• 締切済み

観念の放射線について

 あるいは 意識の排泄について 問います。  煮詰めたところ いまの究極の問いはこうです。  (α) こののっぺらぼうの涎(よだれ)の如き垂れ流しに対して われわれは あたかも(つまりただの文学的な表現ですが)悪魔と手を組んだかたちででも 対処すべきなのでしょうか?  理性的なひとつの対処法としては  (β) わたしたちの発言について――たとえばここでの投稿について―― 索引をきちんとつくり つくるだけではなく ちゃんと活用する。そうすれば 自己矛盾を明らかにし得て その乗り越えを提案していける。  たぶん この合理的な方策は  どうも日本人には通用しないでしょう。のっぺらぼうだからです。何でもありだからです。  先の非合理的な方策(α)というのはさらに具体的には――なおも文学的な比喩の表現ですが―― その意識の排泄者に対してとことん相手になってやるという意味です。去る者も追うという意味です。ともに地獄に到ろうとも その相手が 自己矛盾の乗り越えを果たすまで同道するということになります。  いわば放射されてくる観念の政治学に対して こちらはそのデーモン作用をも飲み込んだかたちで悪魔と手をたづさえてでも そのような精神の政治学においてどこまでも相手になってつきあうという行き方です。  この日本のブラックホールは どうにかならないでしょうかねぇ。

みんなの回答

noname#117439
noname#117439
回答No.10

オコリザルです。 やはりうんこの話のみが唯一共通の土俵に立てる話題のようですね。 そうだろうと思っていました。 私が提案したのは、我は有るか無いかが主題なんですが、論議を戦わせる舞台はせいぜいこんなもんです。 対話の形態は、うんこの投げ合いです。 哲学って殺伐としてますねー 私は仕掛けて術中にはめたんですよ。 bragelonneさん、ご迷惑をおかけします。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ということは わたしは留意しつつ 発言は保留しましょう。

  • owlsjp
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回答No.9

◇誰かがクサイ としたら、なぜその人は「クサイ」と認識できるのか?

bragelonne
質問者

お礼

 そうですか。この問いにこだわるわけですね。  ★ ・・・としたら  ☆ が《言ったら》の意味なら その《言ったことが聞こえた》という意味では 《認識できる》。――このような無意味な反応しか出ません。  聞こえなかったなら 認識できないことは当然です。  ★ クサイ  ☆ の意味を問題提起者がすすんで定義しておかないと 応答しがたいということでもあります。  あるいは  ★ その人  ☆ とは 《言った人》か《言われた人》か。  《言われた人》として 上に反応を述べましたが 《言った人》であるなら その《言った人》に問うべきです。  といった応答しか出来ないのではないですか? 

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.8

>ちなみに、例の「おまえ臭いんだよ」と指摘しただけで  ああ、そこまで言っていないか、「汚物総理大臣」と言っただけでした。  とりあえず、ここでの全ての回答に軽く目を通しました。  しかし、喰って飲んでクソして寝るだけの毎日を繰り返す排泄物製造機の 彼ら(ここであえて複数形を使います、俺って優しいですね。)にとっての 善ではない 善性(←「性」がついている分だけまだ甘い。という事に気付いてくれるだろうか?)が何を意味するか、理解できました。要は、彼は片方だけしか知らない、認めていない、甘えん坊なのです。赤ん坊です。それも、無智ゆえです。あるいは、自分の臭さ、醜さ、邪悪さを認識されたくない、もしくは逆転している認識が、正常に戻るのを、精神の奥底で、真に恐れているからでしょう。  悪という物はないんだ、と主張しているその人の動機はなんでしょうか、自分が善であるからですか、それとも悪であるからなんでしょうか。  聖なる者、「善なる者」が、自らを聖である、善であると宣言し、悪を倒すとか、救済するとか言いますか?茶番ですね、しかしこれがまともに受け入れられている、人間世界の浅ましさ、愚かさよ。  ◇誰かがクサイ としたら、なぜその人は「クサイ」と認識できるのか?  ※赤ちゃんで在るが故に、うんこを垂れ流しにしているから。というユーモアはこの際要りません。

