悪)を憎むくせ これも愛です。  ○ またこれらはすべて《意志》が現実であるというかたちですので この意志を愛に見立てることも出来るはずです。その意味では 《記憶》が基礎であり 《知解》が仲介役のごとき中軸です。  ○ 存在をとうとぶこと その存在の共生をどちらかと言えば好むこと これが 愛です。  ○ わたしたち人間の自然本性は このように愛から成り立っているであろうというのが 常識(共同主観)だと考えます。そのために記憶し知解し意志するのだと捉えるわけです。    ☆ ただし悪の現象も世の中を覆っているようです。そこでわたしたちはこのように哲学しているもののようです。いかがでしょう。

noname#117439
noname#117439
回答No.31

オコリザルです。 さまよえるオランダ人は幽霊船とも海賊船とも表現できます。 表明はあくまでも余興です。 どうでもいいです。 27番の続きです。 >子供の狼藉ブリブリを見て、好んで悪をなすかのような仕草を見ると、理解の過程としてこのようにも解釈できます。 子供から学んだことですから、学校や家庭で教わった善性が未消化なため愛と遊離するとも言いうるでしょう。 子供なら見守る事が出来ます。(許されるとは言わない) 大の大人はともかくです。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 善 愛  ☆ について次のご回答にてお応えします。

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    問・次の文の趣旨として妥当なものはどれか。 政治学をどのようなものとしてとらえるかについては、古来、多くの議論の積み重ねがある。確かなことは、一つの出来合いの製品があり、それを覚えればよいといった事情にはないことである。さしあたり言えることは、政治学政治における「合理的なもの」への関心と究極的に結びついていることである。そして、この究極的な関心に対する回答は、政治学の長い伝統が示しているように、地域によっても時代によっても、実に多様な姿勢をとって現れた。同じ地域の同じ時代をとってみても、厳密な意味でのコンセンサスを見つけ出すことはできない。  その上、政治について「合理的なるもの」を問うことは、極めて逆説的な意味をもたざるを得ない。つまり、政治は誰でもわかるように、人間にとって目に見える、一定の具体的状況の下での、他者を前提にした行為であり、およそ、観念的な意味での合理性とは両立しない性格を備えている。古来、合理性の追求は絶対性、普遍性、超越性を追及することと結び付いていたわけであるが、政治はこれと端的に異質な現象性、偶然性、有限性と不可分な行為にかかわっているからである。ここに政治において「合理的なるもの」を求めることの問題性が示唆されている。それゆえ、政治学の歴史においてはこうした政治的実践の限界を突破し、その間尺を超えた合理性の追求が行われたのであった。絶対性、普遍性、超越性を備えた政治秩序の追及は、政治における「合理主義」の問題を生み出した。1989年の革命によって崩壊したマルクス・レーニン主義はこうした合理主義の末裔である。  こうした絶対性を模索する政治的合理主義は、人間の政治活動にかかわる偶然性、不安定性、有限性を克服しようという根深い願望から出てきたものであった。西欧政治哲学にはそういた伝統がプラトン以来、連綿として続いているという指摘もある。実際、人間生活の「うつろい易さ」「はかなさ」にいかに対処すべきかは政治にとまらない問題であったが、それへの社会的・政治的応答が繰り返し発生するのも避けられなかった。地上に永遠の価値を持つ、永続的な秩序を樹立しようとすることがいかに大きなエネルギーを引き出してきたか、忘れるわけにはいかない。 僕のまとめ ☆政治というもの=現象性、偶然性、有限性と不可分であり、合理性とは両立しないもの ☆ところが人間は、それを克服しようという願望から、合理性を追求するようになった 選択肢&僕の考え 1.(×)政治は、個別の偶然性を有する問題に対して合理的な回答 を提示するという二律背反を内包しているため、いかに努力してもその実現は不可能に近い。←政治は合理性を持つものではないから違う。 2.(×)個々の具体状況の中から現象性、偶然性、有限性といったものを排除することで「合理的なもの」の確率をはかるのが政治の本質であるが、それに普遍性を与えることには非常な困難をともなう。 ←政治の本質は現象性、偶然性、有限性であり、合理性は、単に人間が勝手に求めだしたものだから本質ではない。 3.(×)政治とは、現象性、偶然性、有限性と絶対性、普遍性、超越性の調和をはかり、永続的な秩序の形成をめざすものであるが、そのためには膨大なエネルギーを要する。←有限性と絶対性、普遍性=合理性は、人間が勝手に求めだしたものだから違う。 4.(×)現実における個別的状況の現象性といったものにとらわれることなく、普遍的な合理性の追求をしなければならないというところに、根源的な政治の課題がある。←2段落で「ここに政治において「合理的なるもの」を求めることの問題性が…」とあるので、これが正解だろう。 5.(○)政治は、本源的に未確定な要素を持つ人間活動に対して普遍性を有する合理的回答を与えるという大いなる矛盾を抱えているが、一方で、その実現に向けた努力が社会を突き動かしてきたという一面もある。←政治は合理的なものでないのだから、「合理的回答を与える」というのは間違っている。 僕の考えの何が間違っているのかわかりません。本文には書いていないことが選択肢になっているので、問題が解けません。

