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芸術について
ネットで次のような書き込みがありました。 >こう考えてみてはどうでしょう。 絵が二枚あったとします。 何が芸術かわからないような二枚。 どう見ても落書き以上には見えない絵。 でもそれは、片方は芸術。もう片方は本当に落書き。 では、その二つの違いは何か? それは、デッサンのしっかりできる著名な画家が書いたかそうでないか。 同じに見えても違うんです。 プロが見ればデッサンをやってきた人間の書いたものか、そうでないかがわかるって事です。 世間で、もしもこの二つが同じように評価されたとしても、やはりこの二つには歴然とした違いが有るんです。 これはシナリオにだって言えるわけです。 十分な考証をした上であえてそれを崩しているのか。それともはじめからでたらめなのか。 555にしてもアルマゲドンにしても十分な考証をしたようには見えなかった。 そういうことなのでしょう。 これに対する以下の反論について、どう思いますか? この反論は正しいでしょうか?名指しの部分は伏字にします。 >●●や彼の信者の語る芸術と言うのはどうしてこう安っぽいのだろうかね。 技術は確かに大切だが、本来芸術とは感性こそが肝であり技術はそれを支えるためのものでしかない。 1枚の絵を見てどう感じるかは人それぞれなのだし、どのように感じる絵をより芸術的と判断するかも人それぞれだ。 どれだけ強い想いを胸に溜め込めるか、そしてどれだけ強くそれをキャンパスに刻み付けることが出来るか。 人の心が技術だけで動かせるのなら機械にでも描かせれば良いことになる。 100歩譲ってデッサンの実力で作品の優劣に差がつくとしても著名かどうかで優劣の差などつくはずがない。 なぜ、有名だと絵がうまいのだ?なぜ無名だと絵が下手なのだ? 高い技術を身に付け有名になったことをかさにきて「俺様ほどになるとちょちょいと描いた落書きでも売れまくりだぜ」とかやってるのもうまいことになるのか? 専門的な教育を受けることなく天性の感性だけで「美しいものを自分なりに残したい」と斬新な絵を描く若者の絵はへたくそだというのか? 関係ないだろ?どっちの絵がより芸術的かはその絵を見て一人一人が決めることだろ? 少なくともこんなマヌケな芸術論しか語れない以上、本当に芸術を見て心に響くものなんて感じたことはないとしか思えない。
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そもそも芸術そのものの定義が難しいですからねぇ。 個人の意見だと広い意味で言えば一人でも誰かの心を動かせば芸術と言っても問題ないのではないでしょうか? しかし自分でいくら価値や芸術性を自分の作品に認めても評価や価値をつけるのは自分以外の人間ですしね。 上の側の考えですと作品の価値が「デッサンのしっかりできる著名な画家が書いたかそうでないか」に全てあるとするならデッサンが出来ていなかった頃のその画家の作品には当然価値がないことになるはずですがそんなことは無くその画家に人気が出れば幼少、勉強していた時代の絵にもかなりの価値がついてくるはずです。 この時点で理論としては矛盾が出てくるのではないでしょうか? さらに、芸術は収入を目的としないものも多いですがそれと555やアルマゲドンなど商業目的として作られた作品の対比、また別のものである絵とシナリオを比較しても根拠として成立しないのではないかと思います。 ですが要約すると「技術や完成度が作品の価値」ということを言いたかったのでしょう。 対し下側の反論ですが感情や表現という目的に対しての手段が技術であるという部分は私はその通りだと思います。 しかし他の方も書かれているように「芸術的かはその絵を見て一人一人が決めることだろ?」と「芸術とらえ方は個人の自由」という概念を掲げるならば当然相手の価値観に「マヌケな芸術論」という自分の価値観を押し付けるようなことをしてはならないはずです。 ということで下側の反論をどう思うか、正しいかということですが正しいかどうかでいえば正しくはないと思います。 理由は矛盾があり筋が通っていないからです。 どう思うかでいえば下側は上側の意見に感情的に反論しているように文を読んだ時に感じました。 しかし、だから上が正しいと思うというわけでもないです。 どちらの意見に「共感」できるかといえば私は下側です。 言いたいことはわかりますし全てが間違っているわけでもないのではないでしょうか? 上側の意見を「そういう考えもある」として受け入れた上でならばなかなかいい考え方だと思います。 また、私は「一人一人が決める」という見る人の価値観にゆだねるという考えもいいと思うのですが下側の人の本当の意見としては「芸術とは技術や理屈ではなく感情」という感じではないですかね? それなら矛盾した反論でも「感情がおこした結果」でありこの人の「芸術」ということになるのかもしれません。