bragelonne
質問者

補足

 owlsjp さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。哲学は冷酷ですよ。  たとえば 《こころ》なんてあるのか? と盛んに議論します。もろもろの自然(たとえば人間の顔や身体を含めよ)を知覚したときの感情あるいは生活のための必要物をめぐる利害関係の感情 これだけではないのか? というわけです。そのほかに 心なんてあるのか?  われわれはこの課題を突き抜けて行かねばなりません。  それには  ★☆(意訳) 善・悪 愛と死 聖性と邪悪 清浄と汚穢 美・醜 うんこ 臭い   ☆ をきちんと定義しておかなければなりません。  ★ 要は、彼は片方だけしか知らない、認めていない、甘えん坊なのです。赤ん坊です。  ☆ これでは おままごとです。お医者さんごっこかも知れませんが 実りある対話は出来ません。水をかけ合っているだけです。  ★ 悪という物はないんだ、と主張しているその人の動機はなんでしょうか、  ☆ この認識はちがっています。精確ではありません。  ○ 自然本性としての自由意志から 自由意志そのままの――こころとしての――意志行為が現われる。これを 善と呼ぶ。  ○ けれども その心に逆らうようなへそ曲がりの意志行為も出てくる。まったく自由なのだ。善に背くその傷の部分を 悪と呼ぶ。  ○ したがって 悪は はじめからあったわけではない。悪は存在しない。  ○ 善の損傷部分としての悪をおこなう行為も悪である。そのように現象としての悪は おこなわれている。その意味で 悪はある。  ☆ 人間の動機によって この認識が変わるものではありません。普遍的な認識だと考えます。  ★ 聖なる者、「善なる者」が、自らを聖である、善であると宣言し、悪を倒すとか、救済するとか言いますか? 茶番ですね  ☆ 人間にできることは こころとそのへそ曲がりとを識別することであり そのことを説明することのみです。善と悪を理解するよう促すことのみです。  悪は存在しないという見方(そういう哲学)をさらに吟味しつつ精緻なものにし分かりやすいものにしていくことです。あとは 一人ひとりの自由意志にまかせるほかありません。  このへそ曲がりをつねに自覚し 無理なく心のおもむくところに就いて振る舞うことができるようになれば そしてこのくせがそのひとの人柄にまでなれば ある程度  ★ 聖なる者  ☆ になったと見られます。そういう生活態度(つまり思想)が確立された(サンクトゥス)ならば 聖なる(サンクトゥス=セイント)と呼ばれます。  ★ 悪を倒す  ☆ そもそも《悪という状態》は 《ふつうの心である善を倒した》結果です。その悪を倒すのは 善なる心を回復することです。聖なる者は そのことについて説明するでしょう。そして回復するのは 当の本人です。聖なる者は 何もしません。何も出来ません。たしかに  ★☆(意訳) 自己救済  ☆ しかありません。ただ   ○ もはや逃れられないブラックホールだと見えていたものが そうではないと知ることは 誰にも出来ます。  ○ いやじつはあそこに窓がある・風穴があるとわかるように説明することも出来ます。  ★ あるいは、自分の臭さ、醜さ、邪悪さを認識されたくない、もしくは逆転している認識が、正常に戻るのを、精神の奥底で、真に恐れているからでしょう。  ☆ もしあなたが すでに《聖なる者》の道をあゆんでいるお方であるなら このへそ曲がりの頑なさを緩めさせて 自己救済の道に就くようにと 心を尽くし知恵を尽くし知識を尽くして 声をかけてあげてください。  ★☆(意訳) 精神の奥底でのそのおそれ  ☆ を溶かすことができるように 風をとおしてあげてください。  ★ 人間世界の浅ましさ、愚かさよ。  ☆ はもう分かっていることです。それでもなお明るく楽しい世界が それを身体も知っているし精神の奥底でもひとは知っているし求めているとすれば ほんとうは 現実であるのだよと知らせてあげてください。どうですか?

