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「芸術的悲劇作家は、また同時に芸術的喜劇作家である」
こんにちは。 ご存知プラトン著『饗宴』での末尾、 ソクラテスがアガトンとアリストファネスに「芸術的悲劇作家はまた同時に芸術的喜劇作家である」という議論を展開し、また二人を納得させていた(とアリストデモスは言った)部分があります。 プラトンの技法によって、もしくは話題外であったため削られてしまいましたね。 そこで質問させていただきます もし皆さんがソクラテスだったとしたならば、どのような論理展開で以って「芸術的悲劇作家はまた同時に芸術的喜劇作家である」という命題を完成させますか? よろしくお願いします。 ちなみに私は悲劇喜劇に関しての心得が全くございませんので見当もつきません…。
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これは課題ですよね? 課題であれば、先生は確実に検索しますから(笑)、ここで聞いた答えを書いて提出しちゃうと、きっとマズいことになります。だからここでは方向性だけ。ちゃんと調べて、参考文献もあげて、いかにもしっかり勉強したような体裁を整えておいてくださいね。 まず、「悲劇」と「喜劇」には、きちんとした定義づけがあります。『饗宴』でも、プラトンは何となく言っているのではない。そこを押さえておかないと、まちがいなくレポートはグダグダになりますから、そこのところはくれぐれも注意しておいてください。 図書館へ行って、文学辞典、演劇辞典、百科事典、まあ何でもいいですから、「悲劇」「喜劇」の項を調べてみてください。wikipedia には肝心のところが載ってないから。 いまわたしたちが使っている「悲劇」「喜劇」という言葉と、ギリシャ時代の「悲劇」「喜劇」の意味が、異なっていることがわかるはずです。当然、ここで言われている「悲劇」も、単に主人公がかわいそうな結末を迎える劇ではありません。 ギリシャ悲劇として最も有名なのが、ソフォクレスの『オイディプス王』ですが、これを考えてみると、悲劇がどんなものかよくわかると思います。 偉大な人物である主人公が、運命もしくは神々の力と対抗しようとするが、最終的に破れ、死を迎える。だから「悲劇」なんですね。 それに対して喜劇というのは、偉大な歴史上の人物ではなく、身近な、日常卑近な人びとを扱ったものです。偉大な人びとではない、市井の人びとは、性格的にさまざまな欠陥を持つ。その性格の欠陥ゆえに、さわぎを引き起こし、笑いを誘う。そうして最後は幸福な結末、とくに結婚式で終わってゆくのです。 結婚というのは、新たな生命の誕生の含意があります。 悲劇が人間の死を扱うのに対して、喜劇は人間の誕生を扱うものだった。つまり、人間の存在の発端と終局を共に描いている、といえるわけです。 ここまできたら、『饗宴』の39の「喜劇と悲劇とを作るということが同一人にできる」ことであり、「真に芸術的な悲劇詩人は同時に喜劇詩人でもある」ということの意味もわかってきますね。 ここらへんのことをもっと知りたければ、中村善也の『ギリシア悲劇入門』とか、古い本で手に入りにくいんだけど、図書館に行けばきっとあると思うな、田中美知太郎全集の第18巻に所収されている「プラトン「饗宴」への招待」がとても参考になると思います。 さて、このような悲劇・喜劇の要素は時代を経るにつれ、徐々に混在していき、特にロマン主義の時代になると、悲劇的要素と喜劇的要素は積極的に混淆されていくようになります(たとえばゲーテの『ファウスト』)。それに対して、ギリシャ時代のような、純粋なかたちでの悲劇を描くことはできないか、という問題意識から出てきたのが「絶対悲劇」あるいは「絶対的悲劇」という言葉です。 ジョージ・スタイナーは「絶対的悲劇」(『言葉の意味』所収)で、絶対的悲劇というものは、そもそも成立し得ないことを書いています。 以上、参考まで。
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- al-watarai
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>絶対悲劇 絶対、というものは無いと思います。 例えばNo.2の方が戦争の話を持ち出されていらっしゃいますが、そこに漁夫の利でニヤリとしている人もいるかもしれない。 つまりそれぞれ違う思想と立場にあるのだから全ての人に当てはまること、すなわち絶対ということはあり得ません。 まあそもそも「絶対はある」「絶対はない」といった考え自体が相対的なんですけれども。 ですので私の結論としては「存在しない」ということになります。 「悲劇作家は同時に~」に関してはNo.1と同意見です。 全てのものは相対的である、と。 コインの裏と表は同じものです。
- mmky
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>>私は前述の通り、劇きは疎いのでわからないのですが、絶対悲劇なるものは存在しないのでしょうか? 切り込んできますね。 一般論でいえば絶対悲劇なるものは存在しないのですね。 舞台劇でもテレビドラマでもいいのですがどのよう悲劇を扱う舞台劇やテレビドラマでも終わって楽屋にもどれば皆わきあいあいですね。さて、人生を舞台劇にしつらえてその登場人物の一人としましよう。悲しい悲劇の死であった。「フランダースの犬なんか」はそうでしょう。で舞台裏に戻るとなかなか充実した人生じゃないか。とほめられるわけですね。このような見方をすると絶対悲劇なるものは存在しない。といえるのですが、これは一般論なんですね。 特殊な場合がありますね。 舞台劇中の悲劇が終わっても、その悲劇がそのまま楽屋に戻っても続いている場合ですね。 そういうケースが絶対悲劇と呼ぶものでしょうね。 あるのですね。戦争で悲劇的最後、玉砕などをして、戦争が終わってるにもかかわらずいまだに戦争し続けているというような場合ですね。 実際に小野田少尉という戦後数十年も闘いの中にいた実例がありますが、死んでも硫黄島などでは戦争しているのですね。 こんな悲劇を愛するが故の特殊な例もあることはありますね。
- mmky
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「芸術的悲劇作家はまた同時に芸術的喜劇作家である」 言いえて妙ですね。 この視点はどちらの側から見るかによって評価は180度違うということなのですね。 わかりやすい例えを出せば、赴任地に赴くサラリーマンとしましょう。送り出す壮行会は近いものからの別離ですから悲しい宴ですね。一方、赴任先では新しい人を受け入れるという楽しい歓迎会になるわけです。どちらの側にいるかで見方は180度違ってしまいますね。このことに気がつけば、 悲劇と喜劇が裏表の関係であることがわかるでしょう。だから「芸術的悲劇作家はまた同時に芸術的喜劇作家である」は正しいのですね。 とはいっても例が適切ではないのでいまいち理解できないかも知れません。 実際起きたことを例にとりましょう。 ある航空機事故で多くの人命が失われました。遺族の悲しみはいくばかりか計り知れません。悲劇としか言いようがないですね。さて、ここからですが、悲劇的な事故でなくなった方はあの世で、公演会に引っ張りだこなのですね。人類の長い歴史でも飛行機事故で死んだ人は珍しい存在ですから、面白おかしくそのときの状況を話しているわけです。それを聞いている方々にとってはその悲劇は喜劇でしかないのですね。 悲劇を描くものは喜劇も描くことができるという話ですが、さて、理解できたでしょうか。
補足
ありがとうございます。 なるほど。 視点を変えると同じ自称も意味が変わるということですね より深い悲しみを被る者がいれば、逆に喜ぶものがいる、と。 ではもう一つ質問させてください。 私は前述の通り、劇きは疎いのでわからないのですが、絶対悲劇なるものは存在しないのでしょうか?