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- kouun-takamura
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それが正しいのか正しくないのか。 そのこと自体が現代美術の重要なテーマになっています。 そこらにある便器は芸術ではないが、それが美術館に展示されたとたんに芸術作品となる。 なんて概念提示して芸術というものに一石を投じたデュシャンの作品はもう90年も前なんですね。 最初の引用は脚本についての出来不出来の話の中で、例え話として絵画のデッサンの話を持ってきたのですよね。 プロが理論や自分帯意識に基づいて作ったものと、 基礎のないものがそれっぽく作ったもの。 ぱっと見は同じように見えても、実際はまったく違うものだと。 それはその通りです。 特に脚本など文筆の世界なら顕著なのでしょう。 下の引用は、 ただの例え話に対して、本気で絵画の芸術論のような事を述べているので、上の引用とは話が噛み合っていません。 絵画なんてのは確かに感性の部分も多くあります。 脚本はもっと職人の技術が必要とされるでしょうから、例え話としては工芸などの技術が重要なものの方がふさわしかったでしょうね。
芸術にも幅があるってだけで 1のものも1000のものもいっしょくたにしても話がかみ合わないのは 考えればわかるわけで、この議論自体が不毛に感じますねぇ。 デッサンなんて習ってない画家は腐るほどいるし、アカデミックな 絵画で素晴らしいものもある。 落書きでも素晴らしい落書きとそうでない落書きもあって、 その幅を考慮すればいいだけです。 売れる売れないは今の時代関係ないですね。欲しいと思った人は 無価値な石ころにすら値段はつけます。それがまっとうな価値 であるかなんてわかりませんし、そもそも工業品のように 生産コストやらから算出してるわけではないですからね。 つまり答えとしてはどうでもいいが一番ちかい答えではないかと。
芸術というものの定義を考えるのは、さまざまなジャンルがあるし、評価もそれぞれですから、本当に難しいですね。上の議論は技術に裏打ちされたものこそが評価されねばならない、ということでしょうか。ひとつの見識だと思います。もっとも、技術だけでもひとの心を動かすことは出来ないですし、技術が明らかに劣っていても面白い芸術はあると私は思います。 下の議論はそういうことを言っているようでもあり、また、有名無名に関わらず技術があれば評価するべきだという話のような気もします。 それも一理はあると思います。有名な芸術家も最初は無名だったのですから当然のことです。ただ、どんなにがんばって描き続けても評価されない画家がいるのは厳然たる事実なので、芸術論というのはそのあたりを突っ込んで考えていく必要があるわけです。 各人が勝手に決めてくれと突き放されては身もふたもない話になります。
- taiat
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>デッサンのしっかりできる著名な画家が書いたかそうでないか。 という意見に関して、デッサンが出来ているかどうかは誤りです。 デッサンが出来る無名の画家が、子供の落書きを描いても市場価値はでないでしょう。 しかし、著名な画家の作品かどうかで落書きから芸術になるのは厳然たる事実です。 上の例は、そういう「事実」を言っているだけかと思います。 意見というより、報道に近いです。 反論に関しては、矛盾を感じる意見です。 「1枚の絵を見てどう感じるかは人それぞれなのだし、どのように感じる絵をより芸術的と判断するかも人それぞれだ。」 と言うなら、デッサン至上主義の意見も、目くじらを立てる必要はありません。 世の中にはいろいろな考えの人がいます。 デッサンが出来ようが出来ないだろうが、感動が心に響けば評価する人もいます。 一方、デッサンが出来ているかどうか、自分の目を基準に判断し、デッサンが出来ていそうなやつは芸術性が高く、そうでない人の絵は芸術性が低い。そのようなデッサン至上主義の人もいます。 しかし、それはすべて「人それぞれの芸術の見方」です。 「人それぞれ」と言っているような方に、芸術に関して論じて欲しくありません。 という事で「この反論は正しいでしょうか?」という問いに関しては、根っこの倫理が成り立っていませんので正しくありません。 まず、「芸術は自由に見るべきだ」という芸術の見方を支持したいなら、デッサン至上主義の意見も否定してはなりません。 デッサン至上主義の芸術の見方を否定した時点で、自分の意見の肝になる「芸術は自由に見るべきだ」という倫理を否定していることになります。