noname#117439
noname#117439
回答No.7

オコリザルです。 9番について、 >すでに完全な解放は成っています。 これに関して共感や連帯の無い現状で、共通の認識にしようとする思惑が働かないのです。 それから、解放されていること、要するに救いがなされていることを、即身成仏と表現せざる得ない因習のしがらみについて取り組みが違うかもしれません。 救いがなされているなら、それでなお(更なる)救いを求める無い物ねだりに、喜んで終わりのない奈落に案内する(同時に招かれる)セレビィ化とでも言うべき行いに、望むかどうか以前にごく自然な行いとして疑いをもたないんです。 争いの原因をその本来の原因である、(衝動の原因とも言える)観念世界のみで解決しようとする我の化身としてセレビィです。 荒廃した地獄世界と違うのは、神の見守る戦場である事です。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきになりますね。  ☆☆ 即身成仏  ☆ の言葉はやはりまづかったですね。さとりには理屈もなければ そしてもしやはり誤解をおそれずに言えば 道理もないという意味です。とつぜんやって来るという意味です。ただしその瞬間をわたしたちは待ちますし そのためによいと考えたことは行なうということもします。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >すでに完全な解放は成っています。  これに関して共感や連帯の無い現状で、共通の認識にしようとする思惑が働かないのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《解放が成っている》  ★ に関して共感や連帯の無い現状  ☆ において たしかにわたしたちは 《解放は成った》と知らせることに努めているのですが それは  ★ 共通の認識にしようとする  ☆ 行ないではありません。すでに一人ひとりが その解放をからだで味わうことの成就を目指します。認識は二の次です。理屈も二の次です。道理でさえ必ずしもかかわりません。  ○ なぞ・無根拠・非思考  ☆ という所以です。  ★ 争いの原因をその本来の原因である、(衝動の原因とも言える)観念世界のみで解決しようとする我の化身としてセレビィです。  ☆ せレビィについて知らないので誤解があるかも知れませんが この  ★ 観念世界  ☆ もわたしの場合 二の次になります。  ○ 神は愛なり。  ☆ だからです。  ○ 愛は神なり。  ☆ から出発するのではないからです。その観念をたづさえて進むというわけではないからです。  ★ 荒廃した地獄世界と違うのは、神の見守る戦場である事です。  ☆ 《神の見守る戦場》であるという認識をも持ちません。強いていえばそれは 釣りあげられ掬われたあとのことです。しかも相手に応じてそういう認識がその場その情況において持ちあがるといった性質のものです。  細かいところでは  ★ 喜んで終わりのない奈落に案内する(同時に招かれる)  ☆ の《奈落》という言葉も どうしてここでこういうふうに使うのか わかりにくいところです。即身成仏とでおあいこですが。

noname#117439
noname#117439
回答No.6

オコリザルです。 今回は私自身が真面目に回答を寄せる気がありません、 この現状 この動態としての過程 これで すでに完全な解放は成っています。心配は要りません。贅沢な心配をすることはありますが やがて この悩みにかんしても 社会の三分の一の人たちが 連帯して引き受ける情況がやってくるでしょう。つぎの三分の一が共感し あとの三分の一が ごみの排泄専門のおえらい方がたです。そのときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。 >ごみの排泄専門のおえらい方がたです。 排せつの作法に関しては「おめーは糞だ」の話をしています。 脱糞を生命のコロニーの出産ととらえると言う事です。 少年漫画(少年ジャンプ)の「マキバオー」の主人公は「うんちたれ蔵」が愛称でした。 人をうんこ製造機と見なして侮蔑する悪にはのほほん顔です。 うんちに耐えられない高貴な気品をお持ちの方が「おえらい方々」なんでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  primeape さんとの微妙な違いを わたしはなお見ています。それを捉えようとしています。次のように考えます。  わたしは 語弊があるみたいですが  ○ 即身成仏  ☆ を原則に置く立ち場です。  ○ 癒やされるのは 一瞬です。/ 悪循環から好循環へと転換するのは 一瞬のうちにです。 / 世の中との和解が成るのは そのひらめきの一瞬のうちにです。  ☆ ただしそのあと ふたたびのごとく 快方に向かいます。つまりあたかも癒やされる前の状態に戻ってのように そこから快方に向かう過程を歩みます。  primeape さんは この快方に向かう過程のほうを ここでは重視しておられる。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  排せつの作法に関しては「おめーは糞だ」の話をしています。  脱糞を生命のコロニーの出産ととらえると言う事です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから あらためてわたしの立ち場をたとえて見れば  ○ 棘が抜かれるのは一瞬である。とげの刺さっていた患部が癒えて行くのは そのあとの時間過程である。  ☆ というとき あくまで対話では 《とげの抜かれる》ことを念頭に置いていますし 重視して話します。いわばその患部が癒えて行くことは もうその本人にすべてまかせるという考え方です。(助言を求めてくるのであれば いつでも対応します。でもそれは 一たん棘が抜かれたという回転があったあとのことです)。  焦点の当て方あるいは当てる場所がちがうでしょうか?

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.5

 日常生活においての同居人からの 愛、善という名の排泄物を受け取っている人間が、そのまま、復讐心を 愛、善としてこの場での質問という形で臭い排泄物を垂れ流しにしているのは、規制できないのだろうか。あ、自分で気付けばよいだけの話か。  ちなみに、例の「おまえ臭いんだよ」と指摘しただけで、  オレにいちゃもんつけやがった、クレーマーだ   と騒いでいる人の文章は読んでません。臭いので。^^