  • ハラスメントは 観念の運河をゴンドラでやって来る

     〇 パワハラ・セクハラは 人びとのあたまの中にすでに歴史的に穿たれた観念の運河(共同幻想)をクウキなるゴンドラに乗ってやってくる  1. 玄関を一歩出ると そこは 運河である。  人びとの いや われわれの頭の中に深く穿たれた観念の水路網。  ――共同なる観念 または 幻想。  まづは ゴンドラを誂えなければならない。  船をうまくあやつれないと 通行はむつかしい。見えざる交通法規。  ゴンドラは 何を載せているか? いや ゴンドラが 何で出来ているか?  クウキですって? いやでも吸わざるを得ない空気のことですか?  ええっ?  クウキで出来たそれぞれの船。  ところが その船の材料であるクウキは 一人ひとりがあつらえるのではなく すでに千年千五百年も昔から仕立て上げられて来たお古である。  お古のお仕着せ これが われらが運河の通行手形であり うるわしきゴンドラである。     *  2. では このクウキは 何で出来ているか?  3. 思うに マクロとして アマテラス公民のお上としての無謬性〔なる神話としてのクウキ〕であり ミクロとして 上司のガミガミ電波である。両者は 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》の二階建て構造として 互いに相似形を成している。  4. いづれからも ややもすると 《意識の排泄》が交じって出て来る。意識のウンコである。虫の居所がわるかったか。あるいは 虫の居所によってクウキの香りもよくなる。  5. ゴンドラを漕げば 国民も右へ倣えでそれにしたがう。反対してもよいが 反旗を掲げても 同じ運河を通るしか自己表現することがむつかしい。運河の一画を通せんぼしてみるわけだ。  6. かくて パワハラもセクハラも この水路をすすむ船を同じくするかぎり いかに反対をさけんでも むなしい。・・・  7. ・・・か? 哲学は何と言うか?

  • クレーマー?

    クレーマーの人、もしくはちょっと私はクレーマーかも、 という人にお聞きしたいのですが。。。 最近、あらゆるところで店や知人を相手にけんかしている人に会ったのですが、どうもこの人、自分のことをクレーマーだという意識がありません。逆に、正義の人か自分が法律だと自分を考えている節があります。 ふつうのときは大人しい女性です。 子持ちで×1です。 また、矛盾していることばかり述べていますが、自分では矛盾に気づいていない様子です。 その人を観察していて疑問に思ったのですが、 1.クレーマーの人はクレーマーという自意識がないのでしょうか? 2.クレーマーの人は面白がって低姿勢の店や知人などを攻撃する発言を繰り返すのでしょうか? 3.どう対処すればクレーマーに自己の矛盾点に気づいてもらえるのでしょうか? この人を見てると、矛盾点をつくとまた別の矛盾点をもちだしたりします。矛を納めようとしません。 4.クレーマーの定義とは、どんなものでしょうか? クレーマーを見破る方法とは? 5.なんでクレーマーになっちゃうんでしょう? 6.店の立場だったら、クレーマーはいる?いらない? 以上、長々と書きましたが、よろしくお願いします。

  • 猥褻物の修正は去勢と同じではないですか?

