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藤原京はなぜたった16年で見捨てられたのですか?

tan34の回答

  • tan34
  • ベストアンサー率16% (7/42)
回答No.6

他の方の水運説は説得力がありますね。 自分の知っている説は、藤原京の構造が問題だった、というもの。 藤原京完成後、自信満々で中国へ向かった朝廷使節は中国の都の構造が藤原京とは違い、コンプレックスに感じたとのこと。 藤原京は、中心に宮廷がありますが、その構造はすでに時代遅れで、当時の中国の都は、天子南面ス、の構造で宮廷が一番北辺の中心にあった。都市自体が身分を表しており、律令国家に生まれ変わったつもりの使節はショックをうけ、中国にならった平城京を急ぎ作った、と。 後に聖徳天皇が大仏に北面した際に、大騒ぎになったことからも、この天子南面スは、かなり根深い思想だったのではないでしょうか。

noname#163492
質問者

お礼

回答ありがとうございます! おっしゃられている説は、今日ググっていて知りました。 聖徳天皇が大仏に北面した際に、大騒ぎになったのですか、 なるほど、「天子南面ス」は重大なことだったと思われますね。 どうも昔は北の方向を神聖視するような思想があったように思われます。 天皇という称号自体が北極星を意味していますし。 藤原京の、真ん中に宮廷がある都市構造。 また宮廷は大和三山の中央に位置しているともいえますね。 なんだか呪術的なしかけがあってそういう構造にしたようにも見えるのですが 時代遅れになってしまった、というところでしょうか。 大変参考になりました。ありがとうございます。

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