bragelonne
質問者

お礼

 だから  ★★ 汚い・醜い  ☆ と同じように  ★ 愛 善という名の排泄物  ☆ ぢゃ分からない。  わたしのように 《意識の排泄》――そしてその受け皿として 《アース》――と言っていれば たいていは判じてくれるだろうが 文学用語のまま出しても 議論にならない。  ★ 日常生活においての同居人  ☆ これは 一般論かい? わたしには当てはまらない。  要するに何かい? 家族のあいだですでに絆がこわれかかっており 感情や愛情は冷えかかってきている。のに あたかも仮面をかぶって よそよそしいながらも 世間体を考えて おとなしく振る舞っている場合。――これが問題だと言いたいのかい?  もしそうであるなら たとえば  ○ どうして本音でみなは 話さないのか?  ☆ と問いかけてはどうか?  ところで質問だが そういう場合 そういう情況にあっても ひとは互いに いわゆる以心伝心で 互いのこころは分かりあっているのだろうか?  この場合 冷え切ったこころの内なのかも知れないが。  もし  ★ 復讐心  ☆ があるなら この心をじっと見つめてやるべきだ。穴が開くまで。その復讐心が恥づかしくなって顔を赤らめるようになるまで。とことん見つめてやればいいんだ。  ほれみろ。 bragelonne くんはやさしいだろ?

bragelonne
質問者

補足

 おぎない。  後半の部分は おれは知らん。  (文章を読んでないというのだから)。

noname#117439
noname#117439
回答No.4

オコリザルです。 勉強会第二弾です。 クレーマー撃退法の分析です。 彼らにとって「自らは、まさに自らにもとずく故、疑いようもなく善である」。 独善と言うやつですが、反論を聞いたことのない甘ったれが多いのでしょう。 そうすると、(独)善たる自らに(この手の輩は我は有るを自覚できない)害をなす他者を悪と考えて、世には悪が蔓延するとの前提で、その悪に対抗する善として悪を装う。しかし自らは善である。 この論理を証明するのは、まさに私自身がそのような独善と受け止められている節がある事が物語っています。 そこに衝突がある故に善悪と別れるということでしょう。 これは、私にとっては、いつも間にかついて回る噂の類に過ぎません。 哲学についての立場として愛を表明しています。 さらにその愛と関連付けて善性についても明快な見解を表明しました。 それで尚、私を悪としても、私に身に覚えは有りません。 よって私が言及するのは例えるなら、「悪意に身に覚えのあるのはあなた」と言う物言いになります。もちろん間接表現のみです。 まさに、「くたばっちまえ」です。 ところがクレーマーは、悪意に身に覚えがないゆえに仕返しするのでしょう。 ところが善性に関してちんぷんかんぷんならば、すでにおわかりの通り自らの見解を表明する以前の「問題外」です。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  そうですね。わたしの感覚から行けば 愛や善悪の議論は けっこうやって来ました――むろんこれからも続けます――ので いまは具体論が 問題ですね。  そして問題は 議論の進展です。  ここでは  ○ 意識の排泄を 会話の中で ほかの人間に向けておこなう。あたかも勝手に《アース》するかのように行なう。  ☆ この問題にからめて 愛や善悪を分析し整序していく議論が求められていると考えます。  ○ 存在は善である。  ☆ から始めてください。つまりは  ○ 存在にそなわる自然本性 そのうちの意志行為から善および悪は出る。なぜなら この自由意志は みづからの思いにさからうことさえ自由であるという自然本性のもとにある。  ○ たとえば《独善》とは その内容にかんして人びとの賛同を得る前の状態にあっていまだ共同化されていない善である。  ○ したがってもしそれが 善をそこなう意志行為であり 悪であるとすれば その《善をそこなう》ことの中身をしっかりと説明することが望まれる。  ☆ したがって 《善なる自然本性として生まれて来た存在である人間は すべからくどこまでも社会にあって 対話をおこないつづけるべし》となるようです。  ところが この対話をはっきりと拒みやめた場合 そのときひとは どう対処すべきか。この問題を問うています。その背景事情には 社会的な《意識の排泄》の循環錯綜があるだろうとも問うています。  さて どう進展しますか。