    性器描写や性交時の結合部等の猥褻な表現を含むグラビアや漫画はたとえその部分を袋とじにしてあっても流通を許されず、刑法175条の圧力で修正を余儀なくされますよね。 これっておおよそ性器を有していると思われる全国民を去勢させるのと同じじゃないですか? 我々は下半身に性器を備えていますけど適切な衣服さえ身につければ外を出歩くことを許されますよね。 衣服は着脱可能であり、恋人との情事などで閉鎖的な空間でなら見たい相手には見せることも合法です。 だとしたら、猥褻な表現も、見たくない相手の目には入らないような配慮しているものは、無修正でも合法でないとおかしいと思います。 適法なように修正されてしまったものは、修正前の元の状態には決して復元できないようになっています。 修正可能なモザイクや袋とじで隠すことですら存在を許されない、見たい人も見れない、表現物に対するこのような仕打ちは人間でいえば性器の去勢とまるっきり同じじゃないですか? 時代によってルールは変わることは知っています。今も昔よりは司法的な風当たりが穏やかになっていることもわかっています。 理解できないのはそういうことじゃなくて、なぜ当時の政治は、表現のみを「去勢」するような、矛盾した法律を作ってしまったのかということです。 全国民を去勢したしたところで亡国の一途を辿るだけですから、人間は、医療的処置等を例外を除き去勢の対象にはなり得ませんね。 それなら猥褻物に対する処置もそれに合わせるのが合理的というか道理というものじゃないですか? 当時は袋とじの冊子がなかったから、復元可能な修正なら「この限りではない」と規定するような発想には至らなかった、ということはないでしょう。袋とじ自体は室町時代の書物には見られる相当に伝統的な装丁手法なのですから。 知りたいことは以下の二点に集約されます。 ・人間に対する扱いと矛盾、もといダブルスタンダードになることはこの際問題ではなかったのでしょうか?そうだとしたらなぜでしょうか?猥褻物を排除したい人たちの政治力の強さでしょうか? ・それとも、表現物としての猥褻物は、本物の性器よりも、存在すら看過できないほどの、より強い猥褻さを持ちうるという考えがあったのでしょうか? 回答よろしくお願いします。

  • 客観的にどう考えても悪いことをしてしまったら

    特に、 ・謝って済むような軽い問題ではない ・無意識にではなく意識的に行ったこと ・今後相手と話す機会はおそらくない ・激しい自己嫌悪 ・とにかく良心の呵責が半端ない この場合、皆さんはどのように対処していますか。 よければご意見お願いします。

  • 文章を、

    文章を、 さらに良くするには、 具体的にどうしたらば良いのだろうか? 文章も、なるべく長く書く癖をつける。すなわち、短文で済ますということは、考える過程が短いということ。 長く考えるためには、 ❶テーマを正確に把握する。 ❷❶のためには、分析が必要。 ❸論理的矛盾が無いか? 間違いが無いか? など考察が必要になる。 ❹筋道を正しく表現できているか?独りよがりで無く、相手に正しくこれで伝えているかどうか?考える必要がある。 ❺もっと良い、美しく、心に響き、理解してもらえる表現は無いものだろうか?模索してみる。 ❻ 上記を繰り返しているうちに、自分の表現力の弱さは、漢字を知らないだけで無く、知識・教養が絶対的に足らないのに気がつく。 ❼すべては、自分で自分に気がつくことから始まる。 文学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。

  • 《ひとは知らない。ただ からだが知っている》

     《 Sie wissen das nicht, aber sie tun es. 》 ( K. Marx )  思想の内容が――使用価値として――あるか無いかが問題なのではない。  問われているものは それが 交換されるかどうかなのだ。  かくて ただの愚痴と御ふざけから成る意識の排せつ物が 市場に出回る。売れるからだ。金になる。  ということを ひとは知ってはいない。考えてなどいない。けれどもすでに からだで知っていて おこないに移す。自己表現は 交換価値の追い求めとその流通にある。われは この《商品》の自己運動に貢献する一員なりと 知らずに 振る舞っている。  たとえば フリッツくんと呼ばれる商品である。箸にも棒にもかからない文章が 金に成る。人びとは この神の前にひざまづく。ひざまづいてその文章を擁護する。  意識の排泄物も トンスルなる滋養豊かな飲み物になるのだと。  ディオニュソスの狂い節は ベートーベンの歓喜なりと いとも簡単に検事側の主張がとおる。  ひとびとは からだが狂喜乱舞しているのであろう。  とでも受け留めなければ 世界は解せないのではないだろうか?