noname#117439
noname#117439
回答No.3

オコリザルです。 いちゃもんは無視して勉強会です。 前回のご質問で「この世」とは必ずしも共通認識ではないと表明しました。 「現象は全て愛で説明できる」(筈)とする私個人特有のこの世に関する認識で、要するに悪や業は無いと例えたそれです。 このような世界観が「この世」と一致する過程で強固となるのは「天上天下唯我独尊」です。一人っきりの世界観なのでこんな風に仰々しく表現しますが、体感できる実感は「平穏な独身生活」に過ぎません。自立して一個の我として、自らに責任をもち何事も実践することです。 処が目立つのは、この世ではなく娑婆たる地獄世界の住人です。 この世を伝承に現れる娑婆と表現して、自らは「無」などとはったりをこいたお釈迦様は、責められても仕方ないでしょう。救いなどと、慈悲などと、言ったとされる点で追及の余地があります。亡者に救いを期待させた時間稼ぎです。自らは「無」に安泰する時間稼ぎの生涯ですよ。 嫌われやすいですがここからは笑い話です。 (万物の本質が愛であるゆえに)現象も又「愛」とする、私には自信がありますが、言わば愛の信奉とでもいう考え方の表明には反論が集まります。 勘ぐってしまうのですが、愛を正しく見据えて実践するには、性欲と決別する必要が必須です。 我こそは人間とする(それでいて仏ではないと)一般人には性欲の発露を最大かつ無上の喜びとするアホウも多いでしょう。 愛こそ源とする考えを批判するのは要約すると「おりゃースケベをやめたくねー」とダダこねているだけかもしれません。 多分、他に理由は無いでしょう。 他人事ながら恥ずかしいですねー。 私はまるで新人類のような進化現象をわが事として自覚しています。 (お釈迦さまと違って)(意地でも)我こそは子孫を残すべしと考えます。 それでいて、「平穏な独身生活」です。 この感覚に性欲の姿は有りません。 生殖を前提にしない性交には無関心です。

bragelonne
質問者

補足

 つづいてになります。  まづ 性愛論を含む愛の問題についてです。すでに何度か問うています。   【Q:ブッダの性愛観は 間違っていませんか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5145751.html   【Q:情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか】   http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4668146.html  ほかにもずいぶんあります。ここでは次の二点でお応えします。  ○ 性愛論は ふつうの人びとの交通(まじわり)形式が 倫理的にふつうであればよいという一点に帰着する。あとは 原則として触れない。  ○ 《神は愛である》という言い方はするが 《愛が神である》とか《すべては愛から始まる》という表現は 文脈に応じて使うことはあっても 第一命題のかたちでは あまり持ち出さない。《なぞ》の問題であるから なぞが曖昧になることをおそれる。  ★ この世  ☆ のご議論はなお分かりづらいです。  ○ 娑婆  ☆ は堪忍するというこの世の中のことをいうのが ふつうなのですから その常識をくつがえすのでしたら それ相応の根拠を先に提示する必要があるのではないでしょうか? それとは違った《この世》とは何か まだよくわからないのです。  ★ 自立して一個の我として、自らに責任をもち何事も実践することです。  ☆ でしたら ふつうの常識と違いはないのではないでしょうか?  さらに次にすすみます。 

noname#117439
noname#117439
回答No.2

オコリザルです。 「くたばっちまいな」の、心境が不明なら理解できないかもしれませんが、「野たれ死んでも知ったことじゃない」との考え方で、もはや放って置いてもいいんじゃないですか。 なんにでもいちゃもんを付けることをストレス解消にするクレーマーは、社会活動をすると一定数います。あくまでもごく一部です。 親切にしたいのか、因縁をつけられて困っているのかわかりませんが、クレーマーが目立っても無視すべきでしょう。 「くたばっても知ったことじゃねー」との心証で、「突き落とす」のでなく「奈落へと案内する」んです。 入滅ははったり臭くて拍子抜けですので、観念上の儀式として実践するのなら絶対安全を前提に検討してください。 哲学上は「我は無い」を検討すると「自己の存在すら保証されていない」と言う考え方に至る哲学です。 この点は私の場合、感情の伴う心象として、我は無いの奈落に落ちました。そして動かしようの無い自らに出会うんです。くだらないですね、心を前提にした「我はある」を基盤にした「我は無い」の検証です。よって安全。歴史上の哲学者の武勇伝はそんな感じなんです。無明の中に光芒を見出すまでは決死の覚悟で故に武勇伝ですが「あっけない」の一言です。 デーモン作用について言及しておられますが、伝心のメカニズムと、今に過去が混ざる故に過去形表現となり、時差解消の時わたりが必要になるメカニズムとしてコメントする準備がありますが、話し合いを進める土台が未整備ですので、必要ならご検討ください。

bragelonne
質問者

補足

 primeape さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  primeape さんとは具体的方針において違いがあるということをこれまでにも確認しあってきました。  あらためての何十回目かの出発となります。  まづはこの質問をもうけたことの事情などを述べます。  まづ いまも《去る者は追わず 来る者は拒まず》の方針に変わりありません。この点は共通だと思います。ただ 今回は ふと《どこまでも追って行くことも必要なのではないか》との――言ってみれば――うたがいが生じました。ふと頭に思い浮かびました。その検証として設問を考えたわけです。  そのあと少し時間が経って いくらかその背後の事情というものにわたし自身が問題のありかを見出しているとあらためて気づきました。   それは 趣旨説明にもすでに触れていたことです。  ☆☆ (趣旨説明) ・・・デーモン作用・・・ / この日本のブラックホールは どうにかならないでしょうかねぇ。  ☆ というわけです。そもそも  ○ 意識の排泄  ☆ といえば そういう社会的な背景があるとは言わねばならないと考えます。その点をも含めて いまあらためて趣旨説明を書くとすれば 次のような社会的な情況をつけ加えて打ち出すべきだと考えます。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人は  ★ 全ての悩みからの解放  ☆ が成った存在として しかも同時に 全ての悩みを背負い得る存在として 生まれて来ます。  あなたの悩みは すべて 過去の人びとや周囲の人びとの悩みを――なぜなら 人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになります そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。  世界中のあらゆる悩みを引き受けて生きた人たちも いることでしょう。その悩みは 残留放射能のようであり すぐ直ちには 消えません。消えませんが 時として 何ものかによって 包まれ覆われ癒されてくるようになります。  そこで人びとの悩みを そのような人たちは 《アース(接地)》となってのように 引き受けるわけです。すでに癒されたからです。ひどい言い方をすれば ごみ処理場です。うつくしく言えば ごみ清浄化再活性化工場です。  この現状 この動態としての過程 これで すでに完全な解放は成っています。心配は要りません。贅沢な心配をすることはありますが やがて この悩みにかんしても 社会の三分の一の人たちが 連帯して引き受ける情況がやってくるでしょう。つぎの三分の一が共感し あとの三分の一が ごみの排泄専門のおえらい方がたです。そのときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 次にもご投稿をもらっていますので そこへと継ぎます。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.1

 醜く、汚い文章と醜い者に反応する者は、やはり醜く、汚い者でしょう、今後の展開を先ずは見守ることとしましょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 owlsjp さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  あえてお相手することにしましょう。  ですが  ★☆(意訳) 文章やひとが 醜い・汚い  ☆ とおっしゃるとき これらの言葉の定義をしないことには まったくお応えすることがかないません。どうでしょう?

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    詩も芸術も、自己表現やその追及(手段が、色・形と言葉の違い)の様に思えるのですが、文字を使うこと意外に、詩が文学的だと思えることは、どんなことなのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 本文のどこが正解になっている??

    問・次の文の趣旨として妥当なものはどれか。 政治学をどのようなものとしてとらえるかについては、古来、多くの議論の積み重ねがある。確かなことは、一つの出来合いの製品があり、それを覚えればよいといった事情にはないことである。さしあたり言えることは、政治学政治における「合理的なもの」への関心と究極的に結びついていることである。そして、この究極的な関心に対する回答は、政治学の長い伝統が示しているように、地域によっても時代によっても、実に多様な姿勢をとって現れた。同じ地域の同じ時代をとってみても、厳密な意味でのコンセンサスを見つけ出すことはできない。  その上、政治について「合理的なるもの」を問うことは、極めて逆説的な意味をもたざるを得ない。つまり、政治は誰でもわかるように、人間にとって目に見える、一定の具体的状況の下での、他者を前提にした行為であり、およそ、観念的な意味での合理性とは両立しない性格を備えている。古来、合理性の追求は絶対性、普遍性、超越性を追及することと結び付いていたわけであるが、政治はこれと端的に異質な現象性、偶然性、有限性と不可分な行為にかかわっているからである。ここに政治において「合理的なるもの」を求めることの問題性が示唆されている。それゆえ、政治学の歴史においてはこうした政治的実践の限界を突破し、その間尺を超えた合理性の追求が行われたのであった。絶対性、普遍性、超越性を備えた政治秩序の追及は、政治における「合理主義」の問題を生み出した。1989年の革命によって崩壊したマルクス・レーニン主義はこうした合理主義の末裔である。  こうした絶対性を模索する政治的合理主義は、人間の政治活動にかかわる偶然性、不安定性、有限性を克服しようという根深い願望から出てきたものであった。西欧政治哲学にはそういた伝統がプラトン以来、連綿として続いているという指摘もある。実際、人間生活の「うつろい易さ」「はかなさ」にいかに対処すべきかは政治にとまらない問題であったが、それへの社会的・政治的応答が繰り返し発生するのも避けられなかった。地上に永遠の価値を持つ、永続的な秩序を樹立しようとすることがいかに大きなエネルギーを引き出してきたか、忘れるわけにはいかない。 僕のまとめ ☆政治というもの=現象性、偶然性、有限性と不可分であり、合理性とは両立しないもの ☆ところが人間は、それを克服しようという願望から、合理性を追求するようになった 選択肢&僕の考え 1.(×)政治は、個別の偶然性を有する問題に対して合理的な回答 を提示するという二律背反を内包しているため、いかに努力してもその実現は不可能に近い。←政治は合理性を持つものではないから違う。 2.(×)個々の具体状況の中から現象性、偶然性、有限性といったものを排除することで「合理的なもの」の確率をはかるのが政治の本質であるが、それに普遍性を与えることには非常な困難をともなう。 ←政治の本質は現象性、偶然性、有限性であり、合理性は、単に人間が勝手に求めだしたものだから本質ではない。 3.(×)政治とは、現象性、偶然性、有限性と絶対性、普遍性、超越性の調和をはかり、永続的な秩序の形成をめざすものであるが、そのためには膨大なエネルギーを要する。←有限性と絶対性、普遍性=合理性は、人間が勝手に求めだしたものだから違う。 4.(×)現実における個別的状況の現象性といったものにとらわれることなく、普遍的な合理性の追求をしなければならないというところに、根源的な政治の課題がある。←2段落で「ここに政治において「合理的なるもの」を求めることの問題性が…」とあるので、これが正解だろう。 5.(○)政治は、本源的に未確定な要素を持つ人間活動に対して普遍性を有する合理的回答を与えるという大いなる矛盾を抱えているが、一方で、その実現に向けた努力が社会を突き動かしてきたという一面もある。←政治は合理的なものでないのだから、「合理的回答を与える」というのは間違っている。 僕の考えの何が間違っているのかわかりません。本文には書いていないことが選択肢になっているので、問題が解けません。

  • ハラスメントは 観念の運河をゴンドラでやって来る

     〇 パワハラ・セクハラは 人びとのあたまの中にすでに歴史的に穿たれた観念の運河(共同幻想)をクウキなるゴンドラに乗ってやってくる  1. 玄関を一歩出ると そこは 運河である。  人びとの いや われわれの頭の中に深く穿たれた観念の水路網。  ――共同なる観念 または 幻想。  まづは ゴンドラを誂えなければならない。  船をうまくあやつれないと 通行はむつかしい。見えざる交通法規。  ゴンドラは 何を載せているか? いや ゴンドラが 何で出来ているか?  クウキですって? いやでも吸わざるを得ない空気のことですか?  ええっ?  クウキで出来たそれぞれの船。  ところが その船の材料であるクウキは 一人ひとりがあつらえるのではなく すでに千年千五百年も昔から仕立て上げられて来たお古である。  お古のお仕着せ これが われらが運河の通行手形であり うるわしきゴンドラである。     *  2. では このクウキは 何で出来ているか?  3. 思うに マクロとして アマテラス公民のお上としての無謬性〔なる神話としてのクウキ〕であり ミクロとして 上司のガミガミ電波である。両者は 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》の二階建て構造として 互いに相似形を成している。  4. いづれからも ややもすると 《意識の排泄》が交じって出て来る。意識のウンコである。虫の居所がわるかったか。あるいは 虫の居所によってクウキの香りもよくなる。  5. ゴンドラを漕げば 国民も右へ倣えでそれにしたがう。反対してもよいが 反旗を掲げても 同じ運河を通るしか自己表現することがむつかしい。運河の一画を通せんぼしてみるわけだ。  6. かくて パワハラもセクハラも この水路をすすむ船を同じくするかぎり いかに反対をさけんでも むなしい。・・・  7. ・・・か? 哲学は何と言うか?

  • クレーマー?

    クレーマーの人、もしくはちょっと私はクレーマーかも、 という人にお聞きしたいのですが。。。 最近、あらゆるところで店や知人を相手にけんかしている人に会ったのですが、どうもこの人、自分のことをクレーマーだという意識がありません。逆に、正義の人か自分が法律だと自分を考えている節があります。 ふつうのときは大人しい女性です。 子持ちで×1です。 また、矛盾していることばかり述べていますが、自分では矛盾に気づいていない様子です。 その人を観察していて疑問に思ったのですが、 1.クレーマーの人はクレーマーという自意識がないのでしょうか? 2.クレーマーの人は面白がって低姿勢の店や知人などを攻撃する発言を繰り返すのでしょうか? 3.どう対処すればクレーマーに自己の矛盾点に気づいてもらえるのでしょうか? この人を見てると、矛盾点をつくとまた別の矛盾点をもちだしたりします。矛を納めようとしません。 4.クレーマーの定義とは、どんなものでしょうか? クレーマーを見破る方法とは? 5.なんでクレーマーになっちゃうんでしょう? 6.店の立場だったら、クレーマーはいる?いらない? 以上、長々と書きましたが、よろしくお願いします。

  • 猥褻物の修正は去勢と同じではないですか?

    性器描写や性交時の結合部等の猥褻な表現を含むグラビアや漫画はたとえその部分を袋とじにしてあっても流通を許されず、刑法175条の圧力で修正を余儀なくされますよね。 これっておおよそ性器を有していると思われる全国民を去勢させるのと同じじゃないですか? 我々は下半身に性器を備えていますけど適切な衣服さえ身につければ外を出歩くことを許されますよね。 衣服は着脱可能であり、恋人との情事などで閉鎖的な空間でなら見たい相手には見せることも合法です。 だとしたら、猥褻な表現も、見たくない相手の目には入らないような配慮しているものは、無修正でも合法でないとおかしいと思います。 適法なように修正されてしまったものは、修正前の元の状態には決して復元できないようになっています。 修正可能なモザイクや袋とじで隠すことですら存在を許されない、見たい人も見れない、表現物に対するこのような仕打ちは人間でいえば性器の去勢とまるっきり同じじゃないですか? 時代によってルールは変わることは知っています。今も昔よりは司法的な風当たりが穏やかになっていることもわかっています。 理解できないのはそういうことじゃなくて、なぜ当時の政治は、表現のみを「去勢」するような、矛盾した法律を作ってしまったのかということです。 全国民を去勢したしたところで亡国の一途を辿るだけですから、人間は、医療的処置等を例外を除き去勢の対象にはなり得ませんね。 それなら猥褻物に対する処置もそれに合わせるのが合理的というか道理というものじゃないですか? 当時は袋とじの冊子がなかったから、復元可能な修正なら「この限りではない」と規定するような発想には至らなかった、ということはないでしょう。袋とじ自体は室町時代の書物には見られる相当に伝統的な装丁手法なのですから。 知りたいことは以下の二点に集約されます。 ・人間に対する扱いと矛盾、もといダブルスタンダードになることはこの際問題ではなかったのでしょうか?そうだとしたらなぜでしょうか?猥褻物を排除したい人たちの政治力の強さでしょうか? ・それとも、表現物としての猥褻物は、本物の性器よりも、存在すら看過できないほどの、より強い猥褻さを持ちうるという考えがあったのでしょうか? 回答よろしくお願いします。

  • 客観的にどう考えても悪いことをしてしまったら

    特に、 ・謝って済むような軽い問題ではない ・無意識にではなく意識的に行ったこと ・今後相手と話す機会はおそらくない ・激しい自己嫌悪 ・とにかく良心の呵責が半端ない この場合、皆さんはどのように対処していますか。 よければご意見お願いします。

  • 文章を、

    文章を、 さらに良くするには、 具体的にどうしたらば良いのだろうか? 文章も、なるべく長く書く癖をつける。すなわち、短文で済ますということは、考える過程が短いということ。 長く考えるためには、 ❶テーマを正確に把握する。 ❷❶のためには、分析が必要。 ❸論理的矛盾が無いか? 間違いが無いか? など考察が必要になる。 ❹筋道を正しく表現できているか?独りよがりで無く、相手に正しくこれで伝えているかどうか?考える必要がある。 ❺もっと良い、美しく、心に響き、理解してもらえる表現は無いものだろうか?模索してみる。 ❻ 上記を繰り返しているうちに、自分の表現力の弱さは、漢字を知らないだけで無く、知識・教養が絶対的に足らないのに気がつく。 ❼すべては、自分で自分に気がつくことから始まる。 文学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。

  • 《ひとは知らない。ただ からだが知っている》

     《 Sie wissen das nicht, aber sie tun es. 》 ( K. Marx )  思想の内容が――使用価値として――あるか無いかが問題なのではない。  問われているものは それが 交換されるかどうかなのだ。  かくて ただの愚痴と御ふざけから成る意識の排せつ物が 市場に出回る。売れるからだ。金になる。  ということを ひとは知ってはいない。考えてなどいない。けれどもすでに からだで知っていて おこないに移す。自己表現は 交換価値の追い求めとその流通にある。われは この《商品》の自己運動に貢献する一員なりと 知らずに 振る舞っている。  たとえば フリッツくんと呼ばれる商品である。箸にも棒にもかからない文章が 金に成る。人びとは この神の前にひざまづく。ひざまづいてその文章を擁護する。  意識の排泄物も トンスルなる滋養豊かな飲み物になるのだと。  ディオニュソスの狂い節は ベートーベンの歓喜なりと いとも簡単に検事側の主張がとおる。  ひとびとは からだが狂喜乱舞しているのであろう。  とでも受け留めなければ 世界は解せないのではないだろうか?